◇
気づくと知らない場所に立っていた。
大袈裟なベッドが等間隔で並んでいる、広い部屋の片隅に立っていた。
各々のベッドのそばには数個のモニター類が設置され、そのうちのいくつかが無機質な音を淡々と響かせ続けている。
わたしは呆然と辺りを見回した。
見た限り、ベッドは使われているものと無人のものとがあるようだ。
誰かがいるのだろうベッドの脇には、見慣れない機械や点滴のバッグがぶら下げられている。
室内には、白いユニフォームを着た人が数名いた。
忙しく動き回る彼らは、誰もわたしのことを気にしていないようだった。
「……」
ここは、おそらく病院の中だ。病院の、一般病棟ではないところ。
似たような場所をテレビで見たことがある。たぶん、重症の患者さんが入る部屋なのだと思う。
自分がどうしてここにいるのか、まったく覚えがなかった。
わたしは怪我も病気もしていない。体に痛みはなく、自分の手足を動かしてみても、どこも不自由なところはない。
ベッドに寝かされるどころかさっきからずっとこうして突っ立っているくらいだし。
着ている学校の制服も多少しわがあるだけで綺麗そのもの。
病院に来る理由なんて見当たらなかった。
なら、わたしはどうしてここにいる?
どうして、気づいたらここにいた?
「あの」
と、近くを通った看護師さんに声をかけてみた。
しかしその人はわたしの声がまるきり聞こえていないかのように、振り向きもせずに通り過ぎてしまった。
「……無視」
ショックを受けながら、とぼとぼと視線を自分のそばへと戻す。
わたしの目の前にあるベッドに、寝ている人がいた。
酸素マスクが着けられ、いくつもの機械と管で繋がり、点滴を絶えず落とされている。
大怪我をして運ばれてきたのだろうか、頭全部と右目までを覆うようにガーゼが貼られていた。
シーツから出された両腕にも包帯が巻いてある。
白いガーゼには、ところどころ赤い染みが滲んでいた。
眠っているようで、唯一隠されていない左目はずっと閉じられたままだ。
なんとなく、その人のことが気になった。
もっと近くで顔を見ようと、一歩足を踏み出しかけた。
そのとき。
「こちらです」
と声がし、振り返る。
開いた自動ドアの向こうから、看護師さんに連れられ、わたしのお母さんがやってきた。
「あ、お母さん!」
「……青葉」
お母さんは、着古した長袖のTシャツと安いスウェットパンツを着ていた。パジャマ代わりの部屋着だ。髪も適当に結っているだけでところどころに後れ毛がある。
お母さんは普段、近くのコンビニに行くときだってこんな恰好では出歩かない。
「青葉!」
引き千切れそうな声が広い治療室内に響いた。
お母さんは見たことのない顔をしながら、わたしの名前を呼び、駆け寄った。
わたしに、ではなく、目の前のベッドで眠っている人のもとに。
「あ……青葉ぁ……」
眠る人の顔を覗き込むと、お母さんは力なくうな垂れ、泣き始めた。
「お、お母さん? 何?」
尋常ではない様子にぎょっとする。お母さんが泣いているところなんて初めて見る。
なんで?
お母さんはどうして泣いているの?
何に泣いているの?
わけがわからなかった。
今何が起きているのかを、まったく理解できない。
「ちょっと、お母さんどうしたの? わたしならここに……」
いるよ、と言いかけたそのとき。ふいにあるものが目に映った。
ベッドのヘッドボードに掲げられたネームプレートだ。
マジックで【日野青葉】と、書かれている。
「え……なんで、わたしの名前」
そこに書かれているのはベッドを使っている人の名前のはずだ。
でもわたしはここにいて、ベッドには、わたしじゃない人が寝ている。
わたしの名前であるはずがない。わたしが使っているはずがない。けれど。
何か、嫌な感覚がした。
一歩二歩と頭側へ歩み寄り、お母さんとは反対の場所から、そこで眠る人の顔を覗き込む。
ひどい怪我をしたらしいその人は、右目がガーゼに覆われており、さらに酸素マスクも着けられていた。
はっきりと顔が見える部分は閉じられた左目のみだ。
それだけで十分だった。
だってそこにあったのは、わたしが誰よりも見慣れた顔だったから。
「わたし?」
そんなこと、あるはずない。だってわたしはここにいるのだから。
自分自身を見下ろすことなんてできない。目の前の相手が、わたしであるわけがない。
あるわけが、ないけれど。
眉毛の生え方や目尻の小さなほくろ、マスクの奥に見える鼻と唇の形は、毎日鏡の中に見ているものとまったく同じ。
何度も瞬きをし、自分の目を疑って見直してみても、間違いなくそこにはわたしがいた。
わたしが、眠っているのだ。
「日野さん、先生からのお話はもう聞かれましたか?」
看護師さんの呼びかけに、お母さんが真っ赤な目を拭いながら顔を上げる。
「……はい。まだどうなるかわからないと」
「娘さんを信じてあげましょう」
「はい、ありがとうございます……」
「のちほど、入院についてのご説明をいたしますので、それまで娘さんのそばにいてあげてください」
「ええ……わかりました」
看護師さんはお母さんの肩にそっと手を置くと、その場を離れていった。
わたしには――まるでここにはいないかのように――一切見向きもしないままだった。
