いつか、眠りにつく日3

「あの……どうして泣いているの?」

 尋ねる私に、彼女はゆるゆると顔をあげた。
 そして、何度も洟をすすって息を整えてから口を開く。

「私の姿、誰からも見えないみたいで……。だからずっとひとりだったの」
「そうなんだ……」
「もうずっと、ここにいる。未練の解消ができなかったから、だから……」

 うつむく彼女の瞳から涙がひと粒こぼれた。とても地縛霊とは思えなかった。

「どうして亡くなったのですか?」
「よくわからないの。記憶が混乱してて……。たぶん、昔から心臓が悪かったから、発作かなにかでだと思うの」

 それからずっとここにいるなんて、どんなに悲しかったのだろう。
 彼女はこらえきれないように顔をゆがめてから、また両手を顔に当てた。

「七海ちゃん!」

 シロが叫ぶのも構わず、泣いている彼女のそばに立った。

「私は、雨宮七海。高校二年生です」
「……怖くないの?」

 信じられないという表情を浮かべた彼女に「怖いです」と正直に答えた。

「今襲われたらヤバいのかもしれないけど、泣いている人をぼんやり見てるのは苦手なの。それって、あまりにも冷たいでしょう?」
「あなた、変わった人ね」

 少しだけ口角をあげた彼女が、
「吉田志穂(しほ)
 そう名乗った。

「志穂さんは、高校三年生?」
「そうだよ。でも、死んでから数年は経っているから、今はもう二十歳くらいかも」

 木の根元に座った志穂さんの横に私も腰をおろした。ざざ、と揺れる葉音がリアルだった。

「私も高校二年生になってすぐ死んじゃったみたいなんです」
「七海さんはどこで目覚めたの?」
「病院です」
「そう」

 自分の死を体験した人だけができる会話。
 シロはまだ距離をあけたまま、犬のようにうなっている。
 上を見ると、たくさんの桜の花びらがくるくる回りながら降っている。
 そっと手を伸ばすと、手のひらに一枚落ちた。
 心のなかで『すり抜けろ』と願ってみると、するりと手の甲を通り抜けた。

 あ、できた。

 うれしくなってしまい、右に座る志穂さんを見る。彼女は軽くうなずいてくれた。

「七海さんはいつ亡くなったの?」
「それが……昨日なんです」
「昨日? じゃあこれから未練解消ができるんだね」
「はい……」
「いいなあ。私はもう二度とできないから」

 あはは、と笑いながらまだ志穂さんは泣いている。

「あの、志穂さんはどうして未練の解消を……?」

 しなかったのか、できなかったのかがわからずあいまいに尋ねた。
 さらさらと髪を風に流しながら、志穂さんは「できなかった」と答えた。

「自分の未練がなにかはわかっていた。ちゃんと未練解消をしようと思った。でも、どうしてもできなかったの」

 悲しげに瞳を伏せる志穂さん。いったいなにがあったのだろう……。

「詳しく聞いてもいいですか?」

 チラッとシロを見ると全力で首を横に振っている。
 そんなことより、自分の未練解消をしなくちゃいけないってことはわかっている。でも、泣きながら笑っている志穂さんを助けたい。

 志穂さんは迷うように唇をぎゅっとかんでから、
「あの、ね」
 と口を開いた。

「高校に入学してすぐのころ、帰るのが遅くなった日があったの。この桜が満開の花を咲かせていてね、うれしくなってここに来たんだ」

 なつかしそうに目を細める志穂さんの横顔は美しかった。

「そしたら急にすごい雨が降りだした。もう嵐みたいなひどい雨でね、雨粒と一緒に桜の花が一気に地面にたたきつけられたの」
「そんなにすごい雨だったんですか?」
「ただでさえ桜が散るのって悲しいでしょう? なのに強制的に散らされているみたいで、悲しくて泣いていたの」
「志穂さんて、生きているころから泣き虫だったんですか?」

