兄は、盛大なため息をつき、
“しょうがないなぁ”と言いながらギュ-!?っと力一杯抱きしめた。

“抱きしめた。”というより、“締め上げた。”の方が正しいのかもしれない。

苦しくなってもがき始めた私に、
-伊織…
と、声がかかった。

腕が緩み、苦しくて顔を上げると静かな顔の兄が、額にキスを落とした。

小さな子ども頃…ゴネる私にしてくれた、いつものなだめる方法。
-最後はいつだっただろう。-


「お兄ちゃん-…。」

「あぁ、いいよ。今日はダメなんだろう?。暫く無かったのに。」

無言の私を、よっこらしょ!と、持ち上げた。

多分、兄は先輩に言ったんだろう。

「ごめんね。迷惑かけたね。
コレ、車に投げてくるから、待っててくれないかな?。」


『……あっ!はい…。』


そんな短いやり取りを聞きながら、私は兄に両脇から持ち上げられて……
足がブラブラと宙に浮いた状態で…連れてかれ、
車に…放り投げられた。

少しの抵抗をしてみても、兄は大人だ。身長もある。
バリッ!!て音がしそうなほど体を離され…そして、投げられた。

「痛!!」

「痛くなーい!!」

意地悪そうな目をしていた。

助手席に、私のカバンを乗せながら…兄は聞いてきた。

「伊織、あの男の子は?」

「……」

「伊織。」

「先輩。」

「迷惑かけたんだね。わざわざ、ここまで送ってくれたのか?。」

「……」

「伊織!!。」
-怒られた。怖い!。-
グズグズと涙が溢れた。
「…迷惑かけた。嫌われたと思う……。うぅ…ぇ」
ボタボタと涙が落ちる。


「……そうか。
でも、彼を家まで送るからね。お前をウチに“置いて”から。
千里がいるから。大丈夫だろ?。」

「千里兄さん……いるの?」

「いるよ。今日は早く帰っているよ。」

「万里お兄ちゃん…夜勤は?」

「……ギリギリ間に合うから。」

「ご…ごめん…なさい…。私……。また…」


グズグズの泣き顔をあげた私に、困った顔で、
「……彼に隣に乗ってもらうから、もう少し向こうへ行きなさい。」
そう、静かに兄は言った。



兄に怒られたのもショックだったけど、兄の「迷惑かけたんだね」の言葉が悲しくて。
怒られて。頭が冷えて。
自分でも分かってる。
でも……
あの時、先輩が屋上に迎えに来てくれなければ……あのままだったかも。
ホームに先輩が来なければ、今ここにいないかも。

……迷惑かけたんだね。そりゃそうだ。やっぱりね…。

後部座席の端に寄り、窓ガラスに頭を寄せた。窓にうっすら映る私の顔。
やっぱりひどい有り様。

外に目を向けると……。
先輩と話しをしている兄の顔が険しくなったり、穏やかになったり。

「ふぅ…………」と、天井を見つめ息をはいた。

…お兄ちゃんに知られちゃったよね。
くだらない。って言うかな。

先輩…も知ってるよね。だから気にしてくれたんだよね。
仕方なく。偶然。ほっとけなくて。

恵那と仲良さそうだったし。
“…恵那と話してみたら?”なんて言われたら……どうしよう。
……イヤだ。イヤ。絶対イヤ。考えたくもない。

…先輩?恵那の彼の事……知ってたの?。
知らないふり?

恵那…なんで教えてくれなかったの?。私は教える価値もないの?。私なんて、どうでもいいの?。何?半年って?。隠し通すつもりだったの?
ずっと…。

みんなは……知っていて。私に…黙ってたの?。

何で?

いつも。そうだった。

皆…一緒。

…みんな…バカにして!!
もう、イヤ。何もかもイヤ。
イヤ。嫌。嫌。
苦しい。逃げたい。助けて。
イヤ。イヤ。嫌。
嘘つき!!嫌い!!

私…、なんてバカなんだろう。気づかないなんて。なんて…間抜けなんだろう!!。

バレーだって‼️。
なんでこんなに我慢しなきゃならないの?。
なんで?
私がレギュラーなった事が……なんであんな風に言われなきゃいけないの?。
なんで?!!!!
お兄ちゃん達だって。
お母さんも!!

