第1話 新宿
いつの間に新宿に着いていたのか。特急なら僅か八駅でも、各停に乗ったのだから三十三駅分、時間にして一時間以上も乗っていたことになる。
テキトーに入場券を買ってしまったので、乗り越し精算しないといけない。
ぼんやりしたまま精算し、改札を出る。だけど帰りの切符を買うお金はあたしには無い。精算したときにお財布の中に百七十円しか残らなかったからだ。八王子までは二百円程足りない。
新宿なんて用事が無いから殆ど来たことが無い。随分前にちょこっと西口の方で迷子になったくらいだ。そういえばあの時は都庁を見に行って迷子になったんだ。きっと今はもう迷子になることなんかないし、迷子になったとしても今はそれは些細なことだ。今度こそ都庁を見に行こうか。
脳が現実を直視することを完全に拒否してる。そんなもの今は直視しちゃダメだ。とにかく都庁を目指そう。日本の中心だ、きっと何かいいことがあるに違いない。
時計は夜七時を回ったばかり。実家なら真っ暗で星が見えている。だけど新宿に夜は無い。星なんて当然見えない。
街はハロウィンが過ぎ、クリスマスソングが流れ始めている。あちこちの街路樹が小さなLEDでライトアップされて、まだ十一月アタマだというのにもうクリスマス気分満載。だけどあたしには関係ない。
何の目的もないけど、一心不乱に都庁の方に向かって歩く。
この辺りは、東西に走る道の上を南北に走る道が通っている。ここが地下であっちが地上なのか、ここが地上一階であっちが二階なのか、細かいことはわからないけど、今歩いているところは明らかに『下』の方。
都庁の辺りから『上』に上がってみる。目の前には都庁、右を向くと住友三角ビル、真っ黒な三井ビル、その奥にセンタービル、真後ろに京王プラザ、モノリス、NSビルと首を回して、都庁に戻ってくる。
そのまま都庁と三角ビルの間の辺りまでぶらぶら歩いて行くと、眼下に東西に走る道が見える。ここの地下には大江戸線都庁前駅が埋まっているはずだ。
歩道の柵に肘を乗せて、下の通りを走る車のヘッドライトとテイルランプをぼんやりと眺める。左の列が全部赤で、右の列は全部白だ。当たり前だ。日本の道路交通法では車両は左側通行と決められている。
寒い。
ああ、十一月ってこんなに寒かったっけ? それともビル風のせい?
マフラーに顔を半分埋める。
あたし、こんなところで何をやってるんだろう。
ああダメだ。今それを考えちゃいけない。
でも、明日からどうやって生きて行くんだろう。
違うよ、明日じゃない。今からどうするんだ。
ダメだダメだ、考えちゃダメだ。
百七十円でコーヒー飲めるところってあったかな。自販機で買えばいいか。あったかいところで飲みたいな。
「何が見えるんですか?」
ふと、知らない男の人が声をかけてきた。同い年くらいの、もしかしたら年下かもしれないくらいの男の子。
「何も」
「あ、あの、何か熱心に見てるみたいだったから」
彼は慌てたように、聞いてもいない理由を述べた。だからあたしは素直に答えた。
「車」
「ああ、車のライト見てたの? あっちの方、木にLEDがついてて綺麗だったよ」
「見た。でも、そんなのもう、どうでもいいの。もう終わっちゃったから」
「何が?」
何この人。なんでそんなこと聞くの? まあいいか、どうせ赤の他人。三歩歩けばきっとあたしのことなんか忘れる。
「全部。もうあたしには何も残ってない。家も、お金も、仕事も、なーんにも残ってない。家に帰る電車代もないくらい、気持ちいいほどなんにもないの。だから寒いけどこうしてボケーっと眺めてるしかないの。今夜からホームレス」
何故か話していて笑いが出てきた。だっておかしいじゃない、さっきまで仕事も家もお金もちゃんとあったのに。一度に全部失うなんてさ、ありえない。けど、現実にあたしの身に起こってる。笑うしかないじゃん。
あたしが笑ってたら、その人、真面目な顔で変な事言うんだ。
「涙拭いて。マフラー濡れたら冷たくなるよ」
「は? 涙?」
あたしは頬に手をやった。濡れてた。やだ、あたし泣いてたの?
「ね、僕で良かったら話聞くから。内容によっては行政が助けてくれるし、その手助けくらいなら、もしかしたら僕でもできるかもしれないし。どこかでコーヒー飲まない?」
「あたし、百七十円しか持ってないからお店には入れないんだ」
「わかった。僕がそれくらい奢ってあげるから。素面じゃ話せないようなことなら、お酒でもいいよ。変な下心は無いから」
「もう下心あったって別にいいよ。あたしはもう終わってるんだ、これからはホームレスとして生きるんだし」
「ダメだって、そういうの! まだ考えてもいないうちにそういう投げやりな結論出しちゃダメ!」
え。叱られた?
