-迷い




『……』
ニーナの過去は、俺にとって…
声にならない。言葉にもならない。表現もできない。
涙だけ。
気丈な笑顔の裏側は、脆く、暗い闇。
涼やかな風のような。暖かな熾火のような彼女は……。




「…千里さん、伊織を…抱かせてもらえませんか?。」

「ん?…いいよ。」

正樹さんは、千里さんからニーナを受け取ると、
そっと伊織を抱きしめて…

「…千里さん。
伊織は軽いんです。柔らかくて…壊れそうな位…なんです。

それでも……、なんでこんなに頑張れるの?。
ねぇ?伊織?。
何で?頑張るの?…。もう、充分なんじゃないの?
なんで?そんなに辛抱するの?。
どうしたら…伊織、「私は幸せだよ。」って言ってくれるのかな?。
あの、雨の日……。」


…泣いているかもしれない。
優しく額にキスをして、「おやすみ…伊織。」涙の跡の残る頬を撫でて…。
優しく、優しく抱きしめて、しばらく頬を合わせていた正樹さんは、
"温かい伊織は久しぶりだよ。睦。" って…笑って…


「…正樹。俺にも抱かせて。」

「……仕方ないなぁ」

「何なの?仕方ないって?」

「さっきまで、一生懸命抱いてたじゃん?。」

「それはそれ。…これはこれ。」

「睦?。伊織、落とさないで?」

「落とした事なんて1度もないけど!?。なに?。その自分だけの伊織みたいな言い方?。」

「うーん?なんでかな?俺の伊織にしたい。」


「はぁ?。まあ、いいや。正樹…伊織を抱かせて?」


兄さんはそう言って、普段見せた事のない柔らかい笑顔でニーナを抱き上げた。


兄さんと正樹さん。
お互いの信頼関係。親友。善き友人。良きライバル。
……俺には無いもの。
…俺に欠けているもの。それが見える。


ふふって笑った兄さんは、
「…伊織。眠ってますね。」と、一言。

一緒に覗き込んでいる正樹さんの優しく温かい眼差しにも、愛情を感じた。

『……』

「…睦は分かるの?」

「分かりますよ…。万里さん。見て。赤ちゃんみたいな寝顔。
彼女はいつもこうすると…
目の上に陰を作ると、何故かパッと起きるんです。どうしてかな?ってずっと思ってた。
でもね…。ほら。何回、同じ動作をしても…起きない。
それに温かい。いつも緊張して冷たい指先…。安心してないと染まらない頬…。
…初めて、千里さんの影から出て…俺に見せた…あの笑顔。
小さな手のひら。長く柔らかい三つ編み。
…睦さんの手は大きいね。背がすごく高い…正樹さんと一緒ね。
…高い高いして?。肩車して?…。
赤ちゃん、みたいだけど…笑わないで。って。
……
全部。全部…。お父さんにして欲しかった事。
我慢してた事、いっぱいあって…。
俺、弟ばっかりだったから可愛くて。
……なんでかな?涙が出るよ。なんでかな?伊織?」


「睦……。」


兄さんも、ニーナと頬を合わせて、しばらく抱きしめていた。
…だけど……涙と前髪の陰に口唇だけ動いたのが見えた。

"あーあ……。伊織?俺の事好きになってよ?。何で海里なの?。"

声は聞こえない。
…でも、俺は聞こえた。


…兄さんは、本気でニーナを愛している。
分かってしまった事。
多分、この先…俺は、兄さんと……。

悲しくなった。兄さんと一緒にいるニーナ。
どうしたらいいか、分からない。


多分…俺の迷いの表情を読んだのだろうと思う。
万里さんは言った。


「…海里君?
君は…伊織を抱く勇気があるかい?。
伊織の手を離さないで守れる覚悟はあるかな?。
…俺達は余計な事を君に教えてしまった。海里に嫌な思いをさせている。
すまないと…思ってる。……君に押し付けてしまったかもしれない。
ここまでとは……。
耐えられないならいいんだ…。君にそこまでの責任は押し付けられないから……。」



『……。』
万里さんから視線を外し兄さんに抱かれている彼女を見つめて考えた。

ニーナ。くるくる変わる表情。
"一緒にいて?。離さないで!!。海里?私の海里。"
どんな思いでこの言葉を言ったんだろう…。
どれだけの…。
昔の伊織は知らない。知った。
教えて欲しいと言ったのは自分。

