第33話 露天風呂
はあー、なんだかな。新宿でアイさんに会ったその日から、俺はずっと彼女に振りまわされっぱなしだ。
っていうか! 言い出しっぺのアイさんが何も考えてない。なのに次々アップしてしまう。何考えてんだ?
……なんて心の中でアイさんへの苦情を申し立てていると、ドアを開ける音がして、誰かが露天風呂の方にやってきた。俺はその人のために、少し奥の方に移動した。
「こんばんは、お邪魔します」
「ああ、はい、どうぞ」
えらい丁寧な人だな。動きに品の良さが漂ってる。
だが俺は人見知りだ、話しかけないでくれよ? と思った瞬間、ものの見事にその願い打ち砕かれた。彼は穏やかな笑みをこちらに向けてきた。
「ここの露天風呂はいいですね。湯加減もいいし、星もよく見える」
「そうですね」
俺はそっけなく当たり障りのない返事をするが、彼はどうも話したそうだ。
「今日は三度目です。朝と夕方、それと今」
「朝? 昨日も泊ったんですか?」
あ、俺、話しかけないでくれと思いつつ、しっかり反応しちゃってる。
「ここ一週間泊まってます。明日帰らなければならないんですが」
えーっ! ここ、高いぞ? 一泊三万円って聞いたぞ? 俺たちはタダだけど。
「もしかして石油王ですか?」
「あははは、まさか。しがないサラリーマンですよ」
でもあんた、五十行ってないだろ? 四十代後半てとこだろ?
「どんなヤバい仕事してるんですか?」
「ただのIT企業ですよ。リフレッシュ休暇がとれたので、家内が稼いだお金で旅行です」
奥さんが稼いだ?
「奥さんとご一緒なんですか」
「いや、一人です」
この人の話、訳が分からん。まるでミステリーだ。
「家内が料理研究家やってまして、本も何冊も出してるんですよ。それで自分の料理教室の生徒さんたちとハワイに旅行に行ってるんです。僕はハワイよりはこっちでのんびりしたいですし、次作の取材がてら……」
「え? 次作の取材?」
「ええ、家内に対抗して小説の真似事のようなものを書いています」
思わず俺は身を乗り出した。
「へえ、そうだったんですか。私はあるサイトの読者で、結構色々読んでるんですけど、そういうサイトに投稿したことありますか?」
「ええ、恥ずかしながら、何作か」
「今度読みます! ペンネーム教えて貰えますか?」
まさか。まさかここでこの名前を聞くことになるとは。
「氷川……鋭です。主にミステリーなんですが、ミステリー、お好きですか?」
「えええええええっ? 氷川さん? 『秋吉台殺人事件』の? 『指宿温泉殺人事件』の? 『鬼押し出し殺人事件』の? あの氷川鋭さんですか?」
「ああ、まさか読者の方とこんなところでお話しできるなんて。その氷川です」
おいおいおい、ミステリーの帝王と一緒に露天風呂だよ!
「ああ、嬉しいなぁ。そうですか。あの、あなたは読み専さんですか? 何か書いてらっしゃるんですか?」
え。それを俺に聞く?
俺は今までのテンションが下がり切れないまま、脳味噌だけが一気に氷点下まで下がってしまった。
「あ……ええ、まあ、それこそ小学生の作文のようなものを……」
「ペンネーム、教えて貰えますか?」
氷川さんが爽やかすぎる笑顔で俺に聞いて来る。爽やかすぎて、逆に今の俺には恐怖しか感じられない。
「ふ、藤森、八雲、です」
今度は氷川さんが驚く番だった。まさか彼が俺のような素人なんか知ってるはずはないだろうと思ったが、その甘い期待は脆くもガラガラと音を立てて砕け散った。
「藤森八雲さん? 『ヨメたぬき』の? 『I my me mine - side伊織』の?」
氷川さん、めっちゃ俺のこと知ってんじゃん……。
「ああ、それです」
無意識に語尾がディミニエンドしていく。
「いやぁ、そうでしたか。奇遇ですね。藤森さんも取材ですか?」
氷川さん、めちゃくちゃ嬉しそうだ。作風からは考えられないほど人懐っこいな。
「ええ、まあ、そんな感じです。氷川さんは何を取材されてるんですか? 次はもしかして『志摩殺人事件』?」
「そうですそうです。英虞湾を舞台にして真珠がキーワードになるミステリーなんですよ。いやぁ、しかし、まさかこんなところで藤森さんにお目にかかれるとは」
しかし俺はのぼせて来たんだ。もう茹でダコになりそうだ。
「私の方も氷川さんにお会いできて光栄です。もっとゆっくりお話ししたいんですが、茹で上がってきてしまったので、そろそろお先に失礼します」
「もし良ければ、僕の部屋1024号室なんですが、後でいらっしゃいませんか? もう少しお話したいんですが」
もしかして俺、気に入られてる?
「ありがとうございます。すみませんが連れがいるので……」
「あ、そうですよね。これはお引き留めしてしまってすみません。また機会があればゆっくりと」
「はい、ありがとうございます」
俺は百万ドルの笑顔を向ける氷川さんに曖昧な笑顔を向けてその場を離れた。
はあー、なんだかな。新宿でアイさんに会ったその日から、俺はずっと彼女に振りまわされっぱなしだ。
っていうか! 言い出しっぺのアイさんが何も考えてない。なのに次々アップしてしまう。何考えてんだ?