「わかった、飲みに行こう。ガンガン愚痴こぼしながら、こうなっちゃった経緯を教えて。二十歳過ぎてる?」
「二十一」
思わず勢いにつられて答えてしまった。
「僕と同い年だね。じゃあお魚の美味しい居酒屋があるから、そこ行こう」
「あ……うん」
何故かあたしは彼に気を許してしまった。
第2話 兄弟
「俺は知らんぞ」
「そんなこと言ったって、じゃあカオルだったらどうしてた?」
「無視。厄介なことには近寄らない」
「目の前で自殺とかされたら一生引きずるじゃん。そんなの僕には無理」
男の人の声が聞こえる。誰だっけ。
「とにかく起きたら追い出せ」
え? 男?
思わずガバッと起き上がって、見知らぬ風景に軽くパニックになる。
コーヒーの香るシンプルな部屋、テーブルを挟んで向かい合う二人の男。
片方は人懐っこそうな笑顔の可愛い、優し気な雰囲気の青年……と言うか少年っぽい。もう一人もよく似ているが、雰囲気に丸みのある先程の青年とは異なり、氷のように光る冷たい目が印象的な青年。
こんな人たち、知らないっ!
「えっ? 何っ? どこっ? ちょっ、あなたたち誰ですかっ」
「あ、おはよ……」
「ここどこですか、あなた誰ですか、あたしなんでこんなところで寝てるんですか!」
うー、何故か頭痛い。
「ねえ、大丈夫? 君、多分、二日酔いだから、あんまり大声出さない方がいいと思う」
あれ? 待てよ、この可愛い方、見た記憶がある?
「あなた、どこかで会ったことがありますよね」
「ええっ、もう忘れたの? 昨日一緒に二時間も飲んだじゃん」
マジで? ほんとに?
「ごめんなさい、覚えてないです」
ハァ、と冷たそうな方が溜息をつく。
「説明しろ」
それだけ言うと、彼はキッチンカウンターに向かう。それを見て、可愛い方は言い訳がましく説明を始める。
「だからさ、昨日都庁の近くを通りがかったらさ、この子に会って……」
「あ、そうだ! 三角ビルと都庁の隙間で」
「覚えてんじゃん。それで、君が家にも帰れない、仕事もない、全部何もかも失くした言って泣いて、だから僕が飲みに連れてったんじゃん」
「あ、そうだった。ええと、メグル君!」
はっ、毛布まで掛けて貰ってる。っていうかここ、ソファか。
「そうそう。僕はメグルね。あっちは僕の兄貴でカオル」
「あ、すいません、お邪魔してます」
兄の方は黙って小さく頷いた。
「で、君はキラさんだったよね? 吉良上野介の吉良さん?」
「ううん、名前の方がキラ。綺麗の綺に、羅生門の羅で綺羅」
「キラキラネームだな」
キッチンカウンターからぼそりと声が聞こえる。誰が上手いことを言えと……ってツッコミたいけど、それができる雰囲気ではない。
「で、居酒屋行って、綺羅ちゃんがずっとなんかわけのわかんないこと喋ってて、僕には理解不能で、そのうちに酔っぱらっちゃって『もう、飲めませーん』って言いだして、それで家を聞いたら『そんなものはない』って言うから仕方なく連れて来たって感じ」
カオルさんがコーヒーを持って戻ってきた。ダイニングテーブルにコーヒーを置くと、あたしの方に手招きして見せる。
「メグ、部屋から椅子持って来い」
カオルさんが短く言うと、メグル君の方は「はいはい」とすぐに部屋に取りに行く。
「そこに座って」
カオルさんが今までメグル君の座っていた椅子を視線で指して、その前にコーヒーを置いてくれる。カオルさんちょっと怖そうだし、とりあえず素直に従ってそこに座ってみる。二人ならちょうどいいけど、三人ではちょっと狭いテーブルかもしれない。
カオルさんは横向きに脚を組んで座り、片肘をテーブルについてもう片方の手にマグカップを持って真っ直ぐにあたしを見つめてくる。
あたしはビクビクしながらもカオルさんをちょっと見上げ、そして度肝を抜かれた。とんでもない美形だったのだ。
緩い癖のある黒髪はやや長く、後ろで無造作に束ねている。こぼれ毛が顔の前に少し落ちて、尋常ではない大人の色気を放っている。正直、これほどの艶を持つ男なんて遭遇したことがない。
「あーもう、カオル、そんなに正面から見たら綺羅ちゃんビビっちゃうだろー? カオルの顔はマジで怖いんだからさー、ちょっとは自覚しろってー」
「ああ、ごめん」
椅子を持ったメグル君が苦情を呈しながら戻ってくると、全然悪いと思っていなさそうな謝罪の言葉を述べて、カオルさんは椅子の背もたれに体を預ける。
メグル君が割り込んでこなかったら、そのまま呼吸を忘れて死んでたかもしれない。
