第7話 雇用契約

「これが契約書。納得したらサインと印鑑」

 リビングに戻るなりカオルさんに紙を渡された。知らぬ間に椅子が一つ増えている。そういえばダイニングテーブルも変わったように見える。

「カオルさん、テーブル、これでしたっけ?」
「いや。さっきリサイクルショップに売って、代わりに大きめのを買ってきた。三人であのテーブルでは狭い。椅子はそれでいいか?」

 そうか、これはあたしのために買ってくれたんだ。

「ありがとうございます。あたし、そこまで全然気が回らなくて」
「僕もー」
「気の回るヤツが回せばいい。まずはそれを読め」

 渡された紙を見て愕然とする。なんだこれは。

「これ、午前中に作ったんですか?」

 カオルさんはきょとんとして小さく頷く。

「だって、あたしんちの契約解除して、友達に車借りて、あたしの部屋になる予定の六畳間を空っぽにして掃除して、それでこれ書いたんですか?」
「書いていたら時間がかかるから打ったんだ」

 そういう問題じゃなくて~と、メグル君が思い切りツッコミを入れる。
 いや、だってさ、そこにはここの住所、雇い主の名前、仕事内容、雇用形態、雇用条件、報酬、解雇条件、とにかくすべてのことがみっちり書かれてたんだよ?

「これに反することを俺が要求したら、この契約書を俺に突き付けろ。それで神代先生の二の舞は避けられるだろう」

 横から覗き込んだメグル君が「うへぇ」と肩を竦める。だが、考え方によってはこれくらいはっきりしている方がいいのかもしれない。神代エミリー先生のところに行ったときは口約束でパパっと決めてしまって、しかもそれが憧れの漫画家だっただけに舞い上がってしまい、何も疑わなかったのだ。

「ちゃんと読んで、納得がいかなければサインするな。まずは質問して納得がいくまで話をしよう」
「あの……朝の話では、雇い主の命令は絶対って言ってましたよね。でもここには『雇い主の命令は絶対』って書いてないです」

 あたしの至極真面目な質問にカオルさんは「はぁ」と小さく溜息をついて、顔の前に落ちてきた緩い癖っ毛を耳にかけた。その仕草がありえないほど色っぽくてドキッとしてしまう。

「あのな。じゃあ俺がお前に体の関係を迫ったら、お前は素直に俺に抱かれんのか?」
「えっ!」

 いや、それはちょっと覚悟したけど。

「もーカオル、綺羅ちゃんビビるだろ!」

 しかし、カオルさんはメグル君を完全にスルーして淡々と告げた。

「あんな理不尽な条件を真に受けてるから、神代エミリーなんか(・・・)に使い捨てにされるんだろうが」

 思わずあたしは目を剥いた。が、言葉は出ない。

「なんかって……仮にも昨日までは綺羅ちゃんの尊敬する人だったんだから、もうちょっと言い方ってもんがあるだろー?」
「メグは黙ってろ。綺羅は自分で考えるということをしないとダメだ。できないものはできないと言え。もう一度聞く、お前は俺が関係を迫ったら素直に俺に抱かれるのか?」

 おうよ、上等だ!

「カオルさんがあたしをその気にさせてくれたら、いくらでも抱かれてあげます! でもあたしをその気にさせられなかったら、指一本触れさせません! でも、仕事はきちんとします」

 あたしはカオルさんを正面から睨みつけてきっぱりと言い放つと、契約書にサインをし、印鑑を押した。

「はい、これで契約成立です!」
「よし、それでいい。今の瞬間から俺はお前の雇い主だ。じゃ、最初の仕事だ、この契約書のコピーを二通取れ。俺の部屋にプリンタがある」
「入っていいんですか?」
「俺のアシスタントだろうが。これから毎日俺の部屋で仕事するのに何を寝ぼけたこと言ってんだ。早く行け」
「はいっ」