「……」

お兄ちゃんと目が合った。
先輩とも…目が…合った

『……!』

逃げたい。助けて。イヤ。分からない。助けて。嫌。みんな…嫌い!!。


動くのが兄のほうが、早かったと思う。

“怖い。”

後部座席のドアを開けて逃げようと…走りはじめたところで、兄に捕まった。


「イヤ! 離して!! ヤダ!!」

「伊織!!!!」

「イヤ!! やめて!!」

「伊織!!!!」

「ヤダ!」

「大丈夫だから!!。何もしない。大丈夫。独りじゃない!!。落ち着いて!!!。大丈夫だから!!。」

「イヤだ!。みんな嫌い!!。大嫌い!!!!。」

「伊織!!落ち着いて!!」

「嫌っ!!!!」


「伊織!!!!」
“パシーン”と、平手打ちの音が響いたように思う。

頬が痛い。


『お兄さん!!』先輩が叫んでいた。
 

ポタポタと涙が落ちる。
平手打ちされた頬が痛い。
掴まれている手首が痛い。

「うぇっ…ううぅ………」
声にならない。

「逃げるなんて!!。今、逃げてどうするんだ!!
わざわざ、ここまで!!送ってくれた人が!いるのに!!。
恥かかせて!!。助けてくれたのに!。」


-イヤ!聞きたくない。嫌い。先輩なんて。みんな…嫌い!!-

「お兄ちゃんのバカ!!!!。みんな……大嫌い!!」

「伊織!!」

グズグズと泣き崩れる私に、おかしくなった私に…兄は怒っていた。



『お兄さん!!やめてください!。
ニーナ…伊織ちゃんは、今はダメなんです。本当は…何もかも限界なんです。
今だけ…今だけ、お願いです!!お願いします!!!!』

兄の顔なんて見れなかった。八つ当たり。行き場のない感情のせいで、頭が言うことを聞かない‼️。
先輩の顔も…見る事なんてできなかった。

「っ……」

『ニーナ。ニーナ? おいで。
大丈夫だから。帰ろう。ね?帰ろう。』

「……。」

そっと、兄から引き寄せて声をかけてくれた。
でも、
何も分からない。何も聞こえない。聞きたくない。


兄が私に向かって言っていても、分からない。理解したくない。

“とにかく、帰ろう。母さんも千里も待ってる。帰ろう。伊織。
相馬君も乗って。送るよ。”


えっ?あの、電車で大丈夫です。

“いいから。乗って。送るよ。君の家も知ってるんだ。”

えっ!?

“後ろで伊織を見張ってて欲しいんだ。
走ってる車から、飛び出しそうで怖いんだ。”


その言葉にはっとして顔を上げると、心配している兄の顔があった。

-私は……何も…死にたい訳じゃない。-
どうしたらいいのか分からないだけ。

兄と目を合わせていられなくて、先輩に顔を向けると、兄とは逆に……苛立ちを隠せない目をしていた。

先輩は私から目をそらし、
……すみません。では、お言葉に甘えてお願いしてもいいですか?。

“大丈夫だよ。ごめんね。伊織をお願い。”

はい。

“さぁ。乗って。”


兄と先輩の…そんなやり取りを聞いていたら、力が抜けた。
-バカじゃん?私。-

『ニーナ?』

先輩が、膝折れしそうになった私の右腕を支えた時

「痛い!!。」

忘れていた激痛が、肩にひびいた。
自分でも目が覚める位の痛みと大声に、冷や汗がでた。
涙より吐き気が先に来て、頭が冷えていく感覚が再び私を襲う。
怖い。
気持ち悪い。
倒れこみそうになって、思わず先輩の腕を掴んだ。

「ニーナ!!」

「伊織!? あー!もうっ!!。とりあえず帰ろう!!。」

抱えられて車に乗せられ、先輩が隣に乗り込んだ。
兄が先輩の膝にタオルを敷き横向きに私の頭を乗せて、

「ごめんね。頭がグラグラしないように支えていて欲しいんだ」

『分かりました。』という静かな先輩の声。

動きはじめた車内で、
「なんで?こんな事に?」
と言う兄に向かって、
先輩は私の額を撫でながら、
「多分…僕も分からないのですが、彼女の友達とその兄貴は、“薬をどれだけ飲んだのか?”と、彼女に聞いていたのですが…。そのニーナは…飲んでいないの一点張りで…。」

