兄さんがキーをたたく。
ミナヅキ アカリという名前のデータフォルダを、画面から削除した。
「キヨ、手はファブリに直してもらって。その間に俺たちマザーのメンテナンスするから終わったらバックアップとってデータの同期しよう」
「うん、わかった」
キヨハに一緒に行こうと声をかけられ部屋を出る。ファブリさんはキヨハになにか告げて反対側の廊下に歩いていった。
「パーツがある部屋があっちなの、とってくるって。作業部屋そこだから入って」
「ああ、うん」
歯医者のような独特の形状の椅子が置かれたその部屋にはキヨハの設計図がべたべたと貼られている。中身のパーツの数や形状から瞳の色、爪の形まで様々だ。今のキヨハの顔のものと、ずいぶん違う顔のものもある。
「それね、アカリの学生時代の顔」
「え、キヨハ覚えて」
「マザーのエラーのとき緊急電源で省エネモードだけど体内でもブロック機能が作動してたの。だから聞こえてたよ。これ設定したのここの研究員じゃないけどね」
「ねえ、アカリさんて誰なの、俺キヨハのこと何も知らないや」
キヨハは椅子に座るとにっこりと笑った。アカリさんのこと、アキトさんという旦那さんがいたこと、自分の中にアキトさんの名前のフォルダがあること、研究員には言っていない設定がほかにもさまざまあること、アカリさんの記憶に引っ張られながら過ごしてきたこと、兄さんを好きだったこと、俺に対してずるいことをしたという認識だったこと。
やっぱり、キヨハの中で彼女は生きていたんだな。
「最初はこの設計図の顔だったんだけど、もう耐えられなくて。まだキヨハとアカリの境目みたいなかんじだったから。だから顔作り直してもらったの」
「作り変えたりできるものなんだ」
「えへへ、だから今は美少女だけどこの下は単なる機会だし」
「俺だって皮はいだら骨と肉だし変わんないよ」
「嫌いにならない?」
「顔は可愛いけど、別に顔と付き合ってないから」
「そっか」
たくさん、悩んできたんだろうなと、そんな安直な共感しかできないけれど自分の体に自分以外がいて、好きだと思ったことも自分の意志だと断言できないで、あまつさえその相手は自分を通してほかの相手を見ているようで、それって、俺を見るときの父さんみたいだなって思う。俺の後ろにはいつも兄さんがいて、俺自身は見られていないような気がして。比べるのは変な話かもしれないけれど。
「あのね、レイ。ジュンイチはレイが思ってるほど立派な人間じゃないと思う」
「なんで?」
「だって、ジュンイチがあーだこーだ言うほど、レイは完璧な男の子じゃないもの」
自分にとってキヨハがそうであるように、兄さんにとってはアカリさんという人がきっと透けてない自分を保つために必要だったんだろう。それがよかったのかどうかはわからないけれど、少なくとも兄さんにとっては、というだけで。
「今の私からデータ書きだしたらアカリのデータはまたマザーに保存できるよ。もちろん上書きしたら私のほうのアカリのデータも消えちゃうけど」
「それ言わなくていいの?」
「うん、もうアカリは死んだから。いつまでも私の体に閉じ込めてたら可哀想でしょ?」
「わかんないけど」
「…アカリが初めてジュンイチにあったとき、なんて衝撃的な青年なんだろうって思ったの。意味が分からなかった。浮気心に火が付いてドーパミンが出るだけだろうって思ったんだけど違ったの。きっとね、二人は本当に運命の相手だったんだよ」
理論だらけで構成された彼女が、そういった。
「なんでそう思うの?」
「だって、わたしもレイを見たとき思ったから。最初はジュンイチの弟だから警戒してるんだろうって思ったの、だけど違ったって今ならわかるよ。そうじゃなきゃ名前を最初に教えてくれたかどうかなんてきっと覚えてないもん」
もっともらしいことを言っているような、ふわふわとした根拠もないいいがかりのような、どちらにも取れそうなことを彼女は平然と恥ずかしげもなく口にした。
「いい言葉だよね、衝撃的なんて。局所的に強い力がかかってる感じ、それこそ頭を殴られたとか形容するような」
「俺は運命の相手だって思うわけ?」
「うん、だってそうじゃなきゃ、私困るもの。私自身の記憶のなかで一番色づいてるのがレイなんだもん」
贔屓かもしれないとか、そりゃあ彼氏なんだからとかいろいろといいたいことはあったけれど彼女が、世界最高のAIがそう断言するんなら、自分のたよりない記憶なんかよりも彼女の言っていることが正しいのかもしれないとそう思う。
「ねえ、レイ。私はアカリを忘れるけれどレイはアカリと過ごしていた私を覚えていてね。私がもう知りえないことをレイだけは知っていてね」
「わかった、約束する」
彼女の中からアカリさんは消え、兄さんの手の届くところに彼女はいなくなる。残された女の子はただまっすぐに同級生を好きなどこにでもいる女の子でしかなくて、それはきっとアカリという女性が兄さんに望んでいた「人間を作った」ことになるんだろう。
成功の現場を見届けてくれないなんて随分冷たい人だな、と会ったこともないその人を想像して寂しくなる。
「レイ?」
「なに?」
「私、レイのことが大好きだよ」
「俺も負けないくらいキヨハのこと大好きだよ」
いつか彼女も壊れたりするかもしれない。成長しない、老いることもない、自分とおなじ時間を生きるのはとても難しいことかもしれない。
だけど、それさえも彼女が運命だというのなら、自分が選べる一つの選択肢なのだとしたら、それを受け入れて彼女の隣にいられるなら、それはずいぶんと安い代償のような気がした。