 急いでカオルさんの部屋を覗き込むと、後ろから声がかかる。

「わかるか?」
「はい、ありました」

 ドアが開け放してある状態では部屋の中は丸見えである。メグル君の部屋とあたしの部屋は蝶番の普通のドアだけど、カオルさんの部屋は引き戸になっていて、最初から閉める気が無いらしく、常に開けっぴろげになっている。リビングからはカオルさんの部屋は丸見えだ。
 とりあえずコピーコピー。電源はこれか。あ、何か原稿が残ってる。
 あたしはその原稿を引っ張り出して、思わず悲鳴を上げた。

「どうした?」

 慌ててカオルさんがすっ飛んでくる。だけど、あたしはそれどころじゃない。

「カオルさん……カオルさん、まさか」
「ん?」
「あの……カオルさん、今更なんですけど」
「なんだ、今ならまだ契約破棄してもいいぞ」
「そうじゃなくて、その、カオルさんとメグル君は風間(かざま)さんとか言いませんよね?」

 ぽかんとするカオルさんの横でメグル君が笑いだした。

「何言ってんの、外に表札あったでしょ? あれー、朝言わなかったっけ?」
「契約書に雇い主の名前があるだろ、見てないのか?」
「まさかと思うけど、あのBL漫画家の風間薫先生じゃないですよね?」
「その風間薫だが」
「ひぃぃぃぃぃぃいい!」

 あたしはよくわからない悲鳴を上げて、失神した。

***

「すいません、ごめんなさい、大丈夫です」

 ソファに起き上がったあたしに紅茶を渡して、隣に座ったメグル君が優しく背中を撫でてくれる。不思議とこのメグル君という男はスキンシップが厭らしくなく、自然に受け入れられてしまう。

「そういえば『風間薫』のこと話すとき『彼女』って言ってたもんねー」
「あたしどうしよう、すいません、ほんとごめんなさい。風間薫先生って勝手に女の人だと信じ込んでて。線も細くて綺麗だし、絵がとにかく繊細で素敵で、それにまさかペンネームが本名だなんて思わなくて。でもカオルさんのお部屋になぜか風間薫先生の原稿があって、それで契約書よく見直したら風間薫って。なんか血の気が引いちゃってわけわかんなくなっちゃって、ほんとごめんなさい。今も自分で何言ってるかわけわかりません。混乱してめちゃくちゃ舞い上がってます。神代先生の時の五万倍舞い上がってます。もう勘弁してください、死にそうです」

 我ながらどれだけパニクっているのか、マシンガンの如く喋りまくってしまっている。一体いつ息継ぎしているのやら最早自分でもわからない。

「死なれちゃ困るな、俺のアシスタントだ」
「言っとくけど、カオルは人使い荒いからね、口も悪いし」
「明日は引っ越しだから仕事はしなくていい。明後日からだ」
「はい、よろしくお願いします」
「契約書の原本は俺が持っておく。コピーを一通お前が持っておけ。今日はこれですべて終了。明日は朝から引っ越しする気で今日は早く休め」

 カオルさんがコーヒーを口元に持って行くのを見て、メグル君が割り込む。

「お風呂、沸かしておいたから綺羅ちゃん先に入って。男の後に入るの嫌でしょ?」
「いえ、全然そんなこと無いです」
「綺羅ちゃん、昨日も酔っぱらって寝ちゃって、服も着替えてないし、早く入りたいんじゃない? その間に夕ご飯作っといてあげるから今夜は心配しなくていいよ。タオルの場所教えるから来て。体重計もあるし。体脂肪計付きだよ、綺羅ちゃんは太ってないから気にしないか。あ、入浴剤はね……」

 ごちゃごちゃお喋りしながらメグル君が案内してくれるのを横目に、カオルさんがもう一通の契約書コピーをきちんと折りたたんで封筒に入れているのが見えた。いったい何に使うんだろう。