「ごめんね綺羅ちゃん、カオル顔怖いよね?」
部屋から持ってきた椅子をお誕生日席に置いて腰掛けながら、メグル君が自分のコーヒーを手元に引き寄せる。
「い、いえ、怖くは……怖いです」
あ、つい本音が。
「やっぱ怖いじゃん。カオルもじろじろ見るなって」
「話を聞いてやったらすぐに出て行くか。それとも今すぐ出て行くか。選ばせてやる。まあ、コーヒーくらいは飲んで行け」
「もう、カオル! なんでそういう言い方すっかなー?」
「家に帰らないと親御さんが心配するだろう」
「一人暮らししてますから」
思わず強い口調で割り込んでしまう。あたしに帰る家は無いんだから。
「未成年者だろ?」
「二十一歳です。実家は奈良で、今住んでるところは八王子です。でも、もう戻れません。あたし、所持金百七十円なんです。全財産です」
「『話を聞いてやったら出て行く』の方を選択したと受け取った。気が済むまで話せ。コーヒーくらいは何杯でも淹れてやる」
「もう、カオ――」
「ありがとうございます。聞いてください。それで自分で整理できるかもしれません。整理できたらなんとかします」
自分でも驚いたけど、何故かこの人たちに聞いて貰ったら自分で解決できそうな、そんな気がした。
第3話 綺羅の災難
「あたし、小さいころから漫画家になりたくて、ずっとずっと漫画描いてたんです。高校卒業してデザインの学校に行ったけど、漫画家養成コースでずっと漫画描いてました。親にはインダストリアルデザイナーになりたいって嘘ついて、そっちの勉強してるふりしてました。それで八王子のアパートで独り暮らししながら漫画家になるための勉強をして、二年のコースだったんだけど、卒業間際に母が遊びに来て、それであたしが漫画を描いてることがバレて、仕送り止められちゃったんです」
「あららら」
メグル君の合いの手が入る。カオルさんの方は横向きに座ったまま、目も合わせずに黙ってコーヒーを啜っている。
「それでバイトしなくちゃならないし、これは漫画家さんのアシスタントとして働くのが一番いいと思って、家の近くの漫画家さんがいないか調べたんです。そしたら、あたしが小学校の頃から憧れてた神代エミリー先生のお宅がすぐ近所だってわかって」
メグル君がチラリとカオルさんに目をやる。カオルさんは無表情のまま聞いている。神代先生の事知ってるんだろうか。まさかね。少女漫画家だし。
「神代先生は未だに全部手書き手作業を貫いてて、何人ものスタッフを雇ってるって聞いたんです。それで『ゴムかけでもベタ塗りでもなんでもいいから雇ってください』って押しかけたら、ちょうどトーン貼り担当の人が辞めたばかりだったらしくて、それでよければって雇ってくださったんです。もう神代先生の作品は全部読んでるくらいのファンだから、指定されなくてもここはどんなトーンを貼るかってすぐわかっちゃって、それでもう全部トーンの選択まですぐに任せてくださって、こんな楽しいバイトは無いって思ってました。それにこちらは修行させていただいている身なのに、お給料まで下さって。本当に幸せでした……一昨日までは」
「冷めるよ」
突然カオルさんが口を開いた。
「え?」
「コーヒー」
「あ、すいません。ありがとうございます」
一口含んで驚いた。
「美味しい。何これ、凄い美味しい」
どこだったかの珈琲専門店に一度だけ神代先生に連れてってもらったことがある。そこのコーヒーがびっくりするほど美味しかった。このコーヒーはあれに引けを取らない味だ。
「カオルのコーヒー、美味しいだろ? 顔と喋り方は怖いけど、根は優しいからね、心配しなくていいよ」
「一言余計だ。綺羅、続き」
えっ? 今「綺羅」って呼び捨てにした? 初対面の男性に呼び捨てにされたことなど、生まれてこの方一度も無い。だけどなんだろう、それは決して不愉快なものではなくて、何故か心地良く響くのが不思議。
「はい。それで、あたし、ずっと小さいころから神代先生の絵に憧れていたもんだから、画風もやっぱり神代先生にどこかちょっと似てて、でもそれは嫌だったんです。もっと違う画風を探してたんです。そんな時に本屋さんで凄く好みの画風を見つけちゃったんです。それで、家で真似してみようって思ってその本を買って帰ったんですけど、それが所謂BLで……あの、BLってわかります? ボーイズラブのことなんですけど」
「うん、わかるよ」