……なんて心の中でアイさんへの苦情を申し立てていると、ドアを開ける音がして、誰かが露天風呂の方にやってきた。俺はその人のために、少し奥の方に移動した。
「こんばんは、お邪魔します」
「ああ、はい、どうぞ」
えらい丁寧な人だな。動きに品の良さが漂ってる。
だが俺は人見知りだ、話しかけないでくれよ? と思った瞬間、ものの見事にその願い打ち砕かれた。彼は穏やかな笑みをこちらに向けてきた。
「ここの露天風呂はいいですね。湯加減もいいし、星もよく見える」
「そうですね」
俺はそっけなく当たり障りのない返事をするが、彼はどうも話したそうだ。
「今日は三度目です。朝と夕方、それと今」
「朝? 昨日も泊ったんですか?」
あ、俺、話しかけないでくれと思いつつ、しっかり反応しちゃってる。
「ここ一週間泊まってます。明日帰らなければならないんですが」
えーっ! ここ、高いぞ? 一泊三万円って聞いたぞ? 俺たちはタダだけど。
「もしかして石油王ですか?」
「あははは、まさか。しがないサラリーマンですよ」
でもあんた、五十行ってないだろ? 四十代後半てとこだろ?
「どんなヤバい仕事してるんですか?」
「ただのIT企業ですよ。リフレッシュ休暇がとれたので、家内が稼いだお金で旅行です」
奥さんが稼いだ?
「奥さんとご一緒なんですか」
「いや、一人です」
この人の話、訳が分からん。まるでミステリーだ。
「家内が料理研究家やってまして、本も何冊も出してるんですよ。それで自分の料理教室の生徒さんたちとハワイに旅行に行ってるんです。僕はハワイよりはこっちでのんびりしたいですし、次作の取材がてら……」
「え? 次作の取材?」
「ええ、家内に対抗して小説の真似事のようなものを書いています」
思わず俺は身を乗り出した。
「へえ、そうだったんですか。私はあるサイトの読者で、結構色々読んでるんですけど、そういうサイトに投稿したことありますか?」
「ええ、恥ずかしながら、何作か」
「今度読みます! ペンネーム教えて貰えますか?」
まさか。まさかここでこの名前を聞くことになるとは。
「氷川……鋭です。主にミステリーなんですが、ミステリー、お好きですか?」
「えええええええっ? 氷川さん? 『秋吉台殺人事件』の? 『指宿温泉殺人事件』の? 『鬼押し出し殺人事件』の? あの氷川鋭さんですか?」
「ああ、まさか読者の方とこんなところでお話しできるなんて。その氷川です」
おいおいおい、ミステリーの帝王と一緒に露天風呂だよ!
「ああ、嬉しいなぁ。そうですか。あの、あなたは読み専さんですか? 何か書いてらっしゃるんですか?」
え。それを俺に聞く?
俺は今までのテンションが下がり切れないまま、脳味噌だけが一気に氷点下まで下がってしまった。
「あ……ええ、まあ、それこそ小学生の作文のようなものを……」
「ペンネーム、教えて貰えますか?」
氷川さんが爽やかすぎる笑顔で俺に聞いて来る。爽やかすぎて、逆に今の俺には恐怖しか感じられない。
「ふ、藤森、八雲、です」
今度は氷川さんが驚く番だった。まさか彼が俺のような素人なんか知ってるはずはないだろうと思ったが、その甘い期待は脆くもガラガラと音を立てて砕け散った。
「藤森八雲さん? 『ヨメたぬき』の? 『I my me mine - side伊織』の?」
氷川さん、めっちゃ俺のこと知ってんじゃん……。
「ああ、それです」
無意識に語尾がディミニエンドしていく。
「いやぁ、そうでしたか。奇遇ですね。藤森さんも取材ですか?」
氷川さん、めちゃくちゃ嬉しそうだ。作風からは考えられないほど人懐っこいな。
「ええ、まあ、そんな感じです。氷川さんは何を取材されてるんですか? 次はもしかして『志摩殺人事件』?」
「そうですそうです。英虞湾を舞台にして真珠がキーワードになるミステリーなんですよ。いやぁ、しかし、まさかこんなところで藤森さんにお目にかかれるとは」
しかし俺はのぼせて来たんだ。もう茹でダコになりそうだ。
「私の方も氷川さんにお会いできて光栄です。もっとゆっくりお話ししたいんですが、茹で上がってきてしまったので、そろそろお先に失礼します」
「もし良ければ、僕の部屋1024号室なんですが、後でいらっしゃいませんか? もう少しお話したいんですが」
もしかして俺、気に入られてる?
「ありがとうございます。すみませんが連れがいるので……」
「あ、そうですよね。これはお引き留めしてしまってすみません。また機会があればゆっくりと」
「はい、ありがとうございます」
俺は百万ドルの笑顔を向ける氷川さんに曖昧な笑顔を向けてその場を離れた。