第47話 お風呂で決意
家に帰るとメグル君がケーキとチキンを買って待っていた。
「早く早く、綺羅ちゃんは先にお風呂入って来て。カオル、ピザ頼んでいい?」
「好きにしろ。あ、好きにするな。マルゲリータ一択」
「またかよ、ケーキは今年もイチゴたっぷりだからね!」
「ケーキはどうでもいい。綺羅さっさと入れ、冷えただろう。俺はスープでも作るか」
彼らの賑やかな声を聞きながらお風呂に向かうと、メグル君のヒソヒソ声が耳に入った。
「流石だね、カオル。本当に綺羅ちゃんを一発で連れ帰るとは思わなかった」
「俺を誰だと思ってんだ」
「最強の兄上です」
ほんと、最強の兄だ。
あたしはお風呂に入って、涙の痕とモヤモヤしていた気持ちをきれいさっぱり洗い流した。
ゆっくりと湯船に浸かると、さっきのカオルさんの言葉が頭の中に再び蘇ってくる。
――あの超売れっ子漫画家が多忙な中にもかかわらず、ろくに名前も知られていないアマチュアの為に、まるまる一作書いてくださったんだぞ。神代先生がそこまでしてくれたのは、後にも先にもお前だけだ――
そうだ。あの超売れっ子漫画家が、あたしのような素人の為にまるまる一作描いてくれたんだ。カオルさんの時のように、出来上がった作品にトレぺで指導するんじゃなくて、一から全部だ。
しかもなんて言った? 神代先生がそこまでしてくれたのは、後にも先にもお前だけだって言った?
とんでもなく優遇されてるじゃないか。他の人が聞いたら羨ましすぎてぶっ倒れるようなことじゃないか。もしも今、あたしの知らない素人漫画家の為にカオルさんがまるまる一作描いたら、あたしはどう思う? 気が狂いそうなほど嫉妬するんじゃないのか?
あたし、身の程知らずも甚だしいんじゃないのか。
あの時あたしはいっぱいいっぱいで、自分の事しか考えられなかった。だけどよく考えたら、神代先生やカオルさんのような人に支えられて漫画が描ける環境にいる。それがあまりにも自然で、当たり前になっていて、感謝の気持ちを忘れてる。
メグル君が拾ってくれなかったら今のあたしは無いし、カオルさんがここに置いてくれなかったらあたしは漫画なんて描いていられなかった筈だ。
これからは恩返ししないと。一人前の漫画家になって彼らの世界に仲間入りすることが、きっと一番の恩返しだ。いつまでもグズグズ言ってなんかいられない。
そうだ、あたしにはカオルさんのお守りがある。新人賞を取って、授賞式にはあのGペンのイヤリングをして臨むんだ。司会者に「このイヤリングは?」って聞かれて「師匠の風間薫先生からいただいたお守りです」って答えるんだ。
そうだ、ノンビリお風呂になんか入っていられない! 次のプロットを考えて、授賞式に着ていく服に頭を悩ませなくちゃ! よっしゃ、その前にまずはイチゴのケーキだ!
お風呂を上がって、決意も新たに意気揚々とキッチンに行くと、カオルさんが「じゃ俺も温まって来る」と言ってそそくさとお風呂に消えていく。
そうだった、カオルさん、よく考えたらあたしより寒がりじゃん。なんだかいきなり等身大の現実に引き戻された。どうぞごゆっくり……。
「綺羅ちゃん、サラダ作るの手伝って」
「うん、おっけー」
二人で並んでサラダを作ってたら、メグル君が唐突に「やっぱカオルにはどう逆立ちしても勝てないな」って呟いた。
「さっきさ、綺羅ちゃんが出て行ったあと直ぐに追いかけようとしたら、カオルに止められたんだ。少し一人で考える時間をやれって。それで三十分経っても帰ってこないから僕も出たんだよ。綺羅ちゃん、川が無いところで生活できないって言ってたから、きっと多摩川にいると思ってそっちを探しに行ったんだ。だけどいなかった。そこにカオルがやって来て、『お前こんなとこで何やってんだ』って。僕がここに探しに来てることわかってたんだな。それで『綺羅は俺が迎えに行くから、メグはケーキ買っとけ』って言うんだよ。すげー敗北感」
って言いながらメグル君、笑ってる。ワインビネガーにオリーヴオイルを入れて、お醤油ちょっと垂らしてる。和風イタリアンドレッシングだろうか。
「それから一時間もしないうちに『確保』ってメールが来てさ。早ええええって笑ってたよ」
そんなことがあったんだ。いつの間にメールしたんだろう、カオルさん。
「綺羅ちゃんがカオルのこと好きなのはわかってる。カオルも綺羅ちゃんの事、大事に思ってるんだ。でも僕は諦めないからね」
「諦めていいんだけど」
「そういう時ばっかり返事するしー」
黒コショウをミルで挽きながらサラダに振りかけると、鼻の奥がムズムズしてくる。いい香り。コーヒーもコショウも挽き立ての香りが一番だ。
「あたしもカオルさんには届きそうにないよ。なんか雲の上過ぎて。好きとか思うの畏れ多い感じだよ。尊敬っていうか……大尊敬。同じ次元で『好き』なんて軽々しく言えない」
「僕なら同じ次元だけど?」
「そーじゃないでしょ」
「大好き綺羅ちゃん! ぎゅーしていい?」
「だめ」
「固いこと言わなでよー」
ってもうぎゅーしてるじゃん!
