彼はしばらく宙を見てから、ようやく私の疑問を理解したらしく、
「あっ!」
短く叫んだ。
「それは……その」
「さっきも同じことがあった。いったい、あなたたち誰なんですか? どうして私の名前を知っているの?」
さらに近づくと、彼は同じ幅であとずさりをする。
「違うんです。誤解なんです」
「どう誤解なのかちゃんと説明して」
一気に距離を詰める私に、彼は「ひい」と悲鳴をあげた。
「き、聞いてください。七海ちゃんは残念ながら亡くなってしまったのです。僕はそのことについて、アドバイスをしに来ただけなんです。あっ、痛い!」
最後の叫び声は、私が彼を思いっきり突き飛ばしたせい。
派手な音を響かせ、うしろ向きに倒れるのを確認してから一気に走った。
今日はいったいどういう日なの!?
必死で走りながら振り向くと、よたよたと男子が起きあがるところだった。
なんで見知らぬ人たちから名前で呼ばれなくちゃいけないのよ!?
ようやく家に着くと鍵を開けてなかに入った。
すぐにロックをし、チェーンもかける。
あとは……窓だ。
慌ててリビングへ向かうと、消し忘れたのか電気が煌々とついたまま。庭では、私の帰りを知った柴犬のハチがちぎれんばかりにしっぽを振っていた。
「ただいま」
窓を開け、庭へ靴下のままおりると、ハチの首輪につながれている紐を外し、家のなかへ招き入れる。
すぐに雨戸を閉め、窓にもしっかり鍵をかけた。
これで戸締まりは大丈夫なはず。
はあはあ、と息を吐く私にハチは久しぶりに入れてもらえた部屋のなかをキョロキョロ見回している。
雷がひどいときくらいしか入れないからうれしいのだろう。
ハチは私が幼いころから共に過ごした親友。
今年で十五歳、人間でいうともうおじいちゃんなのかも。
制服のままフローリングに座りこむ私にじゃれついてくる。
茶色の毛はおひさまのにおいがする。頭をなでると、私の前でごろんと寝転がりお腹を見せた。
「あのね、ハチ。おばあちゃんが亡くなったんだよ」
そう言っても彼には伝わらない。
ひとりっ子だった私はよくこうやってハチに話しかけていた。
「悲しいのに泣けないのはなんでだろうね」
なでてもらえないと理解したハチは、尻尾を振ってくるくる私の周りを歩きだす。
時計を見るともう夜の十時を過ぎている。
お父さんは直接病院へ向かったのだろう。
ああ、そうだ。お母さんに電話しなくちゃ。さっきの変な男性のことを伝え、お葬式の日程も聞いておかないと。
立ちあがると同時に軽いめまいがした。
全力で走ったからだろう、さっきよりも頭痛がひどくなっている。
そこでようやく通学バッグがないことに気づいた。
「あれ……」
そういえば、いつからバッグを持っていなかったのだろう。
病院にいるときにはもう、持っていなかった気がする。
まだ『遊んで』をやめないハチを置いてリビングを出た。
階段をあがりながらこめかみのあたりを押してみる。割れそうなほど痛む頭は、きっとショックが原因だろうな……。
部屋のドアを開け、電気をつけた。
おばあちゃんが亡くなったというのに、お葬式のことや自分の体調について考えている自分が嫌い。
机の横に投げ出されたままの通学バッグがあった。
一度帰ってから病院へ行ったんだっけ? 自分がした行動なのに、なんでこんなに思い出せないのだろう。
バッグからスマホを取り出す。とりあえずお母さんに連絡をしなくちゃ心配しているかもしれない。
が、スマホは充電が切れているらしく、どのボタンを押しても反応してくれない。
充電器ごと持って下におりると、落ち着いたらしくハチが窓辺に座っていた。
もう大丈夫かな……。
窓を開け、雨戸をハチが通れるくらいの高さまであげた。
「もう寝る時間だよ」
そう言うと、ハチは名残惜しそうに庭へおりた。
紐につなぐと、あきらめたのか素直に小屋に入っていく。
「おやすみ、ハチ」
戸締まりをしてからスマホを充電する。
家の電話からかければいいのだろうけれど、お母さんの携帯番号を覚えていない。
お母さんはすぐにキャリアを変えるクセがあり、去年あたりから番号を覚えるのをあきらめてしまった。今じゃ、スマホの電話帳に頼りっぱなしだ。
待ちきれずにスマホに電源を入れようとするけれど、うんともすんとも応えてくれない。
しょうがない。着替えている間に少しは充電がたまるだろう。
立ちあがろうとしたときだった。
玄関のドアがガチャガチャと音を立てたから思わず悲鳴が漏れそうになった。
誰かが鍵を開けようとしている!?
