第32話 中嶋、乗り換える
七月下旬のある暑い日、あたしとメグル君と中嶋さんは、近くのカフェで向かい合っていた。中嶋さんはいつものように笑顔を作ってはいたが、やはりちょっと深刻そうには見えた。メグル君とあたしが、B-MENの専属モデル更新を断ったからだ。
「多摩芸術大学からオープンキャンパスのゲスト依頼も来てるんです。他にも中嶋さんに直接交渉したって聞いたんですけど、G-TVの出演依頼も来てたじゃないですか。そういうのがある度にB-MENとの調整を取らなきゃならないわけですよね。そういうわけで今後はフリーの活動として、B-MENさんともご縁があればお仕事させていただくような感じで」
「いえ、まあ、そう言われると予想してましたんで、仕方ないかな~とは思いますけど……やっぱり残念です。まずは半年契約で様子を見るっていう編集部の方針がある限り、金の卵を見つけても逃してしまう。じれったいですよ」
「中嶋さんに育てていただいたようなものなので心苦しいんですけど……って、ちょっとメグル君も黙ってないでなんとか言いなさいよ」
「あの、写真集って八月一日発売でしたっけ」
おい、そこかよ!
「そうです」
「契約切れる前に発売だったら良かったのに。一緒に中嶋さんと祝杯あげられたのになぁ……。あの、個人的に誘っちゃってもいいですか? 僕、中嶋さんにはすげーお世話になったし、って言うか中嶋さん好きだし、なんかB-MENの専属契約切れても中嶋さんとは個人的にお付き合いさせて貰いたいんですけど、ダメですか?」
メグル君がリスみたいなくりくりの目で中嶋さんをじっと見る。この目をされて落ちない人なんて見たことが無い。
「嬉しいこと言ってくれますね。こちらこそ、是非お願いします。河原のロケ、楽しかったですよね。今度うちの家内と子供たちとバーベキューやろうかって言ってましてね。風間さんさえご迷惑でなければ薫さんも高梨さんも一緒に」
「ほんとですか! 行きます行きます!」
「うわー、カオルも呼んでいいんですか、帰ったら早速伝えます、ありがとうございます!」
なんてその時は言ってたんだけど。
発売日にメールが来たんだ、中嶋さんから。業務連絡みたいに淡々と書いてあったんだけど、あたしたちはそれを見て石になってしまいそうだったんだ。
だって、あの中嶋さんが出版社辞めるって言うんだもん。入社してずっとファッション誌の担当だった彼が、急に畑違いの部門に異動になって。それで、自分から辞表を出したって。八月から別の人がメグル君の写真集の担当になるって。
それって、メグル君を押さえておけなかったから? メグル君が契約を更新しなかったから?
あたしたちが呆然としていると、現実に引き戻すかのように電話が鳴った。アイナからだった。
「何それ、信じらんない、ありえない。だからあそこは何やらせても長続きしないのよ。社員をもっと信用してもいいのに」
「でしょ。あたしもメグル君も愕然」
未だぼんやりと気の抜けたあたしに、アイナはキレるキレる。さっきからテーブルをドンドン叩いて怒りまくってる。周りのお客さんビビってるし。
「メグの写真集の発売日に合わせてクビにするような真似、しかも自主退社を煽るようなことしてるけど、実際それってパワハラのリストラだよね! 中嶋さんみたいな優秀な人を手放すなんて、バカじゃないの。てかバカだよ、フツーにバカ。B-MEN編集部、頭悪すぎ!」
「あたしに言われてもね」
「それで、今日から無職なの? 自主退社だから他所からハントされたわけじゃないよね?」
「うん、多分ハロワ行ってるんじゃないかな。奥さんとお子さん二人いるパパさんだから。バーベキュー誘って貰ってたのに、それどころじゃなくなっちゃったって言うか」
って言ってる先から、アイナがスマホを取り出して誰かに電話をかけ始めた。
「ちょっと待って、電話するから」