「やーん、もう!」
「何やってんだメグ」
はっ! カオルさん! ……が風呂上がりの神々しい姿で立ってるじゃないか。
「げ、カオル」
「げ、じゃないだろ。お前俺のアシスタントに何やってんだ」
「俺のアシスタントって、風間兄弟のマネージャーだろ」
「俺だけのアシスタントだ。勝手に肩書を書き換えるな」
「何その『だけ』って。独り占めする気かー!」
「そうだ」
「うぎゃー、きっぱり言いやがったー!」
何やってんだこの兄弟。
「ワインは冷やしてあるんだろうな?」
「え? ワイン?」
「なんだお前、まさかワイン買ってないんじゃ……」
「忘れてた」
うっそ信じらんない! あたし、もうお風呂入ったからね、湯冷めするから絶対出ないよ!
って、あたしの顔に書いてあったのか、メグル君がカオルさんを上目遣いに見る。
「ストック二本くらいあったよね、カオル?」
「三人で飲むのに二本で足りるか、買って来い」
「え~~~、僕がですか~? マジで~?」
その時、風間家のインターホンが鳴った。
「あ、ピザ来たかな?」
「はい、どちらさ……」
「こんばんは! 薫君、遊びに来ちゃった。入れて~」
「アイナ?」
家に帰るとメグル君がケーキとチキンを買って待っていた。
「早く早く、綺羅ちゃんは先にお風呂入って来て。カオル、ピザ頼んでいい?」
「好きにしろ。あ、好きにするな。マルゲリータ一択」
「またかよ、ケーキは今年もイチゴたっぷりだからね!」
「ケーキはどうでもいい。綺羅さっさと入れ、冷えただろう。俺はスープでも作るか」
彼らの賑やかな声を聞きながらお風呂に向かうと、メグル君のヒソヒソ声が耳に入った。
「流石だね、カオル。本当に綺羅ちゃんを一発で連れ帰るとは思わなかった」
「俺を誰だと思ってんだ」
「最強の兄上です」
ほんと、最強の兄だ。
あたしはお風呂に入って、涙の痕とモヤモヤしていた気持ちをきれいさっぱり洗い流した。
ゆっくりと湯船に浸かると、さっきのカオルさんの言葉が頭の中に再び蘇ってくる。
――あの超売れっ子漫画家が多忙な中にもかかわらず、ろくに名前も知られていないアマチュアの為に、まるまる一作書いてくださったんだぞ。神代先生がそこまでしてくれたのは、後にも先にもお前だけだ――
そうだ。あの超売れっ子漫画家が、あたしのような素人の為にまるまる一作描いてくれたんだ。カオルさんの時のように、出来上がった作品にトレぺで指導するんじゃなくて、一から全部だ。
しかもなんて言った? 神代先生がそこまでしてくれたのは、後にも先にもお前だけだって言った?
とんでもなく優遇されてるじゃないか。他の人が聞いたら羨ましすぎてぶっ倒れるようなことじゃないか。もしも今、あたしの知らない素人漫画家の為にカオルさんがまるまる一作描いたら、あたしはどう思う? 気が狂いそうなほど嫉妬するんじゃないのか?
