第3話 綺羅の災難
「あたし、小さいころから漫画家になりたくて、ずっとずっと漫画描いてたんです。高校卒業してデザインの学校に行ったけど、漫画家養成コースでずっと漫画描いてました。親にはインダストリアルデザイナーになりたいって嘘ついて、そっちの勉強してるふりしてました。それで八王子のアパートで独り暮らししながら漫画家になるための勉強をして、二年のコースだったんだけど、卒業間際に母が遊びに来て、それであたしが漫画を描いてることがバレて、仕送り止められちゃったんです」
「あららら」
メグル君の合いの手が入る。カオルさんの方は横向きに座ったまま、目も合わせずに黙ってコーヒーを啜っている。
「それでバイトしなくちゃならないし、これは漫画家さんのアシスタントとして働くのが一番いいと思って、家の近くの漫画家さんがいないか調べたんです。そしたら、あたしが小学校の頃から憧れてた神代エミリー先生のお宅がすぐ近所だってわかって」
メグル君がチラリとカオルさんに目をやる。カオルさんは無表情のまま聞いている。神代先生の事知ってるんだろうか。まさかね。少女漫画家だし。
「神代先生は未だに全部手書き手作業を貫いてて、何人ものスタッフを雇ってるって聞いたんです。それで『ゴムかけでもベタ塗りでもなんでもいいから雇ってください』って押しかけたら、ちょうどトーン貼り担当の人が辞めたばかりだったらしくて、それでよければって雇ってくださったんです。もう神代先生の作品は全部読んでるくらいのファンだから、指定されなくてもここはどんなトーンを貼るかってすぐわかっちゃって、それでもう全部トーンの選択まですぐに任せてくださって、こんな楽しいバイトは無いって思ってました。それにこちらは修行させていただいている身なのに、お給料まで下さって。本当に幸せでした……一昨日までは」
「冷めるよ」
突然カオルさんが口を開いた。
「え?」
「コーヒー」
「あ、すいません。ありがとうございます」
一口含んで驚いた。
「美味しい。何これ、凄い美味しい」
どこだったかの珈琲専門店に一度だけ神代先生に連れてってもらったことがある。そこのコーヒーがびっくりするほど美味しかった。このコーヒーはあれに引けを取らない味だ。
「カオルのコーヒー、美味しいだろ? 顔と喋り方は怖いけど、根は優しいからね、心配しなくていいよ」
「一言余計だ。綺羅、続き」
えっ? 今「綺羅」って呼び捨てにした? 初対面の男性に呼び捨てにされたことなど、生まれてこの方一度も無い。だけどなんだろう、それは決して不愉快なものではなくて、何故か心地良く響くのが不思議。
「はい。それで、あたし、ずっと小さいころから神代先生の絵に憧れていたもんだから、画風もやっぱり神代先生にどこかちょっと似てて、でもそれは嫌だったんです。もっと違う画風を探してたんです。そんな時に本屋さんで凄く好みの画風を見つけちゃったんです。それで、家で真似してみようって思ってその本を買って帰ったんですけど、それが所謂BLで……あの、BLってわかります? ボーイズラブのことなんですけど」
「うん、わかるよ」
即答するメグル君と、黙って頷くカオルさん。どうやらこの二人は普通に知っているらしい。一昔前なら薔薇族と呼ばれていただろうに。
「良かった。その作者さん、風間薫先生っていうんですけど、彼女の絵って線が細くて凄く綺麗で。BLっていっても『微BL』っていうか、『BLテイスト』っていうか、さっぱりしてて、いやらしくないんです。代表作がピアニストの話なんで、指先の絵がたくさんあって、すっごく綺麗な手の絵を描くんです。もう手フェチになるくらい素敵なんです。それで風間先生の本ばっかり買って勉強したんです。いつもカバンにも入れて持ち歩いて。そしたらそれが神代先生に見られちゃって」
「なじられた?」
「ううん、BLを認めないとか、そういう先生じゃないんです。ただ、あたしが何か書きたいものがあるんだって察知して下さって。それで『何か書きたいのならあなたの好きなものを書いてごらんなさい。ダメ出ししてあげるから、まずはあらすじを』って言ってくださったんです。それで小学校の頃からずっとずっと大事に大事に温め続けていたお話のあらすじを話したんです、そしたら……」
悔しさがこみあげてきて、握った拳が震える。
「あー、また泣くし」
メグル君があたしの方にティッシュを箱ごと押し付けてくる。カオルさんはそこで容赦なく言葉を挟む。
「終わりか?」
「終わりじゃないです! 終われるわけないじゃないですか! 神代先生、あたしのあらすじを聞いて、つまんないとか言ってくれた方がまだ良かったんです、『あら、それは次にアタクシが書こうとしていた作品のあらすじと全く同じね!』って涼しい顔で言うんです、それって、それって、パクリですよね。あたしのあらすじ、そこで盗まれてますよね、絶対そんなの書く予定無かったですよね!」
「あー……それはどうかねぇ……」
メグル君が同意とも否定とも取れない意見を挟んでくる。けど、そうとしか思えないじゃん!
「あたしのデビュー作になる予定だったんですよ! 十年も温めてきたプロットなんです! それをパクられたんですよ! あたし、無茶苦茶怒って『アシスタントの案をパクる気ですか!』って詰め寄ったんです。そしたら『あらあらあら早とちりさんです事、オホホホ』なんて言われて、それであたし、悔しくて神代先生に『こんな人のアシスタントなんかできない、給料なんかいらない、辞めてやる!』って啖呵切って飛び出してきたんです。だからお金も無くて。うちのアパート、神代先生のお宅の目と鼻の先くらい近くて、っていうか目と睫毛の先くらい近くて、家に帰ったら絶対にその辺で会っちゃうから、もう引っ越しするしかないし、でも所持金百七十円なんです。お金も家も作品プロットもみんな一編に無くしちゃったんです!」
あまりにも悔しくて、我慢できなくて、あたしは恥ずかしいことに大声を上げて泣いてしまった。泣きたかったわけじゃない、止めたくても止まらないんだもん、仕方ないじゃん。二人が困ってることもわかってるけど、どうにもならないんだもん!
そのとき、カオルさんが思いがけないことを言った。
「ここに住むか?」
「あたし、小さいころから漫画家になりたくて、ずっとずっと漫画描いてたんです。高校卒業してデザインの学校に行ったけど、漫画家養成コースでずっと漫画描いてました。親にはインダストリアルデザイナーになりたいって嘘ついて、そっちの勉強してるふりしてました。それで八王子のアパートで独り暮らししながら漫画家になるための勉強をして、二年のコースだったんだけど、卒業間際に母が遊びに来て、それであたしが漫画を描いてることがバレて、仕送り止められちゃったんです」
「あららら」
メグル君の合いの手が入る。カオルさんの方は横向きに座ったまま、目も合わせずに黙ってコーヒーを啜っている。
「それでバイトしなくちゃならないし、これは漫画家さんのアシスタントとして働くのが一番いいと思って、家の近くの漫画家さんがいないか調べたんです。そしたら、あたしが小学校の頃から憧れてた神代エミリー先生のお宅がすぐ近所だってわかって」
メグル君がチラリとカオルさんに目をやる。カオルさんは無表情のまま聞いている。神代先生の事知ってるんだろうか。まさかね。少女漫画家だし。
「神代先生は未だに全部手書き手作業を貫いてて、何人ものスタッフを雇ってるって聞いたんです。それで『ゴムかけでもベタ塗りでもなんでもいいから雇ってください』って押しかけたら、ちょうどトーン貼り担当の人が辞めたばかりだったらしくて、それでよければって雇ってくださったんです。もう神代先生の作品は全部読んでるくらいのファンだから、指定されなくてもここはどんなトーンを貼るかってすぐわかっちゃって、それでもう全部トーンの選択まですぐに任せてくださって、こんな楽しいバイトは無いって思ってました。それにこちらは修行させていただいている身なのに、お給料まで下さって。本当に幸せでした……一昨日までは」
「冷めるよ」
突然カオルさんが口を開いた。
「え?」
「コーヒー」
「あ、すいません。ありがとうございます」
一口含んで驚いた。
「美味しい。何これ、凄い美味しい」
どこだったかの珈琲専門店に一度だけ神代先生に連れてってもらったことがある。そこのコーヒーがびっくりするほど美味しかった。このコーヒーはあれに引けを取らない味だ。
「カオルのコーヒー、美味しいだろ? 顔と喋り方は怖いけど、根は優しいからね、心配しなくていいよ」
「一言余計だ。綺羅、続き」
えっ? 今「綺羅」って呼び捨てにした? 初対面の男性に呼び捨てにされたことなど、生まれてこの方一度も無い。だけどなんだろう、それは決して不愉快なものではなくて、何故か心地良く響くのが不思議。
「はい。それで、あたし、ずっと小さいころから神代先生の絵に憧れていたもんだから、画風もやっぱり神代先生にどこかちょっと似てて、でもそれは嫌だったんです。もっと違う画風を探してたんです。そんな時に本屋さんで凄く好みの画風を見つけちゃったんです。それで、家で真似してみようって思ってその本を買って帰ったんですけど、それが所謂BLで……あの、BLってわかります? ボーイズラブのことなんですけど」
「うん、わかるよ」
即答するメグル君と、黙って頷くカオルさん。どうやらこの二人は普通に知っているらしい。一昔前なら薔薇族と呼ばれていただろうに。
「良かった。その作者さん、風間薫先生っていうんですけど、彼女の絵って線が細くて凄く綺麗で。BLっていっても『微BL』っていうか、『BLテイスト』っていうか、さっぱりしてて、いやらしくないんです。代表作がピアニストの話なんで、指先の絵がたくさんあって、すっごく綺麗な手の絵を描くんです。もう手フェチになるくらい素敵なんです。それで風間先生の本ばっかり買って勉強したんです。いつもカバンにも入れて持ち歩いて。そしたらそれが神代先生に見られちゃって」
「なじられた?」
「ううん、BLを認めないとか、そういう先生じゃないんです。ただ、あたしが何か書きたいものがあるんだって察知して下さって。それで『何か書きたいのならあなたの好きなものを書いてごらんなさい。ダメ出ししてあげるから、まずはあらすじを』って言ってくださったんです。それで小学校の頃からずっとずっと大事に大事に温め続けていたお話のあらすじを話したんです、そしたら……」
悔しさがこみあげてきて、握った拳が震える。
「あー、また泣くし」
メグル君があたしの方にティッシュを箱ごと押し付けてくる。カオルさんはそこで容赦なく言葉を挟む。
「終わりか?」
「終わりじゃないです! 終われるわけないじゃないですか! 神代先生、あたしのあらすじを聞いて、つまんないとか言ってくれた方がまだ良かったんです、『あら、それは次にアタクシが書こうとしていた作品のあらすじと全く同じね!』って涼しい顔で言うんです、それって、それって、パクリですよね。あたしのあらすじ、そこで盗まれてますよね、絶対そんなの書く予定無かったですよね!」
「あー……それはどうかねぇ……」
メグル君が同意とも否定とも取れない意見を挟んでくる。けど、そうとしか思えないじゃん!
「あたしのデビュー作になる予定だったんですよ! 十年も温めてきたプロットなんです! それをパクられたんですよ! あたし、無茶苦茶怒って『アシスタントの案をパクる気ですか!』って詰め寄ったんです。そしたら『あらあらあら早とちりさんです事、オホホホ』なんて言われて、それであたし、悔しくて神代先生に『こんな人のアシスタントなんかできない、給料なんかいらない、辞めてやる!』って啖呵切って飛び出してきたんです。だからお金も無くて。うちのアパート、神代先生のお宅の目と鼻の先くらい近くて、っていうか目と睫毛の先くらい近くて、家に帰ったら絶対にその辺で会っちゃうから、もう引っ越しするしかないし、でも所持金百七十円なんです。お金も家も作品プロットもみんな一編に無くしちゃったんです!」
あまりにも悔しくて、我慢できなくて、あたしは恥ずかしいことに大声を上げて泣いてしまった。泣きたかったわけじゃない、止めたくても止まらないんだもん、仕方ないじゃん。二人が困ってることもわかってるけど、どうにもならないんだもん!
そのとき、カオルさんが思いがけないことを言った。
「ここに住むか?」