「どこに?」
「うちのイケ坊編集長に!」
イケ坊というのは、カオルさんの『よんよんまる』を出版している蛍雪社(つまりアイナの会社ね)のメンズファッション雑誌だ。イケ『メン』というよりはイケ『坊や』くらいの年齢、中学生~高校生くらいをターゲットにしたファッション誌なので『イケ坊』という。マスコットキャラクターがカッパなのがまた可愛いんだ。……ってそういう問題じゃない、なぜイケ坊編集長に? と思う間もなく、アイナがスマホ片手に頭を下げている。
「あ、もしもし、BLコミック編集部の武田愛菜です。お世話になります。一分だけ時間下さい、大至急の連絡です。前に編集長がお話しされてたB-MENの風間巡の写真集、今日発売なんですけど……え、もう仕入れたんですか、流石イケ坊編集部! それでですね、その風間巡さんの担当者がどうもリストラされたらしいんですよ。専属契約の更新取れなかったからだと思いますけど……そうです。風間巡さんとその担当者、中嶋さんって言うんですけど凄く仲が良くて、もうツーカーなんですよ。……そうそう、そうなんです。……ですよね、そう思って私もすぐに連絡を。それで今ちょうど風間巡さんのマネージャーさんと一緒にいるんです……ええ、はい、もちろんです。了解しました、押さえます! じゃ、またあとで連絡します、はい、失礼します」
電話を切ったアイナはあたしの方に身を乗り出して、絶対的に逆らえないようなオーラをビンビンさせながらこう言った。
「中嶋さん、蛍雪社・イケ坊編集部が貰います! 今すぐ中嶋さんに電話してちょうだい、あたしから説明するから! 早くっ!」
「ってことで、中嶋さんはB-MENをリストラされると同時に蛍雪社イケ坊編集部にハントされちゃったという事なの。B-MEN編集部よりもずっとお給料出すから是非来てくれって編集長の熱烈なコールに、もう中嶋さん即答状態で。で、早速中嶋さん経由で編集長から、フリー契約でいいからってイケ坊のモデル契約の打診が来てるんだけど、どうする?」
「すげー! アイナ、中嶋さんをイケ坊編集部に引っ張り込んだの? んで僕もイケ坊モデルに? マジで? また中嶋さんと仕事できんの?」
「そういう事!」
もうさっきからあたしとメグル君は手を取り合ってぴょんぴょん飛び跳ねてる。
「跳ねるな。610号室の人に迷惑だ。声だけで喜べ」
相変わらずカオルさんがクールにツッコミを入れてくるが、あたしとメグル君はそれどころではないのだ。もう、アイナサマサマだ。フリー契約にはなるし、中嶋さんも路頭に迷う事が無くなるし、何よりまた中嶋さんと仕事ができる!
「カオルさん、これって凄い事なんですよ。カオルさんの『よんよんまる』もメグル君の『イケ坊』も同じ蛍雪社なんだから、給料管理が楽になるじゃないですか。しかもカオルさんの担当のアイナと、メグル君の担当の中嶋さんが今度から社内で顔を合わせるんですよ、同じ社内だといろいろ便利じゃないですか」
「まあ、同じ社内だから厄介なこともあるけどな」
「そんなこと言ってないで、今日はお祝いですよ。メグル君の新しいモデル契約のお祝い。あ、友華ちゃんの方の多摩芸術大学オープンキャンパスの返事もしなくちゃ」
「綺羅」
「はい」
え? カオルさんの目が……ちょっと怖い?
「漫画、描いてるか?」
「いえ、今は」
「一次選考を通過して気が抜けてるか? お前はマネージャーなのか、漫画家なのか、どっちなんだ?」
カオルさん、怒ってるの?
「綺羅はマネージャーとして優秀だと聞いてる。でも、お前は漫画家になるんじゃなかったのか?」
「それは……」
「俺が雇ったのは漫画家のアシスタントだ。ちゃんとその仕事はやっているから俺はそれに関して文句はない。だが、綺羅が本当に目指すものは何なんだ? 俺はお前の邪魔はしたくない」
邪魔? カオルさんがあたしの邪魔ってどういう意味?
