高台の公園に着いたのは夕暮れが空を濃く色づかせるころだった。
やはり体力が落ちているらしく、坂をのぼるのに時間がかかってしまった。焦るほどに息が切れ、途中で何度もあきらめそうになった。
「クロ! シロ!」
何度ふたりを呼んでも、姿を見せてくれない。こういうときこそいるべきなのに、と逆ギレをしても仕方ない。
ああ、シロの言うことを聞いて、素直に公園で横になっていればよかった……。
公園の入り口にある黄色い鉄製のポールに手をついたときだった。視線の先に太陽がふたつ浮かんでいるように見えた。
……なんで? 疲れているせいで目までぼやけているのかもしれない。
よく目をこらすと、それは侑弥だった。
オレンジの世界に負けないほどの強い金色の光が、侑弥を包んでいる。
「侑弥……」
つぶやいても聞こえるはずもなく、彼は私に背中を向けて立っていた。
いつも見ていたうしろ姿をぼんやりと眺めていたけれど、
「いけない」
やっと我に返ると同時に走り出していた。砂利を蹴る音が響き、侑弥が振り向く。
その目が私を認めて大きく見開いた。
「え……七海?」
「侑弥!」
気持ちが前を走るようだった。
もつれるように駆け、その胸に抱きつくのに勇気なんていらなかった。侑弥はギュッと私を抱きしめてくれた。
「……よかった」
私が好きだった甘い声が耳元で聞こえた。
「侑弥、ごめんね……」
「急に来なくなるから心配したよ。なにか病気にでもなったんじゃないかって――」
くぐもった声に目を閉じた。
そっか……。侑弥は私が事故に遭って死んだことを知らないんだ……。
昼間にクロが冗談で言った〝侑弥が幽霊〟という仮説を信じたくなってしまう。
もしもそうなら、これからも一緒にいられる。こんな悲しい気持ちにならなくて済むのなら……。
――違う。
侑弥がこれからも生きていくためにさよならをするんだ。
それが私にできる最後のことなんだから……。
ゆっくり体を離すと、侑弥はホッとしたように目じりを下げていた。
「なんだか、俺、安心して倒れそうだ」
「本当にごめんね」
いいよ、と侑弥が私の手を引いてベンチに腰をおろした。隣に座り、静かに呼吸を落ち着かせた。
侑弥になんて説明すればいいのだろう。
けれど、侑弥はうれしそうに人差し指を空に向け、指先までオレンジに染まるほどの空に目を細めた。
「今日の空は美しいね」
「あ、うん」
「はじめて会った日みたいだ。月まで浮かんでいるよ」
存在感を強めている月が東の空にあった。
「ねえ、侑弥。私ね――」
「俺のせいだよね。ごめんな」
遮る言葉に横を見ると、侑弥は薄く笑って目を伏せた。
「俺が告白したから、会いにくくなったんだろ?」
「ちが……」
「バカだよな、俺も。引っ越しの話をしてから告白するなんてさ」
おどける彼に首を必死で横に振った。
違うんだよ、侑弥……。
「でも本気なんだ。返事がNOだったとしても夕日仲間のままでいてほしい。それを伝えたかった」
まっすぐ私を見つめる侑弥を見ることができない。
でも、ちゃんと自分の答えを伝えなくちゃ。そのために私はここに来たんだから。
ゆっくりと視線を落として、私は口を開く。
「あのね……いいニュースと悪いニュースがあるの。どっちから聞きたい?」
少し瞳を開いた侑弥が、
「これはまずい展開だ」
とため息をついた。
少し悩むように宙を見てから、侑弥はペコリと頭を下げる。
「いいニュースからでお願いします」
「うん」
すう、と息を吸いこむ。
大丈夫、もう苦しくない。
侑弥がこれからも生きていけるようにちゃんとお別れを言葉にしなきゃ。
「私も侑弥のことが好き。侑弥が想ってくれるずっと前から好きだった」
「え……」
「だけど、口にすると会えなくなりそうで言えなかった」
何年も前からずっと好きだった。何度もうしろ姿に告白していたんだよ。顔を合わせると言えないことでも、その背中には言えたんだ。
「マジかよ。ああ、それってめっちゃいいニュースだ」
うれしさをかみしめるように握り拳を作る侑弥。
本当は泣いてしまうかも、と思っていた。
だけど、やっぱり私は泣けない。
この間、久しぶりに泣いたせいで涙が枯れてしまったのかな……。
「でも俺のほうが前から好きだったと思う」
突然、侑弥がそんなことを言った。
「え、それはないよ」
「あるって!」
「ない」