「は?。薬?…痛み止め?」

びくりと手が震える私の指先を握り、涙がにじむ私の耳元にささやいた。
『ダメだよ。ニーナ。言わなければ。…側にいるから大丈夫。心配しないでいいよ…』

額の手を離してハンカチを広げて、涙が流れた目元に当てくれた。
思わずハンカチを握りしめた私に。
先輩は黙って額を撫でてくれていた。

家に着き、兄は私を抱き上げ、
「宗馬君、ごめんね。助手席にある伊織のカバンとリュックを持って玄関を開けてくれないかな?”」
と、声をかけた。
『わかりました』と、頷いた先輩。

私は兄にしがみつき、ごめんなさい…と耳元でささやいた。
兄は黙ったままだった。

「ただいまー。母さん!!、千里!! 伊織を……」

玄関先まで出迎えたお母さんと、もう1人の兄は、私を見てギョッとしたようだった。
抱きかかえた私を兄から、もう1人の兄へ渡すと、
お母さんに、
「母さん、伊織を早めに風呂に入れて体を温めてやって。一緒に入ってやって。」

千里兄さんには、
「千里、伊織に水分を沢山取らせて。
風呂から上がったらできるだけ安静に。
あっ!あと、付いていないと、逃げ出すから見張ってて。」

「はぁ!?。」と、返事をした千里兄さん。
私の顔を見て
「あああぁ……ダメだこりゃ!」と、一言。

「万里、あなたは?」のお母さんの問に、

「俺、伊織の先輩を家まで送ってそのまま勤務に出るから。
宗馬君、来て。母と双子の弟の千里だよ。」

『こんばんは。夜分すみません。あの…伊織さんのカバン…』

「あら、ありがとうね」

千里兄さんは、先輩を見て
「宗馬って……。睦《ちかし》の弟か?。」

…睦って?
離れるのがイヤなだけで、会話は全部聞こえてる。

睦って?…あの睦さん?。
兄さん達といつも一緒にいる睦さん?



『?…はい。睦は、一番上の兄です。』

「君の名前は?」
『海里です。』

「そう。“たまに会いたい。”と伝えてもらえるかな?」

『分かりました。伝えます。』


先輩は睦さんの弟……。
あの時の男の子。


「あぁ……じゃあね。海里君。母さん、伊織を……」

千里兄さんは私にお礼を言うようにささやいたけど…私は…言えなかった。

「宗馬君、行こうか。」

『はい。……ニーナ、また明日。』
私は兄の胸で頷く事しかできなった。

「宗馬君、ありがとう。伊織を送ってくれて。あの子…
……お礼は後程でいいかしら?。ごめんなさいね。今日のあの子……大変だったでしょう?。」

『大丈夫です。伊織さん…今日は休ませてあげてください。』

「ありがとうね。」

私は、そのままお母さんにひきずられ、お風呂に入った。
母は何も言わず、「汗臭いよ。」と痛いほど、洗い流した。
何も言わずにいてくれたお母さん。
-ごめん…-とだけ小さく言ったら、
“いいよ。今日は”
と、にっこり笑った。

