第46話 Gペン

 こんな話を他の乗客に聞かれちゃっていいんだろうか? なんだかあたしの方が無駄に心配になって来る。まあ、各停だからそんなに混んでるわけじゃないけど、それでもこれ、京王線ですよ?

「神代先生はおもむろにテーブルの上に俺の原稿を広げた。バスローブを着替えて来いと言われた。寿司の醤油がついてたんだ。『これから神聖な原稿に向き合いますのよ』と叱られた。俺は慌てて予備のバスローブに着替えてきた。アマチュアの俺なんかの原稿を『神聖なもの』として扱ってくれていることが嬉しかった。神代先生はそういう人なんだ」

 神聖なものって、原稿の事だったんだ。

「先生はカバンからトレぺのブロックと赤ペンを出してきた。始まる、と思った俺は、先生の正面に陣取った。そこでまた叱られた。先生の隣に来るように言われたんだ。構図のバランスは正面から見ないとわからない、それを言ってるんだと俺はすぐに悟った。そこからはもう……1ページずつなんてもんじゃない、1コマずつってくらいに丁寧にダメ出しされた。コマ割りの仕方だったり、キャラの配置だったり、視点だったり、吹き出しの位置だったり、もう全てが全て、完璧なダメ出しだった。ちゃんとその意味や理由まできちんと解説してくれて、上にトレぺ乗っけてその上から赤ペンで描き込むんだ。トレぺに原稿のページ番号を入れて、トレぺだけ持ち帰っても自分の原稿に重ねればわかるようにしてくれた。ページによってはここからここまで全部カットして、このページを膨らませなさいなんて指示が出たりすることもあった。いつだったか、お前に『そのキスシーンは必要か』と言ったことがあるだろう、あれもその時の神代先生から教わったことなんだ。どこの馬の骨ともわからない高校生のガキの為にそこまでしてくれる人、それが神代エミリーという漫画家だ」
「それはカオルさんに素質があったから、その素質を神代先生が見抜いていたからなんじゃないですか?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。俺にはわからん。だが、その時間が俺にとって、それまでの人生の中で最も充実した時間だったことは確かだ。翌朝、最後のページまでダメ出しが終わって、俺は先生に受講料が払えないと言った。先生は相変わらずあの調子で笑うんだ。『あなたが一人前の漫画家として、アタクシを越えてくれたらそれでよろしくてよ。それがレッスン料ですわよ』ってな。それで帰りの新幹線を手配してくれて、赤の入ったトレぺの束を俺に持たせてくれた。家に帰って数日後、神代先生の本がごっそり送られてきた。全部サイン入りだ。俺が祖父母の家で不自由にしていることを知っているから、わざとサインを入れて、手放せないものだと俺が言いやすいようにしてくれたんだろう。俺はそれを徹底的に読んで……五十冊くらいあったな、全部読んで研究して、翌年の新人賞にもう一度挑戦した。大学に行く気はなかったから、受験勉強をしている友人たちに交じって一人漫画を描いていた。肩身が狭かった。だが俺には負けられない挑戦だったんだ」

 柴崎。だいぶ人が減ってきた。千歳烏山、仙川、つつじが丘辺りでどんどん人が降りて行く。これが調布でまた増えるんだ。ドアが開くたびに、冷たい空気が足元に流れ込んでくる。

「その年の審査員にも神代エミリー先生は名を連ねていた。前年から全く成長していないようなものを先生に見せるわけにはいかなかった。俺は死に物狂いで描いて、死に物狂いで何度も描き直して、自分の中で最高の出来だと思えるまでひたすら粘った。その甲斐があって、その年の新人賞で大賞を取ることができた。高校卒業と同時だ。俺はすぐに神代先生のところに挨拶に行った。そこで俺は神代先生に新たな宿題を出された」
「宿題ですか? 神代先生が?」
「そうだ。何年かかってもいいからこの宿題を必ずやるようにと言われた」
「どんな?」

 ってあたしが聞いてもいいんだろうか?

