第54話 発売日
その日は正月明けの最初の土曜日ということもあって、頭も体も正月気分が抜けきらず、九時過ぎまでベッドの中でダラダラしていた。しかし、流石に自分の本の発売日にこれはいかんよな、と渋々ベッドから這い出して顔を洗い、卵とトーストを焼きながらPCを立ち上げる。
机の上には『ヨメたぬき』が十冊。献本というものがあって、編集部から作家に完成品が送られるらしい。そんな初歩的な事さえ知らなかった俺は何かの間違いかと思い、ツイッターで「本がたくさん届いたんですけど」と呟いて笑われてしまった。「それは献本ちゅーてな」と夏木さんが説明してくれて、やっと理解すると同時に自分の無知を曝したことに気づいたのだ。まあ、知らないものは知らないと言っておいた方がみんなが教えてくれて助かるので、俺はこのままでいくしかないんだが。
そして現在十時。書店が次々に開くころだ。俺の『ヨメたぬき』も書店に並んでいるんだろう。あとでちょっと覗きに行って来るか。
サイトの運営が宣伝してくれているかもしれないと思い、ツイッターを立ち上げる。と、なんと通知が何件も来ていた。
通販で買ってくれた人たちの報告だった。朝の八時半から氷川さんが……えっ、氷川さん? あの人ツイッターのアカウント持っていなかったんじゃ?
@氷川鋭
今日の為にツイッターのアカウントを取りました。
通販で注文しておいた藤森八雲さんの『ヨメたぬき』が、先程届きました。
一番乗りでしょうか?
@大アサリ大将賢島漁連
藤森八雲『ヨメたぬき』本日発売! 同作者による『I my me mine』にはこちら賢島の事がガッツリ書いてあるぜ! こっちもよろしくぅ!
@活アワビ大将賢島漁連
届きました! 藤森八雲『ヨメたぬき』、表紙がめちゃくちゃカワイイ♡
@英虞湾パールホワイト船長
『I my me mine』で御馴染みの藤森八雲さんの本が出ました。新婚夫婦の奥さんが突然たぬきに? 『ヨメたぬき』みんな読んでね~!
氷川さんに続いて志摩の人たちが宣伝してくれている。みんな本気だ。
@冬華白群
現在、近所の書店に来ています。開店と同時に『ヨメたぬき』を購入。これからすぐに帰って楽しみます。
冬華さんが? 書店が開くのを待ってた?
@秋田なまはげ太郎
お近くのおっされーなカフェなう。『ヨメたぬき』をゲットして、これからコーシーすすりながらセレブ気分で読ましてもらいます!
次々と入る購入報告。俺はただただ、PCの画面に向かって頭を下げた。
それから二時間、俺はひたすら次々に入る報告にお礼の返信を入れまくっていた。もう書店を覗きに行くどころの話ではない。それに、ここにいて全国の書店の様子が一目瞭然だ。みんなが書店の棚の様子や買って来た本の写真を撮ってアップしてくれているのだ。まさかツイッターでこんなに読者のありがたさを痛感するとは思いもよらなかった。
しまいには書店特典情報まで飛び出した。仙台○○ではSSペーパー無し、大阪△△には在庫あり、京都店にはあと三冊……。
『藤森八雲』が俺の手を離れてどんどん独り立ちしていく。朝起きるまでは、まるで他人事だった。「ああ、本が出たんだな」という程度だった。今では実感が湧く前に、恐怖さえ湧いてきている。俺はもうただの長谷川哲也ではなくなった、作家の藤森八雲なんだ。もう引き返せない、もう逃げられない。腹を括るしかない。
俺が覚悟を決めた時、玄関のインターフォンを鳴らす音が聞こえた。
「来ちゃった」
「アイさん、どうしたんですか」
「いいから入れてよ、重いの」
アイさんを部屋に通すと、「ふぅ重かった」などと言いながら紙袋からたくさんの『ヨメたぬき』を出して来た。
「これ、どうしたんですか?」
「買って来たんだよ。一軒で買い占めちゃったら他の人が買えないから、四軒回ったの、くふっ。結構いい運動になったよ」
「いや、そういう問題じゃなくて……」
「あったかいコーヒー飲みたい」
「あ、はい」
俺がキッチンに立つと、後ろでアイさんが恐ろしい事を言い出した。
「サインの練習した?」
「は?」
「これね、あたしのお友達に配るの。だからサイン入れて欲しいんだ」
「まだ考えてないですよ」
「じゃ、これから一緒に考えよっ」
「JRの路線図とか使わないでしょうね?」
「みゅう~」
おい、ビンゴかよ! ……って知らぬ間にPC覗いてるし。
「ねえ、なまはげ太郎まだカフェにいるみたいだよ。もう半分読んだって。あはっ、冬華君てば裏表紙に背表紙に扉まで写真撮ってアップしてるよ」
冬華さんが……少々驚きながらもコーヒーを持ってテーブルの方に戻ると、アイさんがぼそっと言った。
「昨日、冬華君からメール来たんだ」