即答するメグル君と、黙って頷くカオルさん。どうやらこの二人は普通に知っているらしい。一昔前なら薔薇族と呼ばれていただろうに。
「良かった。その作者さん、風間薫先生っていうんですけど、彼女の絵って線が細くて凄く綺麗で。BLっていっても『微BL』っていうか、『BLテイスト』っていうか、さっぱりしてて、いやらしくないんです。代表作がピアニストの話なんで、指先の絵がたくさんあって、すっごく綺麗な手の絵を描くんです。もう手フェチになるくらい素敵なんです。それで風間先生の本ばっかり買って勉強したんです。いつもカバンにも入れて持ち歩いて。そしたらそれが神代先生に見られちゃって」
「なじられた?」
「ううん、BLを認めないとか、そういう先生じゃないんです。ただ、あたしが何か書きたいものがあるんだって察知して下さって。それで『何か書きたいのならあなたの好きなものを書いてごらんなさい。ダメ出ししてあげるから、まずはあらすじを』って言ってくださったんです。それで小学校の頃からずっとずっと大事に大事に温め続けていたお話のあらすじを話したんです、そしたら……」
悔しさがこみあげてきて、握った拳が震える。
「あー、また泣くし」
メグル君があたしの方にティッシュを箱ごと押し付けてくる。カオルさんはそこで容赦なく言葉を挟む。
「終わりか?」
「終わりじゃないです! 終われるわけないじゃないですか! 神代先生、あたしのあらすじを聞いて、つまんないとか言ってくれた方がまだ良かったんです、『あら、それは次にアタクシが書こうとしていた作品のあらすじと全く同じね!』って涼しい顔で言うんです、それって、それって、パクリですよね。あたしのあらすじ、そこで盗まれてますよね、絶対そんなの書く予定無かったですよね!」
「あー……それはどうかねぇ……」
メグル君が同意とも否定とも取れない意見を挟んでくる。けど、そうとしか思えないじゃん!
「あたしのデビュー作になる予定だったんですよ! 十年も温めてきたプロットなんです! それをパクられたんですよ! あたし、無茶苦茶怒って『アシスタントの案をパクる気ですか!』って詰め寄ったんです。そしたら『あらあらあら早とちりさんです事、オホホホ』なんて言われて、それであたし、悔しくて神代先生に『こんな人のアシスタントなんかできない、給料なんかいらない、辞めてやる!』って啖呵切って飛び出してきたんです。だからお金も無くて。うちのアパート、神代先生のお宅の目と鼻の先くらい近くて、っていうか目と睫毛の先くらい近くて、家に帰ったら絶対にその辺で会っちゃうから、もう引っ越しするしかないし、でも所持金百七十円なんです。お金も家も作品プロットもみんな一編に無くしちゃったんです!」
あまりにも悔しくて、我慢できなくて、あたしは恥ずかしいことに大声を上げて泣いてしまった。泣きたかったわけじゃない、止めたくても止まらないんだもん、仕方ないじゃん。二人が困ってることもわかってるけど、どうにもならないんだもん!
そのとき、カオルさんが思いがけないことを言った。
「ここに住むか?」
第4話 雇い主
「えっ?」
と言ったのはメグル君だった。
「カオル、今、なんて言った?」
「ここに住むかと聞いた」
「さっきまで追い出す気満々だったじゃん!」
……確かに。
「質問してるのは俺だ」
「待てよカオル、ココは僕んちでもあるんだから勝手に決めんなよ。部屋とかどうする気だよ」
横向きに脚を組んで座っていたカオルさんは、正面を向いて座り直し、あたしを真っ直ぐ見据えた。
「物置代わりにしてる六畳間がある。フローリング、エアコンなし、窓は通路側、クロゼット付き、そこならお前の部屋にしてやってもいい。バイトは他所でするな、ここで働け。俺が雇い主だ。家賃、水道光熱費免除、三食付けてやる。その代わり雇い主の命令は絶対だ。住むか?」
雇い主の命令は絶対? 現代日本で人身売買? それって奴隷?
「雇い主の命令は絶対なんですか?」
「カオル、まさか綺羅ちゃんをセフレにする気じゃ……」
「アホか」
横からボソボソとツッコミを入れるメグル君をカオルさんがジロリと一瞥する。これはちゃんと聞いておかなければ、本当にカオルさんのセフレにされる可能性も無くはない。とは言っても、昨夜は本気で風俗で働くことも視野に入れてたから、どっかの脂ぎったオッサンの相手をすることを考えれば、カオルさんの方が遥かにいいかなとか考えなくもない……ってダメダメ、考えようよ、ちゃんと!