「見直す時期に来てるかもしれない。よく考えろ、自分の事だ」
七月下旬のある暑い日、あたしとメグル君と中嶋さんは、近くのカフェで向かい合っていた。中嶋さんはいつものように笑顔を作ってはいたが、やはりちょっと深刻そうには見えた。メグル君とあたしが、B-MENの専属モデル更新を断ったからだ。
「多摩芸術大学からオープンキャンパスのゲスト依頼も来てるんです。他にも中嶋さんに直接交渉したって聞いたんですけど、G-TVの出演依頼も来てたじゃないですか。そういうのがある度にB-MENとの調整を取らなきゃならないわけですよね。そういうわけで今後はフリーの活動として、B-MENさんともご縁があればお仕事させていただくような感じで」
「いえ、まあ、そう言われると予想してましたんで、仕方ないかな~とは思いますけど……やっぱり残念です。まずは半年契約で様子を見るっていう編集部の方針がある限り、金の卵を見つけても逃してしまう。じれったいですよ」
「中嶋さんに育てていただいたようなものなので心苦しいんですけど……って、ちょっとメグル君も黙ってないでなんとか言いなさいよ」
「あの、写真集って八月一日発売でしたっけ」
おい、そこかよ!
「そうです」
「契約切れる前に発売だったら良かったのに。一緒に中嶋さんと祝杯あげられたのになぁ……。あの、個人的に誘っちゃってもいいですか? 僕、中嶋さんにはすげーお世話になったし、って言うか中嶋さん好きだし、なんかB-MENの専属契約切れても中嶋さんとは個人的にお付き合いさせて貰いたいんですけど、ダメですか?」
メグル君がリスみたいなくりくりの目で中嶋さんをじっと見る。この目をされて落ちない人なんて見たことが無い。
「嬉しいこと言ってくれますね。こちらこそ、是非お願いします。河原のロケ、楽しかったですよね。今度うちの家内と子供たちとバーベキューやろうかって言ってましてね。風間さんさえご迷惑でなければ薫さんも高梨さんも一緒に」
「ほんとですか! 行きます行きます!」
「うわー、カオルも呼んでいいんですか、帰ったら早速伝えます、ありがとうございます!」
なんてその時は言ってたんだけど。
発売日にメールが来たんだ、中嶋さんから。業務連絡みたいに淡々と書いてあったんだけど、あたしたちはそれを見て石になってしまいそうだったんだ。
だって、あの中嶋さんが出版社辞めるって言うんだもん。入社してずっとファッション誌の担当だった彼が、急に畑違いの部門に異動になって。それで、自分から辞表を出したって。八月から別の人がメグル君の写真集の担当になるって。
それって、メグル君を押さえておけなかったから? メグル君が契約を更新しなかったから?
あたしたちが呆然としていると、現実に引き戻すかのように電話が鳴った。アイナからだった。
「何それ、信じらんない、ありえない。だからあそこは何やらせても長続きしないのよ。社員をもっと信用してもいいのに」
「でしょ。あたしもメグル君も愕然」
未だぼんやりと気の抜けたあたしに、アイナはキレるキレる。さっきからテーブルをドンドン叩いて怒りまくってる。周りのお客さんビビってるし。
「メグの写真集の発売日に合わせてクビにするような真似、しかも自主退社を煽るようなことしてるけど、実際それってパワハラのリストラだよね! 中嶋さんみたいな優秀な人を手放すなんて、バカじゃないの。てかバカだよ、フツーにバカ。B-MEN編集部、頭悪すぎ!」
「あたしに言われてもね」
「それで、今日から無職なの? 自主退社だから他所からハントされたわけじゃないよね?」
「うん、多分ハロワ行ってるんじゃないかな。奥さんとお子さん二人いるパパさんだから。バーベキュー誘って貰ってたのに、それどころじゃなくなっちゃったって言うか」
って言ってる先から、アイナがスマホを取り出して誰かに電話をかけ始めた。
「ちょっと待って、電話するから」
「どこに?」