 思わず尋ねると、志穂さんはぷうと頬を(ふく)らませた。

「泣き虫じゃないよ。ただ、人より少し涙腺(るいせん)が弱いっていうだけなの」

 私は泣けない。
 どんなにうれしくても悲しくても、泣くことができない。まるで、志穂さんと真逆だ。

「そのときに、彼と出会ったの」
「彼って? 男子?」
「名前は、斉藤(さいとう)奏太(そうた)さん」

 口にしたとたん、志穂さんは顔を赤らめた。

「傘がなくて泣いていると思われたみたいで、自分の黒い傘を貸してくれたの。無言で傘を差し出すと、雨のなか駆けていったの」
「へえ、まるでドラマみたい」

 ふふ、と笑うと志穂さんもうれしそうにはにかんでから、横に置いてある傘を見た。斎藤さんが貸してくれたという傘なのかな……。

「そんないいものじゃないよ。だって、私はなんにもしゃべれなかったんだから。あとで聞いたら、他校の生徒だったの。泣いている私を心配して、わざわざ声をかけてくれたんだって」
「奏太さん、よくここに志穂さんが立っているって気づきましたね。ここから校門の外は見えないのに」

 高い塀に(おお)われているこの場所は、校門のなかに入らないと見えない。

「それがね」と遠い目をした志穂さんがほほ笑む。

「彼は雨が好きなんですって。雨の日にはこの町のいろんな景色を見て歩いているとうれしそうに話してくれたの。雨のなかで満開の桜が見たくてこっそり入ったら、私が泣いていたから驚いたみたい」

 そうしてから志穂さんははにかんだ。

「翌日も雨降りでね……だから、彼にまた会えたんだ」

 目じりを下げて口にする志穂さんはとてもきれいで、地縛霊は人に(わざわ)いをもたらすって聞いていたけれど、例外もある気がした。

「それからね、私は雨が降る日はここに立っていた。雨の日の夕方は、必ず彼が会いに来てくれたから。名前を知ったのはずいぶんあとだった。奏太さんは駅裏にある畳屋さんの息子さんなんだって。結局、勇気がなくて行けなかったけれど」

 頬を両手で押さえながら志穂さんは続けた。

「いつしか、雨が好きになっていた。同時に、奏太さんのことを好きになっていく自分にも気づいた」

 好きな人の名前を口にするとき、人はやさしい顔になるんだな。
 ふいに、なにかの記憶が頭をかすめた気がしたけれど、思い出そうとするそばから煙のように消えてしまった。

「雨の日にだけ会える、ってロマンチックですね」

 志穂さんが雨のなか、ずっと奏太さんを待っている映像が頭に浮かんだ。

「でも、結局傘は返せなかったんだ。私は違う色の傘を持っていつもここに立っていた。返してしまったら、もう会えなくなりそうで怖かったの」
「それが高校三年生まで続いたのですか?」

 あなたが亡くなるまで、とは聞けなかった。

「わからない。ある日気づいたら、桜の雨が降る日にここでひとりぼっちで泣いていたの。あれからどれくらい経ったのかな? 会いたくて、だけど奏太さんはもう来てくれないの。どんなに待っても来ないの……」

 私もさみしくため息をこぼした。

「きっと私が死んじゃったから、奏太さんは来るのをやめたんだと思う。しょうがないよね……。どんなに待っても会えない。もう、この傘を返すこともできない……」

 きっと傘を返すことが彼女の未練なんだと思った。

「未練解消の期間中に、会いに行かなかったんですか?」
「案内人さんには何度も怒られた。だけど、できなかった。好きな人に、自分が死んだことを言うなんて……できなかったの」