ちゃんと訂正しておかないといけない。最初に好きになったのが私なのは間違いないこと。
けれど、侑弥は「だって」と目線を逸らした。
「はじめて会った日からだし」
「……え?」
「だからうまく話せなくなったんだよ。七海はあまりおしゃべりじゃないし、嫌われたくなくってさ……」
ポリポリと頭をかきながら侑弥はボソボソと言った。
じゃあ、私たちはとっくに両想いだったんだ……。
何度も悩んで、会うとうれしくて、ひとりになるとさみしい毎日を彼も過ごしていたんだ。
「もっと早く告白すればよかったのにごめんな」
「ううん、私こそごめん」
でもきっと、これでよかったんだと思えた。侑弥のことで悩んだ毎日は苦しかったけれど、両想いになっていたなら自分の死がもっと受け入れられなかったと思う。
そこまで考えて、ふと気づいた。
「これからも夕日仲間、って言ったよね? 侑弥、引っ越しをするんでしょう?」
六月からは東京で新しい高校に行くはずじゃ……。
「いや、結局ここに残ることにしたんだ」
あっさりとそう言う彼に青ざめる。もしかして、私のために……。
「大丈夫」
心配を先読みしたかのように侑弥は口を三日月にして笑った。
「母親がブチ切れてさあ、あのあと大変だったんだよ。父親に『あなただけ行ってください!』って言い出してさあ。なんかずっと我慢してたみたいで、あんまり怒ったところ見たことなかったからびっくりしたよ」
「そ、そうなんだ……」
「それで、俺が大学に行ったら、母親は東京に戻るってことになったんだよ」
だとしたら、侑弥はこの町に残ってくれる。
でももう、私はいない。私がいない毎日を侑弥は過ごしていくんだ……。
それは彼に新たな悲しみを与えることになってしまう。
急に息が詰まる感覚に襲われ、次に口を開いときには瞳から涙がこぼれていた。
意図しない涙に自分でも驚いてしまう。
「え、どうかした? 泣かないで」
侑弥の声が届いても、涙が止まらない。
誰かが私のせいで悲しくなることが、こんなにもつらい。
「ごめんね。ごめんね……」
「これからも一緒にいられるから大丈夫だよ」
安心させるように八重歯を見せて笑う侑弥に、キュッと唇をかんで涙を止めた。
言わなくちゃ。今、言わなくちゃ……。
「悪いニュースをお伝えします」
震える声に侑弥が首をかしげた。
「私は、もうこの世にはいないの。死んじゃったんだって」
口を〝は〟を言う形にして笑おうとした侑弥が、その表情のまま固まった。
「……やめてくれよ。そういうの、好きじゃない」
けれど、侑弥の瞳は不安げに揺れ動いていた。私の体の輪郭が薄いことにもようやく気づいたみたいで、腕を髪を、頬をそっとさわってきた。
「事故に遭ったの。だから、会いに来られなかった。ちゃんと返事をしたかったのにできなかった」
「嘘だろ。やめてくれよ」
「侑弥との未練解消が終わったら、私はあっちの世界に連れていかれ――」
「やめろよ!」
涙を瞳にあふれさせて叫ぶ侑弥。
きっと彼は、本当のことだと理解している。そう、思った。
「なんでだよ。やっと、やっと……」
涙にむせぶ侑弥が私の手を握った。もう侑弥の体から生まれる光は弱く、今にも消えてしまいそう。
自分の体を見おろしても、薄い輪郭があるだけで光ってはいなかった。
「なあ、どうすればいい? どうすれば七海を助けられる?」
抱きしめられるままに、侑弥の肩にあごを置いた。
「侑弥、最後に会ってくれてありがとう」
「嫌だよ。なんで……」
背中に手を回し、一度だけ力をこめた。神様、私に勇気をください。
「侑弥にはこれからも生きてほしい」
「…………」
「私がいない世界でもちゃんと毎日を送ってほしい。もう一緒に夕日は見られないけれど、美しい夕焼けを見たら……たまに思い出して」
子供のように首を振る侑弥。彼がこれからも生きていけるといいな。
八重歯を見せて笑う彼が好きだった。
やさしくて、空を愛おしそうに見る顔が好きだった。
ずっとずっと、好きでいられると思っていた。
けれど、最後の瞬間は自分で決めなくちゃいけない。
「侑弥、ありがとう。さようなら」
その言葉を口にしたと同時に、侑弥の手が私の体をすり抜けた。
「え……」
侑弥が戸惑ったようにつぶやいて、そのまま自分の手のひらを眺めている。
隣にいるのに二度と会えない人。
でも、不思議と涙はもう出なかった。
伝えたい気持ちを伝えられた充足感と共に、急に体が鉛のように重くなっていた。