半腰で逃げる体勢を整えるけれど、あっけなくドアは開かれた。
「ただいま」
姿を現したのは、スーツ姿のお父さんだった。
仕事から帰ってきたのだろう、重そうな鞄を手にリビングに入ってきた。
一気に緊張が解けるとともにしゃがみこんでしまう。
「もう、驚かせないでよね」
そんなこと言われても困るだろうけれど、お父さんは意に介した様子もなくソファに腰をおろした。
「なんだ、電気つけっぱなしか」
ひとりごとのように口にするお父さん。
どうしよう……。
今度は違う意味の緊張に体が襲われる。
お父さんは、おばあちゃんが亡くなったことをまだ知らないんだ。
お母さんが連絡しているのかと思ったのに……。
「あの、お父さん」
声をかけてからキュッと口をつぐんだ。
なんて伝えればいいのだろう。
明るく楽しい話題ならいくらでも出てくるのに、いつだって肝心なことは言えない。
しゃがみこんだまま、意味もなくフローリングを指でさわる。
その間にお父さんは「ああ」と口にした。見ると通勤鞄からスマホを取り出したところだった。
私と同じで充電が切れてしまったらしく、キッチンカウンターに置いてある充電器にスマホをセットしている。
「お父さん、あのね、大変なの」
キッチンへ向かったお父さんは冷蔵庫を開けてなかを漁りだした。
ようやく違和感が生まれる。
「聞いてる? ね、お父さんってば」
どんどん血の気が引いていく。
お父さんはまるで私の声が聞こえていないようなそぶり、ううん、姿すら見えていないみたい。
さっきの病院でもそうだった。
事務室にいた看護師さんも私のことを……。
いや、そんなはずはない。
「ふざけている場合じゃないんだって。お父さん聞いて。ねえ、聞いてよ!」
壮大なドッキリ企画に巻きこまれているみたいな気分。それならどんなにいいか。そうであってほしい。
お父さんはビールを片手にソファに腰をおろすと、ネクタイを緩めている。
私を見ない。見てくれない。
「あれ……」
そして、気づく。
玄関の鍵を締めるときにチェーンも一緒にかけたはず。
なのにどうしてお父さんは家に入ってこられたの?
「お父さん……。お父さん!」
叫んでも声は届かず、お父さんはひょいとテレビのリモコンを持った。
テレビがつき、チャンネルを選んでいる。
どうして見えないの?
すぐ目の前に立っているのに、どうしてお父さんはテレビの画面が見えているの?
まるで自分が透明人間になったみたい。
「ねえ、お父さんってば!」
お父さんの肩をつかもうと手を伸ばした。
指先は肩に触れることなく体を通り抜けすとんと落ちた。
「嘘……でしょう?」
何度やっても同じ。
どんなに触れようとしても、お父さんの体に触れることができない。まるで空気をつかむかのように素通りしてしまう。
なにが……起きているの?