 嗚咽を漏らす志穂さんの肩を抱いた。
 しばらく泣き続けたあと、志穂さんが「でも」と震える声で言った。

「今日は久しぶりに七海ちゃんが声をかけてくれた。だから、すごくうれしかった」

 そう言ったあと、志穂さんは急に顔をしかめたかと思うと、体をぐっと丸くした。

「どうしたんですか?」
「あ、うん。たまに胸のあたりやお腹が気持ち悪くなるの。たぶん、もう私は悪い霊になっているんだと思う」

 苦しそうにあえぐ背中をさするけれど、
「ダメ。今日はすごく苦しい。ああ、苦しい」
 声が低くなっていくのがわかった。
 彼女を包みこんでいる空気が濁った気がした。

「志穂さん、しっかりしてください」
 私の手を解くと、
「危ないから、もう帰って」
 志穂さんは短くそう言った。驚くほど顔色が悪くなっている。

「でも……」
「私はもう大丈夫。お願いだからひとりにして」

 気圧されるように立ちあがると、シロが必死で手招きしている。

「早く早く!」
「じゃあ、また来ます。ありがとうございました」

 膝の間に顔をうずめる志穂さんが、どんな顔をしているのかはわからなかった。


 さっきからシロはムスッとしたままうしろをついてくる。

 時間はもうすぐ十時になるところ。駅前は閑散(かんさん)としていて、人の姿はまばらだった。
 見慣れたはずの大通り、交差点、改札口や看板まですでになつかしく思えてしまう。

「ねえ、七海ちゃん。僕はやめたほうがいいと思うけど」

 何度目かの忠告に振り返った。

「だって、気になるんだもん」
「いくら斉藤奏太さんに会ったって、僕たちの姿は人間には見えないんだよ。ましてや七海ちゃんの未練解消の相手でもないわけだし。できることなんてひとつもないって」
「わかってる。でも、志穂さんに今の彼の様子だけでも教えてあげたいよ。ずっとあそこで待ち続けているなんて、あんまりにもかわいそう」
「それはそうだけど、相手は地縛霊なの忘れてない? 危なすぎるよ」

 自転車のおばさんが私の体をすり抜けていく。なんだかこういうことにも慣れていくのが少し悲しい。

「本当に地縛霊なのかな?」
「間違いないよ」
「志穂さんは私を襲おうという感じじゃなかったよね? むしろ、助けを求めているように見えた。あんなに泣いて、かわいそうだと思わないの?」

 そう言うとシロは唇を尖らせたまま視線を逸らした。
 駅裏にある商店街を抜けると、さらに人の姿は少なくなった。
 花屋の前にあるベンチに座ると、シロはなぜか私の前の地べたに座った。

「隣に座ればいいのに」
「いい」

 まだ怒っている様子。子供みたいな態度に思わず笑ってしまった。

「奏太さんの様子を見たら、ちゃんと学校に戻って未練解消の相手を探すから」
「そうじゃなくてさ……嫌な予感がするんだよ」

 上目遣いで私を見るシロが首をゆっくりとかしげた。

「あの子、本当に数年前に亡くなったのかな?」
「え?」
「ひょっとしたらあの子、何十年も前に亡くなっているんじゃないかな」
「どうしてそう思うの?」

 予想外の推理に身を乗り出すと、シロはあごに手をやり、「だって」と言った。

「桜の木が見たいから、って他校の生徒が校門から入ってきたりする? いくら雨の日を選んでいるとはいえ、それなりに目立つと思うんだよね」
「奏太さんも志穂さんに会いたかったんだよ。ほら、ロミオとジュリエットみたいな感じなんだよ、きっと」

 会いたくても会えないふたり。それこそドラマや映画みたいな設定だ。
 シロはピンとこなかったようで難しい顔を崩さない。

「七海ちゃんは覚えていない? 校門から続く壁は、昔はなかったんだよ。できたのは十年くらい前だったと思う」
「……それって」
「志穂さんが亡くなったのも奏太さんと会っていたのも、すごく前の話だとしたら納得できるんだよ。その場合、志穂さんは長い間、地縛霊としてあの場所にいることになる。ひょっとしたら、今の奏太さんはおじいちゃんになっていたり、万が一だけど亡くなっていることもありえるよね」