あたし、身の程知らずも甚だしいんじゃないのか。
あの時あたしはいっぱいいっぱいで、自分の事しか考えられなかった。だけどよく考えたら、神代先生やカオルさんのような人に支えられて漫画が描ける環境にいる。それがあまりにも自然で、当たり前になっていて、感謝の気持ちを忘れてる。
メグル君が拾ってくれなかったら今のあたしは無いし、カオルさんがここに置いてくれなかったらあたしは漫画なんて描いていられなかった筈だ。
これからは恩返ししないと。一人前の漫画家になって彼らの世界に仲間入りすることが、きっと一番の恩返しだ。いつまでもグズグズ言ってなんかいられない。
そうだ、あたしにはカオルさんのお守りがある。新人賞を取って、授賞式にはあのGペンのイヤリングをして臨むんだ。司会者に「このイヤリングは?」って聞かれて「師匠の風間薫先生からいただいたお守りです」って答えるんだ。
そうだ、ノンビリお風呂になんか入っていられない! 次のプロットを考えて、授賞式に着ていく服に頭を悩ませなくちゃ! よっしゃ、その前にまずはイチゴのケーキだ!
お風呂を上がって、決意も新たに意気揚々とキッチンに行くと、カオルさんが「じゃ俺も温まって来る」と言ってそそくさとお風呂に消えていく。
そうだった、カオルさん、よく考えたらあたしより寒がりじゃん。なんだかいきなり等身大の現実に引き戻された。どうぞごゆっくり……。
「綺羅ちゃん、サラダ作るの手伝って」
「うん、おっけー」
二人で並んでサラダを作ってたら、メグル君が唐突に「やっぱカオルにはどう逆立ちしても勝てないな」って呟いた。
「さっきさ、綺羅ちゃんが出て行ったあと直ぐに追いかけようとしたら、カオルに止められたんだ。少し一人で考える時間をやれって。それで三十分経っても帰ってこないから僕も出たんだよ。綺羅ちゃん、川が無いところで生活できないって言ってたから、きっと多摩川にいると思ってそっちを探しに行ったんだ。だけどいなかった。そこにカオルがやって来て、『お前こんなとこで何やってんだ』って。僕がここに探しに来てることわかってたんだな。それで『綺羅は俺が迎えに行くから、メグはケーキ買っとけ』って言うんだよ。すげー敗北感」
って言いながらメグル君、笑ってる。ワインビネガーにオリーヴオイルを入れて、お醤油ちょっと垂らしてる。和風イタリアンドレッシングだろうか。
「それから一時間もしないうちに『確保』ってメールが来てさ。早ええええって笑ってたよ」
そんなことがあったんだ。いつの間にメールしたんだろう、カオルさん。
「綺羅ちゃんがカオルのこと好きなのはわかってる。カオルも綺羅ちゃんの事、大事に思ってるんだ。でも僕は諦めないからね」
「諦めていいんだけど」
「そういう時ばっかり返事するしー」
黒コショウをミルで挽きながらサラダに振りかけると、鼻の奥がムズムズしてくる。いい香り。コーヒーもコショウも挽き立ての香りが一番だ。
「あたしもカオルさんには届きそうにないよ。なんか雲の上過ぎて。好きとか思うの畏れ多い感じだよ。尊敬っていうか……大尊敬。同じ次元で『好き』なんて軽々しく言えない」
「僕なら同じ次元だけど?」
「そーじゃないでしょ」
「大好き綺羅ちゃん! ぎゅーしていい?」
「だめ」
「固いこと言わなでよー」
ってもうぎゅーしてるじゃん!
「やーん、もう!」
「何やってんだメグ」
はっ! カオルさん! ……が風呂上がりの神々しい姿で立ってるじゃないか。
「げ、カオル」
「げ、じゃないだろ。お前俺のアシスタントに何やってんだ」
「俺のアシスタントって、風間兄弟のマネージャーだろ」
「俺だけのアシスタントだ。勝手に肩書を書き換えるな」
「何その『だけ』って。独り占めする気かー!」
「そうだ」
「うぎゃー、きっぱり言いやがったー!」
何やってんだこの兄弟。
「ワインは冷やしてあるんだろうな?」
「え? ワイン?」
「なんだお前、まさかワイン買ってないんじゃ……」
「忘れてた」
うっそ信じらんない! あたし、もうお風呂入ったからね、湯冷めするから絶対出ないよ!
って、あたしの顔に書いてあったのか、メグル君がカオルさんを上目遣いに見る。
「ストック二本くらいあったよね、カオル?」
「三人で飲むのに二本で足りるか、買って来い」
「え~~~、僕がですか~? マジで~?」
その時、風間家のインターホンが鳴った。
「あ、ピザ来たかな?」
「はい、どちらさ……」
「こんばんは! 薫君、遊びに来ちゃった。入れて~」
「アイナ?」