第23話 サラスヴァティ
二日後、俺はアイさんを川崎に呼び出した。もちろん鶴見川の花火を見るためだ。実は俺には特別なスポットがある。そこだと誰にも邪魔されずに花火を堪能できるのだ。
花火は夜なので夕方に会おうと呼び出したのだが、アイさんがお昼を一緒に食べたいと言い出したので昼間から会うことになった。なんだかまたデートのようになっている。最近多いな、この構図。
アイさんのお気に入りのお店があるというのでついて行ったら、またまた隠れ家的なところに連れ込まれた。この人、首都圏のあちこちにアジトを持ってるらしい。
梵字っぽい記号が並んだいかにも怪しげな看板のかかるお店のドアを開けると……中はもっと怪しい雰囲気が漂っている。
インド綿のカーテンに縁どられた窓、燭台のようなランプのような照明器具、アンティークと呼ばれるものとはちょっと違う感じの古めかしい椅子やテーブルなどの調度品、一目でガネーシャやラクシュミーと判るヒンドゥー神の真鍮製ペーパーウェイト。全てにおいて怪しい。とにかく怪しい。
「ここ、何屋さんですか?」
恐る恐る訊くと、アイさんは俺とは対称的にとても楽しげに笑う。
「インド料理のお店だよ。見たらわかるでしょ。ここのカレー、すっごく美味しいの」
「イラッシャイマセ」
うわぁ、店主、本物のインド人だ、凄い。席も少ししかなくて、テーブルも六つしかないところを見ると、完全家内制手工業ってやつか。
俺たちは案内された席に座り、「本日のおすすめ」という、何が出て来るかわからないものにチャレンジすることを告げ、やっと一息ついた。
さて、落ち着いてみると、今度はアイさんが気になる。今日の彼女は珍しく、いつものような長いがばっとしたワンピースではないのだ。ミニのワンピースにひざ下くらいのパンツを合わせている。足元はいつものサボだが、長いストンとしたワンピースしか見たことがないせいか、今日は別人のように感じる。とは言え、こうして座ってしまうと、もう下の方は見えなくなるのだが。
「結論から言うね」
水を一口飲むと、アイさんはいきなり切り出した。しかもあのアイさんが結論からスタートするなどとは、天変地異の前触れか?
「昨日のメール、貰ってすぐに読んだの。ラブコメっぽいって言ってたやつ」
「ああ、あれですか」
そう、俺は昨日、例のラブコメもどきを全部打ち終えて、メールに添付してアイさんに送ったのだ。
「あれは正真正銘のラブコメ」
「いいんですかね? ヒロイン、たぬきですよ?」
「ラブコメでいいと思う。愛する奥さんが化けたぬきだったと知って裏切られた感満載のところに、それでも彼を思う化けたぬきの一途な思いに、彼の気持ちが揺れ動いていく過程が書きたいんでしょ?」
「そうです」
「じゃ、ラブコメね」
ふーん、そんなもんなのか。じゃ、とりあえずこれはラブコメだ。
伝票を押さえているペーパーウェイトが気になるのか、アイさんは喋りながらもずっとその真鍮製のヒンドゥー神をいじくりまわしている。
「ねえ、この人、何か楽器っぽいの持ってる」
「人って……神様ですよ。サラスヴァティでしょう。日本で言うところの弁財天ですよ。持ってる楽器はヴィーナっていうインドの楽器です」
え? 俺何か変なこと言ったか? 何でそんな目で見る?
「凄いね、八雲君そんなこと知ってるの?」
「割と普通じゃないですか?」
「普通じゃないよ」
「そうですかね」
「何の話だっけ?」
……アイさんがサラスヴァティに話を逸らしたんだよね。
「結論から言うとこれはラブコメである、という話です」
「あ、そうだった。てへ」
って言うかそれだけかよ……と俺の顔に書いてあったのかどうかは定かではないが、アイさんがペーパーウェイトを元に戻して急に真面目な顔になる。
「八雲君、このお話、サイトに上げようよ」
「このって、どの?」
「八雲君のラブコメ、あとタイトル決めるだけじゃん。面白かったよ、すっごいキュンキュンした。この主人公たちの気持ちがすれ違っていくたびに『違うよー、そういう意味じゃないんだよー』って教えてあげたくなる感じとか、『そこで一言、愛を囁くんだ!』とか、悶絶じれじれしたよ。これ、絶対ウケるよ。藤森八雲の名前で出そうよ!」
「読者つかないんじゃないですか?」
ちょっと投げ気味に言うと、アイさんはテーブルに肘をついて身を乗り出してきた。
「つくよっ。文体は軽めで読みやすいし、同じ年齢層の子たちなら自分に投影して読めるもん。女性ファンが絶対つく! ねっ、これ、アップしよう」
なんか逆らえないようなパワーというかオーラというか、そんなもんがあるんだが。
「あー。じゃあ、もう少し練ってから……今のままじゃほんとラフスケッチ状態ですから。アイさんだから見せたんですよ、他の人にこんなもん見られたら、本当に東京湾に身投げしますよ、原稿と一緒に」
って言ったらさ、何をどう勘違いしたのか、それはそれは嬉しそうににっこり笑ってこう言ったんだ。
「あたしだけに見せてくれたんだね。あたしは特別だもんね、八雲君」
なんか違う。って言うかそういう意味じゃない。いや、まあ、特別だけど、アイさんの言う『特別』とは多分意味が違う。
と思っていたら、『本日のおすすめ』という名の何種類かのカレーと黒米ごはんとナンが運ばれてきたので、この話は一旦中断となった。
