朝が来ても、心は晴れなかった。
恵那に会えない。会いたくない。嫌い。
夜明けと共に目を覚ましたけど、ダルくてベッドから起き上がれない。
…ヤダなー
グズグズしているうちに、お母さんの元気な声で起こされた。
「おはよう!。伊織。……今日、休む!?。」
-いきなり“休む?”なんだ。-
「イヤ…行く。起きる。」
「支度して。千里が送って行くって。」
「……うん。」
身支度を整えて下に降りると、千里兄さんが優雅にコーヒーを飲んでいた。
-優雅だな……。-
「伊織、ご飯食べて。今日はフレンチトーストにしてみたよ。」
気を使ってくれるお母さんの朝食にも胸のつかえが悲しい。
テーブルに向かうも手が出ない。
ちらりと兄を見ると、ため息をついた兄が
「その髪はダメだな。顔がダメ。」
の一言が私に刺さった。
「ひどくないですか……お兄さま。」
ちょっとだけ…笑顔をみせた。
その言葉に兄は笑みを浮かべ、
―仕方ないなぁ。―
と、兄自ら私の髪を結い直してくれた。
緩く。
目尻に残る泣き跡を軽く隠すように、前髪を下ろして。
美容師でも無いのに。
「さあ、出来た。“今日の”伊織は可愛いよ。
再来週にはまた出るからね。しばらく戻らないよ?。
……だから、サービス。」
-“今日”限定なんだ…-
「また…いないの?」
「寂しくなる?」
「…大丈夫。なんとかするから。なんとかなるよ。…大丈夫。
帰って来たら、何か買って。頑張ったご褒美に……。」
「何を?」
「……お菓子。ポッキー食べたい。
“彼女に”でなくて、私だけに。」
「はあ?。何で彼女?
…佐里衣《さりい》に何か言われたのか?」
「…言われない。千里兄さんより優しいし…気にかけてくれるもん…。」
本当は、千里兄さんの彼女の存在がイヤで……
口唇を噛んだ。
兄さん達は誕生日がきたら26になる。彼女がいてもおかしくない。
…さらさらのショートストレート、可愛い二重がイヤ。
しかも、2才上で士官の才女。
自分があって、しなやか。
私に対しても、正直で優しいひと。
……自分の全部がダメに思える……。
何かと気にかけてくれるし、
時々、食事や買い物にも連れて行ってくれて…
2人きりの時、言われた言葉。
-伊織ちゃんは、自分を否定し過ぎる。
もっと自分に自信を持って堂々とするべき。
あなたにはあなたの良さが沢山あるから。
だから、他人と比べて自分を貶めるのはやめなさい。
貴女は、自分が思うよりとても沢山の色があるから。
千里も私も、伊織ちゃんから目を離すことができない。色々な貴女を見てみたいって思ってしまうのよ…何故かね。不思議。-
-…私は不思議ちゃんだもん。-
俯いて、ため息をつく私に…兄は、
「…伊織、食べないのか?」
「……要らない。」
「薬飲みたければ、食べなさい。薬、取り上げるよ!」
「イヤです。」
「食べるの!。」
「……吐くもん。」
「ダメ。吐いても食べて。」
「……。」
兄との押し問答の末、薬の為の少量を無理矢理口の中へ放り込んだ。
痛み止めの薬も。
「じゃあ、行くよ。」
-えっ?早くない?-
「……うん。」
「やっぱり、イヤなんじゃないの?。」
「行く。負けた気がするから……行く。」
「また、そんな事言って!。」
何も言わずにいてくれた、お母さんだったけど、
「お弁当は絶対に!!食べなさいよ。」
と、渡されたお弁当は…。
「何か?……いつもより重くない?」
「気のせいよ。
……あと、これを。借りたんでしょ?。お礼を言ってね?。」
と、意地悪な顔をされた。
……アイロンがけされた、ハンカチ。
しかも…2枚。
先輩から借りたハンカチ。
いつもよりかなり早く自宅を出た。
「…ねえ?千里兄さん、何で今日は早く出たの?」
この時間に車で送られると、電車登校の生徒よりかなり早く着く事になる。
多分…一番乗りか、部活の早朝練習のある生徒がいるかいないか?。
「あぁ、色々あってね…。
それと、今日は迎えに行くからね。
電車に乗らないで、学校で待っているんだよ。
連絡もいらない。
…部活は、ダメだ。」
私は、ギョッとして兄を見つめた。
「……。」
「……と言っても、言う事聞かないし。
