第46話 あだじがえる
二日経った。入院というのは暇なのだと心底思えた。仕事もなく娯楽もなく、時間だけはいくらでもある。この二日間だけで『ヨメたぬき』の改稿が終わってしまった。昼くらいからアイさんが来てくれると言っていたので、その時にこのゲラの送付を頼めば『ヨメたぬき』はまた一旦休みに入る。この間に『I my me mine』を進められそうだ。
なんて思っていると、アイさんがやってきた。今日も可愛い。なんだ俺、何をニヤニヤしてるんだ。ああ、もう俺って単純!
「八雲君、調子どう?」
「だいぶ良くなりました。今夜からゆるーいお粥が食べられるそうです」
「良かったね。やっぱりご飯は口からだよね」
「手袋?」
思わず口を突いて出た。アイさんが手袋をしていたのだ。そうか、そうだよな。もう十一月だ。あと一カ月半ほどで『ヨメたぬき』が書店に並ぶ。
「今日は外寒かったよ~」
「あの、寒かったのに申し訳ないんですけど、『ヨメたぬき』の改稿終わったんです。編集部に出さなきゃいけないんで、お願いしてもいいですか?」
「うん、いいよ。良かったね、終わって。病院だと他にやること無いから捗ったんでしょ」
アイさんがコートを畳みながら嬉しそうに言う。
「一階ロビーに宅配便受付窓口があったから、今行って来るよ」
そんなものがあったのか。それなら自分で行けたじゃないか。だが折角アイさんが行ってくれるというのだから、こんな恰好をしている俺が行くよりアイさんに行って貰った方がいいよな、どう考えても。
「今日はずっと八雲君と一緒にいられると思って、嬉しくてまた下書き持って来たの。この前の初雪の下書きもまだ見て貰ってないし」
はっ! そうだった。入院の前日に「初雪の話、書いたから読んでね」って言われてたんじゃないか。すっかり忘れてた。
「じゃあ、アイさんがゲラを出しに行ってくれてる間に読んでおきますよ」
アイさんはすぐに原稿を持って出て行き、五分ほどで戻ってきた。しかしその五分間は俺にとって『悶絶の五分間』だった。
「ただいま~!」
にこにこしながら俺のすぐ横に椅子を持って来るアイさんにダメ出ししなければならないかと思うと、正直気が重い。ちゃんと受け止めるとは言ってくれたものの、俺がダメ出しをするとまた「じゃ、やめる」「これ、無しにする」と言い出しそうだ。
「あの、初雪の話、読みました」
「どうだった?」
そんなワクワクした顔で見られると言いにくいな。
「単刀直入に訊きますけど、自信のない事は調べてから書いてますか?」
「にゃ? 何か変だった?」
俺はファイルを開いてアイさんに見せる。
「ここ。『空から落ちて来た霙は、少しずつ水分を失って、雪に変わっていく』どう考えても変です。霙も雪も雨も全部『水分の塊』です。水分を失うことはできません」
俺は極力怖くないように淡々と話すが、アイさんは上目遣いにもじもじしながら小声で反論を始める。
「えっと、わかってるんだけど……ちょっと言われるような気はしたんだけど」
「ちょっとじゃないですよ。プロセスからして正反対です。巻雲ができるくらいの高さではマイナス五十度、そこに流れ込んで来る水分が黄砂や火山灰などの氷核にくっつくことで雪ができます、それが空中で融けることなく地面に到達したものだけが雪として存在できるのであって、途中で気温に負けて融解したものが雨、中途半端に融解が進んだ状態で到達したものが霙です」
説明の途中からあからさまに不機嫌な表情になっていくのがわかる。
「だからわかってるってば、ちゃんと調べたんだから」
アイさんがこれ見よがしに大きな溜息をつく。だが、それを聞いて溜息を洩らしたいのは俺の方だ。
「調べたうえで? わかってて書いたんですか? ツッコまれるのを承知で?」
「そうだよ。だってあたしがそう思ったんだもん。舞はおバカさんだから、そういう発想をする子なの。あ~、水分が少なくなって雪に変わってきたよ~、ベチャベチャかサラサラだよ~、っていうくらいの発想なんだから。でもやめとく。八雲君みたいな人が読んだら、結局ただのバカだと思われちゃう」
思い切り下唇を突き出して『むくれてますアピール』だ。でもここは譲れない。
