「キーヨー? もう入っていいの?」

 「えっ、エレーヌいつからいたのっ」

 「最初はもう寝る?って聞いてたあたりでー、二回目は映画の話してたあたり?」
 「聞いてたの?」

 「やあね、聞こえちゃっただけだってば」

 悪戯っぽく笑うとエレーヌは持ってた二つのグラスをテーブルに置いた。エレーヌのミルクティーは砂糖が少なめらしくてあまり甘くない。お礼を言って口をつけると予想してたそれに反して口の中に甘さの波が広がる。

 「ジュンイチの弟でしょ」

 「うん、そう」

 「仲良くなったのね」

 「うん」

 「いいことだわ」

 エレーヌは座っていい? と聞きながら私の隣に腰を掛けた。質問の意味がないなあと思って笑っているとエレーヌはずいぶん真面目な顔をして氷をカロカロと回している。マリアに比べれば落ち着いているけれど、エレーヌが仕事以外でこんなに神妙な顔をしているのは初めて見た。何事かと身構えるとエレーヌは泣きそうな顔をする。

 「ごめんね、脅すつもりとかじゃないのよ」

 「なんかあったの?」

 「あんた泣いたでしょう」

 「見たの?」

 「見えちゃったのよ、ごめんって」

 たしかにドアは半開きだったから仕方がないしそこでエレーヌを責めるつもりもない。どちらにしても通話が終わったら起きてる人捕まえて点検してもらおうと思っていたのだしちょうどよかった。細かい道具はないけどちょっと見てもらうくらいなら……、そう思って口を開こうとしたけれどエレーヌのが少し早かった。

 「キヨのこと見てたらなんか切なくなっちゃったのよ」

 「え、なんで?なんかした?」

 「まだ、ベースを気にしながら過ごしてるんだって。私全然気が付かなかったわ」

 ベース。ミナヅキ アカリのことだ。アカリの人となりや生前のことはともかく、ジュンイチとの関係を知っている人はいない。アキトさんが感づいてたかもしれないというだけで私が誰かにこぼしたこともない。

 「なんでそう思ったの?」

 「キヨってジュンイチのこと好きだったでしょ」

 「何言って」

 「いいのよとぼけなくても、見てたらなんとなくわかるから。でもジュンイチを好きだった時期って多分まだベースに引っ張られてたでしょ。だから最初はベースとジュンイチは恋人だったのかしらって思ったの。違ったみたいだけどね」

 アカリが既婚者だったってことは情報として記載されている。その旦那さんがアキトさんだってことも記録してあるし、なんならルイさんはアキトさんと面識もある。アカリが既婚者だったって知っていて、それでもジュンイチと恋人だったかもしれないなんてなんでそこまで考え及ぶのだろう。

 「キヨがジュンイチをフッたとき、ほっとしたのよ。ベースに乗っ取られたりしてなくてよかったって。それはあくまで研究者としての目線だったけど今日は違うの。キヨは確かに研究材料かもしれないけど、一緒に生活してるとそこまで割り切れないのよ」

 「何が言いたいの」

 「あんた、ジュンイチの弟に恋してるでしょう?」

 時が止まったような気がした。恋してる? 私が? レイに?

 そんなはずない、あれは懐かしんだアカリに引っ張られただけで私の意志じゃないんだから。私には好きなものなんかない。私の意志でジュンイチを選ぼうとしてたわけでもないのに、レイが好き? まだ初めて会ってから半月程度の相手を好きになる? そんなわけない、だって人間としてのそういう機能はそんなに発達していないはずだから。

 「機能とか設定とか面倒なことは置いといて、自分で思うよりキヨの成長速度は速いのよ。バックアップのたびにマザーコンピュータがトぶんじゃないかってひやひやしてるんだから」

 「仮にそうだとしてどうしてそう思うの?自分でもレイが好きだとか考えてないのに」

 「泣いたじゃない」

 「うん、なんかどっか壊れたのかと思った。接続不良とか」

 「あんな幸せそうに泣いておいてよくそんな冷静でいられるわね」

 幸せそう。それはつまり、レイと話していたときに私は幸せだったってことだ。泣いていた時は、なんの話をしていたんだっけ、そうだ、本、最近読んだ本の話をしていてレイが私にないものを持ってる気がしてそしたら涙が止まらなくなって