 否定したいのに、冷静なシロの考えに同調している私がいる。

 でも、志穂さんが悲しいことにはなにも変わらない。

「もしそうだったなら、なおさら奏太さんの様子を知りたい。とにかくクロに見つかる前に行こうよ」
「誰に見つかる前に?」

 やけに低い声で聞いてくるシロに、
「クロにきまってるでしょ」
 と答えるけれど、目の前のシロは私のうしろを見たまま口をぽかんと開けている。

 あ……これ、ヤバいやつだ。

 案の定、振り返ると腕を組んだクロが立っていた。

「俺に見つかると困るようなことをしてたってことか」

 うわ、と立ちあがりシロのうしろに隠れた。

「別に、ちょっと未練を探しに来ただけだよ。ね?」
「そう、そうです。たぶん、そうです」

 カクカクとうなずくシロは嘘が苦手みたい。
 わざとらしくため息をついたクロは、嘆かわしいとでもいうように頭を左右に振った。

「なんで人間というのは、自分のことよりほかの人のことばかり考えるんだ。それはやさしさなのか? いや、違う」

 自分で質疑と応答をしてからクロは言い放った。

「それは弱さだ。弱い人間ほど、ほかのことにすぐ気を取られる。七海、お前は逃げているんだよ」
「……ムカつく」

 思わずそう言い返すと、クロはおもしろそうに片眉をあげた。

「その反応ははじめてだ。お前くらいの年齢の女子はたいてい、泣きわめくもんだけどな」

 あ、まただ。懐かしそうに口元を緩めるクロ。きっと、昔に未練解消を手伝った女の子がそういう態度を取ったのだろう。

「私は泣かない。涙なんて出しかたすら忘れたもん」
「心がないってことか。だったら俺と同じだな」
「同じじゃない!」

 売り言葉に買い言葉ということはわかっている。だけど、どうしても志穂さんを助けたかった。
 深呼吸をして心を落ち着かせる。

「少しだけでもいいから調べたいの。自分の未練解消の相手はちゃんと探すから」
「それこそ余計なお世話だ。志穂はもう地縛霊になってんだよ。今さらどうしようもない」
「あれえ?」

 急にシロが間の抜けた声をあげたかと思うと、クロをじっと見つめた。

「今、志穂って呼び捨てにしましたよね? ひょっとして、クロさんの担当だったってことですか?」
「うっ」

 わかりやすく言葉に詰まるクロ。

「志穂さんは七海ちゃんを襲うこともありませんでした。つまり、まだ完全な地縛霊になっていないってことです。僕思うんですけど、それってクロさんのおかげなんじゃないですか? 悪い霊気をたまに吸い取ってあげてるとか、それとも――」

 言葉の途中で、クロはシロの口を大きな右手で塞いだ。

「お前はしゃべりすぎなんだよ。少し黙れ」
「ふあい」
「俺の協力をするって約束したから面倒見てやってるんだ。ちゃんとこいつの未練解消の手伝いをしろ。わかったか?」

 ぶんぶんと必死で首を縦に振るシロに、クロは「よし」と手を離した。
 私は、苦しげにあえぐシロからクロに視線を戻した。

「奏太さんにだけ会わせて。今の様子を志穂さんに伝えたいの」

 頭を下げる私に、クロはそっぽを向いた。

「勝手にしろ。今なら畳屋には奏太以外誰もいない」
「え?」
「一応見てきてやったんだ。ほら、さっさとしろ」

 よくわからないまま歩きだす。

「そっちじゃない。こっちだ」

 クロがいてよかった。言われるがまま右へ左へと小道を入っていくと、ようやく『斉藤畳店』と書かれた看板が見えた。
 い草の青い香りが入り口にむわんと漂っていた。一階が作業場になっているらしく、仕上げ中の畳が置いてある。
 その横には小さな接客スペースと応接セット。昔ながらの畳屋さんといった感じだ。

 ――ガタガタ。

 足音がして、誰かが階段をおりてくる。
 おじいさんになっているかも、という予想に反し、若い男性だった。
 短めの髪に、チェックのシャツとデニムがよく似合っているけれど、怒ったような顔で奥にある戸棚を開けてなにか探している。

 この人が、奏太さん?

