第4話 雇い主

「えっ?」

 と言ったのはメグル君だった。

「カオル、今、なんて言った?」
「ここに住むかと聞いた」
「さっきまで追い出す気満々だったじゃん!」

 ……確かに。

「質問してるのは俺だ」
「待てよカオル、ココは僕んちでもあるんだから勝手に決めんなよ。部屋とかどうする気だよ」

 横向きに脚を組んで座っていたカオルさんは、正面を向いて座り直し、あたしを真っ直ぐ見据えた。

「物置代わりにしてる六畳間がある。フローリング、エアコンなし、窓は通路側、クロゼット付き、そこならお前の部屋にしてやってもいい。バイトは他所でするな、ここで働け。俺が雇い主だ。家賃、水道光熱費免除、三食付けてやる。その代わり雇い主の命令は絶対だ。住むか?」

 雇い主の命令は絶対? 現代日本で人身売買? それって奴隷?

「雇い主の命令は絶対なんですか?」
「カオル、まさか綺羅ちゃんをセフレにする気じゃ……」
「アホか」

 横からボソボソとツッコミを入れるメグル君をカオルさんがジロリと一瞥する。これはちゃんと聞いておかなければ、本当にカオルさんのセフレにされる可能性も無くはない。とは言っても、昨夜は本気で風俗で働くことも視野に入れてたから、どっかの脂ぎったオッサンの相手をすることを考えれば、カオルさんの方が遥かにいいかなとか考えなくもない……ってダメダメ、考えようよ、ちゃんと!

「あのっ、あたしはどんな仕事をするんですか?」
「俺のアシスタント兼マネージャー」
「じゃ、僕はこれからのんびり遊んで暮らせるのかな」
「何か言ったか」
「家事は綺羅ちゃんにお任せ……」
「お前、大学辞めたいか」
「い、いえ、大学通わせてくださいこの通りですお願いします何でも言うこと聞きます」
「わかったらガタガタぬかすな」

 二人の会話から察するに、メグル君はカオルさんに大学に通わせてもらっているという弱みを握られており、家事はほぼメグル君がやっているようだ。しかもどうやらカオルさんはそれなりに儲けているみたい。

「具体的にどんな仕事をするんですか」
「仕事場はここ。お前の仕事は取引先との連絡と書類のチェック、あとは俺の手伝いだな」 
「それだけでいいんですか?」
「それ以上のことをやらせたら、お前が漫画を描く時間が無いだろう?」

 なんですと!

「えっ? あたし、漫画描いてもいいんですか!」

 思わず立ち上がってしまったあたしに、カオルさんは当然とばかりに頷いた。

「漫画家が漫画を描かずに何やって生きるんだ」

 うそ何この人、神? 仏? 住むとこ用意してくれて、簡単な仕事くれて、三食昼寝付きで(昼寝とは言ってないか)、その上あたしに漫画を描く時間までくれると言うの? 尊い、尊過ぎる。

「あ、ありがとうございます! ちゃんと働きます! お料理下手くそだけど、なけなしの百七十円でレシピ本買ってきます!」
「百七十円の本があるか」
「綺羅ちゃん、ネットで検索すればタダだよ」
「あ、そうだ! メグル君天才!」
「でも、お料理は仕事に入ってないよ。僕が作るし」
「あ……でも、その……カオルさん、アルバイト、一つだけやらせて貰っていいですか?」
「ダメだ」

 何故即答?

「なんでだよ、綺羅ちゃん百七十円しかないんだよ? 本も買えないじゃん」

 そんなメグル君に一瞥を送って、カオルさんはあたしを正面に捉えた。

「綺羅は漫画(・・)で稼げ。新人賞なんかにどんどん出すんだ。それ以外で稼げると思ったら、どこかで手を抜くことになる。本気で漫画家になりたいんだったら逃げ道は絶っておけ。ペンで稼げるようになるまでは、俺が雇い主として何でも買ってやる。服でも本でもなんでもだ」

 カオルさんが挑戦的にあたしを見つめる。その眼には逃がさないという気迫が感じられて、あたしも腹を括る。

「わかりました。あたしも漫画で食べていきたいんです。一切バイトしません。贅沢もしません。漫画を描くことの為だけに、お金使います。だからここに住ませてください。お願いします!」

 あたしは勢いよく頭を下げた。長い髪が顔にカーテンを作る。

「よし決まりだ。メグ、紙とボールペン」
「へーい」

 この兄弟は上下関係がきっちり決まっているようだ。急いでレポート用紙とボールペンを準備するメグル君を横目に見て、コーヒーを口元に運びながらカオルさんが尋ねてくる。

「綺羅、引っ越し荷物はどれくらいある?」
「ええと、衣装ケース二つ分の服と漫画の道具と……引っ越し屋さんの単身引っ越しパックの一番少ないヤツで十分です」
「ワゴン車一台に全部積める?」
「はい!」
「メグ、書いたか?」
「何を書くの?」
「ワゴン車一台、不動産契約解除手続き、住民票の移動、書いたか?」

 すらすらと話すカオルさんの言葉をメグル君が必死にメモしてる。いきなり引っ越しが具体的になって、あたしは話の展開の速さに面食らってしまう。

「あの……」
「綺羅はいつ引っ越しできる? 明日か? 明後日か?」
「えっ? そんな急に言われても」
「何言ってんだお前、神代エミリー先生の近所で、啖呵切って出て来たんだろ。今日中にでも引越ししないと困るはずだぞ」
「あ、そうだった」
「今からすぐに帰ってどれくらいで支度できる? 夜逃げするつもりでやれ」

 今からって……今九時か。

「えっと、じゃあ今夜までには」
「わかった。ワゴン車は今日中に俺が手配しておく。引っ越しは俺とメグでやるから心配するな。家電は全部売り払うつもりでまとめておけ。明日引っ越しついでにリサイクル屋に売りに行く」
「はい」

 ありえないほど全てがあっさりと決まっていく。こんなふうに流されていていいのか少し不安にならないでもないが、そんな余裕はあたしには微塵もないのだ。とにかく目の前にいる兄弟に任せなければ明日からの生活が成り立たない。

「俺はこれから六畳間の荷物を俺とメグの部屋にそれぞれ移動させて部屋を空けておくから、綺羅は今から家に戻って引っ越しの準備を始めろ。メグ、一緒について行って手伝ってやれ。途中のスーパーで段ボールを十枚くらい貰って行けば早く済む。ガムテープと紐とはさみとマーカーも持って行け、赤いテープもだ」
「わかった」
「綺羅の家に着いたら、真っ先に不動産屋の連絡先と物件名と部屋番号を教えろ。俺の方で解約手続きをしといてやる。住民票と郵便局の転送手続きは明日でいいな」
「は、はい」
「よし、コーヒー飲み終わったらすぐに動け」

 それだけ言うと、カップの中身を一気に喉に流し込んで、カオルさんは立ち上がった。