第20話 お魚
翌日は快晴だった。これは暑くなりそうだ。
アイさんは昨日とは違うワンピースを着ていた。が、形はやっぱりストンとした感じのもので肩が出ている。これは日焼けするだろうなと思っていたら、薄手の七分袖カーディガンを羽織ってきた。
バイクの方は兄貴がたまに乗っていたらしく、ガソリンも満タンに入っていてメットもちゃんと二つあった。
「八雲君がバイク乗りだとは思わなかったにゃ」と言うアイさんを後ろに乗せて、俺は村上市に向けて海岸沿いの道を真っ直ぐ北上した。
俺は別に仲間とツーリングするような趣味も無いので、バイクも至って普通の中型だ。俺にとってバイクは中距離移動手段の一つでしかない。だから実は後ろに人を乗せて走るのは初めてだ。所謂「彼女を後ろに乗せて走るのが俺のステータスだぜ」なんて言ってる連中とは根本的なところで違う。移動距離を稼げる自転車のような感覚なのだ。
だが、後ろに乗っている人はそうではないらしい。ただでさえ暑苦しいのに俺の胴にしがみつき、必要以上にくっついてほっぺた(と言ってもフルフェイスのメットをかぶっているが)を背中に押し付けている。実に楽しそうだ。
さすがにこの季節は海水浴のできそうな砂浜には人の姿が見える。まあ岩場だろうが砂浜だろうが、そこに海がある限り人は海に入りたいものなんだが。
たまにアイさんがお腹に回した手を外して、肩をトントンと叩く。その度に俺は道路の端にバイクを寄せて停めてやる。アイさんが写真を撮りたいと思うポイントがあったら肩を叩くようにと、出発前に彼女と決めた合図だ。そして彼女が満足のいくまで写真を撮ったら、また出発である。
俺は簡単に言うと単なる“足”に成り下がっているわけだが、これはこれで結構楽しい。彼女が被写体に選ぶポイントは、どこも絵になる風景ばかりなのだ。そういう意味ではとても勉強になる。同時に彼女の感性に驚かされたりもする。まさしく彼女は右脳で生きている人だ、そう確信できた。
絵を描くときは、必要のないものを無かったことにして省くことができるし、逆にそこに存在しないものを描き足すこともできる。それは言ってみれば『計算ずく』だ。しかし写真は違う。そこにあるものすべてを受け入れ、消化し、一枚の画像として表現する。彼女の素直さが写真に現れていると言っても過言ではない。
事実、彼女は驚くほど純粋だ。心が少女のまま大人になってしまったんじゃないかとさえ思う。
猫のように気まぐれで、我儘で、甘えんぼで、いじけ虫で、プライドが高くて、感情の起伏が激しくて、そして俺を振り回す。なのに俺はそれを心地良く受け入れている。どうしてだろう。一番嫌いなタイプだった筈なのに、振り回されれば振り回されるほど彼女に惹かれていく。そして彼女に振り回されることを楽しんでいる自分がいる。訳が分からん。
ふと、アイさんが俺の肩を叩く。停めてくれの合図だ。そこで気づいた。当初の目的地に到着していたことに。
俺はちょっとした駐車場にバイクを停めた。ここは日本の名勝に指定されているだけあって、年間通して人が来る。観光地と言うほどのものでもないが、知っている人はやはりいるのだ。その為、僅かではあるが車を停めるスペースがある。
俺がメットを外すとアイさんもメットを取り、こちらを向いてニコッと笑った。ヤバい、可愛い。きっと俺は今だけそんな気分なんだ、普通に考えて俺がこのタイプに惹かれることはありえない。一時の気まぐれな感情に流されないようにと自分に言い聞かせながら、彼女に曖昧な笑顔を向ける。
「ねえねえ、四阿があるよ。ここ、結構人が来るの?」
「一応日本百景にも選ばれてるんで。地味ですけど」
「全然地味じゃないよ、こんな素敵なところ滅多に来られないよ。ねえ、あの岩、凄くいい、素敵!」
「ここが目的地ですよ。この辺一帯を笹川流れって言うんです。この下、降りられるんですよ」
「えっ、ほんと? 行こ行こっ!」
当たり前のように彼女が俺の腕を取る。俺は何とも言えない複雑な気持ちのまま、特にそれを拒否するわけでもなく、一緒に海岸に降りる階段を下りていく。
アイさんの事を考えていてここを通り過ぎるところだったなんて、口が裂けても言えない。だが事実だ。この俺が? 嘘だろ? 嘘だと思いたい。
「ねえ、あの岩のところまで歩いて行けそう」