 高校生とは言えないまでも、まだ二十歳そこそこに見えた。

「様子もわかっただろ? もう行こう」

 クロの声に「うん」と答えてから作りかけの畳をじっくり眺めた。
 こんなふうに畳ってできてるんだ。でっかいピンみたいなものがたくさん畳に突き刺さっている。
 クロがそばに来たので、ピンをさわりながら尋ねることにした。

「奏太さんってもうこの畳屋さんを継いでいるのかな?」
「いや、まだだけど」
「じゃあ大学とか行ってるの?」
「今は四回生。って、なんで俺の名前知ってるの?」

 え?と顔をあげると、クロだと思っていた人は……奏太さんだった。

「え、ええっ!? なんで私のことが……」
「そっちこそ、どういう魂胆(こんたん)でここに来たわけ?」
「あの……クロが」
「は?」

 見ると、クロは素知らぬ顔をしている。シロはただただ驚愕(きょうがく)のポーズで固まってしまっていた。
 奏太さんは怒りを顔に(にじ)ませている。

「ごめんなさい。私……ただ、奏太さんの様子を知りたくて」
「だからなんで俺の様子を――」
「それは、その」

 要領を得ない私の体をずいと押して、クロが割って入った。

「俺は案内人だ。悪いが、お前のこともずっと観察させてもらっていた」
「は? なんで?」

 挑むような口調の奏太さんは、クロやシロの姿も見えているらしい。

「あんたたち、いったい誰なんだよ」

 強気な言葉の裏に、奏太さんはなにか隠しているような気がした。
 クロはなにもかもお見通しなのか、腕を組んで余裕そう。

「なあ奏太、お前にはなぜ俺たちがここに来たのか、心当たりがあるだろう?」
「な……」
「じゃあ聞こうか。吉田志穂の名前に心当たりは?」

 その言葉に奏太さんはあからさまに動揺をしたかと思うと、口をギュッと結んでしゃべらなくなってしまった。

 沈黙のなか、クロが続ける。

「お前のせいじゃない。だけど、あの子を自由にしてあげられるのもお前だけなんだよ」
「え……。まさか、あの子はまだあの場所に?」

 静かにうなずくクロ。状況がまるでわからない。
 どうして奏太さんは私が見えているの?
 なんで普通にクロと話をしているの?

「そっか……」

 奏太さんはがっくりと膝をついた。
 まるでサスペンスドラマでトリックを言い当てられた犯人みたいに見えた。


 あんなに晴れていたのに、畳屋を出るころに空を覆いだした厚い雲は、その色を濃くし、学校へ戻るころには小雨が降りだしていた。
 霧のような雨が、髪に、肩に落ちてくる。

 志穂さんはまた木と話でもするかのように、細くて白い手のひらを幹に当てていた。離れていてもわかるくらい、顔がまだ青白い。
 桜の木がひとしきり大きく葉を揺らすと、ピンク色の花が音もなく舞い降りた。

