第52話 書こう

 スマホを手に、俺はもうかれこれ三十分以上フリーズしている。

◀アイさん

 ここまで打って続きが何も思い浮かばない。それなのに溜息をついた拍子にうっかり送信してしまった。何やってんだ、俺。
 すぐに既読はついた。だが何も言ってこないし、俺も続けられない。スマホ片手に、ぼんやりとしたまま再び数十分が過ぎた。
 今更なんと言って呼び戻したらいいんだ? 中村さんの事も誤解したままだし、冬華さんの事も……。
 冬華さんはどうしたんだろう? いきなり「自分は相応しくない」と言い出した。アイさんの作風が変わったのは冬華さんが口出しをしていたわけじゃないのか? アイさんの作風が変わってしまった事、冬華さんにも想定外だったのか?
 同じような事ばかりぐるぐると考えて一向に答えが出ないまま、時間だけが無情に過ぎて行く。あんな訳の分からないLINEを送られて、アイさんも待っているだろうとは思うが、何を続けていいのかわからない。

 まずは気分を変えよう。書き上がった『ヨメたぬき』の最終稿を梱包して、近くのコンビニへ出しに行く。とにかく締め切りよりも少し早く上げて出す、これが俺のポリシーだ。
 気づかないうちに季節は巡っていた。アイさんと海岸を走ったあの日から、もう三カ月も経ってしまっていたんだ。あのころはまだ真夏の太陽が照り付けて、薄手のストンとしたワンピースが眩しかった。今では街路樹が殆どの葉を落とし、気の早い店からはクリスマスソングが聞こえてくる。
 コートの襟を立てて足早に街を行き交う人たちに紛れ、俺も肌を刺すような寒さから逃れるように歩みを速くする。
 コンビニでゲラの発送手続きをし、ついでにおでんの大根と玉子を買う。今日のように冷える日は、おでんが急に恋しくなるのだ。おでんが冷めないうちに急いで家に帰ろう。
 コンビニを出ると、すぐ前の店にイルミネーションで華やかに飾られた木がある。何か楽し気に話しながら眺めるカップルもいる。女性の方がちょっとアイさんに似てるような気もするが、アイさんの方が五万倍魅力的だ。

 あれから俺は三カ月間、何をしていただろう。アイさんに振り回され、投稿する予定もなかった『ヨメたぬき』を投稿させられ、それが本になり、アイさんと一緒に小説を書き、アイさんに捨てられ、そしてまたアイさんに振り回されてる。
 ずっとアイさんが俺の生活の中心にいる。俺が望んだわけじゃないのに、寧ろ俺にはちょっと迷惑だったのに。

 アイさんのいない俺が、こんなに空っぽなんて。

 はぁ……溜息しか出ない。アイさんにどうやって続きを打とうか。もう打たなくていいか。もう忘れてるか。そんなことを考えながら戻ってくると、部屋の前に人影が見えた。
 え? まさか? 嘘だろ?

「来ちゃった」

 アイさんだった。



「どうしたんですか、あれは」

 俺たちは大根と玉子しかないおでんを半分ずつつつきながら、熱いコーヒーを飲んでいる。おでんとコーヒーがこんなに合わないとは、今の今まで生きて来て全く気づかなかった。新しい発見に感謝だ。

「あれって、どれ?」
「判ってるくせに聞かないでください」
「みゅうー」

 あー、ちくしょ、この「みゅう」と上目遣いが反則なんだ。八つも年上の人の発言だと判っていても可愛く感じてしまうから、本当にタチが悪い。

「冬華さんにはダメ出しされてないですね」
「うん。なんでわかったの?」
「彼がアイさんを心配してたんです。このままではアイさんが第二の冬華白群になる、みんながそう思ってました。だけど、それを一番心配していたのは、他でもない彼自身だったんですよ」

 俺はPCを開いて彼のコメントを見せた。

「あんなに強気だった彼が、あなたの為に私を頼ってきたんです。彼は本当にアイさんの事を想ってる」
「冬華君……」
「アイさんの事を一番考えてくれているのは、実は冬華さんかもしれません。だけど、彼ではアイさんが作家として独り立ちする手助けはできません」

 アイさんが大根に箸を刺したまま顔を上げた。

「誰なら手助けできるの?」
「誰にもできませんよ。でも私なら手助けはできなくとも邪魔はしない。アイさんが横道逸れた時、レールの上に戻すことはできます」
「横道って?」
「逃げようとした時。私はアイさんを逃がさない。私と組んだら逃げることは許さない」

 大根の刺さった箸を持ったまま、アイさんが俺をじっと見つめている。

「どうしますか。これで最後にします。ここで断られたら今後一切、二度とこの話はしません。最後のチャンスです。どうしますか」

 アイさんは固まったままだ。悩むな、こんな事。即答でいいだろ、何故悩む?

「楽しんで書くだけの作家になりますか? 閲覧数が伸びなくとも評価されなくとも自分が楽しければそれでいい、趣味の作文書きになりますか? それとも……」

 俺は静かに深呼吸して続けた。

「読者に喜ばれる、アイさんだけにしか書けない作品を書く、評価される作家になりますか?」
「あたし……そんな覚悟……」
「ついて来いよ、俺に」
「え?」

 自分でも「え?」だった。俺、何言ってんだ。でも何故か言葉が勝手に口を突いて次々と飛び出して来る。

「俺なんか覚悟も何もないまま作家にされちゃったんだ。アイさんはもう二十年も前から作家になりたかったんだろ? 今更覚悟もへったくれもあるか。覚悟がないなら作家になりたいなんて言うな。他の作家になりたい人たちに失礼だろうが」
「だけど」
「だけどじゃねえよ。書くしかないだろ?」
「……」
「書こう。俺と一緒に」

 俺は返事を待った。アイさんの目に涙が溜まっていく。何をそんなに悩む必要があるんだよ? 人目なんか気にするな、閲覧数なんかいいものを書けば後からいくらでも伸びて来る。ダメ出しを恐れるな、最初から完璧な奴なんかいない。

「一緒に、いいものを作っていきましょう」

 暫くしてアイさんが小さく頷いた。

「うん」

 その返事があまりにも儚くて、ちょっとの事ですぐにも壊れてしまいそうで、彼女を抱きしめたい衝動にかられた俺は、思わず訳の分からないことを言ってしまった。

「ホットケーキ、作れますけど」