「それが書きたかったのなら『雪に変わっていく』と断言しないで『雪に変わっていくのかな』とか疑問形にすれば問題ないです。断言してしまうとそれを読んだ何も知らない読者が信じてしまうかもしれないじゃないですか。イメージならイメージだと判る書き方をしていないと、読者に不親切どころか読者を騙すことになります。後になってから『これはイメージです、信じないでください』と説明して回る方が大変になりま――」
「はいわかりましたっ。じゃあやっぱり『I my me mine』はやめましょう。あたしが変な事を書くことで八雲君に迷惑をかけるわけにはいかないからっ」
はぁ、やれやれ。結局こうなるか。
「この程度の事で簡単に『やめましょう』と言えるような話だったんですか、我々の『I my me mine』は。そんなに簡単に開き直る程度の話ですか。私は『これは無理だ』と思ったらすぐに代替案を考えます。次に向かって進むのみです。『やーめた』って簡単に言える人間ではありません。そんなこと言ってたら何一つ完成なんか見られない。きちんと形にして世に出す。着地点は書籍化だけじゃないですよ、サイトできちんと完結を迎える、これだって着地点です。アイさんにとって代替案も出さずに『じゃあやめる』なんて簡単に言える程度の話でしたか?」
膝の上に固く握ったアイさんの手が震えている。
「って言うかね、ここまで信頼できない相手と一緒にやる必要ある? どこまであたしを傷つければ気が済むの? いちいち言い方がきついよ!」
また『言い方』? なんだよ『言い方』って。そんなものじゃなくて、言ってる内容の方が大事だろ? なんで中身をちゃんと受け取ろうとしない?
「アイさん。自分だけが傷ついてるつもりなんですね。私がこれだけの言葉をアイさんに投げつけることに、全く抵抗がないと思ってるんですか? 自分が発した言葉は百パーセント自分に返って来るんですよ。それでもあなたは『ちゃんとついて行く』『全部受け止める』って言った筈です。だから私は心を鬼にでも悪魔にでもして言ってるんです。言いたくて言ってるんじゃない。それが『言い方がキツイ』だって? 笑わせんな。言い方の問題じゃない、ちゃんと中身を聞いてください。どれだけアイさんの事を心底思って言ってると思ってるんですか」
「八雲君、もうあたしのことなんかどうでもいいと思ってるんだもん。めんどくさいヤツだって」
アイさんの膝の上にボロボロと涙が落ちて行く。でも俺は見て見ぬふりを決め込む。
「どうでもいいヤツになんかここまで言いません。勝手にみんなに『凄いねー』って社交辞令言われてその気になっとけですよ。そして陰で笑われて勝手に潰れろですよ。どうでも良くない人だからここまで言うんです。……でも、私の言葉がアイさんを傷つけるためだけに発せられているのだとしか思えないなら、一緒にやっていく意味はないですね。寧ろアイさんにとって害しかないです」
自分で言ってて、だんだん情けなくなってきて、もう後半は彼女の顔なんか見ていられなかった。ああ、こうやってまた彼女と別れることになるんだ。
「ちゃんと受け止めるって……嘘をつくつもりなんか無かったんだよ。ひっく。ちゃんと書くつもりだったし、ひっく、八雲君のダメ出しだって聞くつもりだったんだよ、ひっく、だげどあだじはダメ出じさでるど、ごわいんだぼんぅぅぅうあああ~ん」
あーあ、泣きだしちゃった。洟かめ。
「いいですよ。この前『ちゃんと書きたい』と言ってくれてからの数日間は本当に幸せでした。だから無駄だとは思ってません。私は一人でも続けます」
「あだじがえる」
多分「あたし帰る」と言ったんだろう。コートとあのネイビーのカバンを持って、洟をすすりながら出て行った。俺は何も声をかけられずにその後姿を見送った。
ただでさえ小さいアイさんが、ますます小さく見えた。
二日経った。入院というのは暇なのだと心底思えた。仕事もなく娯楽もなく、時間だけはいくらでもある。この二日間だけで『ヨメたぬき』の改稿が終わってしまった。昼くらいからアイさんが来てくれると言っていたので、その時にこのゲラの送付を頼めば『ヨメたぬき』はまた一旦休みに入る。この間に『I my me mine』を進められそうだ。
なんて思っていると、アイさんがやってきた。今日も可愛い。なんだ俺、何をニヤニヤしてるんだ。ああ、もう俺って単純!