俺は黙って続きを待った。アイさんはカップを両手に包み込むようにして持つと、フーフーと息を吹きかけて一口飲んだ。今日は生成り色のタートルセーター。袖から覗く指は、綺麗に爪が切り揃えられている。
「藤森さんには敵いませんって。『I my me mine』の連載を始めたころはどうなる事かと思ったけど、八雲君と組んでいてみるみる上手になったって。あたしを育てられるのは八雲君しかいないって」
「育ててなんかいませんよ」
「あたしが八雲君とのコラボをやめた時、冬華君がそばにいてくれたの。っていっても、北陸の人だからLINEだよ? 結局冬華君とはコラボしなかったんだけど、ずっと話を聞いてくれたんだ」
ふーん、って言えばいいのか? くそっ。
「ある日ね、冬華君に聞かれたの。なんで八雲君とのコラボやめたのかって。だからあたし、喧嘩した内容とかちょっと話して。そしたら冬華君に叱られちゃった」
「は? 叱られたんですか?」
「八雲君の気持ちがわからないのかって。『こんなにアイさんの事を真剣に考えてくれてるのに、我儘ばかりで全然藤森さんの話を聞いてないじゃないですか』って、すっごい叱られたの。それでパニックになって、冬華君に褒めて欲しくて、冬華君の好きそうな書き方をして、それでますます叱られたの。アイさんは自分のストーリーを書かないでどうするって。それで途方に暮れてたら八雲君が『アイさん』って、それであたしあの日ここに来たの」
「冬華さんが『迎えに来てくれ』って言ったあの日ですね」
「うん。八雲君が迎えに来てくれたって思って嬉しくて、もう涙が出そうで家にいられなくて」
そうか。そんなことがあったのか。
「あたしが八雲君のところに戻ってからずっと冬華君、何も言わなかったの。でもね、昨日になって突然『藤森さんには敵いません』ってメールくれて。ツイッターのアカウント取ったから、明日は書店に一番乗りで行って、タイムラインで報告するって言ってたの」
あの冬華さんが、俺の為にアカウント取って、書店に一番乗りで……。
俺はちょっと目頭が熱くなってしまったのを誤魔化すためにキッチンへ向かった。
「お昼ですね。ホットケーキでも作りましょうか」
それなのに。せっかく背を向けたのに、アイさんが後ろから俺に抱き付いて来た。
「八雲君。ありがとう。大好き」
俺は振り返って彼女を抱きしめると、その唇に俺のそれをそっと重ねた。
その日は正月明けの最初の土曜日ということもあって、頭も体も正月気分が抜けきらず、九時過ぎまでベッドの中でダラダラしていた。しかし、流石に自分の本の発売日にこれはいかんよな、と渋々ベッドから這い出して顔を洗い、卵とトーストを焼きながらPCを立ち上げる。
机の上には『ヨメたぬき』が十冊。献本というものがあって、編集部から作家に完成品が送られるらしい。そんな初歩的な事さえ知らなかった俺は何かの間違いかと思い、ツイッターで「本がたくさん届いたんですけど」と呟いて笑われてしまった。「それは献本ちゅーてな」と夏木さんが説明してくれて、やっと理解すると同時に自分の無知を曝したことに気づいたのだ。まあ、知らないものは知らないと言っておいた方がみんなが教えてくれて助かるので、俺はこのままでいくしかないんだが。
そして現在十時。書店が次々に開くころだ。俺の『ヨメたぬき』も書店に並んでいるんだろう。あとでちょっと覗きに行って来るか。
サイトの運営が宣伝してくれているかもしれないと思い、ツイッターを立ち上げる。と、なんと通知が何件も来ていた。
通販で買ってくれた人たちの報告だった。朝の八時半から氷川さんが……えっ、氷川さん? あの人ツイッターのアカウント持っていなかったんじゃ?
@氷川鋭
今日の為にツイッターのアカウントを取りました。
通販で注文しておいた藤森八雲さんの『ヨメたぬき』が、先程届きました。
一番乗りでしょうか?
@大アサリ大将賢島漁連
藤森八雲『ヨメたぬき』本日発売! 同作者による『I my me mine』にはこちら賢島の事がガッツリ書いてあるぜ! こっちもよろしくぅ!
@活アワビ大将賢島漁連
届きました! 藤森八雲『ヨメたぬき』、表紙がめちゃくちゃカワイイ♡
@英虞湾パールホワイト船長
『I my me mine』で御馴染みの藤森八雲さんの本が出ました。新婚夫婦の奥さんが突然たぬきに? 『ヨメたぬき』みんな読んでね~!
氷川さんに続いて志摩の人たちが宣伝してくれている。みんな本気だ。
@冬華白群
現在、近所の書店に来ています。開店と同時に『ヨメたぬき』を購入。これからすぐに帰って楽しみます。
冬華さんが? 書店が開くのを待ってた?
@秋田なまはげ太郎
お近くのおっされーなカフェなう。『ヨメたぬき』をゲットして、これからコーシーすすりながらセレブ気分で読ましてもらいます!