だから、倒れない程度にバレーしておいで。
せっかくレギュラーになったんだから。自己管理も仕事のウチだよ。」
「えっ?……。」
「あのね、知ってるよ。全部。
倒れた事も。逃げた事も。
昨日の先輩の事も…。」
意地悪そうに私を睨みつけた兄に…狼狽えた。
「……。」
…先輩の事。どうしよう?。
昨日の言葉は、本当の事?。嘘なの?。
何も考えられなくて…
誰にも相談できない。
どうしよう。会えない。
何も言えなかった。
苦しい。
大丈夫って言い聞かせて…。黙り込んでいた。
見慣れた景色。
知っている道。
太陽はもう優しく差している。
暖かくていい時期なのに、私の気持ちは肌寒い土砂降りみたいだった。
苦しい。
「…伊織、着いたよ。」
「うん……。」
兄さんは、ハンドルに少し寄りかかって俯いている私の顔を見た。
「ねぇ、伊織。覚悟を決めなさい。いつまでも揺れてないで。
1人でも立ち上がらなければいけないよ。
いつまでも子供のままじゃいられないんだ。
俺は、いつまでも伊織の側にいられないんだ。
苦しくても立ち上がらなければ……。
崩れそうな時は、共に苦しんでくれる大切な人を頼るんだ。
友達を大切にしなさい。
母さんも、万里も…いつまでも変わらず伊織の側にはいられない。
いつかは、離れる。別れる。分かるね?」
突然、大人の千里で話しかけられ、悲しかった。
あぁ…兄さんは、結婚するんだな。って思った。
そうでなくても、任務があれば……どうなるかわからない。
自分から手を離さなければいけない時期になったんだと、痛感した。
前を向いて、顔を上げて。
1人で立ち上がらなきゃいけないんだ。
自信が無くて…涙がポトポト落ちる。声は掠れていた
「だ…大丈夫。立っていられるよ。でも……千里兄さん……まだ少し時間あるんでしょ…?。」
「まだまだ…先かな。
伊織が頑張っていられるのを確認してからだよ。
今から練習して。
何回も失敗してもいいよ?。まだ俺達、側にいるから。」
「う……うん…。」
「ほら、見て。海里君が待ってるよ。
今は、彼に頼って。頼ってみて。勇気を出して!彼を信じて。
彼。勇気あるよね?。伊織を好きだって言うんだよ?。
俺達に。命知らずだよね??。
…まだ少し、俺達は伊織の側にいるからさ。
振られたら裏切られたら……絶対教えるんだよ。
殴りに行ってあげるからね。」
兄さんは、意地悪な微笑みを私に向けて
―さぁ、行って。
また、迎えに来るから。―
千里兄さんは私を降ろすと、走って側に来た宗馬先輩に軽く手を振って、
“じゃぁね。”と、車を走らせ帰って行った。
千里兄さんが"海里君"と言った時、兄さんは先輩と話をしたんだな。
単純にそう思った。
先輩は私の顔を覗き込み、
『おはよう。ニーナ。
今日……!?。また泣いてるの?朝だよ?』
少し間が空いて、“ねえ、課題しない?”と、声がかかった。
「えっ?。イヤ。勉強キライ。」
『ええっ??』
突然の“課題しない?”に涙は消えた。
-勉強なんてイヤ過ぎる。-
「あの…先輩……バレー…しませんか?」
-逃げたい。-
『……ダメ。俺、課題終わってないんだ。側にいてよ。』
むぅって顔をした私に、ため息をついて、
『時間も早いし早く終わらそう。ニーナ?課題は?』
「普通科はありません。普通だから……。」
『……またそんな事言って!逃げたらダメ。』
「……。」
『さあ!行こう。』
私の手を取り少し走って玄関に向かった。
生徒玄関で靴を履き替えて
…先輩の姿が見えないのを確認してから教室に逃げようとした私を…
先輩は、
『待って!逃がしません。』
と、左手を引かれた。
『ニーナは逃げ足が速いから……。
逃げられたら、俺…追い付けないんだ。だから。ダメ。』
先輩は私をズルズルと引きずるように歩きはじめた。
「ヤです先輩!。そっちは中庭です。
教室から見えるし…
それに…だって……噂になります!。」
『……どんな?』
真っ直ぐに私を見つめた先輩の視線にあわてて俯いた。
「どんな?って…。」
校舎の中は声が響く。
先輩は私の手を引き歩きだした。
『ねえニーナ。
俺さ、昨日言ったよね?