 「二人で出かけるんでしょう?夏休み」

 「うん、私まだ好き嫌いもよくわかんないから、好きそうなことしに行こうって」

 「二人で会おうって、それで幸せそうにしてて、泣くほどで、それを見て好きなんだなって思わないほうが無理よ」

 例えば、今の電話の相手がマユだったら私は同じ顔をしたんだろうか。結局、アカリにいつもいつも引っ張られているだけで、私自身は、本当はちゃんとした愛情なんかわかっていないのかもしれない。

 アカリのジュンイチへのこだわりだって、愛がどうとかよりも執着なんじゃないのかって思っている。そもそも愛情ってなんなんだろう。全部を飲み込んでそれでもジュンイチを選ぼうとしていたアカリも、自分のことで精いっぱいながらもアカリのためならと思っていたジュンイチと、それでアカリが幸せならばと思っているだろうアキトさんと。私は?私がレイに向けたものってなんだろう。

 「キヨ、私ね、キヨたちが来る前からショーンを素敵だなと思ってるの」

 「ショーンを?」

 「昨今、年齢差も国際結婚も珍しくない。同じ研究所にいるんだしって思う人も居るでしょうけど、それでも踏み切れないところがあるわ。私は彼よりも年上で、彼はスペイン私はロシアにそれぞれ故郷がある。せめて私がEUの出身だったらよかったのにって思ったこともある」

 なにかを考え込むときのエレーヌの癖だ。左手の薬指に髪を巻き付けて遊ばせる。人と機械も別の国も、違いはあるけど隔たるなにかがあるってところは同じなんだとそういう話がしたいだけ? そんなはずない、エレーヌはきっともっと大事なことを言いに来たんだろう。

 「エレーヌ、ショーンに恋人ができたらどうするの」

 「黙ってるでしょうね、でもおめでとうなんてきっと言えない。そうなってほしくないなら私が努力しなきゃいけないのはわかってるの。って問題は私じゃなくて」

 白っぽい金髪に、グレーの瞳。この間見たファンタジー映画の雪の妖精に負けず劣らず白い肌。研究所内で東洋人はジュンイチだけだから目立つけれど、そういう人種の壁はジュンイチに限らない。
 エレーヌはパッと見て日本人のイメージするロシア人だ。ショーンは研究員なのにもっと日に焼けていて太陽を全身で表しているようなかんじ。お互い違いすぎるのは見た目だけでも大分そうなのだけど。

 「わたしたちは、キヨの気持ちを全部わかってあげられない。なんせあなたにはベースがいて、あなたは生身じゃないことを悩んでいるようだから。でもこれだけは、研究員じゃなくてあなたの家族のエレーヌ・アヴェリンとして言うけれど、ベースやジュンイチがどんな関係だったにせよあなたが選べばそれはタカシロ キヨハの意志だから。絶対に後悔しない道を選択してほしいの。特にジュンイチの弟に恋をしたならなおのこと」

 私が選べば私の意志。

 ごく当然なことなのに、自分が求めていたすべてがその一言に詰まっているような気がする。アカリと自分を分かつ明確な境界線はなくて、点線のような危ういそれの上で綱渡りをしている私は自己同一性に乏しくて、余計に人から離れていくような気がしてひどく不安だった。

 「レイっていうの」

 「ジュンイチの弟?」

 「そう。教室ではちゃらちゃらしてて騒がしくてナンパで、そのくせ学年で一番頭がよくて、なのに、寂しそうだった」

 「寂しそう?」

 ジュンイチを知ってるから、ジュンイチに似てたから気が付いただけかもしれない。あんな些細な会話で電話をかけたりしてレイのほうが絶対に驚いていだろうし。ただ、いつも軽口をたたいてるときはそんな顔しないのにって思ったら居てもたってもいられなかった。

「キヨ」

 「んー?」

 「自分が幸せになることだけを考えていいんだからね。ベースとジュンイチに引きずられすぎたらだめよ」

 「自覚無いんだけどなあ」

 ただ、もし私が私の意志でレイを見ていてレイを好きだと思ったのだとしたら、叶うかどうかは一旦置いておいて、ただレイのそばで幸せだって彼を見つめる時間が欲しい。そうしてアカリがジュンイチを見ていたのと同じようにレイに好きだと伝えられるようになればいい。