…兄さんは、伊織をとても…。
"妹のように"では無くて、1人の女性として愛している。

俺はニーナと一緒にいたい。笑いたい。好きなんだ。誰よりも。

だけど……愛ってなんだ?。いつ?愛に変わるの?。

言わなくても見える"愛"という言葉。
伝えて…お互いの了承の上で成り立つ"好き"という言葉。

なんで?…何でこんなに差があるんだろう…。

…正樹さんは、言葉を失い迷いのある俺に言った。

静かに。
密やかな声で。
俺の近くで……。諭すように…。

「俺は中学の時からの後輩。
睦は高校からの後輩。
でも、それより前から知っていたんだ。ジュニアの頃から。
俺達は千里さんも万里さんも、あの高校に行ったから受験したんだ。
ずっと憧れていた兄弟だった。
小さな可愛い妹がいるのは知っていた。
兄妹、良く似ていたよ。幼稚園の頃から、時々、大会に1人で兄さん達の試合を見ているのも知っている。「伊織にゴネられてね」って。
万里さんは困っていたけど。
…笑わないんだ。時々微笑みを浮かべるだけ。
千里さんが戻ってくると、彼の影に隠れてしまって…。
…睦は一生懸命、一生懸命…会うたびに、会った時は必ず、伊織の側に行った。 
"伊織ちゃん?伊織ちゃん?。"って。
伊織が何も喋らなくても…。
千里さんの影に隠れても…。
時間があればずっと側にいた。試合と試合の間も。側に座って内緒話を…してた。
何か感じていたんだと思う。目を離せない何かを。

俺は幼稚園の頃から会っていたけど…
でも、声を、聞いた事が、無かった。
伊織?。って声をかけると、やっと笑いかけてくれる位で。

千里さんの影から、小さな声で "正樹さん?"
その声を…聞いた時、何だか認めてもらえたみたいで。嬉しかったんだ。

思わず抱き上げて体育館のセンターコートを見せたんだ。

「伊織?。俺達はこれからあのコートで試合をするよ。応援して。笑って。」
って言ったんだ。

"…正樹さん背が高いね。あそこに何があるの?。何が見えるの?。何を応援すればいいの?。楽しいの?。お兄ちゃん達なんで楽しそうなの?"

驚いたよ……。
……彼女は、ただ、1人でいたくなくて、千里さんや万里さんの大会に連れてきてもらっていたんだ。バレーを見たかった訳じゃなかったんだ……。
俺、言ったんだ。
「伊織。一緒にバレーしよう。楽しいよ。俺が教えてあげる。」
睦が側に来てね。
「俺も!!教えてあげる!。」ってさ。

それこそ、本当に一生懸命に伊織に声をかけてた…。
"伊織ちゃん。伊織ちゃん?。伊織ちゃん!!。"って。
最初は兄弟に取り入る為なのか!?って疑ったけど、そうじゃ無かった。

…睦は、万里先輩も千里先輩も、新名ツインズなんて名前、どうでもいいんだ。
睦の目的は、伊織と一緒にいる事。

「何で伊織なんだ?」って聞いたんだ。
睦は言ったよ。
「伊織を1人にしてはいけないよ。何で?いつもうつむいて泣いているんだ?。
お前、気付かないのか?」って。

泣いてないのに?泣き顔なんて見せた事ないのに?。

…睦は違った。君たち兄弟の笑顔と比べたんだろうな。
……ずっと側にいた。……ずっと近くにいた。伊織の側に。心配してた。
…会いに行ってたんだ。転校しても。
受験の年…「俺達の母校へ進学しないか?」って声をかけたのは睦だよ。
少しずつ影の濃くなる彼女を心配したんだ。自分の側に置いておく為に…。

海里?
……気づいているよね?
睦は伊織を愛してる。誰よりも。ずっと前から。
全て承知した上で愛したんだ。…彼女の笑顔が本物になるようにと。
「俺、頭おかしいよね?。なんでかな?。」って、よく言ってるよ。

海里はそれを知った上で、伊織を愛してほしい。

伊織の手を取って、抱くだけの勇気を持ってほしい。

……君たちは突然、恋に落ちた。
しかも昨日の今日で、海里もこんな事になるなんて思わなかっただろう?。
それは、伊織も同じ。
学校や、友達とのイザコザは、伊織にとって鬼門なんだ。僕らは…学校での彼女を助ける事ができない。
普通なら。小さな事なら。……我慢できるだろう。
でも、この小さな積み重ねが伊織の場合、生い立ちが複雑で解決に時間がかかるんだ。