付き合おうって。
俺、ニーナが好きだよ。
だから……一緒にいようよ。
……噂になったっていいもん。
学校中、付き合っている子達いっぱいいるじゃん。そんなのばっかじゃん!。』
恵那も…その内の1人だけど。
「……。」
-だだっ子の言い分だな-。って思った
『答えを…今日中に頂戴。
ニーナ。…逃げないで、答えを言って。』
「……。」
-やっぱり中庭…-
ん?先輩、なんて言った?
「…えっっ、今日!?。」
『今日っ!!・いまっ!!』
……そんな。
『ニーナは、こっち。』
中庭の四阿のベンチに座り、向かい合った。
逃げようと思えば逃げられる。間にはテーブルがあるから。
でも、
逃げたら負ける気がした。何となく…。
「……」
『ねぇ、手を出して?』
「……。」
『お願い。』
嫌では無かったけれど、迷った。
本当に逃げられなくなる。そう思った。
右手をそっとテーブルにのせると、
『左手も出して?。右側は、痛いから手を緩めると逃げられちゃう。』
……逃げられなくなる!。
頭で分かっていても、心が…手が…言う事をきいてくれない。
そろそろと差し出した両手は先輩の掌に掴まれた。
あれ?噛み跡?…昨日、私が噛みついた跡?もしかして…。
『ねぇ、ニーナ。
断られても、また明日…俺は、同じ事を言うよ。
付き合おう。好きだから。って。
うん。って返事もらうまで毎日言うから。
毎朝、校門で待ってるから!!。』
「えぇっ!」
噛み跡に意識がいっていた私は、先輩の言葉に顔を上げた。
「あ……明日は土曜日です。明後日は日曜日です。
休みの日はどうするんですか!?。 」
『明日は学校があるでしょ?。
休みの日は、図書館で勉強するの。
もちろん、迎えに行くよ。
ニーナの家から図書館近いでしょ?。
毎日会うもん。』
「イヤです。図書館なんて!?。」
『じゃぁ。何処にする?。
俺、受験生なんだけど。
ニーナも一緒に勉強すれば、成績上がるよ。』
「……。」
『ねぇ、ニーナ。答えを頂戴?』
「……。」
どうしたらいいの?
『ニーナ。お願い!!
もう…これ以上、好きって言わせないで。
本当は恥ずかしいんだ。
……どうせ、今日はもう噂になってるんだ。』
「!?」
『…昨日の事を見ていたヤツもいるんだよ。
無かった事にしないで。』
「!?」
『第一、ニーナ言ったじゃん。ここは、教室から丸見えだ。って。
みんな来れば見えるじゃん。
俺は、噂になってもいいんだ。』
「!!
しつこい人はイヤです!!。」
『しつこくしなきゃ逃げちゃうじゃん!?
捕まえなきゃ、無かった事にしてしまうでしょ?。』
「……。」
『……。』
「先輩、私と付き合ったら兄に殴られますよ。」
『ヤだよ!何で!?』
「先輩。私…好きになったらどうなっちゃうの?。
好きは分からなくても、恋しい、寂しいは知っているんです!。
先輩、受験生って言ってたじゃないですか?
先にいなくなって、会えなくて。
置いていかれる者の気持ちなんて考えて無いじゃない!
兄は、振られたら教えて。って言ったんです。
置いていかれるっていう事は、振られるって事と一緒です。
大丈夫じゃない!寂しい!
暖かい手も、声も、遠くにいたら分かんない!!
