「知ってますよ。奉り神は人間に信仰されなければ消滅する。だから、わざわざ人間と契りたい神もいない。そもそも、神と婚姻できる力ある巫女も減ってる。それであの神社は、長らく奉り神がいないんでしょう?」
「そうだ。ゆえに地上にも神の恩恵が行き渡らず、あの神社の辺りではあやかし絡みの揉(も)め事が起こり始めている」
神は巫女の願いを聞き届け、その恩恵を与えるのが役目だ。そして龍宮神社の巫女の願いを受けるのは、主に龍宮にいる龍神の仕事。ここ数百年は巫女からの舞の奉納もなく、地上の願いを知る機会はなくなっていたが……そうか、あやかしどもが悪さをし始めたか。ま、俺には関係のない話だがな。
「そうですか」
俺は興味なく答える。
神は滅多に地上には降りない。天界からでも巫女の願いを叶(かな)えられるからだ。なのにわざわざ地上に赴いて、人間を見守ろうとする物好きはあいつくらいだろう。
忍び寄ってくる喪失感を無理やり頭から追い出そうとしたとき、長からとんでもない言葉が返ってくる。
「そこで翠、龍宮神社の奉り神になることを命じる」
「……………は?」
一瞬、なにを言われたのかが理解できなかった。人間嫌いのこの俺に、地上に降りて神社に縛られるだけでなく、人間のために力を貸せと?
「巫女と婚姻すれば、巫女の澄んだ神気(しんき)がお前の穢れを和らげ、力も多少なりとも戻ろう。そして、人間を助けていくうちに芽生える心もあると、私は願っている」
「俺は人間の道具になり下がる気はありませんよ」
「長の命令は絶対だ」
有無を言わさない一声に、俺は黙らざるを得なくなる。長の命は絶対、それは龍神の世界の掟(おきて)のひとつだ。逆らえば重罪を犯したとして、即消滅させられる可能性も無きにしも非(あら)ず。だからって、人間の女と婚姻だ? どんな拷問だよ……。
「今の地上には、かの有名な白(しら)拍子(びょうし)の生まれ変わりもいるようだ」
長の言う白拍子とは、恐らく静御前(しずかごぜん)のことだろう。その舞で人間だけでなく神をも癒やしたとされる特別神気の強い舞い手。何度か天界から目にしたことはあったが、そうか……あれもついに死んだか。人間の一生ってのは、本当にあっという間だな。
「おかしいな、風のうわさじゃ静御前は霊になって地上を彷徨(さまよ)ってるって聞きましたが? そうだとしたら、魂は地上にある状態だろ。生まれ変われるはずがねえ」
「事情が複雑でな。実際に地上に行って、本人に確かめてくるといい」
「適当にもほどがあんだろ……」
「なに、永遠に奉り神になれと言っているわけではない。龍宮神社に神のご利益があると人間たちに実感させ、信仰を取り戻すことができたら、天界に戻ってもよい」
「それ、事実上の無期限じゃないですか」
「その点に関しては、お前の働きにかかっている」
くそっ……なら、とっとと解決してすぐにでも天界に戻ってやる。
「天界に戻るときには、巫女との婚姻も破棄させてもらいますよ」
「構わない。彼女は愛に生き、愛に死んだあの者の生まれ変わりだ。きっと、お前の心も溶かしてくれる」
「……? 俺の婚姻する龍宮神社の巫女って、まさか……」
俺の動揺をよそに、長はふっと意味深に笑う。
「さっそくだな。聞こえてこないか、翠。舞の雅楽が──」
一
ひゅうぅぅぅ……、とむせび泣くように響く笛の音。ポン……、ポン……と刻む太鼓の物悲しい節奏(せっそう)。舞(まい)殿(どの)に上がりたるは立烏帽子(たてえぼし)に白の水干(すいかん)、単(ひとえ)や紅長袴(くれないのながばかま)に身を包む男装の舞妓(まいこ)。錦包藤巻(にしきつつみとうまき)の太刀を佩(お)び、手に蝙蝠扇(かわほりおうぎ)を携(たずさ)え、決死の面持ちで正面に胡坐(あぐら)をかいて座る男を見据える。
頼朝(よりとも)……その目に刻みつけるがよい。私はお前のために舞うのではない。私自身のため、そしてあの方のためにこそ舞うのだ。
『──吉野山(よしのやま)~』
物悲しく響く歌声。その場にいる名だたる武将たちが息を呑(の)む。張りつめる空気の中、後ろで束ねた長い苧環(おだまき)色の髪を揺らし、私は凛(りん)と舞っていた。
『──峰(みね)の白雪(しらゆき)~、踏み分けて~、入りにし人の……跡ぞ恋しき~』
曇りなき眼(まなこ)が宿すは、宿敵の姿。憎しみの炎に身の内を焼きながら、神にではなく、ましてや自分を取り囲む人間のためにでもなく、ただ己の怒りとあの方への愛を知らしめるためだけに歌い踊る。