「あれが有名な『眼鏡岩』です。潮が引いていれば結構なところまで行けますよ」
海岸まで下りると、彼女は尋常じゃなくはしゃいでいた。リュックからカメラを出して、パシャパシャとシャッターを切りまくっている。もう俺の存在なんか忘れているんじゃないだろうか。
でも。そんな彼女が純粋に可愛く見えてしまって、俺はどうにもこうにも困ってしまう。今だけだ、今だけそんな気がしてるんだ、昨日からずっと一緒に居るからそんな錯覚に陥っているだけだ。
「ねえ、八雲君、あそこまで行ってみようよ。因幡の白うさぎみたいに岩の上を渡って行ったら、あの辺まで行けそうだよ?」
「私は行けますよ。海で育ってますから。でもアイさん、山育ちでしょう? ひっくり返っても知りませんよ? 海藻類は滑りやすいんですよ?」
「でも行きたいのー!」
こんなキラキラした目で言われたら断れないよ。全く……。
「じゃあ、カメラ気をつけてくださいよ?」
「うん」
俺たちの他にもここで遊んでいる家族連れが何組もいる。眼鏡岩の真ん中をぶち抜いているスリットに入って遊んでいる子供たちの姿も見える。ちょうど潮も引いていて、この感じなら奥の岩場まで行けそうだ。
「ねえねえ八雲君、この岩、真ん中に穴が開いてる!」
「だから連れて来たんですよ。好きでしょ、こういうの」
「大好きー」
こんな所でも写真を撮ってる。とても生き生きして楽しそうだ。そんなアイさんを見ているだけで、何故か俺まで頬が緩んでしまう。
「写真撮るときは、ちゃんと足場を確認してくださいよ。とにかく足元滑るし危ないから」
「はーい」
ヤバい。こんなに素直に返事されると本当にヤバい。
「あっちも行こう」
アイさん、一人でどんどん行ってしまう。どこまで行く気なんだよ。仕方ないから俺も追いかける。少し奥まで行って、大きな岩場の影に回った。
「アイさん、岩もいいですけど、足元見てますか?」
「大丈夫だってば。滑らないところ狙って歩いてるから」
「違いますよ、海の中です」
「え?」
俺は地元民だから知ってるんだ、ここがただの海岸じゃないことを。
「凄い綺麗。透明度高いねー」
「透明度が高いから見えるんですよ、ほらそこ」
「え、何?」
「見えませんか? 魚がいっぱいいるんです」
じっと海中を凝視していたアイさんの目が見る見る輝いていく。
「すごーい、お魚がいっぱい」
「そこの岩陰、見えますか? カニですよ」
「カニ? そんなものが海にいるの?」
俺は思わず吹き出してしまった。
「海じゃなくてどこにいるんですか。見えませんか? すぐそこ」
アイさんが顔を寄せて来る。
「きゃー、カニがいる、可愛い!」
これだけ喜んでもらえれば、連れて来た甲斐があったというものだ。
暫く魚の写真を撮って満足したアイさんは、撮った写真のチェックがしたいと言い出した。確かに日陰に入らないと画面はよく見えない。一旦浜に戻って、大きな岩の影に二人で入り、撮った写真をチェックする。
「良く撮れてる、ほら、この子さっきのカニ」
「クラゲも撮ったんですか?」
「うん、大きくてびっくりした」
頭を付き合わせてカメラの小さな画面を見るのは少しドキドキする。
「魚、随分撮ったんですね」
「このお魚なんだろう?」
「ああ、これは鱚ですよ」
急にアイさんが顔を上げた。びっくりして俺は思わず身体を引いてしまった。けれども彼女はまっすぐ俺を見ている。
「ねえ、もう一度教えて。このお魚、なあに?」
ヤバい。俺の頭は『ヤバい』で埋め尽くされている。なのに金縛りにあったように身動きが取れない。
「こ、これは、鱚……です」
アイさんが右手にカメラを持ったまま左手を俺の背中に回す。少し背伸びして、俺の方に顔を寄せて来る。ヤバい、どうしよう。ここで拒否するのは簡単だが、その後どうしたらいいかわからない。かと言って受け入れてしまったら、それもそれで、その後どうしたらいいかわからない。
アイさんの顔が近づいて来る。ヤバい、ヤバい、ヤバい……。
ふと、アイさんが俺の顔の真ん前でニコッと笑った。
「えへ。ちょっと八雲君を困らせてみたかっただけ」
「はぁ?」
悪戯っぽく笑う彼女を見てちょっとカチンときた俺は、思わずその華奢な肩を抱き寄せ、小憎らしいほど可愛い顎を持ち上げた。
「え、八雲く――」
柔らかい感触で初めて気づいた。俺が彼女にキスしてしまっていたことに。