私は……私が言わなくても、兄達は私の行動を知っているから…。
私は…面倒なんです。
振られるの前提で付き合うのはイヤです。
来る別れのために好きになるのは…」
『……ニーナ! 止めて!。
先なんて誰にも分からないよ。
ニーナ、昨日の醜態以上の面倒ってあるの?。
万里さん、あれほど取り乱すのは、最近無かったって言ってたよ。
来るかもしれない別れに取り乱すのはダメだよ。
ニーナが寂しく思うなら、同じ思いを俺もするんだ。
会えなくなるわけじゃない。
何でそんなに怖がるの?。
何で今からそれに怯えるの?。
俺は、俺は……それでもいいんだ。
殴られてもいいよ。
殴られないようにするもん。
だから、一緒にいようよ!。
そんなニーナでも好きなんだ!。今、一緒にいたいんだ!。』
「……。」
-先輩が今、取り乱していますよ…。-
むぅぅっとした表情をしていたんだろう。私の顔を見て、
『もー!?何度も言わせないで!。お願いだから。恥ずかしいんだ。
必死過ぎて倒れそうだよ?。
なんで……なんでニーナが…そんなに冷静なの?。』
「……先輩…考える時間はダメですか?。」
-…何度も言わなきゃいいじゃん!!-
『ダメ。嫌。』
「なんで?」
『だから……言ったじゃん。
何も聞いて無いの?それとも、記憶喪失なの?』
「……。」
『……。』
睨み合いみたいになってしまった。
信じる事が怖い。
裏切られた喪失感が怖い。
したことの無い恋愛が怖い。
失望されるのが怖い。
得られる幸福も大きいだろうと思う。でも、失う事の恐怖のほうが大きい。
そんな事を考えているうちに先輩は、
『ねえ、課題しない?していい?
あと1時間は余裕にあるし、すぐに終わるから。
それに、昨日寝てないんだ。眠れなかったんだ……。
お願い。側にいてよ。ニーナ。』
時計を見上げると、
そろそろ朝練がある部活は登校する時間になる。
私達は長く話したように感じただけで、それほど時は進んでいない。
言葉が出なくて、頷いた。
何でうなずいたの?私。
『…手を離すけど、どこにも行かないでね。…約束して!。』
「…行かない。」
先輩はそっと手を離し、にっこりと笑って “絶対だよ。”って小さく言った。
-あっ。笑った。-
必死さを見せた先輩。
私に対して執着心をあからさまに見せてくる人なんていなかった。
何で私に執着するの?。逃げるから?。
男の人って"逃げると追いたくなる"って本当?
自分の気持ちが分からない。
私は?。先輩の事どう思っている?
今…一瞬、一緒にいてもいいかな?って思った。
…心のどこかに。
こんなに想われているなら…って考えている私もいる。
優越感。
-嫌な女!-
飽きられたらどうしよう。
思っていたのと違った。と、言われたらどうしよう。
もう、好きじゃない。って言われたら?
怖いよ。
信じるのってそんなに容易い事じゃない!!