侑弥は涙を拭うと、やがてゆっくりと空を見あげた。
「美しい夕焼けだなあ」
そう言った顔に私は答える。
「本当に美しいね」
と。
やがて消えた夕日のあたりを眺めながら、侑弥は帰っていった。
抗えない眠りに目を閉じてもまだ、夕焼けがまぶたを照らしている気がした。
【第六章】
本当の涙、本当の未練
総合病院の受付カウンターそばにあるソファで、さっきから行き交う人を眺めている。
名札をつけたスタッフは早歩きで通り過ぎ、お見舞いに来た人はうつむき加減で歩いていく。
おばあちゃんのお見舞いに来たときの私もそうだった。入り口の自動ドアが開くと、病室に着くまで無意識に息を潜めていたっけ。
隣ではシロが珍しそうにキョロキョロと病院内を眺めている。
「なんか広いねぇ。僕の知っている病院とはずいぶん違う」
「そう?」
「病院って、怖いところでしょう? いつも混んでてたくさんの人がいて、先生は無理やり注射をする、みたいな」
ブルブル体を震わせるシロに、ようやく少し笑えた。きっと元気づけようとしているんだな。
シロは本当にやさしいのに、反面クロは……。
「なんだ?」
向かい側のソファで足を組んでいるクロがギロッと見てきたので、
「なんでもない」
と答えておいた。
侑弥との未練解消を終えてもまだ、私はあっちの世界に行けないまま。
結局、侑弥も本当の未練解消の相手じゃなかったんだ。
いくら考えても思いつかない本当の未練。残る選択肢は、入院しているおばあちゃんくらいなもの。
総合病院に来たのはいいけれど、体が重くて休憩していたところだ。
「そろそろ行かないと日が暮れるぞ」
立ちあがるクロに反抗する元気もなく、起きあがった。
すぐにシロが体を支えてくれる。
「大丈夫? 今日はもうやめたら?」
「アホ」とクロがすかさず鋭く言った。
「あと五日しかないんだぞ。未練解消できなかったらどうするんだ」
「でも……」
不安げなシロが、
「ねえ、本当におばあちゃんに会うの?」
私に尋ねてきたのでうなずく。
「おばあちゃんには会いたいし。それに、本当の未練がなにかも知りたいから」
地縛霊になれば大切な人たちに迷惑をかけてしまう。それだけは絶対に嫌だ。
「シロ、お前はさっさと仕事に行け」
「……僕も行きたい」
「ダメだ。そういう約束だろ?」
有無を言わさずクロは私の手を引っ張って歩きだす。
振り返るとシロが捨てられた犬みたいに悲しい瞳で見送っていた。
そういえば、前におばあちゃんに会いたいと言ったときも反対していたっけ。
クロとふたりでエレベーターに乗りこみ、おばあちゃんが入院している九階のボタンを押す。
音もなく扉が閉まり、浮遊感を伴いながらエレベーターは上昇していく。
「シロはおばあちゃんに会ってほしくないのかな」
聞こえているはずなのに、クロはなにも言わずにじっと前を見つめている。
扉が開くと、細長い廊下が続いていた。
すぐにおばあちゃんの部屋が思い出される。
「久しぶりだな、ここ……」
亡くなる前は忙しくてお見舞いに来ていなかった。いつだって行けると思っているうちに、あとまわしにしちゃっていたんだ。
後悔のあと、ふと気づく。
「そういえば、私が死んだ病院ってここじゃなかったよね?」
「……ああ」
あのときはおばあちゃんが亡くなったものだと思いこんでいたけれど、壁の色や照明がまるで違う。
「私はどこで……」
言いかけてすぐに口を閉じた。なにか、忘れているような気がする。
記憶のなかを覗いても、その断片は見つからない。
同時に頭痛が生まれ、足を止めて目をキュッとつむった。
思い出せないなにかは、ひょっとしたら自分で思い出さないようにしているのかもしれない。
ふいに肩に重みを感じて目を開けると、クロの大きな手が置かれていた。
「今は集中しろ。これから起きることを、ちゃんと受け止めるんだ」
見あげると、クロはまっすぐにおばあちゃんの部屋に視線を向けていた。
嫌な予感がする……。
とんでもない想像がジワジワと頭に浮かび、その形を現している。
予感は口にすれば本当のことになってしまいそう。それでも、尋ねずにはいられなかった。
「ひょっとして……。おばあちゃんも……亡くなっているの?」
シロは病院に行かせたがらなかった。ううん、それだけじゃない。