翌日は快晴だった。これは暑くなりそうだ。
アイさんは昨日とは違うワンピースを着ていた。が、形はやっぱりストンとした感じのもので肩が出ている。これは日焼けするだろうなと思っていたら、薄手の七分袖カーディガンを羽織ってきた。
バイクの方は兄貴がたまに乗っていたらしく、ガソリンも満タンに入っていてメットもちゃんと二つあった。
「八雲君がバイク乗りだとは思わなかったにゃ」と言うアイさんを後ろに乗せて、俺は村上市に向けて海岸沿いの道を真っ直ぐ北上した。
俺は別に仲間とツーリングするような趣味も無いので、バイクも至って普通の中型だ。俺にとってバイクは中距離移動手段の一つでしかない。だから実は後ろに人を乗せて走るのは初めてだ。所謂「彼女を後ろに乗せて走るのが俺のステータスだぜ」なんて言ってる連中とは根本的なところで違う。移動距離を稼げる自転車のような感覚なのだ。
だが、後ろに乗っている人はそうではないらしい。ただでさえ暑苦しいのに俺の胴にしがみつき、必要以上にくっついてほっぺた(と言ってもフルフェイスのメットをかぶっているが)を背中に押し付けている。実に楽しそうだ。
さすがにこの季節は海水浴のできそうな砂浜には人の姿が見える。まあ岩場だろうが砂浜だろうが、そこに海がある限り人は海に入りたいものなんだが。
たまにアイさんがお腹に回した手を外して、肩をトントンと叩く。その度に俺は道路の端にバイクを寄せて停めてやる。アイさんが写真を撮りたいと思うポイントがあったら肩を叩くようにと、出発前に彼女と決めた合図だ。そして彼女が満足のいくまで写真を撮ったら、また出発である。
俺は簡単に言うと単なる“足”に成り下がっているわけだが、これはこれで結構楽しい。彼女が被写体に選ぶポイントは、どこも絵になる風景ばかりなのだ。そういう意味ではとても勉強になる。同時に彼女の感性に驚かされたりもする。まさしく彼女は右脳で生きている人だ、そう確信できた。
絵を描くときは、必要のないものを無かったことにして省くことができるし、逆にそこに存在しないものを描き足すこともできる。それは言ってみれば『計算ずく』だ。しかし写真は違う。そこにあるものすべてを受け入れ、消化し、一枚の画像として表現する。彼女の素直さが写真に現れていると言っても過言ではない。
事実、彼女は驚くほど純粋だ。心が少女のまま大人になってしまったんじゃないかとさえ思う。
猫のように気まぐれで、我儘で、甘えんぼで、いじけ虫で、プライドが高くて、感情の起伏が激しくて、そして俺を振り回す。なのに俺はそれを心地良く受け入れている。どうしてだろう。一番嫌いなタイプだった筈なのに、振り回されれば振り回されるほど彼女に惹かれていく。そして彼女に振り回されることを楽しんでいる自分がいる。訳が分からん。
ふと、アイさんが俺の肩を叩く。停めてくれの合図だ。そこで気づいた。当初の目的地に到着していたことに。
俺はちょっとした駐車場にバイクを停めた。ここは日本の名勝に指定されているだけあって、年間通して人が来る。観光地と言うほどのものでもないが、知っている人はやはりいるのだ。その為、僅かではあるが車を停めるスペースがある。
俺がメットを外すとアイさんもメットを取り、こちらを向いてニコッと笑った。ヤバい、可愛い。きっと俺は今だけそんな気分なんだ、普通に考えて俺がこのタイプに惹かれることはありえない。一時の気まぐれな感情に流されないようにと自分に言い聞かせながら、彼女に曖昧な笑顔を向ける。
「ねえねえ、四阿があるよ。ここ、結構人が来るの?」
「一応日本百景にも選ばれてるんで。地味ですけど」
「全然地味じゃないよ、こんな素敵なところ滅多に来られないよ。ねえ、あの岩、凄くいい、素敵!」
「ここが目的地ですよ。この辺一帯を笹川流れって言うんです。この下、降りられるんですよ」
「えっ、ほんと? 行こ行こっ!」
当たり前のように彼女が俺の腕を取る。俺は何とも言えない複雑な気持ちのまま、特にそれを拒否するわけでもなく、一緒に海岸に降りる階段を下りていく。
アイさんの事を考えていてここを通り過ぎるところだったなんて、口が裂けても言えない。だが事実だ。この俺が? 嘘だろ? 嘘だと思いたい。
「ねえ、あの岩のところまで歩いて行けそう」