「あのっ、あたしはどんな仕事をするんですか?」
「俺のアシスタント兼マネージャー」
「じゃ、僕はこれからのんびり遊んで暮らせるのかな」
「何か言ったか」
「家事は綺羅ちゃんにお任せ……」
「お前、大学辞めたいか」
「い、いえ、大学通わせてくださいこの通りですお願いします何でも言うこと聞きます」
「わかったらガタガタぬかすな」
二人の会話から察するに、メグル君はカオルさんに大学に通わせてもらっているという弱みを握られており、家事はほぼメグル君がやっているようだ。しかもどうやらカオルさんはそれなりに儲けているみたい。
「具体的にどんな仕事をするんですか」
「仕事場はここ。お前の仕事は取引先との連絡と書類のチェック、あとは俺の手伝いだな」
「それだけでいいんですか?」
「それ以上のことをやらせたら、お前が漫画を描く時間が無いだろう?」
なんですと!
「えっ? あたし、漫画描いてもいいんですか!」
思わず立ち上がってしまったあたしに、カオルさんは当然とばかりに頷いた。
「漫画家が漫画を描かずに何やって生きるんだ」
うそ何この人、神? 仏? 住むとこ用意してくれて、簡単な仕事くれて、三食昼寝付きで(昼寝とは言ってないか)、その上あたしに漫画を描く時間までくれると言うの? 尊い、尊過ぎる。
「あ、ありがとうございます! ちゃんと働きます! お料理下手くそだけど、なけなしの百七十円でレシピ本買ってきます!」
「百七十円の本があるか」
「綺羅ちゃん、ネットで検索すればタダだよ」
「あ、そうだ! メグル君天才!」
「でも、お料理は仕事に入ってないよ。僕が作るし」
「あ……でも、その……カオルさん、アルバイト、一つだけやらせて貰っていいですか?」
「ダメだ」
何故即答?
「なんでだよ、綺羅ちゃん百七十円しかないんだよ? 本も買えないじゃん」
そんなメグル君に一瞥を送って、カオルさんはあたしを正面に捉えた。
「綺羅は漫画で稼げ。新人賞なんかにどんどん出すんだ。それ以外で稼げると思ったら、どこかで手を抜くことになる。本気で漫画家になりたいんだったら逃げ道は絶っておけ。ペンで稼げるようになるまでは、俺が雇い主として何でも買ってやる。服でも本でもなんでもだ」
カオルさんが挑戦的にあたしを見つめる。その眼には逃がさないという気迫が感じられて、あたしも腹を括る。
「わかりました。あたしも漫画で食べていきたいんです。一切バイトしません。贅沢もしません。漫画を描くことの為だけに、お金使います。だからここに住ませてください。お願いします!」
あたしは勢いよく頭を下げた。長い髪が顔にカーテンを作る。
「よし決まりだ。メグ、紙とボールペン」
「へーい」
この兄弟は上下関係がきっちり決まっているようだ。急いでレポート用紙とボールペンを準備するメグル君を横目に見て、コーヒーを口元に運びながらカオルさんが尋ねてくる。
「綺羅、引っ越し荷物はどれくらいある?」
「ええと、衣装ケース二つ分の服と漫画の道具と……引っ越し屋さんの単身引っ越しパックの一番少ないヤツで十分です」
「ワゴン車一台に全部積める?」
「はい!」
「メグ、書いたか?」
「何を書くの?」
「ワゴン車一台、不動産契約解除手続き、住民票の移動、書いたか?」
すらすらと話すカオルさんの言葉をメグル君が必死にメモしてる。いきなり引っ越しが具体的になって、あたしは話の展開の速さに面食らってしまう。
「あの……」
「綺羅はいつ引っ越しできる? 明日か? 明後日か?」
「えっ? そんな急に言われても」
「何言ってんだお前、神代エミリー先生の近所で、啖呵切って出て来たんだろ。今日中にでも引越ししないと困るはずだぞ」
「あ、そうだった」
「今からすぐに帰ってどれくらいで支度できる? 夜逃げするつもりでやれ」
今からって……今九時か。
「えっと、じゃあ今夜までには」
「わかった。ワゴン車は今日中に俺が手配しておく。引っ越しは俺とメグでやるから心配するな。家電は全部売り払うつもりでまとめておけ。明日引っ越しついでにリサイクル屋に売りに行く」
「はい」
ありえないほど全てがあっさりと決まっていく。こんなふうに流されていていいのか少し不安にならないでもないが、そんな余裕はあたしには微塵もないのだ。とにかく目の前にいる兄弟に任せなければ明日からの生活が成り立たない。