二日後、俺はアイさんを川崎に呼び出した。もちろん鶴見川の花火を見るためだ。実は俺には特別なスポットがある。そこだと誰にも邪魔されずに花火を堪能できるのだ。
花火は夜なので夕方に会おうと呼び出したのだが、アイさんがお昼を一緒に食べたいと言い出したので昼間から会うことになった。なんだかまたデートのようになっている。最近多いな、この構図。
アイさんのお気に入りのお店があるというのでついて行ったら、またまた隠れ家的なところに連れ込まれた。この人、首都圏のあちこちにアジトを持ってるらしい。
梵字っぽい記号が並んだいかにも怪しげな看板のかかるお店のドアを開けると……中はもっと怪しい雰囲気が漂っている。
インド綿のカーテンに縁どられた窓、燭台のようなランプのような照明器具、アンティークと呼ばれるものとはちょっと違う感じの古めかしい椅子やテーブルなどの調度品、一目でガネーシャやラクシュミーと判るヒンドゥー神の真鍮製ペーパーウェイト。全てにおいて怪しい。とにかく怪しい。
「ここ、何屋さんですか?」
恐る恐る訊くと、アイさんは俺とは対称的にとても楽しげに笑う。
「インド料理のお店だよ。見たらわかるでしょ。ここのカレー、すっごく美味しいの」
「イラッシャイマセ」
うわぁ、店主、本物のインド人だ、凄い。席も少ししかなくて、テーブルも六つしかないところを見ると、完全家内制手工業ってやつか。
俺たちは案内された席に座り、「本日のおすすめ」という、何が出て来るかわからないものにチャレンジすることを告げ、やっと一息ついた。
さて、落ち着いてみると、今度はアイさんが気になる。今日の彼女は珍しく、いつものような長いがばっとしたワンピースではないのだ。ミニのワンピースにひざ下くらいのパンツを合わせている。足元はいつものサボだが、長いストンとしたワンピースしか見たことがないせいか、今日は別人のように感じる。とは言え、こうして座ってしまうと、もう下の方は見えなくなるのだが。
「結論から言うね」
水を一口飲むと、アイさんはいきなり切り出した。しかもあのアイさんが結論からスタートするなどとは、天変地異の前触れか?
「昨日のメール、貰ってすぐに読んだの。ラブコメっぽいって言ってたやつ」
「ああ、あれですか」
そう、俺は昨日、例のラブコメもどきを全部打ち終えて、メールに添付してアイさんに送ったのだ。
「あれは正真正銘のラブコメ」
「いいんですかね? ヒロイン、たぬきですよ?」
「ラブコメでいいと思う。愛する奥さんが化けたぬきだったと知って裏切られた感満載のところに、それでも彼を思う化けたぬきの一途な思いに、彼の気持ちが揺れ動いていく過程が書きたいんでしょ?」
「そうです」
「じゃ、ラブコメね」
ふーん、そんなもんなのか。じゃ、とりあえずこれはラブコメだ。
伝票を押さえているペーパーウェイトが気になるのか、アイさんは喋りながらもずっとその真鍮製のヒンドゥー神をいじくりまわしている。
「ねえ、この人、何か楽器っぽいの持ってる」
「人って……神様ですよ。サラスヴァティでしょう。日本で言うところの弁財天ですよ。持ってる楽器はヴィーナっていうインドの楽器です」
え? 俺何か変なこと言ったか? 何でそんな目で見る?
「凄いね、八雲君そんなこと知ってるの?」
「割と普通じゃないですか?」
「普通じゃないよ」
「そうですかね」
「何の話だっけ?」
……アイさんがサラスヴァティに話を逸らしたんだよね。
「結論から言うとこれはラブコメである、という話です」
「あ、そうだった。てへ」
って言うかそれだけかよ……と俺の顔に書いてあったのかどうかは定かではないが、アイさんがペーパーウェイトを元に戻して急に真面目な顔になる。
「八雲君、このお話、サイトに上げようよ」
「このって、どの?」
「八雲君のラブコメ、あとタイトル決めるだけじゃん。面白かったよ、すっごいキュンキュンした。この主人公たちの気持ちがすれ違っていくたびに『違うよー、そういう意味じゃないんだよー』って教えてあげたくなる感じとか、『そこで一言、愛を囁くんだ!』とか、悶絶じれじれしたよ。これ、絶対ウケるよ。藤森八雲の名前で出そうよ!」
「読者つかないんじゃないですか?」
ちょっと投げ気味に言うと、アイさんはテーブルに肘をついて身を乗り出してきた。
「つくよっ。文体は軽めで読みやすいし、同じ年齢層の子たちなら自分に投影して読めるもん。女性ファンが絶対つく! ねっ、これ、アップしよう」
なんか逆らえないようなパワーというかオーラというか、そんなもんがあるんだが。
「あー。じゃあ、もう少し練ってから……今のままじゃほんとラフスケッチ状態ですから。アイさんだから見せたんですよ、他の人にこんなもん見られたら、本当に東京湾に身投げしますよ、原稿と一緒に」
って言ったらさ、何をどう勘違いしたのか、それはそれは嬉しそうににっこり笑ってこう言ったんだ。
「あたしだけに見せてくれたんだね。あたしは特別だもんね、八雲君」
なんか違う。って言うかそういう意味じゃない。いや、まあ、特別だけど、アイさんの言う『特別』とは多分意味が違う。
と思っていたら、『本日のおすすめ』という名の何種類かのカレーと黒米ごはんとナンが運ばれてきたので、この話は一旦中断となった。