第1話 新宿

 いつの間に新宿に着いていたのか。特急なら僅か八駅でも、各停に乗ったのだから三十三駅分、時間にして一時間以上も乗っていたことになる。
 テキトーに入場券を買ってしまったので、乗り越し精算しないといけない。
 ぼんやりしたまま精算し、改札を出る。だけど帰りの切符を買うお金はあたしには無い。精算したときにお財布の中に百七十円しか残らなかったからだ。八王子までは二百円程足りない。

 新宿なんて用事が無いから殆ど来たことが無い。随分前にちょこっと西口の方で迷子になったくらいだ。そういえばあの時は都庁を見に行って迷子になったんだ。きっと今はもう迷子になることなんかないし、迷子になったとしても今はそれは些細なことだ。今度こそ都庁を見に行こうか。

 脳が現実を直視することを完全に拒否してる。そんなもの今は直視しちゃダメだ。とにかく都庁を目指そう。日本の中心だ、きっと何かいいことがあるに違いない。

 時計は夜七時を回ったばかり。実家なら真っ暗で星が見えている。だけど新宿に夜は無い。星なんて当然見えない。
 街はハロウィンが過ぎ、クリスマスソングが流れ始めている。あちこちの街路樹が小さなLEDでライトアップされて、まだ十一月アタマだというのにもうクリスマス気分満載。だけどあたしには関係ない。

 何の目的もないけど、一心不乱に都庁の方に向かって歩く。
 この辺りは、東西に走る道の上を南北に走る道が通っている。ここが地下であっちが地上なのか、ここが地上一階であっちが二階なのか、細かいことはわからないけど、今歩いているところは明らかに『下』の方。
 都庁の辺りから『上』に上がってみる。目の前には都庁、右を向くと住友三角ビル、真っ黒な三井ビル、その奥にセンタービル、真後ろに京王プラザ、モノリス、NSビルと首を回して、都庁に戻ってくる。
 そのまま都庁と三角ビルの間の辺りまでぶらぶら歩いて行くと、眼下に東西に走る道が見える。ここの地下には大江戸線都庁前駅が埋まっているはずだ。

 歩道の柵に肘を乗せて、下の通りを走る車のヘッドライトとテイルランプをぼんやりと眺める。左の列が全部赤で、右の列は全部白だ。当たり前だ。日本の道路交通法では車両は左側通行と決められている。

 寒い。
 ああ、十一月ってこんなに寒かったっけ? それともビル風のせい?
 マフラーに顔を半分埋める。
 あたし、こんなところで何をやってるんだろう。
 ああダメだ。今それを考えちゃいけない。
 でも、明日からどうやって生きて行くんだろう。
 違うよ、明日じゃない。今からどうするんだ。
 ダメだダメだ、考えちゃダメだ。
 百七十円でコーヒー飲めるところってあったかな。自販機で買えばいいか。あったかいところで飲みたいな。

「何が見えるんですか?」

 ふと、知らない男の人が声をかけてきた。同い年くらいの、もしかしたら年下かもしれないくらいの男の子。

「何も」
「あ、あの、何か熱心に見てるみたいだったから」

 彼は慌てたように、聞いてもいない理由を述べた。だからあたしは素直に答えた。

「車」
「ああ、車のライト見てたの? あっちの方、木にLEDがついてて綺麗だったよ」
「見た。でも、そんなのもう、どうでもいいの。もう終わっちゃったから」
「何が?」

 何この人。なんでそんなこと聞くの? まあいいか、どうせ赤の他人。三歩歩けばきっとあたしのことなんか忘れる。

「全部。もうあたしには何も残ってない。家も、お金も、仕事も、なーんにも残ってない。家に帰る電車代もないくらい、気持ちいいほどなんにもないの。だから寒いけどこうしてボケーっと眺めてるしかないの。今夜からホームレス」

 何故か話していて笑いが出てきた。だっておかしいじゃない、さっきまで仕事も家もお金もちゃんとあったのに。一度に全部失うなんてさ、ありえない。けど、現実にあたしの身に起こってる。笑うしかないじゃん。
 あたしが笑ってたら、その人、真面目な顔で変な事言うんだ。

「涙拭いて。マフラー濡れたら冷たくなるよ」
「は? 涙?」

 あたしは頬に手をやった。濡れてた。やだ、あたし泣いてたの?

「ね、僕で良かったら話聞くから。内容によっては行政が助けてくれるし、その手助けくらいなら、もしかしたら僕でもできるかもしれないし。どこかでコーヒー飲まない?」
「あたし、百七十円しか持ってないからお店には入れないんだ」
「わかった。僕がそれくらい奢ってあげるから。素面じゃ話せないようなことなら、お酒でもいいよ。変な下心は無いから」
「もう下心あったって別にいいよ。あたしはもう終わってるんだ、これからはホームレスとして生きるんだし」
「ダメだって、そういうの! まだ考えてもいないうちにそういう投げやりな結論出しちゃダメ!」

 え。叱られた?

「わかった、飲みに行こう。ガンガン愚痴こぼしながら、こうなっちゃった経緯を教えて。二十歳過ぎてる?」
「二十一」

 思わず勢いにつられて答えてしまった。

「僕と同い年だね。じゃあお魚の美味しい居酒屋があるから、そこ行こう」
「あ……うん」

 何故かあたしは彼に気を許してしまった。