…本当に伊織を見て、信頼して、温かく受け入れてくれる友達はいるのかな?。
警戒心が強く、中々他人に心を開かない伊織は、そこで躓くんだ。
それを自覚している。
自分が傷つかないように行動していて、良い子でいる。
嫌われたくない。伊織自身が我慢すれば周りは自分を受け入れてくれると、刷り込まれてしまった。

……伊織言ってたよね?。「良い子で待っててね。」って。
この言葉は、伊織を壊す。
良い子って何かな?。
…俺も分からないよ。
悪い子だったから1人。伊織はそう言っていたね。
でも、良い子にしてても1人。
……どうにもならない。

…万里さんや千里さんの伊織に対する愛情は、伊織自身も分かっている。
だから、怖いんだ。怖がる。
自分に1番近い人に裏切られた傷なんて一生消えない。
伊織自身で塞ぐ事はできない位に深い闇なんだよ。

小さな頃、冷たい雨の中、びっしょり濡れたまま、泣く事もせず、誰もいない、公園のブランコで、「兄さんお帰りなさい」って言った伊織を、
「何でこんな事をさせてしまったのか?」と、濡れた伊織を…抱いて泣いた千里さんの姿や、万里さんの悔しい表情を忘れる事なんて今でもできないよ…。」





そう言われて…教えてもらっても…。
睦兄さんに抱かれている彼女を見ると…涙がでた。
彼女の心が欲しい。
"ニーナ。俺だけを見て。俺だけを好きになって。"
愛してるって言えば?。俺の事、好きになってくれる?。
ワガママなのは分かってる。
だけど
だけど…。
兄さんに抱かれている彼女を見るのは。
どうしても耐えられない。

 
「正樹さん…愛している。ってどうしたら言えるようになるんですか?。
愛してる。ってなんですか?」


「そうだな。
…分かりやすく言えば…与えるだけの心かな。
好きは……奪い合うからね。お互いの心を。
…俺は、そう思う。睦を見てると、そう思うよ。」


『与えるだけ……』


「海里?
自分の心をコントロールするんだ。呑まれてはいけないよ。
……俺は睦を信頼している。一番の親友であり、善きライバルだよ。
睦になら背中を預けてもいい。
……
君もそんな友人を見つけるんだ。
信頼されるという事がどういう事かを知る為に。
自分の背中を"預けてもいい"と思える親友を探すんだ。
"預けてもらえる"友人を得る努力をしてほしい。
苦い助言をしてくれる友人を 大切にする。
バレーも1人じゃできないよね?。
…誰か?。それを知っているヤツ、君の周りにいると思うよ。
……
俺の一番の親友の弟への助言だよ。
海里?。さっき言った事は宿題だ。
背中を預けるという事がどういう事なのか?。
伊織と海里。君達がお互いになぜ惹かれ合うのか?
理由を知って理解するんだ。
睦の為に。」


『……はい』
正樹さんを見る事ができなかった。

兄さんは、俺を見ない。
ずっとニーナを抱いて…優しく抱きしめている。
激しさを隠して。
愛しさを隠して。
彼女が万里さんを、愛しているのを知っていて…。承知していて…。 
自分の気持ちを隠してまで、ニーナが沢山の笑顔でいられるように。
この状態を1人にしておけないのは承知しているから…。
…俺に。
自分はいつも側にはいられないから。……ニーナを離したくないから。
兄さんにとっても…かけがえの無い…愛しい人。
だから?
約束した。
もし?…
怖い。
でも、千里さん、万里さん、正樹さん…そして、兄さん。
彼らなら。
彼らから預けてもらえるなら。
…この方法しかない。これが、俺にできる愛し方。


『……兄さん。俺にニーナをちょうだい。…抱かせて?。
好きなんだ。離したくない。
俺はニーナの側にいたい。だから。お願い……。
彼女と一緒に過ごしたい。だから…お願い。
……正樹さんからの課題は必ず答えを出すから。
…だから。だから…お願い。』