そんな事を考えながらしばらくの間、課題をしている先輩を見つめていた。
風が吹いて揺れている前髪。
前髪の間から見える瞳は、奥二重。
カッコいい。って言うより、可愛いほうが近い面差し。
鼻筋も通っている。
やっぱり、どことなく。睦さんと似ている。
涼やかな顔。優しい風みたい。
先輩の真面目な顔。
驚いてびくびくしている表情。
必死さ。
困った顔。
何で分かってくれないの?っていう怒った表情。
……そんなのしか見てない。
先輩は睦さんの弟。
…宗馬家の子。
あの時の男の子。
全然違う。あの時と全然違う。
優しい。一生懸命…。こんな人だったっけ?。
違う人みたい。
何で…バレーボール辞めちゃったの?。
なんだか、そんなのどうでもよくて。
今、私は…
私だけに。私だけが知っている先輩の笑顔が見たい。
見てみたい。
今、何となく……。
- “先輩?私に笑顔を見せて。私だけに向ける笑顔を見せて。” -
自然に。そう思った。
-どうしたの?私!!。おかしい。-
「……先輩は、モテますね。」
顔を上げて驚いている表情の先輩。
『はぁ?何?急に??。
…そんな事ないよ。
俺、告白したことないもん。』
「でも、された事あるでしょ?」
『……。』
「沈黙は是なりです。」
昨日先輩に言われた言葉を返した。
先輩はちらっと私を見て、
“もう!” って小さく言って笑った。
『ニーナから言われなきゃ意味ないよ。そんなの。
他の人からは要らない。』
…少し嬉しかった。
-何で?私。-
中庭に日が差し込んで暖かくなってきた。
土の匂い。若葉の匂い。少しだけ暖かい風が吹き抜ける。
兄さんが結ってくれた髪が風でふんわりと揺れる。
手を止めた先輩が柔らかく言った。
『髪型…似合うね。
風と遊んでるみたい。
昨日の…その……泣き跡を上手に隠してある。』
「……千里兄さんが結ってくれたんです。
いつも通りに結って…。
朝、自分で結ったらブサイクだっていわれました。」
『千里さんが!?』
「似合いますか?」
『…可愛いよ。』
小さく聞こえた声に、嬉しくなった。不思議。
合った目が嬉しかった。
どうしてだろう。雨上がりの虹みたいに嬉しい。
思わずにっこりしてしまった。
「嬉しい。」
そんな言葉も自然に言えた。
-これが好きって事?…分からない?。-
先輩は課題に視線を戻し問題を解きながら言った。
伏せがちの目元も、耳も赤い。
『ねぇ、ニーナ…。
返事をもらえないかな?
俺じゃダメ?
…昨日も言ったけど、ニーナが俺の事…好きじゃなくても良いから。
少しづつ俺を好きになって。
一緒にいる事で見える景色もあるよ。
先の事は分からない。
続くかもしれない。ダメになるかもしれない。
でも。今なんだ。俺にとって今が1番なんだ。今、諦めたら後悔する。諦めたくない。
一緒にいたい。笑いたい。同じ時間を…今みたいに共有したい。
俺は今、踏ん張らないと…ずっと色々な事を諦め続けて生きていく気がする。
負けた気がする。負けたくないんだ。
だから……』
「……。」
一緒にいてもいいかな。って思った。
私、先輩の事少し好きになっているのかもしれない。
これが好きという事なの?
でも…
宗馬の血筋…。
恵那に対しての対抗心?復讐…?そんな意地悪な心が…気持ちが…。
悪魔に魂を売ったら、楽になる?。…私は何をしたいのだろう。
純粋な心でなくてもいい?
くるくると変わる自分の感情に対して正直、戸惑っていた。
先輩は後悔しない??
本当に一緒にいたいの?。
ねぇ、千里兄さん。
"勇気を出して!彼を信じて。"
その言葉信じていいの?。
…兄さんは。知らない。お兄ちゃんも。
でも。
逃げられない何かが。私を捕まえていて。
…なんだろう?。
逆らう事ができない。
『…ニーナ。一緒にいて。』
顔を上げない先輩。
少しだけ震えている指先。
問題を解いていないシャーペン。
さっきまでの涼やかな視線は、目を閉じたまま。
「…先輩?私を見て。」
ハッとした先輩と目が合った。
『えっ?』
「先輩。右手。ごめんなさい。噛みついて。まだ跡が残ってる。ごめんなさい。」
『………何とか記念だね。』
「…先輩?私と一緒にいると後悔のほうが多くなりますよ。」
『…いいよ。』
「先輩?私、ワガママなんです。」
『知ってる。』
「先輩?私ね。怖いんです。好きになってもらうって未知なんです。」
『昨日、聞こえたよ。』
「先輩?私に正直でいてくれる?」
『…うん。』
「先輩?昨日みたいになっても、嫌いにならない?。」
『あれ以上に酷い醜態はあるの?』
“むぅ”って顔をした。
「……今ので、先輩を嫌いになりました。」
『ニーナも酷いじゃん。俺、倒れそうな位“好き”を繰り返したよ?。』
先輩はクスクス笑った。
「ねぇ、先輩。
みんなの前で、私の事…彼女だって紹介できる?