髪を乾かしてもらい、至れり尽くせりのまま髪を結ってもらった。
ありがたかったけど、食事だけは食べる事を拒否し、水分だけ取ってベッドに入った。

眠いのに、眠れない。疲れているはずなのに……。
またグスグスとしはじめた時、千里兄さんが部屋に入ってきた。

「伊織。眠れないか?」

「……」布団から少し顔を出して頷く事しかできなかった。

「そうか。……学校で何があったんだ?。言わないと、解決の助言できないよ。全部じゃなくていいんだよ。」

「……うん。」

「肩、痛いんだろ?……」

「肩は大丈夫……」今は痛くないと思う。分からない。

「学校と友達は?」

「…… 」
言えなかった。
心が痛い。肩より心のほうが痛い。
千里兄さんに…言えない。
だって、くだらない事かもしれないから。

「……言えないよな。学校や友達の事なんて。でも皆、心配してる。」
 
「…………明日は……学校行く…。心配している友達も…いる…から。
……大丈夫。まだ…大丈夫だから。」

「…そうか。じゃあ明日、送ってやるよ。わかったね。」

「……うん。」


頭を撫でようとした兄さんの手をガッチリ掴んで握りしめた。
何となく、こうしてれば眠れるような気がしたから……。
“明日になれば大丈夫。眠れば大丈夫。”
何度もそうして乗り越えてきたから。
大丈夫。
そんな事を考え、言い聞かせているうちに、少しづつ眠りに落ちる感覚があった。
でも、眠っている自覚があるのに、兄さんがそっと手を離す感覚や、
電話の鳴っている音、階下でお母さんと兄さんが話している声とか…全部わかっていた。
お母さんが部屋に入って私の額を撫でながら、ため息をついた事も全部。








驚き-



初めて会ったニーナのお兄さん。
背の高さに驚いた。
190近くあるだろう。
ニーナによく似た顔にも驚いた。

そして…もっと驚いたのは
…そう、まるで恋人に接するように優しく…キスをした事だった。

「…暫く無かったのに。」

暫く無かった?


無言のニーナをを、よっこらしょ!と、持ち上げた。

「ごめんね。迷惑かけたね。
コレ、車に投げてくるから、待っててくれないかな?。」


『……あっ!はい…。』-……なげ?投げるの?-


ニーナはお兄さんに両脇から持ち上げられて……
足がブラブラと宙に浮いた状態で…連れてかれ、
車に…放り投げたように見えた。

なんだか…猫がぶらんぶらんと抱えられてるように見える。


ニーナは車に押し込められ、少し抵抗しているようだったけど、少しの会話の後は、すんなりと後部座席に納まっていた。

戻ってきたお兄さんは、

「申し訳ないけど、名前教えてくれるかな?」

『宗馬です。宗馬 海里 といいます。新名さんと同じ高校の3年です。』
しどろもどろになりながら答えた。

お兄さんは、少し驚いたような顔をした。

「ごめんね。伊織を送ってくれたんでしょ?。」

ちらりとニーナを見て…車の中にニーナがいる事を確認しているようだった。

「あまり…時間が無いんだ。宗馬君も乗って。送るから。」

『えっ!あの…』

「伊織は…絶対話してくれないから…。
少しかいつまんで学校で何があったか教えて。
あの状態では…多分、逃げ出すはず。」

急いでいるお兄さんに。自分が分かっている限りの事を…。石見妹が言っていた事を簡単に説明し終えた頃に…
お兄さんの意識が車の後部座席へ向いた。

つられるように視線を向けると…ニーナと目が会ったと思った瞬間だった。

あっ!っと思った瞬間には、ニーナが逃げようとしていた。
車から降りて走り出しそうになった時、俺の目の前の…お兄さんの姿は、ニーナを捕まえていて……。

-速っ!!!! 何で!?あそこにお兄さんが……いるの?-

正直、びっくりした。
今日は、何回 “びっくり” したんだろう……。
今日は、何回 “何でなの!?” を繰り返したんだろう。

2回目の呆然を頭の中で処理をしながら、ニーナに言い聞かせているお兄さんの側まで行くと、


「伊織!!!!」

と言った、お兄さんの大きな声と、
“パシーン”と、平手打ちの音が響いた。


『お兄さん!!』思わず叫んでしまった。
今、彼女はダメだ。
ポタポタと涙が落ちる平手打ちされた頬
掴まれている手首。


「逃げるなんて!!。今、逃げてどうするんだ!!
わざわざ、ここまで!!送ってくれた人が!いるのに!!。
恥かかせて!!。」 

「お兄ちゃんのバカ!!!!」

「伊織!!」

泣き崩れるニーナにお兄さんは…すごく怒っていて。
男の俺でも…怖かった。


『お兄さん!!やめてください!。
今はダメなんです。本当は…何もかも限界なんです。
今日だけ…今だけ、お願いです!!お願いします!!!!』

お兄さんとニーナの間に入っていた。

お兄さんの表情は固くて…。同じ男でも……太刀打ち出来ない!って、思うほど怖かったけど、
それでも、彼女を…ニーナを…今は庇いたかった。
『ニーナ。ニーナ? おいで。
大丈夫だから。帰ろう。ね?帰ろう。』


