「俺、修士二年のタカシロ ジュンイチです」
「ミナヅキ アカリです、すいませんわがまま言って」
「いいんですよ、タイミング悪かったですね」
タカシロくん。タカシロ ジュンイチくん。年甲斐もなくドキドキと心臓が脈打っていた。私は極端な人見知りじゃないし、彼もなんてことない青年だ、どこにでもいそうななんて言っては失礼かもしれないけれどそれなのにどうして私はこんなに緊張しているんだろう。
うまく言葉にならない、目が合わせられない。中学生じゃあるまいし。落ち着け。
「ミナヅキさん? 大丈夫ですか、この部屋空気悪いですよね」
「へっ?あ、いや、違うんです、そんな」
「ごめーん、だれか窓あけて」
「す、すみません!研究棟のほう来たの初めてで! ちょっと緊張してて!」
「えっ、ミナヅキさんもうちの学生だったんですか? 何学部でした?」
初めは、そんなだった。それだけだったのに、どうして。
「アカリさん、好きです」
そんなつもりが無かった、といえば多分それは嘘になる。きっかけがどうであれタイミングがどうであれ、そうしようと決めたのは私だ。さみしかったわけじゃない。遊びたかったからでもない。
ただ、なんで先に彼に出会わなかったんだろうって本気で思ってしまったんだ。
「あのさ、ジュンくん」
「なんですか?」
「……次は、どこ行こうか」
「そうですね、あ、江ノ島なんかどうですか? あーでもちょっと暑いかなあ」
やめよう。やめよう。一線は超えてない。大丈夫、ちょっと新しく仲のいい子ができて、後輩みたいでって言えば夫はきっと信じてくれる。僕の自慢の仲間なんだよねーって笑いながらジュンくんはあれもこれも優秀なんだって褒めるんだろう。わたしがなにをしてたか、なにを考えてたかを疑いもしないで笑って済ませてくれるんだろう。
なんて酷いことをしてるんだろう。
許されていいわけないのに、彼が許してくれる未来しか見えないことがつらい。していたことを、思っていたことを伝えたらきっとそうだったんだねって悲しそうに笑って離婚しようかっていうかもしれない。
そんなことしたくない。私のせいで、今やってる研究だって嫌いになってしまうかもしれない。同じ研究室にいたせいでって思ってしまったら、人工知能の研究をやめてしまうかもしれない。あんなに、楽しそうに話していたものを私の身勝手で壊せるわけないのに。
頭ではそう言い聞かせていたのに。