みんなの前で、私の事…私の事、好きだって言える?」
『……。』
「考えててる!!」
『待って!。お願い!恥ずかしいんだ!!本当は!。
必要な時は必ず言うから!!許して!!』
「ごめんね。先輩。
私、どう返事したらいいのか分からない。
うん。って言うのが怖い!。」
『……恐れていたら前に進めなくなるよ。嫌でも逃げられない事が多くある。
一緒だったら、越えられるよ。
だから、俺と一緒にいようよ。ニーナが好きだよ。
お願いだから、うん。って言って??。』
先輩と目を合わせながら、そらさず、一つづつ聞いていった。
途中、涙が出そうになっても、先輩の答えに笑ったり怒ったりした。
多分、これは先輩がした私への配慮。…泣かないように。
沢山の好きを聞いた。
沢山の好きをもらった。
あとは。
私が先輩を、信じるか?信じないか?。踏み出すか?踏み出さないか?。
千里兄さんが言った。
"ほら、見て。海里君が待ってるよ。
今は、彼に頼って。頼ってみて。勇気を出して!彼を信じて。
彼。勇気あるよね?。伊織を好きだって言うんだよ?。
俺達に…。命知らずだよね。"
- 命は、大事です。千里兄さん。-
風が吹く。緩く…さらさらと音がする。
…本当はまだ迷ってる。怖い。
でも…
私は。
今。
先輩の笑顔を見ていたい。踏み出してみよう。転んでもいいや。
いつまでも、こんな私はイヤ。変わりたい。だから…
無意識のうちに私は、
先輩のシャーペンを握っている手に、自分の手を伸ばし重ねてた。
「…先輩?私、“うん。”って言っていいの?。大丈夫?。心配なんだけど?。」
先輩の表情は、驚いた顔から嬉しそうな笑顔に変わった。
…少し涙目。
シャーペンを投げて、私の手を掴んだ。
『捕まえた!!
やっと捕まえた!!。』
「せ、先輩?。“うん。”って、まだ言ってないですよ?。」
『えぇぇっ!?。了承でしょ?』
先輩の笑顔は優しい風のようだと思った。
「待って。先輩、聞いて。もう一つ聞いて。
誰にも言わないで。
私は、先輩に“正直でいて。”ってお願いした。」
『…そうだね。』
怪訝そうな顔をした先輩。知って欲しかった。
「その…だから、私の本当の私も知って。
私の心の中にある、イヤな女の本音。正直な気持ち。
それを知ってて、それでも、それでも私でいいなら…手を離さないで。
イヤなら…手を離して。今ならまだ、その…間に合うから…。」
『…。』
握られた手が冷えてくる。震える。
離してほしくない。
「恵那と仲良くしないで!。
私、恵那が嫌い。許せないの。イヤなの!!。
私は、イヤな女なんです。最低なんです。」
驚いた顔をした先輩。少し曇った表情。
迷っている。
離れるかと思った暖かい手。
『……離さないよ。』
何かを決めた表情だった。
「…ごめんなさい。」
『いいんだ。やっと捕まえたんだ。』
掴んだ先輩の手が…。
私の手をつかむ先輩の手に力が入った気がした。
『ニーナ、好きだよ。付き合って。』
「……」
『ニーナ。"うん"って言って。』
「……」
『お願い。ニーナ。』
「……うん。」
言葉になっただろうか?聞こえた?
頷いただけかもしれない。
『本当に!?。
捕まえた!ニーナ!!』
「……」
先輩…
お願い。繋いだ手を離さないで。
「先輩?もう一つお願い。」
『まだあるの!?』
「もう、時間が…教室にみんないるかも…。」
『えぇぇっ!?』
慌てて腕時計を見た先輩。
『まだ時間あるでしょ!?嘘つき!。 』
「だって恥ずかしいんだもん。
でも教室に何人かいるはずです。多分、見られてるかもしれません。」
『別にいいもん。』
「…ねぇ、先輩。
教室に戻って、聞かれたら…正直に言っていいですか?“付き合ってる”って。」
私は恵那とは違う。
違うやり方で堂々としていたい。
間違った事?違う。
こそこそなんて、しない!!
恵那。貴女のように!。
……恵那への…牽制。
間違っているかもしれない。
そんな裏面のある私。ごめんなさい。先輩。
『いいよ。俺も言うよ。いいんだね?ニーナ。
"うん。"って言ったよね?。』
頷くだけで…いい?