「……。」

そっと、引き寄せた。
今、無理矢理にすると、本当にに逃げてしまう。何故かそう感じた。
ニーナと…少しだけ合った目は…
ニーナの目は…「あなたなんて嫌いだ!!」と、いう悲しい目をしていた。

「とにかく、帰ろう。…宗馬君も送るよ。」
そう言ってくれた。
『電車で大丈夫です。』
と答えたけれど…

「君の家も知ってるんだ。……後ろで伊織を見張ってて欲しいんだ。
走ってる車から、飛び出しそうで怖いんだ。」

…そう言ったお兄さんは、さっきとは変わって…本当に…
ニーナを、心配しているお兄さんの顔だった。

ニーナを見下ろすと…さっきとは違う…怯えた表情をしていた。

-ニーナ、なんでそんなに自分を責めるの?。- 

苛立ちさえ感じた。
苦しくて…目をそらしてしまった。


『……すみません。では、お言葉に甘えてお願いしてもいいですか?。』

「大丈夫だよ。ごめんね。伊織をお願い。」

『はい。』

「さぁ。乗って。」


車に乗ろうと歩き出そうとした時、ニーナの力が抜けた。

『ニーナ?』

膝折れしそうになって、慌てて右腕を支えた時、

「痛い!!。」

ニーナの大きな声に、ヒヤリとした。
倒れこみそうになった彼女は、俺の腕を掴み自分自身を支えている。
顔色が悪い。

『ニーナ!!』
「伊織!? あー!もうっ!!。とりあえず帰ろう!!。」

慌てたお兄さんはニーナを抱え、俺に先に乗るように促した。

“吐くといけないから。” と、俺の膝にタオルを敷き横向きにニーナの頭を乗せて。

自然に?何となく?何故か?。 ニーナの額にかかった髪をかきあげながら…額を撫でた。
柔らかなウェーブのかかった髪。

-……柔らかい。 女の子って……柔らかいんだ。全部……。-

当たり前?な事に、今気づいた。

動きはじめた車内で、
さっき言えなかった石見達とのやり取りを話した。


『多分…僕も分からないのですが、彼女の友達とその兄貴は、“薬をどれだけ飲んだのか?”と、彼女に聞いていたのですが…
その…ニーナは…飲んでいないの一点張りで…。』

「は?薬?…痛み止め」

びくりと手が震えるニーナの指先を握り耳元でささやいた。

『ダメだよ。ニーナ。言わなければ。…側にいるから大丈夫。心配しないでいいよ…』
できるだけ小さな声で。“内緒になんてできないよ…。”




家に着いてお兄さんはニーナ抱き上げ、
「カバンとリュックを持って玄関を開けてくれないかな?」
と、声をかけてきた。


“ただいま-……”
玄関先まで出迎えてきたニーナのお母さんと、もう1人のお兄さんは、ニーナを見てギョッとしていた様子がちらりと見えた。

ニーナを玄関先のお兄さんへ渡すとともに、
お母さんに早めに風呂に入れて体を温める事を頼んでいた。
もう1人のお兄さんには、
「“千里、伊織に水分を沢山取らせて。
風呂から上がったらできるだけ安静に。
あっ!あと、付いていないと、逃げ出すから見張っていて。”」

「はぁ!?。」と、返事をしたもう1人のお兄さん。
ニーナの顔を見て、
「あああぁ……ダメだこりゃ!」と、一言。


“……兄弟で、“ダメだこりゃ”なの?”
玄関先で聞こえてくる会話に、また驚いた。

-“万里……”
と、聞こえてきた時に知った名前。
-“ニーナを迎えに来た人が、万里さんなんだ。”-


「宗馬君、来て。母と双子の弟の千里だよ。」

『こんばんは……』 と、挨拶をして顔を上げた時に見た第一印象…。
ニーナと…一番よく似ている。
“…この人が、千里さん。……万里さんとは違う。”


千里さんは、俺を見て、
「宗馬って……。睦《ちかし》の弟か?。」
『?…はい。睦は、一番上の兄です。』
-俺の兄さんを知っている?-

「君の名前は?」
『海里です。』

「そう。“たまに会いたい。”と伝えてもらえるかな?」
『分かりました。伝えます。』
そう答えるのが、精一杯だった。
何故か……どこか?やっぱり…万里さんとは違う。威圧感が……。