兄さんに頭を下げた。


兄さんは、静かに言った。

「海里。覚悟はあるのか?
……その気持ちは本当なのか?。
笑わせてあげて。沢山…。
幸せな時間がある事を教えてあげるんだ。
彼女は不幸ではない。今も。
だけど、幸せを知らない。
伊織は、決して!可哀想な女の子ではない。
温かさを忘れてしまった。心を閉ざしてしまったままなだけ。
だから…海里。今しっかり抱いて、伊織の温かさを覚えておいて。
今が1番、伊織が安心して眠っている瞬間。
少ししかない時間を共有して欲しい。
……いいな?。」


『……うん。』

兄さんは、そっとニーナを俺の腕におろした。
軽い身体。柔らかい髪。温かい体温。
クリーム色の柔らかいプリーツスカートが揺れて…薄紫のニットから覗く指先が…。
全部、自分のモノにしたい!!。
苦しい嫉妬……。見苦しい嫉妬!。そんな感情しかない俺に。



"…海里。俺はいつでも伊織をお前から奪う事ができるんだよ。忘れるなよ。 お前だから…弟だから、伊織を預けるんだ。"
兄さんは、静かにささやいた。
……眼差しの奥の激しさが見えた。



『……ニーナ。ニーナ?。大好きだよ。君が好きだよ。』

何で涙がでるの?……分からない。

『…ニーナ?聞こえてるよね?
俺と一緒にいてよ。側にいてよ。離れていかないで。俺の手を離さないで?。
お願い。
楽しい事沢山しよう。
…そうだな?
とりあえず、俺も本当は眠いんだ。
少し寝ていい?。ニーナ、温かいから抱いてていい?。
俺、寒いんだ…。
だから、お願い。起きても怒らないで。側に俺がいる事。』

ニーナと頬を合わせて…ささやいた。

温かい頬。温かい手。
目が覚めたら、笑って欲しい。
何で?海里が?って笑って欲しい。


『兄さん。少し寝ていい?
俺…疲れたみたい……
ニーナと一緒に少し休みたい。』
      

「……?
あぁ、いいよ。伊織を落とさないで。」

『…うん。』

ニーナを抱いて部屋の隅に行ったけど。

『兄さん。座布団ちょうだい。ケツ痛い。』

「はぁ?
お前のケツなんてどうでもいいじゃん。
伊織のお尻はかわいそうだけど?。
お前と伊織の間に座布団敷くんなら、あげてもいい。」

『兄さん?。それはおかしい。』

「譲歩はしない。
お前の膝の中で、伊織がすやすや寝てるのはチョット嫌。」


『……兄さん?』


「イヤです。」


『ん?……兄さん?
ニーナに何を教えたの?。イヤです。の発音がニーナと一緒。
それ、口癖だよね?。
バレーの…セットアップも兄さんが教えたの?同じなんだけど!。
スパイクは万里さんと、そっくりなのに?。
千里さんは、ニーナにこっちにおいで。って呼ぶようなスパイク。
正樹さんは、自身からニーナに近寄って行くように飛ぶスパイク。
……。
俺もバカじゃないよ。』



「……イヤです。
海里には教えない。」

意地悪く笑う兄さん。
"仕方ないな。"と、思った。

『…分かりました。
間に座布団敷くから、俺にも座布団ください。』


にっこり笑う兄さん。みんなもクスクス笑ってる。少しみんな泣いている。

「さあ!どうぞ。海里君。」

『意地悪な兄さん、どうも!ありがとう。』


少しの間、楽しそうな兄さん達の飲んでいる姿を見ながら。
会話に混ざりながら時間を過ごした。
みんな交互に来ては、ニーナの寝顔を見たり、いじってみたり。

俺はそんな兄さん達を見て。普段見せないであろう優しく柔らかい表情を見て…。
泣けてきた。

どんなにか、彼女の事を大切に思い。
どうすれば、笑ってくれるか、考え。
奪うのでは無くて…。そっと…おいてくるような優しさを。愛しさを。


…ニーナの寝顔を見ていたら眠くなってきて…
ニーナを抱き直した。

うつうつと、眠りに吸い込まれる。
温かいニーナの体温。規則正しい鼓動と呼吸。
温かな指先。柔らかい髪。
……。
肩にかけられた膝かけかな?。ひんやりしていた背中が温かい。
ニーナと一緒に眠る時間。
幸せって。この事を言うんだろうな。
そう……思う。



