手で握りつぶされたレシピが地面に落とされる。
 たった一枚の紙だったかもしれない。
 でもそこには、佐保さんのアドバイスから自分なりに調査と試作をしてきた今までの時間と、この店で費やしてきた努力が詰め込まれていた。
 今日まで何度も繰り返して書き直してきたこのレシピは、誰が何を言おうが私のオリジナルだ。

 「盗んでなんかいない。」
 でも一方的に怒鳴りつけてくる田辺さんの威圧感が恐ろしくて、全てを否定された私は言い返せない。

 なんて理不尽な世界だろう。
 こんなことになるなら、レシピ作成なんて引き受けなきゃよかった!
 
 ――『じゃあ、いっそのこと死んじゃおっか?』

 ふと、耳元で声が聞こえた。
 夢で会った、金髪の変な笑い方をする少年の声。
 それはまるで悪魔の囁きのようで、道連れを促すように、私の首に冷たい指が触れている。

 こんな幻聴が聞こえてしまうほど、私の精神力はギリギリの状態だった。

 それでも私は、「死んだら何も得られない」ことを知っている。

「……盗んでいま、せん」

 不気味に嗤う田辺さんに、震えた声で言う。
 
 言い返すのが怖かった。お荷物だと自覚していても、認めるのが怖かった。

 でも今言わなかったら、私はきっと死ぬ間際に絶対後悔する。

「私は、自分のことしか考えない、クソッタレ料理人のレシピに手を出したりなんかしません!」
 
 言った。ついに言ってしまった。
 上司に暴言を吐いたのを店長の佐保さんにまで見られた。

 私がここまで言うとは思っていなかったのか、田辺さんは大きな口を開けて驚いていた。
 しかし、すぐに舌打ちをして私を睨みつけると、いきなり胸倉を掴んできた。

「ふざけんな……! お前、誰に向かって口を聞いて――」

 あ、ヤバイ。

 腕を振り上げた寸前のところで、突然田辺さんの動きが止まった。

 見れば田辺さんの腕を、井浦さんがしっかりと掴んでいた。
 腕の太さが違うのに、片手で動きを止めている。田辺さんが振り払おうとしても動く気配はない。

「はい、落ち着きましょうねー。……ほら、大注目されてますよ?」

 井浦さんの視線の先にはと、ガラスの向こうで食事をしている老夫婦が不思議そうにこちらを見ていた。
 確か店内の雰囲気を気に入ってくれた常連のお客様で、田辺さんも顔見知りのはずだ。