千里さんはニーナにささやいて、何かを促したたようだけど、ニーナは黙ったまま。

「宗馬君、行こうか。」

『はい。……ニーナ、また明日。』
頷いたニーナを見て、少し安心した俺がいた。


お母さんと少しの会話を交わして気づいた。
ニーナと口元が似ているお母さん。
でも、少し微笑みを見せた表情はニーナと同じだった。


『失礼します。』
挨拶だけして、万里さんの後を追った。


“さあ、乗って。”と言われ、助手席のドアを開けてくれた。


「ごめんね。急がせて。」


『いえ…ありがとうございます。送ってもらうなんて…。
その……伊織さんを送るのを遅くなってしまって……すみません。』



「…いや。伊織…逃げ出したんでしょ? 
手の噛み跡。伊織でしょ??
まぁ、逃げ出すのは予想できるんだけど、今日ほど取り乱す事って…しばらくなかったんだ…。」


俺は自分の手に“くっきり”残る噛み跡の残る手をなでながら思った。
……取り乱す?-。



『いつもは……
自分が知ってる限り…穏やかな“風”のような感じの女の子だと……。』

万里さんはクスリと笑って

「伊織は…穏やかな風を吹かせているなら、成長したのかな。
でも…本来のあの子は違うよ。
そう、なんて言ったらいいかな。分かりやすく言うと…冬の低気圧?…違うか。
風ではなくて…“炎”かな。
静かな熾火。
暖かな焚き火。
前を照らす篝火。
全てを焼く豪炎。
……熾火に戻すのが大変なんだ。
今日の伊織は…“豪炎”。消えない。自分で消せない。消す事ができない。」


-ニーナが…炎…-

「伊織のトラブルの1つは…俺達兄弟のせいかな。
知ってる?新名ツインズ?。
きっと……千里が手を打つから心配ないよ。千里が伊織を一番大切に思っているからね。」

『……炎ですか?
僕は、色々な彩りがある風のような女の子だと……思ってました。
すみません。新名ツインズは、今日名前だけ知ったんです。
誰も教えてくれなくて…
バレー部の友人も…ニヤリとするだけで、教えてくれないんです。』



万里さんは、笑って。

「これから君は、伊織を通して色々な事を知るよ。
そして、色々な伊織を見る事になるよ。
泣いて、笑って、凄く怒った伊織を。」


『…はい……?えっ?』


「海里君は、伊織を好きなんでしょ?。」


『ぁ…あの…』


「分かりやすいよ。
すぐにバレてしまう。だから、千里に威嚇されたでしょ?。
気になって。目が離せない。心配でしょうがない。
側にいたい。色々バレてるよ?」


『え?あの…すみません』


「なんで謝るの?。」
万里さんは、怪訝そうな表情をした。


『いや……僕は、
ニーナに、伊織さんに……嫌われてるかも…しれません。
あの……
僕は確かに伊織さんに…好意が?…いや、彼女が好きです。
でも、僕は彼女の本当の笑顔を見た事がない。彼女は…僕を見ないんです。
だから…自信が…?いや…分かりやすく言うと、今は…心が折れそうです。
どうしたら、振り向いてくれるのか?…考えても分からない。』


万里さんと目が合った。苦笑いを浮かべた横顔。

万里さんに答えながら…苦しかった。
ニーナは俺を見てくれない。
ニーナの本当の笑顔を知らない。


『あの、……伊織さんも分かりやすくて…ですね。
追いかけると逃げてしまうんです。かと言って、身を引いても…なびかない。
…押しても引いても、逃げ出すんです。
“もう!!”って思っても、目をそらす事ができなくて……。
最初から惹かれるんでは無くて…
最初から何故か?目をそらす事ができなかったんです。』