『──入りにし人の、跡ぞ恋しき~』
愛しさを表すように、扇を持つ手で自身を抱くようにする。それを見た頼朝は『謀反人(むほんにん)を恋い慕う歌ではないか!』と激怒し、舞殿の周りにいる武将たちからも、『なんと罪深い』とざわめきが起こった。
だが自分を咎(とが)める声も風の音も、世界に溢(あふ)れる雑音のすべてが私の耳には入ってこない。ただただあの方に想いを馳(は)せるように遠くを見つめ、扇を優雅に泳がせ、赤い袖括(そでくくり)の緒(お)が施された水干の裾をはためかせながら回る。
『──しづやしづ~、しづのをだまき~、くりかへし~』
桜吹雪すらも着物の一部かのごとく身に纏(まと)い、味方につけた。私を誹(そし)っていた者たちは、『見事じゃ……』と、次第に敵意が失せた様子で口々に漏らす。
『──昔を今に~、なすよしもがな~』
『静よ』『静よ』と繰り返し、私の名を呼んでくださったあの方の……。輝かしかったあの頃に、ああ……もう一度、戻りたい──。
***
──変な夢を見た。知るはずのない舞を、見たこともない着物を着て、自分が躍っている夢を。それも大勢の猛々しい武将たちの前で披露していた。愛する人と過ごした幸せな日々に戻りたいとか、そんな未練たらたらな気持ちで……。こんなわけのわからない夢を見るなんて、私のメンタル相当参っているかも。
私は勤めているWEB制作会社に出勤してきてすぐ、自分のデスクでスマホを確認する。
既読無視の最高記録、着々と更新中……。
ここ最近、彼氏へ送ったメッセージに返信があるかどうか、数分おきにスマホを確認するのが日課になりつつある。
そう、私──原(はら)静紀(しずき)、二十五歳は、一年付き合っている五歳年上の彼氏と自然消滅しそうになっている。理由は明確にわかっている、彼氏の二股が露見(ろけん)したからだ。もうひとりの彼女に送るはずのメッセージを私に送るとか、阿呆にもほどがある。
【送る相手間違えてない? 事情を説明して】とメッセージを送りつければ、別れ話もなしに音信不通になった次第だ。
「文句のひとつくらい言わせてよ……」
スマホを握りしめ、胸の痛みから気を逸らすように恨み言をこぼす。それが強がりだって認めたくないのは、自分が惨めだからだ。
同じ会社の別部署にいる彼とは、会社の同僚に誘われた合コンで出会った。気さくで楽天的な性格をしていて、一緒にいて明るい気持ちになれる人だ。本気で好きだったのに、彼女をふたりも作っていたなんて、人は見かけによらない。そんな彼氏、さっさと忘れて新しい恋でもなんでもすればいいのに、心ってままならないものだ。今でも彼への気持ちを捨てきれなくて、自分のところに戻ってきてくれるかもって期待して、私は送ったメッセージへの答えを待ち続けている。未練がましいったらない。
返事を待つくらいなら会いに行けばいいのだろうが、本人から『別れる』とはっきり言われるのもダメージが大きそうでできないでいる。私はヘタレだ。
はあっとため息をこぼしたとき、部長から「みんな、ちょっと集まってくれ」と招集がかかった。部長の席に行くと、同じ部署の佐川(さがわ)さんが照れくさそうに俯(うつむ)いて部長の隣に立っている。彼女は見るからに可憐(かれん)そうで、控えめな性格ながらも気が利くところが男女問わず社員に人気だった。
「佐川くんから、みんなに報告があるんだそうだ」
部長に促されて、佐川さんはひとつ頷き顔を上げる。
「私事で申し訳ないのですが、このたび営業部の田部(たべ)敦(あつし)さんと結婚することになりました」
……え? 営業部の田部敦って、私の彼氏なんですけど……。
グラグラと世界が揺れている。ショックで気を失いそうだった。
「結婚しても仕事はバリバリ続けていきますので、よろしくお願いします」
お辞儀をする佐川さんに、社員たちは「おめでとう、佐川さん!」「あ、もう田部さんって呼んだほうがいいかな?」と祝福ムードだ。
同僚の結婚相手が、まさかの自分の恋人とか、どんな仕打ち?
みんなの声が遠くなる。胸の奥が爪で引っかかれるみたいに痛む。
どうりで、連絡を待ってたって来ないわけだ。だって、結婚が決まってたんだから。
「バカみたい……」
口元に自嘲的な笑みが浮かぶ。
いつの間にか、彼にとって私は過去の女になっていたというわけだ。
私、敦とその婚約者がいるこの職場で、ずっと働き続けなきゃならないの?