……どれくらい眠ったんだろう。ふっと目が開いた。
ニーナは?
……いる。ここに。
兄さん達は?
…笑ってる。

『……何時?』

「起きたか?。11時前だよ。」

『……ずいぶん寝た気がする…。』

「ぐっすりだったよ。30分位だけど。」

『…そうか。何だかよくわからない。まだ頭の中がぼーっとする。
色々有りすぎて…。
でも、何時間も寝た感覚。』

「あははは!。疲れたたね。
もう帰ろうか。明日も学校だよ。」

千里さんが笑う。

『あー…学校。模試なんだ明日。帰って、少し勉強しないと……。』

「模試!?。ヤダネー。」
万里さんの穏やかな笑い声に、ニーナが起きた。

『ん!?。
起きた?ニーナ?。』

「……。」

俺を見上げて。

「…海…里?。…睦さんは?。」

『いるよ。ほら。』

指差すと、"睦さん…。"と、かすれた声で兄さんを呼んだ。


「何かな?伊織?。」

「……」

「…おいで。伊織。」

ニーナは、スルリと俺の胸元から出て兄さんの膝の中に、音も無く座った。

『!?』

「不思議でしょ?。海里君。
見て。伊織を。」

呆然としている俺に千里さんが言った。

そろそろと這って行き、覗いた兄さんの膝の中の伊織は…

『……寝てるの?。ニーナ?。』

ポイって感じに目を開けて、俺を見た。

「……」

「睦がいるときは、ずっと睦の側にいるんだ。何故か?。
万里さんでも千里さんでも無くて。俺の膝の中でも無く。
隙があれば、こうやって膝の中に入り込んで、黙り込む。
まぁ…つまり…分かりやすく言えば、拒否のサイン。
で、睦が説得役。 
こうなると、睦の言うことしか聞かないよ。どんなに千里さん万里さんに叱られても。」

正樹さんは、面白そうに笑う。



『えっ?ええぇ……』


「"帰ろう?。" と "勉強しないと…"に反応したんだ。」

万里さんの言葉にもう一度ニーナを見れば、兄さんはニーナを抱き、何か話しかけている。
ニーナは首を振るだけ。一切、会話をしない。
ため息をついた兄さんに、ニーナは胸元を叩いて拒否。
「…伊織!」
兄さんに叱られても。顔も上げないで首を横に振るだけ   
しがみついて全力で拒否している。
…兄さんは万里さんと目があったようで、ニーナを抱いたまま、少しテーブルから離れた。
兄さんは穏やかに、ニーナと話し合って?。
…一方的な会話かもしれない。
時々微笑むと、ニーナも薄く微笑みをうかべる。

……ニーナと兄さんの間の距離に嫉妬した。
兄さんとニーナが過ごした時間。お互いの信頼。
兄さんはニーナを愛している。
ニーナも兄さんをとても大切に思っていて…。
…多分。両思い。
 


「睦は、相馬の長兄として君達に対しても誠実だったんじゃないかな?。
嘘はつかない。正直な男だよ。
……
伊織は信じているんだろうね。
何故か。どうしてか。睦は、絶対に裏切らないって。」


『……』

時間が二人の関係を作っていっているのは、頭では分かっている。
でも、この嫉妬心だけは言うことを聞いてくれない。

「海里君。君にもう1つだけ。最後のヒントをあげるよ。
君は、俺の背中を預けてもいいと信頼している友人達の一人、睦の弟だから。」

『えっ?』

万里さんは、また俺の心を読んだんだ…。そう思った。
正樹さんも千里さんも、ギョッとしている。

「俺達は伊織に対してそれぞれの愛情と接し方を持っているんだ。
見ていたから…分かるかな?。
誰かの真似をしてもダメだよ。
1つだけ。1つだけでいい。
君の変わらない接し方をするんだ。
信じてもらえるように努力するんだよ。
伊織は、それを信じようと努力し、返してくる。

これだけ。
俺は意地悪だから、これ以上教えないよ。…後は正樹も教えてくれたよね。
千里も。」

千里さんを意地悪そうに睨んだ万里さん。
……千里さんはにっこり笑うだけ。


後ろから、兄さんの声が聞こえた。
「万里さん。ズルいですよ。」
そう言って優しく笑ってニーナを見つめている。
「…伊織?帰ろう。」
耳元でささやいて、ニーナを促している。