「八雲君、調子どう?」
「だいぶ良くなりました。今夜からゆるーいお粥が食べられるそうです」
「良かったね。やっぱりご飯は口からだよね」
「手袋?」
思わず口を突いて出た。アイさんが手袋をしていたのだ。そうか、そうだよな。もう十一月だ。あと一カ月半ほどで『ヨメたぬき』が書店に並ぶ。
「今日は外寒かったよ~」
「あの、寒かったのに申し訳ないんですけど、『ヨメたぬき』の改稿終わったんです。編集部に出さなきゃいけないんで、お願いしてもいいですか?」
「うん、いいよ。良かったね、終わって。病院だと他にやること無いから捗ったんでしょ」
アイさんがコートを畳みながら嬉しそうに言う。
「一階ロビーに宅配便受付窓口があったから、今行って来るよ」
そんなものがあったのか。それなら自分で行けたじゃないか。だが折角アイさんが行ってくれるというのだから、こんな恰好をしている俺が行くよりアイさんに行って貰った方がいいよな、どう考えても。
「今日はずっと八雲君と一緒にいられると思って、嬉しくてまた下書き持って来たの。この前の初雪の下書きもまだ見て貰ってないし」
はっ! そうだった。入院の前日に「初雪の話、書いたから読んでね」って言われてたんじゃないか。すっかり忘れてた。
「じゃあ、アイさんがゲラを出しに行ってくれてる間に読んでおきますよ」
アイさんはすぐに原稿を持って出て行き、五分ほどで戻ってきた。しかしその五分間は俺にとって『悶絶の五分間』だった。
「ただいま~!」
にこにこしながら俺のすぐ横に椅子を持って来るアイさんにダメ出ししなければならないかと思うと、正直気が重い。ちゃんと受け止めるとは言ってくれたものの、俺がダメ出しをするとまた「じゃ、やめる」「これ、無しにする」と言い出しそうだ。
「あの、初雪の話、読みました」
「どうだった?」
そんなワクワクした顔で見られると言いにくいな。
「単刀直入に訊きますけど、自信のない事は調べてから書いてますか?」
「にゃ? 何か変だった?」
俺はファイルを開いてアイさんに見せる。
「ここ。『空から落ちて来た霙は、少しずつ水分を失って、雪に変わっていく』どう考えても変です。霙も雪も雨も全部『水分の塊』です。水分を失うことはできません」
俺は極力怖くないように淡々と話すが、アイさんは上目遣いにもじもじしながら小声で反論を始める。
「えっと、わかってるんだけど……ちょっと言われるような気はしたんだけど」
「ちょっとじゃないですよ。プロセスからして正反対です。巻雲ができるくらいの高さではマイナス五十度、そこに流れ込んで来る水分が黄砂や火山灰などの氷核にくっつくことで雪ができます、それが空中で融けることなく地面に到達したものだけが雪として存在できるのであって、途中で気温に負けて融解したものが雨、中途半端に融解が進んだ状態で到達したものが霙です」
説明の途中からあからさまに不機嫌な表情になっていくのがわかる。
「だからわかってるってば、ちゃんと調べたんだから」
アイさんがこれ見よがしに大きな溜息をつく。だが、それを聞いて溜息を洩らしたいのは俺の方だ。
「調べたうえで? わかってて書いたんですか? ツッコまれるのを承知で?」
「そうだよ。だってあたしがそう思ったんだもん。舞はおバカさんだから、そういう発想をする子なの。あ~、水分が少なくなって雪に変わってきたよ~、ベチャベチャかサラサラだよ~、っていうくらいの発想なんだから。でもやめとく。八雲君みたいな人が読んだら、結局ただのバカだと思われちゃう」
思い切り下唇を突き出して『むくれてますアピール』だ。でもここは譲れない。