でも、さっきバッグやスマホには触れられたはず。充電しているスマホを持つと、すんなりと持ちあがった。
地面が揺れている気がしたけれど、それは私の体が震えているからだった。
混乱した頭に鋭い痛みが走り、スマホが手から逃げ出した。床で激しい音を立ててもなお、お父さんは気づかない。
再び違和感を覚えて顔をあげると、お父さんの隣にさっきの白服の男子が立っていた。
人はあまりにも驚きすぎると悲鳴すら出ないみたい。
「なんで、ここに、いる、の?」
からからに乾いた声で尋ねると、彼は叱られた子犬みたいに目を伏せた。
「七海ちゃん、ごめん」
「どうして?」
どうしてここにいるの? どうしてお父さんは私が見えないの? どうして触れられないの? どうして物には触れられるの?
たくさんの『どうして』を言葉にすることができない。
「ちゃんと説明させてほしいんだ」
ゆっくりとそう言いながら、男子が私に近づいてくる。混乱した頭でさっきのことが思い出された。
夜道で、この人を突き飛ばしたはず。
ということは、この人には触れられるってこと?
「七海ちゃん、あのね――痛い!」
思いっきり突き飛ばすと、あっけなく彼は床に転がった。
自分の両手を眺める。
たしかに手のひらに感覚があった。なのに、どうしてお父さんには触れられないの?
なにがなんだかわからないよ。
「出ていって。この家から出ていってよ!」
うめいている男子を飛び越えリビングを飛び出し、全速力で階段を駆けあがった。
私の部屋には電話の子機がある。そこから警察に電話をかけよう。警察が来るまでは部屋に鍵をかけて――。
ドアレバーを下げ急いで部屋に入ると、
「よお」
黒い服に身を包んだ男性がいた。
私の椅子に座り、長い足を組んでいるのは、さっき病院にいた人だ。
うしろからは「待ってぇ」と白い服の男子が駆けてくる。
「ああ……」
腰から力が抜け、絨毯の上にへなへなと座りこんでいた。
終わった。詰んだ。ゲームオーバー。
申し訳なさそうに私の横を通って、彼は黒服の男性の横に並んだ。
黒い服のクロ、白い服のシロ。そんな名前を頭に浮かべながら、不思議なことに事実を受け入れはじめている。
私は……死んでしまったの?
「そろそろ理解した、って顔だな」
椅子に腰をおろしたままのクロが思考を読むかのように言ったので、意地でも認めてやるもんかと首を横に振った。
「まだ、よくわからない。わからないよ」
強気な気持ちは風船がしぼむように消え、最後の言葉は弱々しく絨毯に落ちた。
「亡くなったのは、祖母じゃない。雨宮七海、お前なんだよ」
病院で言われたのと同じ言葉だ。
家のなかにいるのに口から白い息が漏れている。
寒くてたまらない……。
両手で体を抱きしめ、寒さと頭痛に耐える私に「よく聞け」とクロは続けた。感情のない平坦な声だと思った。
「これからお前には未練解消という作業をしてもらう。期限は、この世界で言うところの四十九日間。今が四月はじめだから五月末までとなる」
意味はわかっても思考が追いついていないらしく、言葉はするすると素通りしていく。こぼれ落ち、弾けて砕け、消えていく。
クロにも伝わったのだろう、「七海」と言った。
私は答えない。答えなくなんかない。意味なんて知りたくない!