 クロが私の肩をつかんだので足を止めた。わかってる、と小さくうなずく。
 ここからは、私は見ていることしかできない。

 私の横を通り過ぎるとき、
「ありがとう」
 奏太さんは小さな声でそう言ってくれた。

 やがて、志穂さんが足音に気づく。
 ずっと待っていた、ずっと聞きたかった足音に。

「え……嘘……」

 振り向いた彼女の顔がぱあっと明るくなったかと思うと、次の瞬間には涙にゆがんでいる。

 不思議だった。ふたりともその場にたたずみ、お互いを静かに見つめている。

 すぐうしろにいるシロが、
「ね……ふたりとも光っていない」
 違和感の正体を教えてくれた。
 そうだ、未練解消のはずなのに光っていない。

「いいんだよ、光らなくて正解だ」

 そっけなくクロが言った。

「もう未練解消の期間を過ぎてしまったから?」

 私の問いにクロはうなずく。

「それもあるが、理由はほかにもある」

 奏太が「あの、さ」と(おのれ)(ふる)い立たせるように大きな声で言った。

「全然来られなくてごめん……」
「ううん。大丈夫、だよ」

 やさしくほほ笑む志穂さん。あいまいに首を振り、奏太さんは地面に視線を落とした。
 志穂さんは涙をこぼしながら、なんとか笑おうとしているみたい。だけど、やっぱり笑えなくて必死で歯を食いしばっている。

「奏太さん。あの、ね……言わなくちゃいけないことがあるの」
「……うん」

 奏太さんはギュッと目を閉じてから息を吐いた。

「私……死んじゃったの。だから、会えなかったのは私のせいだったの。未練解消をしなくちゃいけなかったのに、どうしてもできなかった。だって奏太さんに会えば、あっちの世界に連れていかれるからっ」

 じっと耐えるように奏太さんは目を閉じている。そうだよね、好きだった人が亡くなったんだもんね……。その痛みや悲しみはどれくらいなのだろう。

 未練の解消ができなかった志穂さんを責めることなんてできない。
 残した人、残された人はそれぞれに想像もつかないほどの悲しみを抱いてしまうから。
 息ができないほど胸が苦しかった。

「未練解消をしていれば、こんな姿にならなかったのに。とっくにこの世界から消えられたのに!」

 泣き叫ぶ志穂さんに、
「違うんだよ」
 奏太さんが口にした言葉はやわらかく耳に届いた。

 そのときになって、私は気づいた。

「あれ……。奏太さんは私だけじゃなく、志穂さんの姿も見えるの?」
「そういうことだ」

 クロが静かな声で言った。
 奏太さんは軽く首を振ってから、意を決したように顔をあげた。

「俺のせいなんだ。志穂さんがこの世に居続けるのは、俺のせいなんだよ」
「違う。私が、私がっ」

 両手で顔を覆って泣く志穂さんに、奏太さんは「違う」とまた言った。
 ひどく重い声に聞こえた。

「俺が君を見つけたのは、春の日だった。桜も散らす雨の夕方に、君はぼんやり光っていた」
「光って……?」

 志穂さんが小さく口を開いた。

「遠くからでもその光はよく見えた。まるで光に吸い寄せられるように、僕は君と出逢ったんだ」
「待って……」

 思い出したのか、何度も首を横に振りながら志穂さんは涙をこぼした。

「はじめて会ったとき、君はもう亡くなったあとだったんだよ」
「なっ……」

 志穂さんの体が軽く揺れた。

 私も「嘘でしょ……」と思わず声に出していた。
 首をゆるゆると横に振り、志穂さんは木にもたれかかってあえいでいる。

「聞いてほしい」

 奏太さんが言った。

「昔から霊になった人が見えるんだ。あの日も、学校の帰り道、桜の木が光っていた。きっと、霊がなにかやっているんだろうなと見に来た。そうしたら、蛍のように光る君が、美しい桜を背負って立っていたんだ」
「やめて……もう言わないで」
「雨に濡れて泣く君がかわいそうで、思わず自分の傘を渡してしまった」
「やめて!」

 両手を頭で押さえ、その場にうずくまる志穂さんに、奏太さんは「ごめん」とつぶやいた。
 サーッと雨の音が強くなり、残り少ない花にその(しずく)を打ちつけている。
 やがて、ゆっくりと顔をあげた志穂さんの体からは黒い炎が燃えていた。

「……どうして」

 ささやくような声は低く、目は赤く光っていた。
 恐怖はなかった。むしろ泣きたい気持ばかりがこみあがってくる。
 普段は泣けないのに、どうしてこんなときに……。ぐっとこらえていると、志穂さんがゆらりと一歩前に出るのが見えた。