私の苦笑いで、“了”として欲しい。
お互いに穏やかに笑い合ったと思う。
そんな朝のやり取りが、冷静になると恥ずかしくて…風が吹く方向に顔を向けた時…
渡り廊下の窓ガラスに恵那の姿が見えた。
「先輩?、もう多分?逃げないから、クラスに戻っていいですか?。」
『はぁ?多分なの!?。嘘つき!。』
私は急いで立ち上がり先輩の手を離し、カバンを持ち上げた。
「先輩?私は嘘なんてつきません。
もう覚悟を決めたし、頑張って…立ち上がらないと…。
顔を上げないとダメなんです。
約束したんです。
頑張るって。大丈夫だって。
多分というのは、
…"先輩が"、私を、怒らせたら。
…"私が"、先輩を、怒らせてしまったら。
そし……」
渡り廊下を再び振り返った私に…
『ニーナ?』
…声をかけられて視線を戻すと、
心配そうな顔をしている先輩が…。
「どうしてそんな心配そうな顔をするの?先輩?。
大丈夫じゃなくても、大丈夫にしないと、先輩の隣にいられない。
でも…今は…」
自分でも何を言っているのか分からない。
パニックになりそう。
『伊織…。』
名前を呼ばれて掴まれた手に
驚いた。
先輩が名前で呼ぶなんて…。
…狼狽えた。
後ろから声が聞こえた。
「イオ…。」
ビクッとした。
聞きたくなかった声。
振り向いた私の顔は、怒りなのか哀しみなのか…憎しみの表情だったかもしれない。
「嫌!!」
「イオ!!」
『ニーナ!!』
先輩の手を振り払って体育館側の出入り口から、校舎の方へ走り抜けた。
生徒玄関まで行くと、少し賑やかになった玄関に安心した。
…このまま、教室に行こう。
それからは地獄のような時間だった。
さっきの穏やかな時間なんて嘘みたい…。
教室から見えた中庭での私と先輩の理由に、驚きと黄色い声。
私の表情と髪型から読み取れる恵那との距離。
羨望と嫉妬。同情や侮蔑。
これ見よがしに恵那に近づくクラスメイト。
そして、逆に私に近づくクラスメイト。
苦しくて悲しくて。逃げたかった。
一時間。二時限と遣り過ごしていた。
恵那以外のクラスメイトとはそれなりの友達付き合いしかしてこなかったから…
本当に親身になってくれる友人が…分からない。
“何故?恵那と一緒にいないのか?”
“どうやって先輩とそういう関係に"なれた"のか?”
そんな話ばかり。
泣き腫らした瞳の恵那。
-…泣いたもん勝ちだな?
…私に言えなかった“大好きな”彼に助けてもらえば?-
そんな酷い言葉も出そうになる。
親友だと思っていたのは私だけ。勘違いのバカ。
私は…絶対泣かない。同情なんていらない。
我慢じゃなくて…意地だった。
いつか崩れるって分かってても。
どうせ引き立て役。伝書鳩。もう、どうでもいい…。
埜々香の教室に行こうかと考えても。
逃げるみたいで。
足が向かなかった。
好奇と憶測。
本当の真実なんて、私も知らない。
ただ、私が知っている真実は、恵那とテニス部の先輩が一緒にいた場面。
半年前から一緒にいる。って言った埜々香の言葉。
知らなければいけないと思う。
でも、知る勇気がない。怖い。もし、私が間違っていたら?。
冷静になればなるほど、怖いと思う。真実を知る事が怖い。
狂えば楽になるのに。泣いて、なじって被害者ヅラできるのに。
休み時間を何とか遣り過ごそうと廊下に出ると、恵那の彼?が教室に来た。
昨日見たテニス部の先輩。
「恵那さんいる?」
ざわざわした雰囲気の中に響く彼氏の声。
今までそんな事無かったし、そんな話知らなかったクラスメイトは、また黄色い声を上げて恵那を呼んでいる。
“恵那ちゃん。恵那ちゃん。彼氏?”