弁解だった。弁解しなければいけないような自分が恥ずかしかった。



万里さんは、クスクスと笑いながら話してくれた。
ひょっとしたら、俺の気持ちを軽くしようとしてくれたのかもしれない。


「そうだね……自分の妹だけど、不思議なんだ。目をそらせない。
あの子と目が合うと、嘘をつけなくて-。
年の離れた妹だから、可愛いくてね。
僕らは、学校とか部活とか遠征で、伊織を置いて行く事が多かったんだ。
怒ってね。よく泣いてたよ。
結局、正直に言っちゃってさ-。また泣かせるの。
置いていかれないように、先回りするんだけど…結局、騙されて置いていかれる。
だからかな?。伊織は疑り深くなっちゃって。余り信じない。
“一緒にいるよ。” って言っても…疑り深いから離れない。
可愛いけど、困ったよね。」



ニーナの子供の頃の話し。
“沢山知りたい!”って思うのは。
どうしたら、彼女の側にいられるか?の手掛かりが欲しかったから。
くるくる変わる表情。目が離せない…。
…可愛いの基準は人それぞれ。
俺は、ニーナが…いい。逃げられちゃうけど…。



『僕は、男4人兄弟なので…母も僕らの扱いは雑なのかな?と思っています。
男同士で荒い環境が普通だったので。
女の子は、どう?接して良いか?わからないんです。
優しくしてあげなきゃ!で、精一杯なんです。
…今日、ニーナと一緒にいて…
女の子は、優しく?だけじゃダメなんだ。って思って。分からなくて。
でも、一緒にいたくて。一生懸命になると……逃げるので、しつこいのかな?って。
だから……ニーナに逃げられちゃうのかな?って思って…。
でも…今日みたいに、逃げなくて離れない時もあったり……?」』


“うんうん”と聞いてくれた。
聞いてもらえた事が、嬉しかった。
誰に相談したらいいのか…分からなくて…。
聞いてもらうだけで、少し心が晴れた。


「僕らが高校受験、大学受験の時は伊織はまだ小学生だったんだ。
我慢してたよね。親もピリピリしてたし。
時々しか、甘えなくなった。
それも、ギリギリ限界まで我慢してから崩れるんだ…。 
学校の事も。友達の事も。バレーの事も。
バレーは……きっと……自分もバレーをすれば、僕達に…“自分にも目を向けてもらえるかな?”って思って始めたんだと思う。
一緒にバレーの練習したよ。沢山…。
…僕らは兄妹だから…家族だから、いいけど…。
伊織に好きな人が出来たら…心配なんだ。
…俗に言う“不思議ちゃん”らしいから。」


不思議そうに、心配そうに、微笑みを浮かべた横顔が、ニーナとよく似ている。
兄妹だから当たり前なのに、ニーナと話している気分だった。


-…いつまでも一緒になんていられないしね。-
と、ニーナを心配した言葉が聞こえた。


 
「海里君は、いつ頃から伊織を?
…ごめんね。心配なんだ。」


『あ?……あぁ…あの。
いつから?と、聞かれると困るんです。
多分…ずいぶん前から。彼女が部活終わりに友人を待っている姿を…?。
いや違う。
気になってたんです。ずっと前から。
彼女と話してみたい。と、気づいたのは…春頃?。
友達を学校の四阿で待っている彼女と、コートでバレーをしている彼女が…違っていて…。会話は…どんな風になるのかな?とか。
…見ていて……いや?目が離せなかったんです。
でも、
彼女が好きだ。彼女の心が欲しい。と思ったのは今日なんです。
一緒にいたい。一緒に笑いたい。…
……今日って、急すぎますか?。』


バラバラで支離滅裂な俺の答え方にも、
万里さんは「“好き”は、いつも突然だよ。それに気づくのもね。」と笑った。




-あのね…-
「1つ良い事を教えてあげるよ。…僕は意地悪だから1つだけね。」

万里さんはにっこりと笑って言った。

「伊織は…海里君に懐いているよ。だから…妹をお願いね。笑わせて。」

その言葉は、進む事もできない…引く事もできない俺に、
万里さんが出口を…示してくれたように思えた。 



『あの……万里さん。
僕の兄さんを知っているんですね。』


「あぁ、知ってるね。」


『……』

「教えてあげようか?」

『はい。』

「君の兄さんとは、高校時代のバレー部の先輩、後輩なんだ。
睦は、とても優しい頭の切れる素晴らしいセッターだったよ。
海里君もバレーしてたよね。睦のプレーに似てるけど、少し違ったプレーヤーだった。
バレー…辞めちゃったんだね?。」

