第30話 なんつった?

 夜、俺たちはホテルのレストランで、滅多にお目にかかれないゴージャスな夕食を前に乾杯していた。

「すっごい伊勢エビ! きゃはっ、美味しい!」

 とアイさんがご満悦なのも無理はない。本当に『すっごい』大きさなのだ。

「こうして殻付きのまま出てくると、いかにも節足動物って感じですね」
「もー、八雲君てば」

 正直、お風呂上がりのアイさんは、変に色っぽい。浴衣だからだろうか。いつも色気も素っ気もないストンとした飾り気のないワンピースなせいか、浴衣姿が眩しくてドキドキする。

「どうしたの? 何見てんの?」
「あ、いえ」

 俺は慌てて視線を逸らし、アワビに箸を伸ばす。
 昼間の浜焼きのサザエもワイルドで美味しかったが、伊勢エビとアワビの刺身も絶品だ。これが懸賞で当たったなんて、ツイてるにもほどがある。しかも俺は誘われただけだ、人生の運をここで使い果たしちゃったんじゃないだろうな?

「お船、凄かったねー。島と島の間を通るときなんて最高!」
「船長さんの解説も面白かったですね」
「小さいのにして正解だったね。海に手が届きそうだった」

 アイさんの唇、可愛い。ああ、俺、何考えてんだ、変態か。

「ねえ、サイト見た?」
「いえ、今日は見てないです」
「『ヨメたぬき』、総合ランキング2位だったよ」

 カニのハサミ使って言うのやめてくれ。

「そうですか。世の中、ナンセンスコメディに飢えてるんですかね」
「てゆーか、あれ、ラブコメじゃん。たぬきが必死になって嫁アピールしてるとこなんか凄い可愛いし、旦那がたぬきをカバンに入れて持ち歩くのとか、想像しただけでキュンキュンだよー」

 あー、うめえ。アワビうめえ。このコリコリ感、たまんねー。伊勢エビが舌の上でとろけるー。

「あとさ、旦那が凄い寒がりで、湯たんぽ代わりに嫁抱っこしてるとことか、もう、悶絶レベル。たぬき『きゅーん』って鳴かないでしょ、普通」
「たぬきの鳴き声なんか知りませんよ」

 胡麻豆腐うめえ。茶碗蒸しうめえ。天ぷらうめえ。

「もう、八雲君てばランキング興味ないの?」
「無いです。たくさんの人が読んで笑ってくれればいいだけなんで。胡麻豆腐、美味しいですよ」

 アイさんも胡麻豆腐を口に含んで「んー!」と濁音付きで唸ってる。な、美味いだろ?

「ところで、あれから担当さんから連絡あった?」
「いえ、特に」

 ……。
 え? 今なんつった?

「八雲君、あたしに隠してたんだ」
「え、あ、何がですか」
「やっぱりもう拾い上げの打診、来てたんだね」
「拾い上げって、何ですか」

 俺は必死に『意味わかりません』アピールしたが、そもそも演技力が皆無に等しいうえに『嘘がつけないヤツ』と昔から言われている。

「八雲君さ、嘘つくの絶望的に下手」
「なっ、何の話ですか」

 焦る俺を憐みの目で見ながら、アイさんが落ち着いて俺の方を指す。

「八雲君、それ、天つゆ」

 はっ! 俺は何故、刺身を天つゆに? 動揺しすぎだろ、俺!

「天つゆに山葵(わさび)入っちゃったよ。天つゆ代えて貰おうね」
「いや、全然問題な……」
「すいませーん、天つゆお願いします」

 もう頼んでる。早い。

「八雲君」

 アイさんが箸を置いて俺を真っ直ぐに見た。俺的には黙っていたことに対するアイさんへの良心の呵責で、とても目なんか合わせられる心理状態ではないんだが、アイさんの姿勢が俺にそれを許さない。

「おめでとう」

 妙にしんみりした口調で言われて、俺はどんな顔をしたらいいのかわからない。

「あ、ありがとう……ございます」
「ね、言ったとおりでしょ? 『ヨメたぬき』、本になるって」

 俺が返答に困っていると、彼女が俺のグラスにビールを注いだ。

「乾杯し直さなきゃね」
「ありがとうございます」

 俺たちは改めてグラスを合わせた。

「やっぱりあたしの目に狂いはなかった。この人は絶対に読み専で終わる人じゃないって思ってたもん」
「そう、ですかね?」
「あたしも頑張らなくちゃね、『I my me mine』の書籍化を賭けたんだから」

 あ、そうだった。新幹線の中で。

「だからあたしが八雲君のお嫁さんになるのを賭けようとした時、全力で拒否したんだね。くふっ」
「あ、いや、その」

 そのとおりだよ。

「書籍化作家と組んでるんだもん。あたしも頑張らないとね。釣り合ってないよって言われたくないもん」
「そんな。アイさんの方が人気あるから、それは無いですよ」
「それは『ヨメたぬき』を発表する前の事でしょ。今は八雲君の方が人気出てるんだよ。あたしが迷子になっちゃわないように、しっかり捕まえててね」
「迷子って、もう大人じゃないですか」

 この時の俺は、まだ『迷子』の意味をわかっていなかったんだ。