「おい、聞いてんのか」
無視を続ける私に、
「もう少しやさしく説明をしてあげてください」
シロが言ってくれた。
二度も突き飛ばしたのにやさしい人なんだ。
ううん、人じゃないのかも……。
「うるさい。お前は口を挟むな」
「でも――」
「黙れ。消すぞ」
ぴしゃりと言ってからクロは私のそばに片膝をつき顔を寄せてきた。
「未練を解消しないと、お前は地縛霊になる」
「地縛霊……?」
「お、やっとしゃべった」
顔をあげるけれど、軽い口調とは裏腹にニコリともしていないクロ。
「地縛霊というのは、この世に執着し続け怨念になった魂のことだ。そうなるともう、俺には手を出せなくなる。永遠にさまよい、生きている人間に悪い影響を与え続けるんだ」
「わからない。言っていることがわからないよ」
「それはお前が拒否しているからだ。努力しないのに理解できるはずがない。上っ面だけで生きてきた七海らしいけどな」
その言葉にキッと顔をあげた。
「なにがわかるのよ」
「怒るのは心当たりがあるからだ。俺様くらいになると、お前の短い人生なんて一瞬で理解できる」
「嘘つき。もう放っておいてよ」
体ごと横を向くと、わざとらしいため息が聞こえた。
「そうやって逃げてばかりで苦しくないのか?」
「苦しくない」
そう、これまでもうまくやってきた。これからもうまく……。
そのときだった。
急にけたたましく電子音が響いた。見ると机の上に置かれた電話の子機が鳴っている。
すぐに音は消えた。下でお父さんが電話に出たのだろう。
「七海、ちゃんと集中しろ。いいか、お前は――」
「待って!」
そう言ったのは、悲鳴のような声が一階から聞こえたから。
瞬時に立ちあがりクロをよけて部屋を出た。
すごい足音を立てて、お父さんがリビングから飛び出てくる。靴を履こうとしてバランスを崩して壁に体をたたきつけた。
「お父さん!」
急いで階段をおりる足が、途中で勝手に止まっていた。
それは、
「ああ……」
お父さんが泣いていたから。
ずるずると上がりかまちに崩れ、お父さんは声を押し殺して泣いている。
「お父さん……?」
そばに行くけれどお父さんはうめき声をあげ、靴を履きなおしている。
「お父さん、私が見えないの? ここにいるんだよ?」
歯を食いしばり立ちあがったお父さんが、ドアを開けて外に出ていく。
目の前で鍵が外から閉められた。
ガチャンという音がやけに大きく聞こえた。
「これでわかっただろ? いい加減認めろ、お前は死んだんだよ」
ゆっくり振り返ると階段の途中にクロが立っていた。シロはいちばん上の段で、悲しげな瞳でこちらを見ている。
私、死んじゃったんだ……。
そう思うと同時に、常にかたわらにあった頭痛は波が引くように消えていった。
急に視界がクリアになったみたいで、照明がまぶしい。
「あなたたちは……誰なの?」
カラカラの喉で尋ねると、クロは肩をすくめた。
「俺は死んだ人間に未練解消をさせる役割を担っている。それが終わればあっちの世界に連れていく。いわば、案内人ってところだ」
「あっちの世界?」
「あっちの世界はあっちの世界だ。ほかに形容できない」
「天国ってこと?」
質問する私に「ハッ」とクロが鼻で笑ったのでムカッとしてしまう。
「天国とか地獄ってやつは人間が考えたものだろ。似ているようでまったく違う。まあ、間もなく行くんだから、自分の目でたしかめろ」
下までおりてくるとクロは両腕を組んだ。
彼が悪魔なら、シロは天使なのかな。だとしたら、二度も天使を突き飛ばしてしまっている。
私の視線を追ったクロが、「ああ」と肩をすくめた。
「そいつは部外者だ。俺とは関係ない」
「ひどいですよ、そんな言いかた」
慌てて階段を駆けおりてきたシロが文句を言う。
「別に間違ったことは言っていない」
「約束したじゃないですか。ちゃんと面倒を見てくれるって」
「そんな覚えはない」
「ひどい」
「お前はお荷物以外のなんでもないんだ。何度もそう言ったろ」
冷たく言い放つクロに、一瞬でシロの大きな瞳に涙が浮かんだから驚いてしまう。
みるみる涙はたまり、コップから水があふれるかのようにボロボロとこぼれ落ちた。
「だって僕は……僕は」
「ああ、また泣きやがって。泣くな! 泣かれると俺の査定に響くって説明しただろ!」
「だってだって……」
なにこの展開。
きょとんとする私に、
「もうわかった。わかったから!」
イライラを吹き飛ばすようにクロがゴホンと咳ばらいをした。
「こいつは見習いの新人だ」
「そうなんです。よろしくお願いいたします」
まだ涙にむせびながら頭を下げたシロに、思わずお辞儀を返してしまった。