“いつの間に~。知らなかったよ~。”
“迎えにきたみたいよ~いいな~。”
“テニス部のエースでしょ~あの人。”
恵那を迎えに来た先輩と目が合った。
驚いた顔と怒りみたいな表情。
明らかに私を牽制している。恵那を守る為に。
私はその表情がひどく腹立たしかった。
何も知らず。何も知らされず…今まで黙ってたくせに!!。
私を。利用したくせに!!。
お前に!そんな顔される筋合いはない!!。
少しづつ自分の表情が険しくなるのを感じた。
目をそらさず睨み付けた。負けたくなかった。
恵那が廊下に出てきた恵那が…
私と恵那の彼氏の睨み合いに気付いた、恵那の表情が…蒼白になるのを目をそらさず睨んだ。
彼氏と一緒に歩き出す彼女を…
こんなにも人を憎むなんて…
本当はしたくない。
でも…心が言う事を聞いてくれない。
耐えるしかない。
そう、思った。
クラスメイトが気を使って、
「伊織、席に戻ろう?。」
と、声をかけてくれるまで…私は何をしていたんだろう…。
考えられない。
「伊織、大丈夫?」
「ありがとう。大丈夫…」
「…恵那ちゃん…彼氏いたんだね?」
「…。」
「伊織、何も知らなかったの?」
「…。」
答えようが無かった。
「知ろうとしなかった私がバカだったんだよ。いいの。」
「そんな…。伊織、自分を悪者にして…。」
「いいの!。私がバカだったの!!。ほっておいて!!」
「伊織……。」
名前を呼ばれた事で、我に返った。
「あっ……ごめんね…大きな声で…。」
声が掠れていく。
黄色い声も、私と例の彼氏との嫌悪なにらみ合いに、クラスメイトはざわついていた。
静かに席に付いた。
みんなの哀れみの視線が悲しかった。
-泣かない!-
口唇を噛みしめ、涙をこらえた。
握りしめた手のひらが痛い。
これで…私は、"被害者"になれたんだ…
なれた…私。
ホッとした自分。
悲しかった。
でも、「悪者は、私(伊織)じゃない。」と、多分…周りが認識した事が嬉しかった。
-最低だ!!私!-
恵那は戻って来なかった。
その後の1時限はどうやって過ごしたか記憶にない。
「伊織、一緒にお弁当たべようよ?。」
と、誘ってくれたのは、さっき休み時間に声をかけてくれたクラスメイトの、成美ちゃん。朝イチの黄色い声の女の子。
「…ひょっとしたら、中庭の先輩とご飯?」
「えっ?ううん。約束してない。
…でも、あの、今日は…1人でいたいんだ。ごめんね…。」
「そお?大丈夫なの。」
「うん。誘ってくれて嬉しい。あの…また誘ってくれる?。1人だと…。」
「月曜日ね。一緒に食べよう。頑張って!伊織。
4時限、逃げないで帰ってきて。」
頷く事しかできなかった。
「ありがとう…。」
泣きそうだった。涙が落ちないうちに。
私は耐えれるのだろうか?。
お母さんに作ってもらったお弁当を持って教室から一番遠い技術棟の屋上へ向かった。
あの屋上なら、人気も無くて静か。
屋上に抜ける最階段は、半分物置になっているから。
ここが込み合うのって、文化祭の時だから。カップルの。
屋上に上がったものの…正直、暑い。
それでなくても、食欲無いのに。暑過ぎる。
段ボールの束の真ん中の1枚を引っこ抜いて埃を払って、屋上入り口の踊り場に敷いて腰を下ろした。
ドアも開いてるし、空も見える。風も通る。
「…食べないと…お母さん心配する。
千里兄さんに…食べてもらう?。…兄さんに怒られる。
…捨てる?さすがにそれは出来ない。
あっ。CHELSEA。…飴じゃダメかな?」
箱から取り出して口にいれた。
子供の頃から大好きな味。
独り言を言って、ため息が出た。
手すりの柵に寄りかかってお弁当を広げても、蓋を開ける気持ちにならなくて…。
湧いてくるのは食欲じゃなくて涙。
甘い。苦い。
風が髪を撫でても。目を閉じても。苦しくて。
私は耐えれるのだろうか?。