「俺はこれから六畳間の荷物を俺とメグの部屋にそれぞれ移動させて部屋を空けておくから、綺羅は今から家に戻って引っ越しの準備を始めろ。メグ、一緒について行って手伝ってやれ。途中のスーパーで段ボールを十枚くらい貰って行けば早く済む。ガムテープと紐とはさみとマーカーも持って行け、赤いテープもだ」
「わかった」
「綺羅の家に着いたら、真っ先に不動産屋の連絡先と物件名と部屋番号を教えろ。俺の方で解約手続きをしといてやる。住民票と郵便局の転送手続きは明日でいいな」
「は、はい」
「よし、コーヒー飲み終わったらすぐに動け」
それだけ言うと、カップの中身を一気に喉に流し込んで、カオルさんは立ち上がった。
第5話 最強の兄
昨夜一晩空けただけの部屋は、もう何か月も帰っていないような気がして、玄関のドアを開けた途端どうしようもない懐かしさがこみ上げてきた。
あたしの部屋は八王子駅から五百メートルほど離れた、川の近くの小さな二階建てアパート。帰る途中に近くのお店で段ボールを十枚貰ってきたけど、こんなに必要なかったかもしれない。
メグル君は到着するなりガムテープやカッターなどを準備しながら、テキパキと指示を出した。この辺りはさすがにあのカオルさんの弟だと感心する。
「僕が段ボール作っとくから、綺羅ちゃんはそこの紙にこのアパートの名前と部屋番号、あとは大家さんか不動産屋さんの連絡先書いて」
「はいっ」
「もう十時回ってる。不動産屋さんは開いてるはずだな」
メグル君は独り言を言いながらもサッサと段ボールを組み立てて、家電製品に赤いテープを貼っていく。
「はい、これです。書きました」
「じゃ、これカオルに連絡してくるから、綺羅ちゃんは僕に弄られたくないところをどんどん箱詰めしちゃってね」
「はい、ありがとう」
メグル君が玄関に出てカオルさんに電話をかけてる。その声がここにも少し聞こえてくる。
「うん、そう、端から二番目の部屋。不動産屋はね……」
衣装ケースに紐をかけたり下着を箱に詰めたりしながら、メグル君の声に耳を傾ける。
カオルさんは喋り方がぶっきらぼうで冷たい感じがするけど、凄く頭の回転が速い。メグル君はとにかく優しい、凄く安心できる。あたしはこの人たちと一緒に居た方が、多分一人で居るよりずっといい。きっとこの人たちがあたしを癒してくれるはずだ。そう思いたい。
そんな風に自分に言い聞かせていると、メグル君がふらっと戻ってきた。
「綺羅ちゃん、連絡着いたから、カオルがこれからこの部屋解約しとくって。僕はこの辺の本を詰めても大丈夫かな? 違うところにする?」
「本、お願いします」
箱詰めの手を休めることなく答えると、メグル君は「了解」と言いながら本棚の前に陣取る。
「洗濯物は今からじゃ乾かないから、僕んちでまとめて洗うことにして、今は箱の中に詰めちゃってね。あと、赤いテープを貼った家電、うちに持ち込めないからリサイクル屋さんに売ってもいいかな? ダメなヤツがあったら言って。冷蔵庫、電子レンジ、洗濯機、掃除機、炊飯器、ベッド」
「ベッド?」
思わず顔を上げる。
「うん。ベッドはあの家には持ち込めないから布団だけにして貰うってさっきカオルが」
そうか、引っ越し屋さんに頼むわけじゃないんだ、メグル君とカオルさんに頼むんだからこんな重そうなベッドじゃ無理だよね。
「わかりました。メグル君に任せます」
「ねえ、綺羅ちゃん」
メグル君が赤いテープを手にしたまま、あたしの方を覗き込む。
「はい」
「大丈夫? 急にいろいろ決まっちゃったから、混乱してるんじゃない? ゆっくり考える暇もなくカオルがどんどん決めちゃったでしょ? カオルはさ、悪気は無いんだけどさ、やたら頭が回るんだ。それでいつも即断即決。僕がゆっくり考える間もなく、次の次の次くらいの話をしてるんだよね。これはさ、綺羅ちゃんのことなんだから、綺羅ちゃん主体でいいんだからね。僕たちに気を遣わないで」
下から顔を覗き込むように話すメグル君に、あたしは頑張って笑顔を作った。
「大丈夫。あたし一人で考えていたら、きっと明後日になってもグズグズしてたと思う。昨日メグル君に声かけて貰わなかったら、あたしどうなってたかわからないよ。カオルさんも優しいし、ほんと会えて良かった。ありがとう」
「ああ、うん、まぁ、綺羅ちゃんがそれでいいならいいんだけど、本当に嫌な時はちゃんと言ってね。僕もカオルもそういうの気づかないことあるから」
「ううん、メグル君は凄くいろんなことに気づいてくれるよ。あたし、頑張るよ」
あたしの笑顔を見て安心したらしいメグル君は「うん」と頷き、箱詰めを再開した。