「ふたりの名前はなんていうの?」
「名前なんてものはない。俺たちは案内人だ。管理番号がないことはないが、お前らの世界での言語では訳せない。よって、言っても意味がない。意味がないことを知る必要もないってわけだ」
「じゃあ……未練解消っていうのは?」
話をしているうちに徐々に気持ちが落ち着いていくのがわかった。
さっきまで感じていた寒さも、もうなかった。
「人間ってのは死ぬ直前に、心からの願いをする生き物らしい。未練解消ってのは、お前が最後に願ったことを自分の手でかなえることを意味する。その権利を行使してからあっちの世界へ行くんだ。こっちの世界に未練を残さないための儀式みたいなもんだ」
眉をひそめていたのだろう。シロが「つまりですね」と鼻声で言った。
「あっちの世界に通じるドアの鍵を見つける作業のことです」
わかりやすいように言ってくれたんだろうけれど、残念ながらもっと混乱してしまう。わかったフリでうなずいておいた。
「私の未練ってどんなことなの?」
「俺たちにわかるわけがない。なんたってお前の最後の願いだからな。自分で探し出し、それを解消するんだ。期限は四十九日。長いようであっという間に過ぎるから急げよ」
「そんなこと言われても……」
「未練解消の相手は、人間であるとは限らない。なかには『あの漫画の続きが見たかった』なんてやつもいる。さらに、未練はひとつとは限らない、本当の未練にたどりつくまでにはいくつもの未練解消をこなさなければならないこともある」
「そんなのわかるわけないよ」
文句を言うと、クロは肩をすくめた。
「だから急げと言っている。未練解消の相手、もしくは対象となる動物やら物の前に立つと、そいつの体は光るだろう。光っている間は、相手に姿を見せることができ、さわることだってできる。ただし、未練解消が終われば相手からは、お前に会った記憶は消えてしまう」
やっぱり話が急展開すぎてついていけていない。
でも、私の未練解消の相手はきっとお父さんとお母さんだろう。
「とにかく、やってみればいいんだね」
話をまとめる私にクロは片眉をピクンとあげた。なにか文句を言われるのかと構えたけれど、やがて「そういうことだ」と玄関のドアを開けた。
「どこへ行くの?」
「未練を探しに行くんだ」
当たり前のように言うクロ。シロも同じくうなずいている。
「でも、お父さんが……」
「わからないやつだな。両親の体は光っていなかった。つまり、お前の未練解消の相手は両親ではないってことだ」
ドン、とすごい衝撃にさらされた気がした。
「じゃあ、お父さんとお母さんにはもう……会えないの?」
「会うことはできるが、お前の姿は向こうからは見えない」
当たり前のように答えたクロをぼんやり見つめた。
お別れも言えずに、私はあの世へ行くの? まさか、そんなことないよね?
けれど、
「そういうことだ」
と、クロは言った。
「そんなの……ないよ。お父さんとお母さんに伝えたいことがたくさんある。だって家族だよ。ずっと一緒にいたのにさよならも言えないなんて、ひどすぎる」
「アホ」
たった二文字で片づけたクロがあきれた顔で振り向いた。なんて冷たい人なのだろう。
「簡単に自分の未練を見つけられると思うな」
「もう少しやさしくしてあげてください」
シロのフォローに舌打ちまでしている。
「俺は忙しいんだ。今、この町でもたくさんの人が亡くなっている。そいつらに同じ説明を何度もする身にもなれ。七海は自分でちゃんと未練を見つけて解消しろ」
「言ってることはわかる。うん……わかるよ。でも、お別れも言えないなんて、納得できない。そんなのあんまりだよ!」
「大きな声を出すな」
迷惑そうに耳を押さえるクロ。
「いいからお前はお前の未練解消をやれ。今すぐに、だ」
「……嫌」
「お前なあ」
怒った表情を浮かべたクロが、うなり声をあげて近づいてくるけれど、気持ちは変わらない。
お父さんにもお母さんにも、気持ちを伝えられないなんて納得できない。さっきは、とにかくやってみようと思ったけれど、それはお父さんとお母さんに別れを言えると思っていたから。それができないなら――。
「未練解消なんてしない。したくないよ!」
叫ぶと同時に靴も履かずに走りだしていた。
「待て!」
クロの声も聞こえないフリで急ぐ。
急ぐ、ってなにを急いでいるんだろう。
私はなにから逃げているんだろう。
途中ですれ違うサラリーマンも、コンビニから出てきた人も、誰も私に気づかない。それでも、暗い夜道を必死で走った。
駅裏にある公園に入ると、ようやく足を止められた。
ベンチに手をついて息を整える。こんなに苦しいのに、それでも私は死んでいるの?