分かっていても
見ていられなくて……。


『…兄さん。俺は嫉妬心が誰よりも強いんですが!?。』

後ろの二人を見ないように言ってみた。
俺は俺。ニーナを好きなのは…変わらない。だけど、嫌なものは嫌。



「睦さん…ありがとう。」
静かな声が聞こえた。
振り向いて二人を見れば、ニーナは兄さんの頬ににキスをしている。 

立ち上がり、正樹さんの側まで行くと抱きついて、兄さんにしたように、頬にキス。

千里さんの背中の影に回り座って…。

少しだけ……微笑んで。
「先輩…また明日…。」


『ああ。また明日。学校で…』


そう言って、強がってみたけど。
……やっぱりダメだ。
嫌だ。
……いなくなりそうで怖かった。

『…すいません。万里さん。千里さん。
ニーナを少し借ります。』


『……ニーナ。来て。』

「…あっ…えっ?。」

彼女の手を引いて部屋の外へ出ようと… 
「海里!?。」
兄さんの俺を窘める声が聞こえるけど…嫌だ。

『兄さん。正樹さんもごめん。
少し時間を下さい。』


どうしても、どうしても…ニーナを抱きたかった。



「…いいよ。
行っておいで。
向かいに公園あるから、そこで待ってて。ブランコがあるから。
じきに行くから。」


「千里さん!あそこは!!。」
正樹さんが、あからさまにその場所を嫌がった。

「大丈夫だよ。」

「万里さんまで!!」




「…大丈夫。伊織は知っているんだ。あの公園を。」

万里さん達の会話を背中に聞き、そのままつれだした。
『……行こう。ニーナ』

「…待って。ねえ!。」


…心が言う事を聞いてくれない。
嫌だ…。


「…痛いから引かないで!!。」

『……』

「先輩!!」

『……』
足早に通路を抜け、店の自動ドアをすり抜けた。


「ねえ!やだよ!!
海里!海里!!。」

聞こえない。嫌だ。誰よりも。誰よりも…

店の横側の路地に回りニーナを乱暴に店の壁に押し付けた。

「痛い!嫌だ!やめて!。」

…怖がられるのは分かっている。

『もう!何なの!?。ニーナ!!!!。
やめて!俺は!それは嫌だ!!。』

無理矢理、押さえ付けて訴えた。

『俺を見て。俺だけを好きでいて。俺だけを愛して!!。』

ニーナは何もいわない。肯定も否定もしない。
ただ。俺から視線を離さないで見つめている。
いろんな感情がない交ぜになって、困っている表情。


『嫌だ!!兄さんに抱かれているニーナを見るのは!。
……嫌だ!。他の誰かに抱かれている君を感じるのは!』


…激しい嫉妬心

裏切られ慣れてしまって、自分を嫌ってくれるように仕向けている。
自分を信じてくれているのか?。嘘つきなのか。
自分を想っていてくれる気持ちが、本物なのか?。偽物なのか?。
それで嫌われたら、"やっぱりね。"って。
……無意識に。


『ニーナ。
俺を試さないで。俺はヤキモチ妬きなんだ……。
万里さんも千里さんも…。
本当は嫌だ。大切なお兄さん達。俺の兄さんも正樹さんも大切なのは分かってる!!
それでも嫌だ!!。』


イヤがられるのは分かってる。
嫌われるだろうな。 
でも、でも!!。


頑なな表情。拒否の姿勢。怯えている眼差し。

…そのまま無理矢理キスをした。
激しい嫉妬のキス。俺だけに心が欲しい!!

「イヤ!やめ……!!」

…拒絶されているのもわかる。
止まらない。止められない!俺だけのニーナ。



泣いている?。
拒否の言葉なんて聞きたくない!!。
"イヤだ。苦しい。やめて。"
そんな言葉!!。聞きたくない!!。
 

…何度も名前を呼んだ。何度も唇を合わせた。無理矢理に唇を開かせて、キスを繰り返した…。

少しずつニーナの抵抗が薄くなって…
「先輩…苦しい。息、できない……。
お願い……やめて!。」
その言葉でも…やめる事なんてできなかった。
ただ強く。誰よりも強く抱きしめた。
繰り返し、繰り返しキスをした。