「うちのイケ坊編集長に!」
イケ坊というのは、カオルさんの『よんよんまる』を出版している蛍雪社(つまりアイナの会社ね)のメンズファッション雑誌だ。イケ『メン』というよりはイケ『坊や』くらいの年齢、中学生~高校生くらいをターゲットにしたファッション誌なので『イケ坊』という。マスコットキャラクターがカッパなのがまた可愛いんだ。……ってそういう問題じゃない、なぜイケ坊編集長に? と思う間もなく、アイナがスマホ片手に頭を下げている。
「あ、もしもし、BLコミック編集部の武田愛菜です。お世話になります。一分だけ時間下さい、大至急の連絡です。前に編集長がお話しされてたB-MENの風間巡の写真集、今日発売なんですけど……え、もう仕入れたんですか、流石イケ坊編集部! それでですね、その風間巡さんの担当者がどうもリストラされたらしいんですよ。専属契約の更新取れなかったからだと思いますけど……そうです。風間巡さんとその担当者、中嶋さんって言うんですけど凄く仲が良くて、もうツーカーなんですよ。……そうそう、そうなんです。……ですよね、そう思って私もすぐに連絡を。それで今ちょうど風間巡さんのマネージャーさんと一緒にいるんです……ええ、はい、もちろんです。了解しました、押さえます! じゃ、またあとで連絡します、はい、失礼します」
電話を切ったアイナはあたしの方に身を乗り出して、絶対的に逆らえないようなオーラをビンビンさせながらこう言った。
「中嶋さん、蛍雪社・イケ坊編集部が貰います! 今すぐ中嶋さんに電話してちょうだい、あたしから説明するから! 早くっ!」
「ってことで、中嶋さんはB-MENをリストラされると同時に蛍雪社イケ坊編集部にハントされちゃったという事なの。B-MEN編集部よりもずっとお給料出すから是非来てくれって編集長の熱烈なコールに、もう中嶋さん即答状態で。で、早速中嶋さん経由で編集長から、フリー契約でいいからってイケ坊のモデル契約の打診が来てるんだけど、どうする?」
「すげー! アイナ、中嶋さんをイケ坊編集部に引っ張り込んだの? んで僕もイケ坊モデルに? マジで? また中嶋さんと仕事できんの?」
「そういう事!」
もうさっきからあたしとメグル君は手を取り合ってぴょんぴょん飛び跳ねてる。
「跳ねるな。610号室の人に迷惑だ。声だけで喜べ」
相変わらずカオルさんがクールにツッコミを入れてくるが、あたしとメグル君はそれどころではないのだ。もう、アイナサマサマだ。フリー契約にはなるし、中嶋さんも路頭に迷う事が無くなるし、何よりまた中嶋さんと仕事ができる!
「カオルさん、これって凄い事なんですよ。カオルさんの『よんよんまる』もメグル君の『イケ坊』も同じ蛍雪社なんだから、給料管理が楽になるじゃないですか。しかもカオルさんの担当のアイナと、メグル君の担当の中嶋さんが今度から社内で顔を合わせるんですよ、同じ社内だといろいろ便利じゃないですか」
「まあ、同じ社内だから厄介なこともあるけどな」
「そんなこと言ってないで、今日はお祝いですよ。メグル君の新しいモデル契約のお祝い。あ、友華ちゃんの方の多摩芸術大学オープンキャンパスの返事もしなくちゃ」
「綺羅」
「はい」
え? カオルさんの目が……ちょっと怖い?
「漫画、描いてるか?」
「いえ、今は」
「一次選考を通過して気が抜けてるか? お前はマネージャーなのか、漫画家なのか、どっちなんだ?」
カオルさん、怒ってるの?
「綺羅はマネージャーとして優秀だと聞いてる。でも、お前は漫画家になるんじゃなかったのか?」
「それは……」
「俺が雇ったのは漫画家のアシスタントだ。ちゃんとその仕事はやっているから俺はそれに関して文句はない。だが、綺羅が本当に目指すものは何なんだ? 俺はお前の邪魔はしたくない」
邪魔? カオルさんがあたしの邪魔ってどういう意味?
「見直す時期に来てるかもしれない。よく考えろ、自分の事だ」