「侑弥や愛梨は? 私が会った人たちはちゃんと生きているんだよね? まさか、本当はみんな亡くなってるとか、そんなの……ないよね?」
実はみんなも亡くなっている。
それなら、これだけ探しても未練が見つからない理由が説明できる。
私が会ったのは、彼らの未練解消のためだったとしたら……。
震えているのは寒いからだけじゃない。恐怖がどんどん体を覆っていく、そんな感覚。どうしよう、もしもそれが本当なら、どうすればいいの。
「泣かないんだな」
気づくと肩に置かれた手はなく、クロは数歩先にいた。
「泣かないってどういう意味? そんなこと今、どうでもいいじゃん」
「どうでもよくないんだよ」
「じゃあ教えて。あいまいなことばっかりでわからないよ。ちゃんと教えて。ねえ、教えてよ!」
なにがどうなっているのかわからない。でも、違和感があるのは本当のこと。クロもシロもなにかを隠しているんだ。
キッとクロをにらむけれど、意外にも目の前にあったのは笑顔だった。
「お前は、本当にくだらない想像ばっかりしてるな」
「……違うの?」
クロは笑みを浮かべたまま私に近づくと、首を横に振った。
「昔な……。今お前が言ったような未練解消をやったことがある。ピーピー泣く女子で大変だった。あんな思いはもうごめんだ。安心しろ、お前の予想は間違っている」
「みんな生きているんだね。よかった……」
はあ、と心から息をつく私に、クロは腕を組んだ。
「お前の祖母は元気な姿で部屋にいる。退院も決まったそうだ。寿命はまだまだ残っている」
「じゃあなんで、あんなこと言ったのよ」
これから起きることを受け止めろ、なんて言われたら誰だって悪い想像しちゃうじゃん。なにも言わないクロの横をすり抜け、部屋の前に立つ。
おばあちゃんに会えるんだ。
ノックを三回してからドアを開けると、おばあちゃんがベッドの上に座り本を読んでいた。
ああ、会えた。おばあちゃんに会えた。
病院着にカーディガンを羽織り、丸メガネをかけている。
「おばあちゃん」
驚かせないようにそっと声をかけて近づく。前に会ったときよりも顔色がいいし、腕につながっていた点滴も外されたみたい。
「おばあちゃん、私が見える?」
ベッドの横に立つけれど、おばあちゃんはじっと本を読んでいるだけ。
「おばあちゃん?」
何度呼びかけても反応がない。
よく見ると、おばあちゃんの体からは光が出ていなかった。
「え……」
触れようとすると、あっけなく私の手はおばあちゃんの体をすり抜けた。
「見ての通りだ」
うしろでクロがそう言う。
「七海の未練のなかにその人は入っていなかった、ということだ」
「そんな!?」
もう一度おばあちゃんを見る。大好きだったおばあちゃん。
入院したときは本当に心配したし、ずっと元気になることを祈っていた。
それなのに……未練じゃないの?
窓辺に立つクロが、
「受け止めろ」
そう言った。
「未練は、七海が最後に思った後悔のこと。つまり、最後にお前は祖母のことを考えていなかった。それだけだ」
「でも、でもっ!」
すがるようにクロのスーツの袖をつかむ。
「今はすごく会いたいって思っているよ。なのに話もできないの? さよならを伝えられないの? 会えないの? もう二度と会えないの?」
「そういうことになる」
「ひどいよ! こんなのひどすぎる!」
悔しくて悲しくて、それでもどうしようもないなんて……。
「七海、聞け」
「嫌! 聞きたくない!」
顔をそむける私の頬を、クロは両手で挟んでその顔を近づけてきた。
「いいからよく聞くんだ。人間てのは愚かな生き物だ。失ってからはじめて後悔をする。その後悔にも優先順位があり、漏れた後悔にすら後悔する」
「…………」
「だったらなんで生きているうちに後悔を減らそうとしなかった? 生きていれば、いつでも大切な人に大切だと言えたはずだろう。〝忙しい〟〝眠い〟で、あとまわしにしてきた〝いつか〟を嘆くのはよせ。ぜんぶ、お前自身が選択してきたことなんだよ」
じっと見つめるクロに、
「息ができない」
そう言うと、やっとクロが手を離してくれた。
はあはあ、と息を吐きながらおばあちゃんを見る。
クロが言っていることは正しい。ここに来なかったのは私の意思だ。
おばあちゃんだけじゃなく、お母さんにもお父さんにもちゃんと話をしてこなかった。気持ちを伝えていなかった。
そばにいる人のことをいて当たり前だと思っていたのは、まぎれもなく私自身なんだ……。