『嫌だ…
…お願い。俺だけを好きになって。ニーナ……。』


唇を噛まれた。
『痛っ!』
…血の味がする。

「もう…お願い。…やめて…。海里!お…お願い…。もうやめて!。」



膝から崩れるように倒れ込んだニーナに、急に頭が冷えた。
ニーナを抱きかかえながら
何で?…。俺は何をしてるの。


『……ごめん。
…ごめん。ニーナ。
許して…
俺、……何で。なんでこんな事、俺…。
ごめん。
ごめん。ニーナ。

ごめん。』


嫌われても仕方ないって思った。
でも、でも……。

情けなくて涙があふれる。



「…先…輩。
海里先輩…。
…海里?。
ねえ、海里?…。…泣かないで……。
お願い。泣かないで。」


『……』


「ねえ。海里?……。
く、唇が…
あぁ……ごめんなさい。血が…
……くちびるが。
ねえ…泣かないで。」



ニーナはそう言って、冷たい指先で拭いながら、話しはじめた。

「先輩?。
…不安にならないで?。
一緒にいるって約束したよ?…」


『違うんだ!!ニーナ。俺だけを好きでいて!!。一緒じゃない!!。
嫌だ!』 

自分でも、何を言っているのか…分からない。

「海里ー…?。」


ニーナは静かに話し始めた。

「あのね。……先輩から海里に呼び方が変わった時に…私ね。あなたの事が好きかもしれないって気づいた。
好き。って、優しいと思っている。温かいって思っているの。
だから……。」


『…』  


「だけど…今、知ったの。
好きも愛しているも、激しい心なんだって。
どうにもならない。自分の言うこと聞いてくれない心なんだって。」


『……嫌だ』


「す…少し…前になるけど…。
部活終わりに…恵那を待っている時があったでしょう?。中庭で四重奏してた。
あの時、海里が恵那に向けた柔らかい笑顔が…。
私に向けた…笑顔であって欲しいって…思った。
…多分ー。
その時から、先輩の事。好きになってたんだと…思う。
でも、わからないから…。好きって何かわからない。 
だから怖い。」


『……』

ニーナは、何かに気づいた様子で辺りを見回し、俺の胸に顔をよせて
さっきまでのはっきりした声でなく、少し怯えた様子で言った。


「…ねえ先輩。公園に行こう?。
せ…千里兄さん。そこで待ってるように。って言ってたから……。
あの……ここ、暗くてイヤだよ…。怖い。」


俺の顔を見上げ、怯えた表情を見せるニーナ。

『……』

「…海里」

『…ニーナ。
あの……さっき、は…ごめん。イヤだったね……。』

 
「海里…。
好き"も、"愛している"も心だけど、…いろんな形があるね。」
…寂しそうに笑った彼女。


ニーナの手を引き、
できるだけ明るい所を回り、向かいの公園へ歩きだした。

遊具のある場所まで大した距離はないのに、ニーナの足取りが何となく重くて。

『……ニーナ。膝痛いの?
……やっぱり、俺と一緒は…怖い?。』

にっこり笑って微笑み、首を振るだけ。


公園は桜の木も多い。
茂みの少ない見通しの良い公園。
遊具のある場所は円状になっていて、照明が多く設置されている。

『綺麗な公園だね。』

ニーナを見つめても、ただ微笑みを浮かべるだけ。

『ああ、あそこだね。行こうか。』

……微笑んで、ただ…うなずくだけ。

…ブランコの側まで来ても乗らない。

俺が先に座っても乗らない…。

……隣が空いてるのに、座らない。


ただ、ブランコに座っている俺の側に寄って支柱に掴まり…、穏やかに笑っているだけで……

『ニーナ?。ブランコ乗ら……?』

「……」

辺りを、見回して…。気がついた。

正樹さんが…。
イヤがっていた公園…。

『ニーナ?。
…ここの公園って………!』

穏やかに。静かに。微笑むだけ。一言も喋らない。
ただ、側に寄って支柱に掴まり、俺を見つめているだけ。


-そうだ。あの日の公園?。-
まさか!?。
…3キロほど先に新幹線の駅がある。

多分…ニーナ通ってた全寮制・共学私立は、あの駅よりずっと先。
でも?
…?。たしか…地元の中学は…ニーナの家からここまで…。
いや?違う。逆方向なはず。
ニーナはそんな場所、拒絶するよな…。