「あれが有名な『眼鏡岩』です。潮が引いていれば結構なところまで行けますよ」
海岸まで下りると、彼女は尋常じゃなくはしゃいでいた。リュックからカメラを出して、パシャパシャとシャッターを切りまくっている。もう俺の存在なんか忘れているんじゃないだろうか。
でも。そんな彼女が純粋に可愛く見えてしまって、俺はどうにもこうにも困ってしまう。今だけだ、今だけそんな気がしてるんだ、昨日からずっと一緒に居るからそんな錯覚に陥っているだけだ。
「ねえ、八雲君、あそこまで行ってみようよ。因幡の白うさぎみたいに岩の上を渡って行ったら、あの辺まで行けそうだよ?」
「私は行けますよ。海で育ってますから。でもアイさん、山育ちでしょう? ひっくり返っても知りませんよ? 海藻類は滑りやすいんですよ?」
「でも行きたいのー!」
こんなキラキラした目で言われたら断れないよ。全く……。
「じゃあ、カメラ気をつけてくださいよ?」
「うん」
俺たちの他にもここで遊んでいる家族連れが何組もいる。眼鏡岩の真ん中をぶち抜いているスリットに入って遊んでいる子供たちの姿も見える。ちょうど潮も引いていて、この感じなら奥の岩場まで行けそうだ。
「ねえねえ八雲君、この岩、真ん中に穴が開いてる!」
「だから連れて来たんですよ。好きでしょ、こういうの」
「大好きー」
こんな所でも写真を撮ってる。とても生き生きして楽しそうだ。そんなアイさんを見ているだけで、何故か俺まで頬が緩んでしまう。
「写真撮るときは、ちゃんと足場を確認してくださいよ。とにかく足元滑るし危ないから」
「はーい」
ヤバい。こんなに素直に返事されると本当にヤバい。
「あっちも行こう」
アイさん、一人でどんどん行ってしまう。どこまで行く気なんだよ。仕方ないから俺も追いかける。少し奥まで行って、大きな岩場の影に回った。
「アイさん、岩もいいですけど、足元見てますか?」
「大丈夫だってば。滑らないところ狙って歩いてるから」
「違いますよ、海の中です」
「え?」
俺は地元民だから知ってるんだ、ここがただの海岸じゃないことを。
「凄い綺麗。透明度高いねー」
「透明度が高いから見えるんですよ、ほらそこ」
「え、何?」
「見えませんか? 魚がいっぱいいるんです」
じっと海中を凝視していたアイさんの目が見る見る輝いていく。
「すごーい、お魚がいっぱい」
「そこの岩陰、見えますか? カニですよ」
「カニ? そんなものが海にいるの?」
俺は思わず吹き出してしまった。
「海じゃなくてどこにいるんですか。見えませんか? すぐそこ」
アイさんが顔を寄せて来る。
「きゃー、カニがいる、可愛い!」
これだけ喜んでもらえれば、連れて来た甲斐があったというものだ。
暫く魚の写真を撮って満足したアイさんは、撮った写真のチェックがしたいと言い出した。確かに日陰に入らないと画面はよく見えない。一旦浜に戻って、大きな岩の影に二人で入り、撮った写真をチェックする。
「良く撮れてる、ほら、この子さっきのカニ」
「クラゲも撮ったんですか?」
「うん、大きくてびっくりした」
頭を付き合わせてカメラの小さな画面を見るのは少しドキドキする。
「魚、随分撮ったんですね」
「このお魚なんだろう?」
「ああ、これは鱚ですよ」
急にアイさんが顔を上げた。びっくりして俺は思わず身体を引いてしまった。けれども彼女はまっすぐ俺を見ている。
「ねえ、もう一度教えて。このお魚、なあに?」
ヤバい。俺の頭は『ヤバい』で埋め尽くされている。なのに金縛りにあったように身動きが取れない。
「こ、これは、鱚……です」
アイさんが右手にカメラを持ったまま左手を俺の背中に回す。少し背伸びして、俺の方に顔を寄せて来る。ヤバい、どうしよう。ここで拒否するのは簡単だが、その後どうしたらいいかわからない。かと言って受け入れてしまったら、それもそれで、その後どうしたらいいかわからない。
アイさんの顔が近づいて来る。ヤバい、ヤバい、ヤバい……。
ふと、アイさんが俺の顔の真ん前でニコッと笑った。
「えへ。ちょっと八雲君を困らせてみたかっただけ」
「はぁ?」
悪戯っぽく笑う彼女を見てちょっとカチンときた俺は、思わずその華奢な肩を抱き寄せ、小憎らしいほど可愛い顎を持ち上げた。
「え、八雲く――」
柔らかい感触で初めて気づいた。俺が彼女にキスしてしまっていたことに。