それから二時間、あたしたちは夢中で片づけをし、大方片付いてしまったところでカオルさんから連絡がきた。これから向かってくるという。書類の準備があるから印鑑の準備をしておけとだけ言って電話を切ったらしいカオルさんは、それから三十分もしないうちにワゴン車でやって来た。
「まずは昼食だ。印鑑を持って来い」
「流石カオル、仕事が早えー! 我が兄貴ながら尊敬するわー」
「いいからさっさと乗れ」
あたしたちは要領を得ないままカオルさんの運転するワゴン車に乗り、近くのファミリーレストランに連れて行かれた。
「なんでこんなとこ知ってんだよ?」
というメグル君の質問には答えず、カオルさんはさっさと店に入っていく。
席についてランチをオーダーすると、早速カオルさんが報告を始める。
「先ずさっき乗ってきたあの車だが、今日明日だけの契約で友人から借りた。それと綺羅の部屋は日割り交渉して、明日までの計算で退去という形にして貰った。話はついてるから、あとでうちに書類が郵送されてくる。そこに印鑑を押して返送すれば終わりだ。郵便局の方も転送手続きはしておいたから、あとは住民票だけだな。それから俺と綺羅の間の雇用契約書も作っておいた。あとで確認してサインしろ。物置部屋にしていた六畳間はもう空いてる、いつでも搬入可能。こっちは以上だ、そっちの報告を聞こうか」
マシンガンである。この僅か三時間でこれだけのことをやっつけたのだから、カオルさんという男が如何に仕事ができるかがわかるというものだ。
目をまん丸くしているであろうあたしの横で、いつもの事とばかりに慣れた様子のメグル君がのんびり報告を始める。
「こっちはほぼ片付いた。殆ど荷物ないよ。家電とベッドは赤いテープを貼っておいた。今すぐにでも持ち出せる」
「午後から家電運び出すか? 今のうちに引き取りに来て貰えば、明日は綺羅の荷物だけだから動きやすくなるぞ」
「どうする、綺羅ちゃん?」
カオルさんが淡々と事務的にこなすのに対し、メグル君はちゃんとあたしの意向を確認してくれる。カオルさんは頭はいいけど、女の子の扱いはメグル君の方が慣れている感じだ。
「がらんとした部屋で寝るの、なんか寂しい」
「うちで寝ろ」
「え、今夜からですか?」
「昨夜だってうちで寝ただろ」
「あ、そうでした」
「他のものの搬入は明日でもいいから、今日は布団と着替えだけ持ってうちに来ればいい。昼食が終わったらリサイクル屋に見積もりに来て貰おう。俺が話を付けるから、メグは布団を車に積め。綺羅は今夜の着替えを準備しておけ。仕事はわかったか?」
あたしとメグル君は了解の返事をする他なかった。
第6話 ベッド
アパートに戻ってしばらくすると、リサイクルショップの軽トラックがアパートの前に停まった。
「カオルさん、もしかしてアレ」
「ああ、俺が呼んだ」
カオルさんはリサイクルショップの兄ちゃんに見積もりをさせ、その間にメグル君に布団や今晩の着替えなど、今から二人の部屋に運び込むものをワゴン車に積ませる。あたしは搬出に立ち会い、カオルさんは金額交渉をしている。
見積もりから交渉、搬出まで僅か十五分。あっという間に家電とベッドは無くなって、部屋の中はそれだけでガランとしまった。
一通り積み込みが終わると、カオルさんはあたしたちにワゴン車に乗るように言う。訳が分からないまま二人でワゴン車に乗り込むと、カオルさんはリサイクルショップの車の後について行く。
「どこ行くの?」
「リサイクルショップ」
「終わったんじゃないの?」
「いや」
これ以上質問しても一瞥を食らうだけだとわかっているらしいメグル君は、それ以上は何も聞かない。そしてあたしも後部座席で何となくその雰囲気をキャッチしている。
リサイクルショップに着くと、カオルさんはさっさと入っていき、しばらくその辺を物色していたかと思うと、急にあたしを呼んだ。
「なんですか?」
「これでいいか」
「え? 何が?」
「お前のベッドだ。運び込むのが大変だから折り畳みのパイプベッドにしたい」
見ると確かにシンプルな折り畳み式のパイプベッドである。
「さっきの家電の買い取り額はなるべく吊り上げといてやったから、あとはお前のベッドをその金額内でやりくりしろ。残りは全額お前の資本金だ。百七十円じゃ何も買えないだろう」
なんですと!
「え、いいんですか! それならこのパイプベッドにします! 安いし!」
それを聞いてメグル君はヤレヤレと溜息をついている。
「カオルそんなことまで計算済みかよ」
「当たり前だ。骨の髄まで貧乏人だからな」
あれ? 骨の髄まで貧乏人?