「俺が後輩を育てること。俺が売れっ子になったら、神代先生が俺にしてくれたように、将来性のあるアマチュア漫画家を見つけて一人前になるまで育てること。それが宿題だった。そしてその後、俺は『売れっ子』漫画家の仲間入りをし、宿題をする時が来た。そこにちょうど神代先生のところから逃げてきたお前が転がり込んで来た。才能の欠片もなく、漫画家としてのプライドもないような奴だったら追い出していた。だがあの日、自分の作品に対する情熱を熱く語った綺羅を見て、コイツを育てようと思ったんだ」

 新宿を出てからずっとこっちを見なかったカオルさんが、あたしの方を見た。嫌になっちゃうほど優しい目をして。
 ズルいよ。このタイミングでこっち見るなんて。そんな目で。

「言ってみれば、綺羅を一人前の漫画家に育てたいというのは俺のエゴだ。だから、もしもお前が本当に漫画家を諦めてマネージャー業をやりたいというならそれでいい。俺のアシスタント契約を破棄して、『風間兄弟』のマネージャーを改めて頼むことにする。ここから先はお前次第だ」

 カオルさん、こんなにあたしの事を考えてくれてたんだ。きっと誰にも話したことがないであろう、神代エミリー先生との話。そしてカオルさんが育てる漫画家にあたしを選んでくれたこと。
 いつも厳しい言葉しか言わないけど、誰よりも深くあたしやメグル君の事を考えてくれてる。
 なんであたし漫画家諦めようなんて思ったんだろう。こんな『最強の兄』がついてるのに。あんなに面倒見のいい神代先生と、こんなに親身になってくれるカオルさんを逃したら、もう、あたし誰にも相手にして貰えない。こんなわがまま女の面倒見てくれる人が他にどこに居るって言うんだ。

「こんなところで泣くな。俺が泣かせたみたいじゃないか」
「カオルさんに泣かされたんだからいいじゃないですか」

 調布。人がいっぱい降りて、その分たくさん乗って来る。あたし、なんか一人で泣いてて恥ずかしい。

「ゆっくり考えればいい、綺羅の人生だ」
「いえ、今決めました。あたしが漫画家になるのを諦められるわけがないです。きっとマネージャーになったとしても、結局描くことになる。あたし、漫画描いてないと死んじゃうんです。泳いでいないと死んじゃう魚と同じです」

 プッ……とカオルさんが噴き出した。そしてコートのポケットに手を突っ込むと、小さな箱を取り出してあたしの方に差し出した。

「そうか。これが無駄にならなくて良かった。綺羅にクリスマスプレゼントだ」
「はい?」

 このタイミングで? クリスマスプレゼントぉ? もー、神代先生といい、カオルさんといい、この人たちの考えることわかんない!

「ありがとうございます。今開けていいですか?」
「ああ、小さいから気を付けろよ」

 そんなの見りゃわかるよ。箱が小さいんだから。
 あたしは洟をすすりながら丁寧に箱の包みを開いて行った。
 って、なんだこれ。イヤリング? 違う、ペン? いや、違わない、ナニコレ?

「俺もずっと手描きだった。デジタルに変えたのは割と最近なんだ。それ、俺が最後まで使ってたGペン。今までは俺のお守りにしてたんだが、知り合いのジュエリー屋でイヤリングに加工して貰った。危ないから先端は削って丸くして貰ってる。お前が挫折しそうになった時のお守りとして持っておけ」
「えっ? カオルさんの? そんな大切なお守り、あたしが貰ってもいいんですか?」
「俺はもう挫折する気が全くしないからな。綺羅はあと百回くらい挫折しそうだ。一年に二回くらいのペースで五十年」

 ぶぅぅぅぅぅ!

「酷いです、そんなに何度も挫折なんかしませんよっ。このGペンがあれば……」

 自分でも笑っちゃうほど竜頭蛇尾。だって、嬉しいんだもん。カオルさんの気持ちが嬉しくてどうしようもないんだもん。

「だから泣くなって。俺が通報されるだろ」
「カオルさんが通報されるのはあたしのせいじゃなくて、恰好が怪しいからです」

 あたしはGペンイヤリングを大切に箱に仕舞うと両手でしっかりと包み込み、カオルさんの方を向いてきちんと頭を下げた。

「カオルさん、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします」