第28話 あたしは……
「『よんよんまる』公式グッズはこれね」
アイナがカバンから出してきた一覧表が、既に『よんよんまる』キャラのクリアフォルダに収まってるとこが凄い。
「アイナも使ってるの?」
「当たり前じゃない。こうやって普段使いにして宣伝するんだから。こんなふうに使ってるとね、いろんな人から『これ、どうやったら手に入るんですか?』って入手経路を聞かれるの。そこでネットで買えるって言ってQRコードを渡すだけ。これでお客さん最低十人ゲットできるよ。その人が他の人に宣伝してくれるから」
素晴らしい。商人だ。アイナ、侮れん。
「アイナがマネージャーやった方が良さそうじゃない?」
「ダメダメ、マネージャーは商品開発に口出しできる立場じゃないでしょ? だから綺羅がマネージャーで、私がこっちで立案して企画会議に持ち込んだ方がいいんだって。それに薫君たちのそばに居るのは、私より綺羅の方が絶対にいい。私じゃ押しが強すぎて、薫君のストレスになっちゃうよ」
カオルさんのストレス。そんなこと考えたこともなかった。あたしはカオルさんのストレスになっていないだろうか。アシスタントとか言って、なんでもかんでもやって貰ってる。あたしは彼の役に立ってるんだろうか。
「私は薫君とこうして一緒に仕事できるだけで十分幸せ。縁の下の力持ちでありたいんだよね」
「ねえ、アイナ」
「ん?」
モンブランを口元に運ぶアイナの手が止まる。
「カオルさんの事、本当に好きなんだね」
ふっと笑った彼女は、一旦手を戻した。
「好きだよ。言ったじゃない、薫君の事だけ考えて、彼氏いない歴イコール年齢を更新し続けてるって。バカみたいに思うかもしれないけど、それくらい私には大事な人なの。幼かった私の心についた深い傷を、彼だけが癒してくれたんだもん。彼がこの先結婚しても、ずっと見守り続けると思う。だから綺羅は私に遠慮しないで。寧ろ相手が綺羅で良かったと思ってるくらい」
そう言って彼女は今度こそモンブランを口に入れた。
あたしとカオルさんはそんな仲じゃない。ただの師弟関係だ。そう言ったらアイナはどうするんだろう。
それに、実際そういう仲じゃないにしろ、あたしはカオルさんの事が好きだ。最初は『親切な師匠』として、『観賞用の美しい存在』として憧れてるだけだと思ってた。だけど一緒に暮らしていて、そうじゃないんだって気づいた。カオルさんが師匠じゃなくても、超が付くほどの不細工でも、きっと好きになっていたと思う。
この前の撮影で確信したんだ。カオルさんがあたしにカーディガンをかけてくれた時。あたしはこの人のことが好きで、とても大切で、そして誰にも渡したくないって。
アイナが現れたことであたしの気持ちは確かなものに変わったんだ。カオルさんを彼女に取られたくないんだ。アイナが勘違いしてるのをいいことに、そのまま知らん顔でいる、「それは勘違いだよ」って訂正することだってできるのに。
「どうしたの、綺羅?」
「え、ああ、別に」
「ごめんね、最近薫君何度も借りて」
「え?」
「ほら、最近よく薫君をランチに誘ってるから」
なんだって? 知らないよ、あたし。
「でも大丈夫だから。薫君に『私の事、見てくれることは無いんだよね?』って聞いたら、きっぱり『無い』って言われたから。薫君、やっぱり私の事なんて眼中にないみたい。綺羅が大切なんだね」
いや、それは違うと思う。彼が大事にしてるのは漫画を描くことだと思う。間違いなくあたしも眼中に入ってない、ただただストイックな人なんだ。
あたしはそれでもわざと余裕の笑顔を作った。
「戦略会議なんだから、カオルさんと何度でもランチしたらいいじゃない。その方がカオルさんも売れるんだし」
「えへっ、じゃ、またどさくさ紛れに借りちゃうね。あたしもB-MENの担当さんに負けない働きしなきゃ」
「やっぱりライバル社だと気になるの?」
「う~ん……ライバル社だからっていうより、あの二人を見出して、メグをここまで売れっ子にしたんだもん。中嶋さんって言ったっけ、やっぱ只者じゃないと思う。メグの契約が半年なんて凄い勿体無いよね。この後はもう更新しないんでしょ?」
「えー、あたしわかんないよ。メグル君が決めるんじゃない?」
「何バカなこと言ってんのよ、更新の話来たら断りなさいよ!」
「へ?」
いきなりアイナが大きな声を出すもんだから、周りのお客さんが一斉に振り返った。
「B-MEN専属モデルってことは、何をするにもB-MEN側の許可を取らなきゃならないんだよ? 中嶋さんには気の毒だけど、フリーで動いた方が絶対売れるって。芸能界はメグがフリーになるのを手ぐすね引いて待ってんだから!」
「そ、そうなの?」
「しっかりしなさい、マネージャーでしょ!」
「やっぱアイナがマネージャーの方が良さそう……アイナが現れてからの二人は『快進撃』って言葉がピッタリだもん」
そしたら、アイナはあたしの手を取って、ド正面からあたしの目をガッツリ見てこう言ったんだ。
「綺羅がマネージャーになってからの風間兄弟が凄いんだよ。あの二人には綺羅が必要なんだよ」
「ありがと、アイナ」
アイナはこんなにいい人なのに。アイナの方が頭もいいし美人だし、カオルさんだってお似合いなのに。ほとほと自分で自分が嫌になる。あたし、なんでこんなに嫌な女なんだろう。
家に帰ると、コーヒーの香りとカオルさんの「おかえり」の声があたしを出迎えてくれた。この香りもこの声も、あたしを一番ホッとさせるものになってる。
カオルさんから見たら、三つも年下のあたしなんか子供にしか見えないんだろうな。メグル君なら二人になった途端にキスされちゃうのに、カオルさんなんか指一本触れないよ。ああ、そう言えば、確かにこの家に来てから一度もカオルさんに触れたことが無いな。半年も一緒に住んでるのに。
「どうした、そんなところに突っ立って」
「あ、なんでもないです」
どうしよう、自分の気持ちに気づいてから、カオルさんを意識してしまう。こうして部屋で二人っきりになると、今までと違う意味でドキドキしちゃうよ。
「手、洗って来い。コーヒー淹れとく」
「ありがとうございます」
なのに、未だにあたしはカオルさんには敬語のまま。師匠なんだし雇い主だから当然だけど、メグル君とは普通に話せるのにカオルさんとはどこか他人行儀。もっと近いところに行きたいのに。
「あの、これケーキ、お土産です。アイナがカオルさんとメグル君にって。あたしの分も入ってますけど」
「メグは友華ちゃんのとこに行ってるから、二人で先に食うか?」
「はい!」
メグル君が? へえ、あの撮影から急接近したんだろうか。
「じゃあ、皿とフォークは綺羅に任せる。俺はコーヒー当番」
「はーい」
二人でケーキ。なんだか幸せ。メグル君も友華ちゃんのとこにお出かけなんだからいいよね。
「あっ!」
ガシャン。
関係ないこと考えてたら、手が滑ってお皿を落としてしまった。
「ごめんなさい!」
「危ないからそのままにしとけ」
「大丈夫ですよ、自分で片づけますから……あ」
言ってる先から、手が赤く染まっていく。何やってんだあたし。もう、全然ダメだ。
「指の付け根を強く抑えて止血しろ」
カオルさんが救急箱を取りに行く。せっかくカオルさんと二人きりなのに、もう、やんなっちゃう。
戻ってきたカオルさんがあたしの手を取って消毒薬をかけた。
冷たい。消毒薬じゃなくて。初めて触れたカオルさんの手、思ったより冷たかった。手が冷たい人は心があったかいって聞いたことがある。
「痛いか?」
「大丈夫です。すいません」
「これはちょっと大きいヤツでないとダメか」
何か一人でブツブツ言いながら、絆創膏をガサガサと出してくる。その横顔の美しさに見とれていると、カオルさんが「ん?」って顔をする。あたしまで他の女の子みたいにカオルさんの顔に見とれたりしてたら、きっと彼は居心地悪いに違いない。あたしは何でもないように目を逸らす。
「よりによって、右手の人差し指と中指を切るとは。もう少し漫画家の自覚を持て……はい終わり」
「すいません、ありがとうございます」
カオルさんのひんやりとした陶器のような指が、あたしの手から離れていく。もう少し握っていて欲しかった。わざと怪我しちゃおうかと思うほど。
「綺羅は座っとけ。俺が片付けるから」
「ごめんなさい」
カオルさんは手際よく割れた皿を片付け、ケーキとコーヒーをテーブルに並べながら溜息をついた。
「お前には指一本触れない契約だったのに、約束を破ってしまったな」
「へ? そんな契約しましたっけ?」
「忘れたのか? 『雇い主の命令は絶対』って話をした時だ。お前は俺が関係を迫ったら素直に抱かれるのかと聞いたら、その気にさせてくれなければ指一本触れさせないと言っただろう。覚えてないのか?」
「寧ろそんなこと覚えてたんですか?」
「当たり前だろう、契約だ。あ、俺このフルーツタルト貰っていいか?」
もう、どんだけ律儀なのよ。
「はい、あたしのはこっちのチョコレートケーキですから」
「そっちのイチゴたっぷりがメグだな。わかりやすい奴だ」
ああ、また抜群の破壊力のある笑顔を向ける。ほんとこの人罪作りだ。
「もう少し……」
「ん?」
えっ。あたし今、何を言おうとしたんだろう。
「あ、いえ、なんでもないです」
あ、どうしよう。カオルさんが怪訝な目であたしを見てる。
「綺羅、何があった?」
「え?」
「やっぱり今日のお前は何かおかしい」
目が笑ってない。どう受け取ったらいいのかわからないよ。怒ってるの?
「通常運転ですよ」
「アイナと何かあったのか」
「そんなんじゃないです。アイナはすごくいい人で、あたし、大好きです。あたしがバカなんです」
「綺羅?」
その時、玄関の暗証番号を押す音が聞こえた。
「ただいま~」
メグル君の帰宅で、その話はなんとなく有耶無耶になった。あたしの中にはモヤモヤしたものが残った。
「『よんよんまる』公式グッズはこれね」
アイナがカバンから出してきた一覧表が、既に『よんよんまる』キャラのクリアフォルダに収まってるとこが凄い。
「アイナも使ってるの?」
「当たり前じゃない。こうやって普段使いにして宣伝するんだから。こんなふうに使ってるとね、いろんな人から『これ、どうやったら手に入るんですか?』って入手経路を聞かれるの。そこでネットで買えるって言ってQRコードを渡すだけ。これでお客さん最低十人ゲットできるよ。その人が他の人に宣伝してくれるから」
素晴らしい。商人だ。アイナ、侮れん。
「アイナがマネージャーやった方が良さそうじゃない?」
「ダメダメ、マネージャーは商品開発に口出しできる立場じゃないでしょ? だから綺羅がマネージャーで、私がこっちで立案して企画会議に持ち込んだ方がいいんだって。それに薫君たちのそばに居るのは、私より綺羅の方が絶対にいい。私じゃ押しが強すぎて、薫君のストレスになっちゃうよ」
カオルさんのストレス。そんなこと考えたこともなかった。あたしはカオルさんのストレスになっていないだろうか。アシスタントとか言って、なんでもかんでもやって貰ってる。あたしは彼の役に立ってるんだろうか。
「私は薫君とこうして一緒に仕事できるだけで十分幸せ。縁の下の力持ちでありたいんだよね」
「ねえ、アイナ」
「ん?」
モンブランを口元に運ぶアイナの手が止まる。
「カオルさんの事、本当に好きなんだね」
ふっと笑った彼女は、一旦手を戻した。
「好きだよ。言ったじゃない、薫君の事だけ考えて、彼氏いない歴イコール年齢を更新し続けてるって。バカみたいに思うかもしれないけど、それくらい私には大事な人なの。幼かった私の心についた深い傷を、彼だけが癒してくれたんだもん。彼がこの先結婚しても、ずっと見守り続けると思う。だから綺羅は私に遠慮しないで。寧ろ相手が綺羅で良かったと思ってるくらい」
そう言って彼女は今度こそモンブランを口に入れた。
あたしとカオルさんはそんな仲じゃない。ただの師弟関係だ。そう言ったらアイナはどうするんだろう。
それに、実際そういう仲じゃないにしろ、あたしはカオルさんの事が好きだ。最初は『親切な師匠』として、『観賞用の美しい存在』として憧れてるだけだと思ってた。だけど一緒に暮らしていて、そうじゃないんだって気づいた。カオルさんが師匠じゃなくても、超が付くほどの不細工でも、きっと好きになっていたと思う。
この前の撮影で確信したんだ。カオルさんがあたしにカーディガンをかけてくれた時。あたしはこの人のことが好きで、とても大切で、そして誰にも渡したくないって。
アイナが現れたことであたしの気持ちは確かなものに変わったんだ。カオルさんを彼女に取られたくないんだ。アイナが勘違いしてるのをいいことに、そのまま知らん顔でいる、「それは勘違いだよ」って訂正することだってできるのに。
「どうしたの、綺羅?」
「え、ああ、別に」
「ごめんね、最近薫君何度も借りて」
「え?」
「ほら、最近よく薫君をランチに誘ってるから」
なんだって? 知らないよ、あたし。
「でも大丈夫だから。薫君に『私の事、見てくれることは無いんだよね?』って聞いたら、きっぱり『無い』って言われたから。薫君、やっぱり私の事なんて眼中にないみたい。綺羅が大切なんだね」
いや、それは違うと思う。彼が大事にしてるのは漫画を描くことだと思う。間違いなくあたしも眼中に入ってない、ただただストイックな人なんだ。
あたしはそれでもわざと余裕の笑顔を作った。
「戦略会議なんだから、カオルさんと何度でもランチしたらいいじゃない。その方がカオルさんも売れるんだし」
「えへっ、じゃ、またどさくさ紛れに借りちゃうね。あたしもB-MENの担当さんに負けない働きしなきゃ」
「やっぱりライバル社だと気になるの?」
「う~ん……ライバル社だからっていうより、あの二人を見出して、メグをここまで売れっ子にしたんだもん。中嶋さんって言ったっけ、やっぱ只者じゃないと思う。メグの契約が半年なんて凄い勿体無いよね。この後はもう更新しないんでしょ?」
「えー、あたしわかんないよ。メグル君が決めるんじゃない?」
「何バカなこと言ってんのよ、更新の話来たら断りなさいよ!」
「へ?」
いきなりアイナが大きな声を出すもんだから、周りのお客さんが一斉に振り返った。
「B-MEN専属モデルってことは、何をするにもB-MEN側の許可を取らなきゃならないんだよ? 中嶋さんには気の毒だけど、フリーで動いた方が絶対売れるって。芸能界はメグがフリーになるのを手ぐすね引いて待ってんだから!」
「そ、そうなの?」
「しっかりしなさい、マネージャーでしょ!」
「やっぱアイナがマネージャーの方が良さそう……アイナが現れてからの二人は『快進撃』って言葉がピッタリだもん」
そしたら、アイナはあたしの手を取って、ド正面からあたしの目をガッツリ見てこう言ったんだ。
「綺羅がマネージャーになってからの風間兄弟が凄いんだよ。あの二人には綺羅が必要なんだよ」
「ありがと、アイナ」
アイナはこんなにいい人なのに。アイナの方が頭もいいし美人だし、カオルさんだってお似合いなのに。ほとほと自分で自分が嫌になる。あたし、なんでこんなに嫌な女なんだろう。
家に帰ると、コーヒーの香りとカオルさんの「おかえり」の声があたしを出迎えてくれた。この香りもこの声も、あたしを一番ホッとさせるものになってる。
カオルさんから見たら、三つも年下のあたしなんか子供にしか見えないんだろうな。メグル君なら二人になった途端にキスされちゃうのに、カオルさんなんか指一本触れないよ。ああ、そう言えば、確かにこの家に来てから一度もカオルさんに触れたことが無いな。半年も一緒に住んでるのに。
「どうした、そんなところに突っ立って」
「あ、なんでもないです」
どうしよう、自分の気持ちに気づいてから、カオルさんを意識してしまう。こうして部屋で二人っきりになると、今までと違う意味でドキドキしちゃうよ。
「手、洗って来い。コーヒー淹れとく」
「ありがとうございます」
なのに、未だにあたしはカオルさんには敬語のまま。師匠なんだし雇い主だから当然だけど、メグル君とは普通に話せるのにカオルさんとはどこか他人行儀。もっと近いところに行きたいのに。
「あの、これケーキ、お土産です。アイナがカオルさんとメグル君にって。あたしの分も入ってますけど」
「メグは友華ちゃんのとこに行ってるから、二人で先に食うか?」
「はい!」
メグル君が? へえ、あの撮影から急接近したんだろうか。
「じゃあ、皿とフォークは綺羅に任せる。俺はコーヒー当番」
「はーい」
二人でケーキ。なんだか幸せ。メグル君も友華ちゃんのとこにお出かけなんだからいいよね。
「あっ!」
ガシャン。
関係ないこと考えてたら、手が滑ってお皿を落としてしまった。
「ごめんなさい!」
「危ないからそのままにしとけ」
「大丈夫ですよ、自分で片づけますから……あ」
言ってる先から、手が赤く染まっていく。何やってんだあたし。もう、全然ダメだ。
「指の付け根を強く抑えて止血しろ」
カオルさんが救急箱を取りに行く。せっかくカオルさんと二人きりなのに、もう、やんなっちゃう。
戻ってきたカオルさんがあたしの手を取って消毒薬をかけた。
冷たい。消毒薬じゃなくて。初めて触れたカオルさんの手、思ったより冷たかった。手が冷たい人は心があったかいって聞いたことがある。
「痛いか?」
「大丈夫です。すいません」
「これはちょっと大きいヤツでないとダメか」
何か一人でブツブツ言いながら、絆創膏をガサガサと出してくる。その横顔の美しさに見とれていると、カオルさんが「ん?」って顔をする。あたしまで他の女の子みたいにカオルさんの顔に見とれたりしてたら、きっと彼は居心地悪いに違いない。あたしは何でもないように目を逸らす。
「よりによって、右手の人差し指と中指を切るとは。もう少し漫画家の自覚を持て……はい終わり」
「すいません、ありがとうございます」
カオルさんのひんやりとした陶器のような指が、あたしの手から離れていく。もう少し握っていて欲しかった。わざと怪我しちゃおうかと思うほど。
「綺羅は座っとけ。俺が片付けるから」
「ごめんなさい」
カオルさんは手際よく割れた皿を片付け、ケーキとコーヒーをテーブルに並べながら溜息をついた。
「お前には指一本触れない契約だったのに、約束を破ってしまったな」
「へ? そんな契約しましたっけ?」
「忘れたのか? 『雇い主の命令は絶対』って話をした時だ。お前は俺が関係を迫ったら素直に抱かれるのかと聞いたら、その気にさせてくれなければ指一本触れさせないと言っただろう。覚えてないのか?」
「寧ろそんなこと覚えてたんですか?」
「当たり前だろう、契約だ。あ、俺このフルーツタルト貰っていいか?」
もう、どんだけ律儀なのよ。
「はい、あたしのはこっちのチョコレートケーキですから」
「そっちのイチゴたっぷりがメグだな。わかりやすい奴だ」
ああ、また抜群の破壊力のある笑顔を向ける。ほんとこの人罪作りだ。
「もう少し……」
「ん?」
えっ。あたし今、何を言おうとしたんだろう。
「あ、いえ、なんでもないです」
あ、どうしよう。カオルさんが怪訝な目であたしを見てる。
「綺羅、何があった?」
「え?」
「やっぱり今日のお前は何かおかしい」
目が笑ってない。どう受け取ったらいいのかわからないよ。怒ってるの?
「通常運転ですよ」
「アイナと何かあったのか」
「そんなんじゃないです。アイナはすごくいい人で、あたし、大好きです。あたしがバカなんです」
「綺羅?」
その時、玄関の暗証番号を押す音が聞こえた。
「ただいま~」
メグル君の帰宅で、その話はなんとなく有耶無耶になった。あたしの中にはモヤモヤしたものが残った。