「俺が、アカリさんを手放さなかったから」

「自殺の理由をジュンイチだなんてアカリは思っていなかった!」

 彼女は自殺した。享年三十。
 その終わり方はとてもあっけなくて、体験したわけでもないのに私は記憶の中で一度死んだ。痛いとか、苦しいとか、寒いとか、そんなのは一瞬でブラックアウトしてただ真っ暗な世界でたくさんのことを考えていた。

 やりたいことが少しはあったけど、本当はこうしたかったとか、もっとこうできたんじゃないかとか。そのすべてが自分の責任でジュンイチのことも旦那さんのアキトさんへも罪の意識だけが残っていた。
 誰のせいにもしてなかった。
 彼女が死んだのは、彼女が選んだことだ。

「私は、いまこの世界のだれよりも彼女を知っている。付き合いの長さとか愛とかそんなもの何一つないけど、彼女がどうしたかったか一番わかってる」

「うん」

「アカリはジュンイチを、アキトさんよりも愛してた」

「それは」

「ジュンイチはそれを望んでたんじゃないの?そうあってほしいって思っていたんでしょ?アカリが何度も何度も悩んでいたの。ジュンイチが口癖のようにアカリさんも俺のこと好きなんだから、って言っているのを」

 呪詛のようになってしまったそれは、悪魔の甘言でもアカリへの洗脳でもなんでもないだろう。本人は悩んでいたようだけど、その言葉はジュンイチの単なる自己暗示だ。悩んでいたのはアカリだけじゃない、浮気や不倫が不道徳だと思っているのは彼だって同じだった。
 この二人は、一度もそういう話をしなかったらしい。自分たちの倫理観がどうにかなっているんじゃないかって勝手に不安がって、口にして、死んだだけで。

 可哀想に。だがお互い様だし自業自得だ。いい大人なのだから、できることをもっとしておくべきだった。詰めておくべきだった。お互いの不安や焦燥を埋める努力をすべきだったのにそれをしなかった。たったそれだけの話じゃないか。
 そんなもののために私はミナヅキ アカリにされかかったのか。冗談じゃない。冗談じゃない! 私は、技術のために産まれたわけでも、私という個体を望まれたわけでもない。

 それなのに自我を持てなんて、どうしてそんな身勝手な話があるものか。アキトさん、と呼ばれたアカリの旦那さんには見覚えがあった。私があの研究室で初めて目が覚めた日、ジュンイチの隣に彼はいた。眼鏡をかけた優しそうな人だった。すこし疲れているようにも見えた。ジュンイチよりも年上で、その場の指揮を執っていた。あの人は、ミナヅキ アキトというんだな。今きちんとわかった。名前は知らなかった。だってみんなは彼を「先生」と呼んでいたんだもの。

「あの先生、アカリの旦那さんだったのね」

「うん、わりに若い先生だっただろ」

 ジュンイチが私から手を離して、だらりと首を下に向けた。

「長いこと研究員としてあっちこっちで成果あげてる優秀な人なんだ。たまたま、うちの院にいたときにアカリさんと出逢ってそのまま結婚してる。だから若いっていっても年は多少離れてたかな」

 最初、彼女の旦那は同級生かなにかでそのままストレートに大学院にいたのかと思ったがそうじゃなかった。そもそも結婚まで踏み切れたのはアキトさんの貯金があったからだ。
 研究員は貧乏だとよく言うけれど、まあ運が良かっただけのはなしだろう。院で研究していても研究員として給料が発生したりというパターンがあるそうだからそうだったんじゃないかな。どちらにしても、本当にただタイミングが悪かったの一言に尽きる。記憶の中でジュンイチも同じことを言っていたなとなんだかおかしくなった。