はあはあ、とあえぎながらしびれた頭で空を見た。あっちの世界ってどこにあるんだろう。
未練解消をしてもしなくても、死んだことには変わりがない。
こんなこと、朝起きたときには予想もしていなかったのに、今ではもう自分が死んだことを受け入れているなんて……。
胸を押さえていると、なにか音が聞こえる。
――キイ……キイ……。
一定間隔で奏でられる金属音に目をやると、ブランコに誰かが座っているのが見えた。
小学生くらいの女の子だ。
ランドセルを背負ったままブランコで揺れている。こんな遅い時間にどうしたのだろう。
心配になるけれど足は動かない。それは、女の子の体から出ている〝なにか〟のせい。黒い炎のようなものがじりじりと体から湧き出ている。
普通じゃない、という判断は正しいだろう。改めて観察すると、遠くから見てもわかるくらい肌が青白い。
決して見つかってはいけない、と本能が教えている。
気づかれないようにそっとあとずさりをする。
「あれが地縛霊だ」
耳元でクロが言ったので、
「ひゃあ」
間の抜けた悲鳴をあげてしまった。
「静かにしろ」
視線を女の子に向けたままクロは低い声で言った。
「あいつは未練解消を拒否した。あの場所に永遠に縛りつけられてしまった魂だ」
「ずっとあの場所で……?」
逃げてきた相手のはずなのに、スーツの腕をつかんでしまう。うしろにシロもいるけれど、走ってきたせいで息も絶え絶えになっている。
「今はまだ大人しいが、そのうち近づく人間にとり憑こうとするだろう。そうなる前に消えてもらうがな」
「そうなんだ……。かわいそうに」
「かわいそう?」
とがめる言いかたに、ようやく彼の体から離れた。
「あんなに小さな子なんだよ。かわいそうじゃない」
「未練解消を拒否したから仕方ない。何度説明しても泣いてばっかりでどうしようもなかった。俺は悪くない」
ふん、と胸を張るクロ。ということは、彼が担当だったのだろう。
こういう人っているな、と思った。なにか問題が起きたときに自分の正当性をまず主張してくる人。
そして、私はそういう人にはなにか言ってしまう性格だ。
「それはクロの努力が足りなかったんだよ」
「――クロ?」
きょとんとするクロに人差し指を向ける。
「その見た目としゃべりかたで怖がらない人なんていない。いい? 人は見た目で判断する生き物なの。クロはもう少し接遇マナーを学ぶべきだよ」
「待て。クロってのは俺のことか?」
うしろでシロが「プッ」と噴き出している。
ギロッとひとにらみしてから、クロはふんと鼻を鳴らした。
「呼び名はなんでもいい。とにかく未練解消をしないと、お前もあの姿になるんだ。わかったな?」
「わからない」
「いい加減、自分が死んだことくらい認めろ」
「認めたくなんかないよ。だって、さっきまで生きてたんだよ。それなのにこんな状況、普通に受け入れられないよ。お父さんとお母さんと話ができないなんて、そんなの嫌」
気持ちは振り子のように揺れ動く。さっきは受け入れていたはずなのに、人から言われると認めたくない気持ちが大きくなる。
キュッと口を結ぶと、クロが私に近づくのが視界の端に見えた。
「それなら、なんでこれまでの間にちゃんと話をしなかった?」
「え?」
なんのこと?