次々と入る購入報告。俺はただただ、PCの画面に向かって頭を下げた。
それから二時間、俺はひたすら次々に入る報告にお礼の返信を入れまくっていた。もう書店を覗きに行くどころの話ではない。それに、ここにいて全国の書店の様子が一目瞭然だ。みんなが書店の棚の様子や買って来た本の写真を撮ってアップしてくれているのだ。まさかツイッターでこんなに読者のありがたさを痛感するとは思いもよらなかった。
しまいには書店特典情報まで飛び出した。仙台○○ではSSペーパー無し、大阪△△には在庫あり、京都店にはあと三冊……。
『藤森八雲』が俺の手を離れてどんどん独り立ちしていく。朝起きるまでは、まるで他人事だった。「ああ、本が出たんだな」という程度だった。今では実感が湧く前に、恐怖さえ湧いてきている。俺はもうただの長谷川哲也ではなくなった、作家の藤森八雲なんだ。もう引き返せない、もう逃げられない。腹を括るしかない。
俺が覚悟を決めた時、玄関のインターフォンを鳴らす音が聞こえた。
「来ちゃった」
「アイさん、どうしたんですか」
「いいから入れてよ、重いの」
アイさんを部屋に通すと、「ふぅ重かった」などと言いながら紙袋からたくさんの『ヨメたぬき』を出して来た。
「これ、どうしたんですか?」
「買って来たんだよ。一軒で買い占めちゃったら他の人が買えないから、四軒回ったの、くふっ。結構いい運動になったよ」
「いや、そういう問題じゃなくて……」
「あったかいコーヒー飲みたい」
「あ、はい」
俺がキッチンに立つと、後ろでアイさんが恐ろしい事を言い出した。
「サインの練習した?」
「は?」
「これね、あたしのお友達に配るの。だからサイン入れて欲しいんだ」
「まだ考えてないですよ」
「じゃ、これから一緒に考えよっ」
「JRの路線図とか使わないでしょうね?」
「みゅう~」
おい、ビンゴかよ! ……って知らぬ間にPC覗いてるし。
「ねえ、なまはげ太郎まだカフェにいるみたいだよ。もう半分読んだって。あはっ、冬華君てば裏表紙に背表紙に扉まで写真撮ってアップしてるよ」
冬華さんが……少々驚きながらもコーヒーを持ってテーブルの方に戻ると、アイさんがぼそっと言った。
「昨日、冬華君からメール来たんだ」
俺は黙って続きを待った。アイさんはカップを両手に包み込むようにして持つと、フーフーと息を吹きかけて一口飲んだ。今日は生成り色のタートルセーター。袖から覗く指は、綺麗に爪が切り揃えられている。
「藤森さんには敵いませんって。『I my me mine』の連載を始めたころはどうなる事かと思ったけど、八雲君と組んでいてみるみる上手になったって。あたしを育てられるのは八雲君しかいないって」
「育ててなんかいませんよ」
「あたしが八雲君とのコラボをやめた時、冬華君がそばにいてくれたの。っていっても、北陸の人だからLINEだよ? 結局冬華君とはコラボしなかったんだけど、ずっと話を聞いてくれたんだ」
ふーん、って言えばいいのか? くそっ。
「ある日ね、冬華君に聞かれたの。なんで八雲君とのコラボやめたのかって。だからあたし、喧嘩した内容とかちょっと話して。そしたら冬華君に叱られちゃった」
「は? 叱られたんですか?」
「八雲君の気持ちがわからないのかって。『こんなにアイさんの事を真剣に考えてくれてるのに、我儘ばかりで全然藤森さんの話を聞いてないじゃないですか』って、すっごい叱られたの。それでパニックになって、冬華君に褒めて欲しくて、冬華君の好きそうな書き方をして、それでますます叱られたの。アイさんは自分のストーリーを書かないでどうするって。それで途方に暮れてたら八雲君が『アイさん』って、それであたしあの日ここに来たの」
「冬華さんが『迎えに来てくれ』って言ったあの日ですね」
「うん。八雲君が迎えに来てくれたって思って嬉しくて、もう涙が出そうで家にいられなくて」
そうか。そんなことがあったのか。
「あたしが八雲君のところに戻ってからずっと冬華君、何も言わなかったの。でもね、昨日になって突然『藤森さんには敵いません』ってメールくれて。ツイッターのアカウント取ったから、明日は書店に一番乗りで行って、タイムラインで報告するって言ってたの」
あの冬華さんが、俺の為にアカウント取って、書店に一番乗りで……。
俺はちょっと目頭が熱くなってしまったのを誤魔化すためにキッチンへ向かった。
「お昼ですね。ホットケーキでも作りましょうか」
それなのに。せっかく背を向けたのに、アイさんが後ろから俺に抱き付いて来た。
「八雲君。ありがとう。大好き」
俺は振り返って彼女を抱きしめると、その唇に俺のそれをそっと重ねた。