二人の住んでいたマンションは3LDKだ。浴室もユニットバスなんかではなく、洗面所、脱衣所共に分離していた。しかも南向きだった。決して安い物件ではなかっただろう。『骨の髄まで貧乏人』が、あんなマンションに住めるだろうか。しかもカオルさんはメグル君を大学に行かせてやっている。つまりカオルさんの稼ぎが二人の主な収入源という事だろう。そこに両親の援助の影は見えなかった。
あたしが二人の家庭の事情などをぼんやりと考えている間に、カオルさんは店員に価格交渉をしてさらにパイプベッドを割引させると、さっさとワゴン車に積み込みんでしまった。
「乗れ。家に戻るぞ」
「ういーっす」
「はい」
なんだろう。あたしはこの短時間にカオルさんに命令されるのが当たり前になってしまっている。でもよくよく考えたら、今朝初めてカオルさんに会ってからまだ六時間も経っていない。それなのに、もう自分のこれからのことをほぼこの男に任せてしまっている。
もしかしたらあたしは何かの犯罪的なものに巻き込まれつつあるんじゃないか、逃げられないようにしてから変な事をさせる気じゃないだろうか、といろいろ余計な思考が頭の中にぐるぐると渦巻き始める。
どうしようかと思い悩んでいるうちに車は兄弟のマンションに到着し、二人は荷物を下ろし始めた。
「あ、あの、カオルさん」
「お前は自分の荷物を持って鍵を開けろ。これが部屋の鍵。カードキーだからそれをスリットに通して暗証番号を打つ。暗証番号は3776だ」
「へ? 3776?」
「富士山の標高」
そんなもので決めるのか、と思いつつも、確かにそれは個人情報に全く関係ないなと納得もできる。
「メグル布団行けるか?」
「おっけー!」
「じゃ、俺はパイプベッドだ。行こう」
荷物を運びながら、あたしはさっきの物騒な思考が完全に飛んでしまっていた。知らぬ間に勢いで流されてしまっているといっても過言ではない。
「そこのスリットに通して、右のテンキーで暗証番号」
言われたとおりにキーを通し、富士山の標高を入力すると赤いランプが緑に変わって、エントランスのドアが開く。朝出るときには出るだけで全く気にならなかったけど、入り方をちゃんと覚えておかないと締め出しを食らってしまう可能性がある。
「カオルさん、部屋番号、何番ですか」
「710号室」
「もしかしてこれも何かの番号?」
「平城京に遷都した年ね。カオル、こういうのこだわるんだ」
ロックを解除し、エレベータに向かう。
「メグが三歩歩くと忘れるから、忘れない数字にしてやったんだ、感謝しろ」
「大体その富士山の標高がまず覚えてないんだけど」
「あたしもです」
一瞬立ち止まって憐れむような眼差しをあたしたち二人に送ったカオルさんは、再び何事も無かったように歩き出す。
「部屋に入るときも同じ要領。カードを通して暗証番号」
「はい」
部屋に戻ると、さっき出るときには何かいろいろ入っていた六畳間が、ものの見事に綺麗さっぱり片付いていた。
「一応掃除機と雑巾がけはしておいた。このまま搬入できる。明日またベッドの位置を変えたくなったらいくらでも変えてやる」
と言いながら、カオルさんはパイプベッドを部屋の隅に設置し、メグル君に布団を持って来させる。
「あとは俺と綺羅の間の雇用契約を交わすから、部屋が落ち着いたらリビングに来い。まずは布団を出した方がいいだろう」
「あ、そうですね、そうします。お布団出したらすぐ行きます」
それだけ言うとカオルさんはリビングの方に戻って行った。それを見てついついふぅっと大きなため息が漏れてしまう。
「綺羅ちゃん、手伝うことある?」
「大丈夫。ありがとう」
「あのさ、カオルあの調子だから、言いにくいことあったら僕に言ってくれればいいからね」
「うん。大丈夫。言いにくいことは無いんだけど」
「ん? 無いんだけど?」
布団のかかっていない裸のままのパイプベッドに腰を下ろして一息つくと、なんとも言えない安堵感が襲ってくる。
「言う暇が無い」
「それは言えてる」
一瞬の間があって、思わず二人で吹き出してしまう。
「カオルってば、意見するどころか、こっちが理解する前にどんどん次に行っちゃってんだもん。ちょっと考える時間くれよっていつも思うよ」
「メグル君でもそうなの?」
「二十四時間三百六十五日だよ」
「ちょっと安心した」
「そりゃ良かった。あ、コーヒーの香り。きっと待ってる」
「うん、布団広げたらすぐ行く」
メグル君は笑顔で頷くと、部屋を出て行った。