固まる私に、これみよがしなため息が聞こえた。
「人間なんていつ死ぬかわからない。たとえば心臓発作が起きれば一瞬でこの世と別れなくちゃならん。毎日、一分一秒を大切にしてきたのか? 親にちゃんと気持ちを伝えてきたのか? 普段できていないくせに、最後だけやろうとするのが間違いなんだよ」
これまでと違い、クロはやけに静かな口調で尋ねてきた。
「毎日の生活のなかで、いちいち気持ちなんて伝えるほうがおかしいよ」
「結局、人間はタイムリミットが設定されないと素直に気持ちを言葉にできない生き物なんだ。だから、未練が残る。俺に言わせると怠慢、怠惰、エゴ、おろか者ってとこだ」
言葉に詰まるのは思い当たることがあるから。
でも、毎日感謝の言葉を言い続ける人なんているわけがない。
そんなの、私だけじゃなくみんなそういうものでしょう?
「言いたいことはわかるよ。でも、やっぱり未練解消なんてできない」
「お前はここまで俺が親切に説明してるのに……」
「そもそもなんで私は死んだの? なにがあったの?」
思い出そうとしても記憶がごちゃごちゃになっている。覚えているのは夕焼けの景色だけ。そのあとは病院にいたわけだし……。
自分が死んだ原因もわからないのに、未練解消なんてしたくない。
「じゃあ勝手にしろ」
「勝手にする」
プイと歩きだす私に、
「七海ちゃん待って!」
シロの声が追いかけてくる。
「お願いだからクロさんの言うことを聞いてください」
「お前までクロって呼ぶな!」
クロが恫喝しても私は足を止めない。嫌だ。絶対に未練解消なんてしない。
シロが私の前に立ちふさがり両手を広げた。彼の白い服の裾がスカートみたいに風にひらめている。
「どいてよ」
「どかない。だって、ちゃんと未練を解消してほしいから」
まっすぐに私を見るシロの目からまた涙があふれている。夜の暗闇でもわかるくらいに大粒の涙がぼとぼと落ちている。
「どうして……泣くの?」
「僕は、未練解消のことはまだわかりません」
「新人だからな」
茶化すようにクロが言うと、シロはまた涙に顔をゆがめた。
「でも、ちゃんと七海ちゃんには未練解消をして旅立ってほしい。そうじゃないと、地縛霊になっちゃう」
「別にいいよ。死んでしまったなら関係ないでしょ」
「違うよ。全然違う。地縛霊になって、お父さんやお母さんに悪い影響を与えてもいいの?」
「悪い影響?」
「そうだよ。ふたりに憑りついたり、悪い出来事をもたらしたりするかもしれないんです」
そっか……、私が地縛霊になったらふたりに迷惑がかかってしまうんだ。
「それは……嫌かも」
張り詰めた空気が緩む。
「クロさんも、ちゃんと未練解消をさせるって約束したじゃないですか」
「だからクロって呼ぶな! いいか、見習い、よく聞け。これは慈善事業じゃない。俺は仕事としてやっているし、情なんて感情は、何百年も前に捨てたんだ」
「でも……」
「うるさい。消すぞ」
「僕はどうなってもいいんです。でもこれ以上、七海ちゃんを苦じませないでぐだばい」
涙でなにを言っているのかわからない。けれど、シロがやさしいことはわかった。それなのに……。
クロをじとーっとにらむと、バツが悪そうな顔に変わった。
「……んだよ。俺が悪者かよ」
「そうじゃない」
気づけばそう言っていた。
「クロが悪いわけじゃない。だけど、非日常すぎて頭がついていかないの」
涙が出れば少しはラクになるのかな。こんなときなのに泣けないなんて、きっと生きているときから感情のバランスがおかしかったんだ。
未練解消なんてしたくないのは変わらない。
でも、お父さんとお母さんが苦しむのは嫌だ。
どっちにしても私が死んじゃったことに変わりがないなら、できることをしなくちゃ……。