表情では笑顔を作って、口では心にもない「おめでとう」を送る。
心は粉々に壊れそうだった。
「どうしよう、泣きそう」
帰路についた私は、我慢できずに弱音を吐く。幸いにも私が通勤に使っているこの道は大通りから外れているせいか、通行人はひとりもいないので、どれだけ独り言を呟(つぶや)いても怪しまれない。
「会社、死ぬほど居づらい」
佐川さんに、私と敦が付き合っていたことがバレたら? 待ってるのは修羅場、私はみんなの人気者、佐川さんの幸せを脅かす女として冷ややかな目で見られる。社会人としてどうかと思うけど、いろいろ明るみになる前に退職したほうがいいかも……。
「会社辞めたら、どうしようかな」
私の実家は地方にある。部屋の更新も迫ってるし、実家に帰還コースだろう。
でも、帰りづらいな。私は三姉妹の長女なのだが、妹ふたりはすでに結婚している。ただでさえ先を越されてるのに、いちばん年上の私が職も彼氏も失うとか……。
「知られたくない……。絶対、憐(あわれ)みの目で見られる……」
はあっと、今日で何回ついたかわからないため息をこぼす。途方に暮れながら駅までの道をとぼとぼ歩いていると、目の前を一枚の紅葉が横切った。
「え……」
私は足を止める。季節は秋。紅葉が降ってきたって、なんらおかしくはない。
けれど、その紅葉が淡く金色に光っているのだ。私は驚くより先に、ゆっくりと回転しながら、まるで舞うように落ちていく紅葉にしばらく見入っていた。
どこから、飛んできたんだろう。
私は紅葉を追って、曲がり角を曲がる。すると、そばに長い石段があり、仰ぎ見る。
「龍宮神社?」
そう階段横の石の看板に書かれていた。私はふらりと導かれるように、石段を上がっていく。
二股されたことよりも、自分が選ばれなかったことのほうがつらかった。
私と佐川さんのなにを天秤(てんびん)にかけて、敦は彼女を選んだんだろう。顔? 性格? 財力? あとは……素直に甘えられないところかもしれない。
長女気質が抜けなくて、親や妹たちから当てにされることが多かった私は、人から頼られることはあっても、頼るのに慣れてなかった。たぶん敦は、そんな私よりも佐川さんみたいに守ってあげたくなるような女の子のほうが可愛く見えたんだろう。
「私、結婚できるのかなあ……」
踏んだり蹴ったりの毎日で、未来には不安しかない。神様に祈ったら、少しは私も幸せを掴(つか)めるだろうか。その一心で最後の段差を上がりきると──。
月明かりを浴びて、ひっそりと輝き佇(たたず)む白木造(しらきづく)りの神社が私を出迎えてくれた。
青白い月光が照らす広い境内や舞殿、そのどれもが美しかった。この光景を目にした瞬間から、疲れきった心が癒えていくのを感じる。
吸い寄せられるように、朱色(しゅいろ)の大鳥居を潜ったときだった。どこからか、ジャン、ジャン、ジャラランと雅な琴の音が聞こえてくる。顔を上げれば、境内の一角にある舞殿にひとりの女の人がいた。三十代くらいだろうか。金の扇を手に、右へ左へと回り、ストレートの髪を羽衣のごとくなびかせている。
苧環色の髪……。彼女の髪色を自然とそう表現していた。苧環なんて耳慣れない言葉を使った自分に驚き、思わず唇を指先で押さえる。
なに、今の? その舞を見ていると、どこからか込み上げてくる寂しさと愛しさに胸が詰まりそうになった。
『──しづやしづ~、しづのをだまき~、くりかへし~』
頭の中に桜吹雪がちらつき、あの夢で聞いた歌が響いている。
そうだ、〝私は〟『静よ』『静よ』と繰り返し名前を呼んでくれたあの方と、共に過ごした輝かしい日々にもう一度戻りたいという想いを込めて歌い、舞を踊った……。
「私、は……?」
なんで、自分のことだと思ったんだろう、この感情は誰のもの? 自分の中に溢れてくる、私じゃない私の想いと記憶に心臓が早鐘を打っている。
なんでか、女の人の舞から目を離せない。あれって巫女舞かな?
私は食い入るように女の人を見る。あの人が動くたび、空気が澄んでいくみたい。
神秘的で、時間も忘れて心を奪われていると、やがてなにかをその身に降ろすかのように両手を天へ上げた。真ん中で分けられた前髪、その下から覗(のぞ)く金色の瞳が流れるようにゆっくりと、私に向く。視線が交われば、女の人はふっと笑みをこぼした。