 彼女の悲しみや怒りが黒い炎になり、どんどん大きくなっている。

「どうしてそんなことを言うの? 私は一年生の春にあなたに会った。死んでしまったのは三年生だったはず。奏太さん、どうして嘘をつくの? そんなに私のことが嫌いになったの?」
「君は、入学式の日に亡くなったんだよ。亡くなって数日後の雨の夕方、桜の木の下で泣いているのを見つけたんだ」
「嘘! そんなの嘘っ!」

 咆哮のような声に、すごい勢いで桜の枝と葉が揺れた。一気に桜雨が降り注いでくる。
 奏太さんが志穂さんに歩みを進めた。

「危ない!」

 駆け出そうとするシロが、派手に転んだ。

 クロが足をかけたらしく、
「余計なことはするな」
 と、肩をすくめた。

 このまま見てろってこと……?

「俺が君に傘を渡してしまったから、俺が君に会いたくなってしまったから……」
「なぜ、ああなぜ? 意味がわからない。わからないの」
「好きだった。志穂さんのことを好きになってしまったんだ」

 はっきりと口にしたあと、奏太さんは志穂さんの細い両手を握った。

「もうこの世にはいないと知っていたのに、好きになる気持ちが(おさ)えられなかった。雨の日にだけ現れる君のことばかり考え、毎日雨が降るように祈っていたんだ」

 気づくと志穂さんの体から出ている黒い炎は、雨に負けるように弱くなっていた。

「……私が霊だと知ってて傘を?」
「好きになった人に泣いてほしくなかった。だけど、それが君をこの世に縛りつけてしまったんだね」

 ザーッという音は、桜の花びらのせいか雨のせいか。
 言葉をかみしめるようにうつむいていた志穂さんがゆっくりと顔をあげた。

「私も、だよ」

 その声はやわらかく、口元には笑みが浮かんでいた。さっきまでの悲しみや怒りはもうそこになかった。

「私も雨の日を待っていた。ずっと好きだったの。幸せだったの」
「でも、間違いだった。君にちゃんと成仏してほしかった。だから、会わないように決めたんだ」

 奏太さんの瞳から涙がこぼれるのが見えた。志穂さんは(はな)をすすって、だけどまだほほ笑んでいた。

「奏太さんはやさしい人。だから私、後悔してないよ。永遠にこの場所にいても、幸せなの」

 嘘じゃない、と思った。
 泣き虫だった志穂さんは、すべてを受け入れている。

「それは俺が困る」

 ザッと砂埃を立てたクロがふたりに近寄った。

「案内人さん……」

 志穂の声に奏太が目を丸くした。

「案内人って?」
「あっちの世界に連れていってくれる人。私に早く未練解消をしろって言ってたのに、私はできなかった。ああ、そうだ。私の本当の未練って……なんだったのだろう」

 逡巡するように雨を見る志穂さんに、クロがふんと鼻を鳴らした。

「やっぱり忘れてたか。お前の未練は『笑い虫になる』だ」

 クロの言葉に、
「笑い虫? それってどういう意味?」
 私も会話に加わった。志穂さんが「ああ」と小さく笑う。

「ずっと泣き虫だって言われてたから。いつか、泣き虫じゃなくて笑い虫になりたいって思ってたの。それが最後の瞬間の願いなんて、最悪だよね。だってあんな状況で笑えるはずが……ない」

 奏太との出会いをきっかけに、自分のなかの未練を彼に置き換えていたんだ。

「ねえクロ、なんとかならないの?」

 スーツの(ひじ)を引っ張ると、
「ならん」
 あからさまに嫌な顔をするクロ。

「でも、地縛霊になるところをクロが助けてあげてたんでしょう?」
「知らん」

 プイと横を向くクロに、志穂さんがゆっくりうなずいた。

「案内人さんはやさしい人。私の邪気(じゃき)をたまに吸い取ってくれていたんです」
「お前は余計なことを……」

 くわっと歯を見せたクロが、あきらめたように腰に手を当てた。