それに、ここは俺達の高校からじゃ遠すぎる。

ニーナの…お父さんは、こんなに近くのはずがない…。
それに……その場所は、ニーナと睦兄さんしか知らない…。
……千里さんは知らない。

そんな事を考えながら、俺はニーナを見つめていた。




辺りを見回したニーナは、少し掠れ声で。細く…

「…遊具が新しいね。」

そう言って…。 
…遠くをみている表情が薄く消えそうで…。

支柱に掴まっている手が……指先が…。
……微かに震えていて。



あわてて立ち上がって、抱きしめた。

「先…輩……?」

『…名前を…。
名前を呼んで…ニーナ…。』


「……海里…。」


『君が…。君が好きだよ。ニーナ。
伊織…どこにも行かないで…。
俺の側にいて…。いなくならないで。お願い。
俺を否定しないで。俺を…俺を受け入れて。』


キスをしようとニーナの両手を後ろに回し、支柱を支えに寄りかからせた。
唇がギリギリまで近づいた時、
「…ねぇ?…海里……また…するの?…
あの…唇が…血が…」

抵抗も拒否も無かったように思う。

『……するよ。
今度は…。優しくす…る。』

君を…俺だけのものにしたい……。
ニーナしか…欲しくない。

「ぅ…っんんっ。」

昼間、ニーナがしてみせたキスを返す。
…どうやってたっけ?。
猫みたいだったかな…。
そんな事考えながらいた。
…自分がして欲しいキスを。ニーナが笑顔になるキスを。
心や、優しさを。
…人間って、学習するんだな。
自然に硬さが無くなって。自然に…。

どちらからとも無く。自然に唇が離れる。
血の味が…
ニーナとキスした証。
後ろ手を離して抱きしめた。

『……ねえ?ニーナ。
俺、…キス上手になったでしょ?。』

うつむいたニーナに聞いてみた。

「……」

返事をしない代わりに胸を拳で叩かれた。
笑っていてよ。
俺に笑顔を見せてよ。


『…俺の心も。気持ちも。全部ニーナにあげるよ。
ニーナ…。君は、とても温かいよ。とても温かい。
……ちゃんと生きてる。…俺は、生きている君を感じているよ。
悲しまないで。…自分を否定しないで。』


ニーナの腕が自分の背中に回った時。

 

「私は…ー。
……海里の側にいる。側にいたい。変わらない。
信じて。…信じて。海里。」 


『……ニーナ?』


「…でも、嫌いにならないで…。お兄ちゃん達の事。正樹さんや睦さんの事。
私にとって、失いたくないの。
…大切な人達なの。
あの人達の笑顔が…私の太陽だった。私の存在価値だった。
生きていていいんだよ。って言ってくれた。
…だから。
だから……私からあの人達を取り上げないで。
……お願い。海里。
…お願い。……私から奪わないで…。  
お願い……海里。お願い…。」



…奪わないで欲しい。

悲しい…悲しい言葉。
彼女が、手にしている唯一の温かい場所…。
大切で。冷えた心を温かくしてくれる存在。
…形の無い何かに怯えて。 
失わないように、無くならないように、努力してるニーナにとって…。   
ニーナにとってみれば、さっきの俺の言葉は、"それを捨ててくれ!"
"そして、俺だけのものになって!!"。そう言って力ずくで奪おうとしている。
その存在が、怖いのが当たり前。
……
昨日、今日の俺達の時間からしてみれば……。
たとえ……突然、恋に落ちたとしても。
長い時間、見守って。
長い時間支えて。
長い時間、一緒にいて側で笑顔をあげていた彼らに…。
……敵うはずなんて無いのに。
自分だけのものにしたい。という、俺の我が儘が…今のニーナを苦しめていて…。
悲しかった。
それでも止まらない…想い。

『……ニーナ。
お願い。睦兄さんじゃなくて。
…俺を。俺……を好きになって。』


「…海里。」


『…時間がかかってもいいんだ。ワガママなのも分かってる……。
兄さん以上になれないかもしれない。
この先、俺のワガママが…君を苦しめていくだろうと思う。
でも、ニーナ…。
君が欲しいよ。』


「海里……。」

ニーナは返事をしなかった。
ただ、俺の背中に回した手に力が入った事だけ…
それだけが分かった。


時間だけが自分達の間にないものなら…。
激しくてもいい。
年の近い俺達だから……
ぶつかる事も多い。ケンカも多くなるだろう。
来年、大学に進学する。
彼らとの十数年分。
それをこの1年で。近くでニーナと過ごしたい。沢山の笑顔をみたい。
誰よりも近い場所で。


……。

俺達は突然恋に落ちた。と言った正樹さん。
何故か、抵抗出来ない力に惹き込まれたと、自覚はある。
抗えない何か。
昨日の今日で……逆らえない何か。
…どうしても。
ニーナが。
……欲しい
どうしても……。