第26話 祝杯

 二日後の夕方、俺とアイさんは例の恵比寿のバルで祝杯を上げていた。俺としては祝杯という気分ではなかったんだが、アイさんの「お祝いしよう!」に負けてしまった形だ。
 そして相変わらず名前の覚えられない「ケーキのようなオムレツ」と「豆をトマトで煮込んだヤツ」をつまみに、カーニャで乾杯していた。

「凄いよ、八雲君。初めて投稿する人なんて十日くらい閲覧ゼロなんて当たり前なのに、八雲君、一話目だけで閲覧数三ケタ行ってたじゃん! 凄いよ、大型新人だよ!」

 いつものようにストンとしたワンピースに薄手のカーディガンを羽織ったアイさんが、やや興奮気味に語っている。

「あれはアイさんが先にアップして、side伊織の宣伝してくれてたからですよ。読み専のド素人を口説き落として相棒にしたなんて書いたら、そりゃコラボ相手は誰なんだって大騒ぎにもなりますよ」
「てへっ。ホントの事だし」

 音声化された「てへっ」と共に、彼女の口にエンドウ豆がコロンと入る。 

「そんな中で私がこっそりスタートしても、アイさんが近況報告ページで思いっきり私の方のリンク貼って声高にスタートを宣言したら、みんな見に行きたくなるってもんですよ。面白い面白くない以前の問題として『あの人気投稿者・榊アイの選んだ相棒の作品、見てやろうじゃねーか』ってそういう位置づけですよ。逆にそれだけの事でしかないですよ」
「でもさでもさ、あたしの五話分のトータル閲覧数より、八雲君の一話分の方が多いよ?」
「だから、そういう理由なんですよ。二話目、三話目でわかります。きっと閲覧数上がりませんよ。ゼロかもしれない。一話目で『ふーん、コイツ、この程度ね』で、満足するでしょうからね。それより私はアイさんのファンが怖いですよ。とても祝杯って気分じゃないです」

 そう言ってオムレツを口に運ぶ。腹減ったな、パエリアまだかな。

「大丈夫。八雲君の事悪く言う人がいたら、あたしがシメてあげるから」

 真顔で言うアイさんが可愛くて、ちょっと吹きそうになる。お姉さんのつもりなんだろうな。まあ実際八つもお姉さんだが。

「ねえ、『ヨメたぬき』改稿進んでる?」
「まあまあですね。それどころじゃないですし。『side舞』が五話行ってるのに『side伊織』が一話じゃバランス悪いんで、今は伊織に専念してます。アイさん、一体何話ストックがあるんですか?」
「ストック?」

 なんだ、その『初めて耳にする言葉に首を傾げています』的アピールは。

「何話、書き溜めてあるんですか?」
「五話だよ」
「いや、アップした数じゃなくて」
「あたしは溜めないの。書いたらアップ」

 え? えええ? ストック無しか?

「八雲君は書き溜めてからアップするの?」
「当然ですよ、後で辻褄が合わなくなったら大変ですから」

 アイさんはふふっと笑うとグラスを空け、サングリアを注文する。もちろん俺の分もだ。

「その時はその時でしょ?」
「その時って……まあ、いいですよ。辻褄が合わなくなりそうだと思ったら私の方で何とかうまく合わせます。その代わり、あまり無茶すると手の施しようが無くなってしまいますから、今度からアップする前に下書きを見せて貰えませんか? 僕も見せますから」
「うん、わかった。そうしよっ。とにかく飲もうよ。今日は八雲君の小説サイトデビューのお祝い!」

 ちょうどそこにパエリアとサングリアが運ばれてきた。これはサングリアで乾杯しろって事らしい。ので、とりあえずしておいた。

「ねぇ、そんなことより、八雲君、一緒にどっか泊りがけで旅行しない?」

 俺は噴きそうになったサングリアを、辛うじて口の中に留めておくことに成功した。が、その代償は思ったより大きく、留まった筈のサングリアは気管に逆流したらしい。むせかえって目を白黒させている俺に、アイさんは「大丈夫~?」なんて言っている。大丈夫な訳がないだろう、誰のせいだと思ってんだよ。

「なっ、何なんですか唐突に!」

 やっと少し呼吸が落ち着いたところでなんとか疑問を口にするが、彼女は『なぜそんなわかりきったことを聞くかなぁ?』って顔をしている。

「舞と伊織のネタが無いから、何かネタ作りに一緒に旅行とかどうかなって思って」
「ネタの為に旅行ですか?」
「ネタの為にデートだってしたじゃん。新潟の海とか鶴見川の花火とか」
「だからって旅行までしなくたっていいでしょう。何考えてんですか」
「いいことっ」

 語尾にハート付けて喋るな。いろいろ変な想像するだろ。

「八雲君、あたしのこと好きでしょ?」
「いや、え、あ、まあ、それは好きですけど、それとこれとは話が別じゃないですか」
「好きな人と旅行って変?」
「変じゃないですけど、私たちはそういう特別な関係じゃないじゃないですか」
「キスする関係だよ」

 俺は思わず店内をきょろきょろと見渡した。そんなこと大きな声で言わないで欲しい、恵比寿は会社から近いんだ、誰がいるか判らんだろうが。

「何慌ててるの?」
「キスとか言わないでくださいよ」

 当然だが、俺は身を乗り出して囁くように言った。

「だって鶴見川の花火の時、八雲君してくれたじゃない」
「しましたけど」
「しかも何度も何度もチュッチュッチュッて」
「……言語化しないでください、お願いですから」
「何度もするほどあたしのことが大好きなんでしょ? キスが止まらなくなっちゃうくらい」

 だから、言語化するな。音声化するな。

「そんなに好きなら、もう認めたらいいじゃない。旅行しよっ」

 確かに俺はあの時制御不能だったよ、アイさんが可愛すぎてヤバかったよ、いろんな意味で。神社で本当に良かったと思ってるよ。
 でもな、旅行はまずいだろ。しかもなんだよ、泊りがけって。誘ってんのかよ。俺だって据え膳は食うぞ。おかわりだってするぞ。

「でもその前に、side伊織も最低五話アップしとかないとねっ」
「ああ、まぁ、そうですね。今十話くらいストックがあるんで、二十話くらいのストックは欲しいですね」

 俺がムール貝にフォークを突き立てると、彼女はエビを同じようにフォークで刺して、俺の前に突き出した。

「乾杯!」

 はぁ……なんでムール貝とエビで乾杯なんだよ。まあいいか。こうして俺はまた流される。