『うっ…はい……。』
-俺がバレーしてたのを知っている……?。-


「君の家を知ってる理由はそれだよ。
帰ったらお兄さんに聞いてみて。」

意地悪そうに微笑みを浮かべた万里さん。
笑いをこらえていた万里さん。


「着いたよ。」

『ありがとうございました。
あの……万里さん。
兄が家にいるはずです。会ってもらえませんか?。
わざわざ此処まで送ってくださったので……。
時間ありませんか?』

時計をちらりと見て、
「大丈夫だよ。」
と言って、ニヤリとした万里さん。
やっぱり、ニーナのお兄さんだ。
お兄さんからも……目を逸らすことができない。


『ありがとうございました!すぐに呼んで来ます!!。』
慌てて車から降りた。

玄関を勢い良く開けた。

『兄さん!!睦兄さん!!
会って欲しい人がいるんだ!!
睦兄さん!!!!』

「なんだ?何なんだ!!」と、玄関先まで来て
「お前、ただいまはないのか!?」

『そんな事より……万里さんが……。』


兄は
「!?!!!!!!」
声にならず玄関を飛び出した。


「万里先輩!!!!何でここに!?。」


「…何でって、海里君を送ってきたんだ。
妹が、お世話になったからね。」


……さっき見た意地悪そうな笑顔だった。


「えっ?は?何で?伊織ちゃんと……??」

…?兄は俺の顔を見て…怒ってる!?。


「じゃあね。海里君。 …睦もまたね。
あー。千里から、直ぐに連絡がいくからお願いね。睦。」


「!!!?えっ?」

振り向いて俺をみた兄。
何故?兄の目が…涙目?

「…先輩。弟を送ってくださってありがとうございました…。
また近いうちに。
早く!海里!!挨拶して!?。」

『万里さん。ありがとうございました。』


「海里君も近いうちに会おうね。
じゃあ、おやすみ。」

万里さんは手を振り、来た道を戻り国道の方へ車を向けて…。

『あれ?万里さん、家に戻らない?』

「バカ海里!!。先輩はこれから…多分、夜勤なんだ。
総合病院の医者だ!!。バカ海里!!」

『!!。』
マジか-!!

「あー!!あの先輩!!万里先輩!意地悪な顔してた!。
海里!!まさか?伊織ちゃんに、手を出してないよな?。
ないよね!?。ねえ!。大丈夫だよね!?。」

長兄がパニックになっている。半分涙目だ。

「あの人……怖いんだ!!。
本当に!!。
あああぁ-!!。
千里先輩よりずっと!!怖いんだ!!
あーバカ海里!!。妹に手を出すなんて!!コロされる!!いや-!!。
それより……なんで伊織なんだ…。」



いつも冷静な長兄のパニックを見て……呆然とした。
何なの一体?…。

今日、何度目の“呆然”と“何なの!?”を繰り返したんだろう。俺。


『いや?……まだ手を出してないよ!。
…出したいけどさ!!逃げられんだよ!!。追い付かないんだよ!!。』


「何言ってんだ!!バカ海里!!」


玄関先で言い争っていると…… 

「うるさい!ご近所迷惑!!!!早くウチに入りなさい!!バカ共!」

母に怒鳴られた。
怒った睦兄さんに叩かれた。

『なんて日なんだ!!。バカバカ言うな!』

俺も泣きたい。バカなのは分かってる。
でも、ニーナに近付けたかな?…
明日、学校へ来るんだろうか……。
明日……学校中のウワサになるかもしれない。
ニーナをどうやってかばったらいい?
寝れない……。
あぁ…課題! ……もう、いいや。
バレーボール  ……もう、諦めたんだ。

……俺、また諦めるの?

…ニーナは?

……ダメだ!!。イヤだ!!

…諦められない。側にいたい。一緒に笑いたい。

好きなんだ。

好きだから、諦められないんだ。
バレーは?
…俺。バレー…嫌いになっちゃったから…諦めたの?
もう、そんな気持ちも忘れちゃったよ…。

『あー……クソッ!!』
どうしたらいいか……分からない。
何でそう思ってしまうのかも…分からない。

『クッソッ!!…全然分からん!!全く解けない!!。』 

…"好き"が、苦しい……。

…てーか、俺…重くね!?。おかしいよ!。