「それが書きたかったのなら『雪に変わっていく』と断言しないで『雪に変わっていくのかな』とか疑問形にすれば問題ないです。断言してしまうとそれを読んだ何も知らない読者が信じてしまうかもしれないじゃないですか。イメージならイメージだと判る書き方をしていないと、読者に不親切どころか読者を騙すことになります。後になってから『これはイメージです、信じないでください』と説明して回る方が大変になりま――」
「はいわかりましたっ。じゃあやっぱり『I my me mine』はやめましょう。あたしが変な事を書くことで八雲君に迷惑をかけるわけにはいかないからっ」
はぁ、やれやれ。結局こうなるか。
「この程度の事で簡単に『やめましょう』と言えるような話だったんですか、我々の『I my me mine』は。そんなに簡単に開き直る程度の話ですか。私は『これは無理だ』と思ったらすぐに代替案を考えます。次に向かって進むのみです。『やーめた』って簡単に言える人間ではありません。そんなこと言ってたら何一つ完成なんか見られない。きちんと形にして世に出す。着地点は書籍化だけじゃないですよ、サイトできちんと完結を迎える、これだって着地点です。アイさんにとって代替案も出さずに『じゃあやめる』なんて簡単に言える程度の話でしたか?」
膝の上に固く握ったアイさんの手が震えている。
「って言うかね、ここまで信頼できない相手と一緒にやる必要ある? どこまであたしを傷つければ気が済むの? いちいち言い方がきついよ!」
また『言い方』? なんだよ『言い方』って。そんなものじゃなくて、言ってる内容の方が大事だろ? なんで中身をちゃんと受け取ろうとしない?
「アイさん。自分だけが傷ついてるつもりなんですね。私がこれだけの言葉をアイさんに投げつけることに、全く抵抗がないと思ってるんですか? 自分が発した言葉は百パーセント自分に返って来るんですよ。それでもあなたは『ちゃんとついて行く』『全部受け止める』って言った筈です。だから私は心を鬼にでも悪魔にでもして言ってるんです。言いたくて言ってるんじゃない。それが『言い方がキツイ』だって? 笑わせんな。言い方の問題じゃない、ちゃんと中身を聞いてください。どれだけアイさんの事を心底思って言ってると思ってるんですか」
「八雲君、もうあたしのことなんかどうでもいいと思ってるんだもん。めんどくさいヤツだって」
アイさんの膝の上にボロボロと涙が落ちて行く。でも俺は見て見ぬふりを決め込む。
「どうでもいいヤツになんかここまで言いません。勝手にみんなに『凄いねー』って社交辞令言われてその気になっとけですよ。そして陰で笑われて勝手に潰れろですよ。どうでも良くない人だからここまで言うんです。……でも、私の言葉がアイさんを傷つけるためだけに発せられているのだとしか思えないなら、一緒にやっていく意味はないですね。寧ろアイさんにとって害しかないです」
自分で言ってて、だんだん情けなくなってきて、もう後半は彼女の顔なんか見ていられなかった。ああ、こうやってまた彼女と別れることになるんだ。
「ちゃんと受け止めるって……嘘をつくつもりなんか無かったんだよ。ひっく。ちゃんと書くつもりだったし、ひっく、八雲君のダメ出しだって聞くつもりだったんだよ、ひっく、だげどあだじはダメ出じさでるど、ごわいんだぼんぅぅぅうあああ~ん」
あーあ、泣きだしちゃった。洟かめ。
「いいですよ。この前『ちゃんと書きたい』と言ってくれてからの数日間は本当に幸せでした。だから無駄だとは思ってません。私は一人でも続けます」
「あだじがえる」
多分「あたし帰る」と言ったんだろう。コートとあのネイビーのカバンを持って、洟をすすりながら出て行った。俺は何も声をかけられずにその後姿を見送った。
ただでさえ小さいアイさんが、ますます小さく見えた。