……頭がおかしくなりそうだ。少しも状況を理解できない。
いや、違う。理解ならできている。
全部誰かが仕掛けた悪戯に決まっていた。わたしを騙して驚かして、笑ってやろうとしているに違いない。
やり始めたのは誰だろう。なんて質の悪いことを。こんな大掛かりなことをして、お母さんまで巻き込んで。
「ねえ、お母さん」
ベッドを挟んで声をかける。しかしお母さんは真っ白な顔をしたまま、目だけを赤く腫らし、寝ている人を見続けている。
わたしの声には振り向かない。
こんなに近くで話しかけているのだから、わたしの声が聞こえていないはずないのに。
「もうやめてよ……なんなのこれ」
回り込んでお母さんの隣に立つ。
それでもお母さんはわたしを見ようとしない。
「お母さんってば!」
強く叫びながら左手を伸ばした。
しかしその手は、お母さんに触れることはなかった。
「うわっ!」
思わず飛び退く。
「な、何?」
自分の手のひらと甲を眺め、指先を何度も曲げ伸ばしして、ぎゅっと両手を握る。
おかしなところはない。
でも、今わたしの手が、お母さんの体をすり抜けたような気がした。
肩に触ったはずなのに、空気に触れるみたいに、なんの感触もなかったような……。
「何、今の」
気のせい、だろうか。そう思い、もう一度恐る恐る手を伸ばす。
左手はやはりお母さんをすり抜けた。
お母さんだけではない。ベッドのサイドフレームにも、点滴のスタンドにも、カーテンにも、何にも触れることができない。
「ちょっと、何これ。どうなってるの」
仮想現実の世界にでも入り込んでしまったみたいだ。
見えているものすべてが映像で、本当はここには何もないかのよう。
もしくは、わたしが本当は、ここにはいないかのよう。
「……」
瞬きひとつするのも忘れて、お母さんの横顔を見ていた。
お母さんの目は、ベッドの上で眠っている人の顔に向けられている。
表情はひどく苦しげだった。
自分はどこも怪我をしていないはずなのに、深く傷ついているみたいに、辛そうな顔をしていた。
「お母さん……」
聞こえた足音に振り返る。さっきとは別の看護師さんが様子を見にやってきていた。
「あの、すみません! 助けてください!」
わたしはその人に縋りつく。もちろんその人の体も、わたしの手は掴むことができない。
「ねえ、わたしの声聞こえますか! わたしが見えませんか!」
触れることのできないその人に向かい必死に叫んだ。
けれどわたしの声は届かず、看護師さんは最後に寝ているわたしの様子を確認し、立ち去ってしまった。
しんと静かな中で、繋がれた機械だけが音を立てている。
命を繋いでいる音がしている。
それは、誰の命だろうか。
「なんなの……何が、起きてるの」
その呟きすらもどこにも届かない。
どうしてかは、知らないけれど、今のわたしは誰にも認識されない存在になってしまっている。
触れることも声を送ることもできず、人の目に映ることもない。
そして目の前には、眠り続ける、もうひとりのわたしがいる。
「……」
立ち尽くすしかなかった。
一体何が起きているのか、どうなってしまったのか、何ひとつわからなかった。
気づくと知らない場所に立っていた。
大袈裟なベッドが等間隔で並んでいる、広い部屋の片隅に立っていた。
各々のベッドのそばには数個のモニター類が設置され、そのうちのいくつかが無機質な音を淡々と響かせ続けている。
わたしは呆然と辺りを見回した。
見た限り、ベッドは使われているものと無人のものとがあるようだ。
誰かがいるのだろうベッドの脇には、見慣れない機械や点滴のバッグがぶら下げられている。
室内には、白いユニフォームを着た人が数名いた。
忙しく動き回る彼らは、誰もわたしのことを気にしていないようだった。
「……」
ここは、おそらく病院の中だ。病院の、一般病棟ではないところ。
似たような場所をテレビで見たことがある。たぶん、重症の患者さんが入る部屋なのだと思う。
自分がどうしてここにいるのか、まったく覚えがなかった。
わたしは怪我も病気もしていない。体に痛みはなく、自分の手足を動かしてみても、どこも不自由なところはない。
ベッドに寝かされるどころかさっきからずっとこうして突っ立っているくらいだし。
着ている学校の制服も多少しわがあるだけで綺麗そのもの。
病院に来る理由なんて見当たらなかった。
なら、わたしはどうしてここにいる?
どうして、気づいたらここにいた?
「あの」
と、近くを通った看護師さんに声をかけてみた。
しかしその人はわたしの声がまるきり聞こえていないかのように、振り向きもせずに通り過ぎてしまった。
「……無視」
ショックを受けながら、とぼとぼと視線を自分のそばへと戻す。
わたしの目の前にあるベッドに、寝ている人がいた。
酸素マスクが着けられ、いくつもの機械と管で繋がり、点滴を絶えず落とされている。
大怪我をして運ばれてきたのだろうか、頭全部と右目までを覆うようにガーゼが貼られていた。
シーツから出された両腕にも包帯が巻いてある。
白いガーゼには、ところどころ赤い染みが滲んでいた。
眠っているようで、唯一隠されていない左目はずっと閉じられたままだ。
なんとなく、その人のことが気になった。
もっと近くで顔を見ようと、一歩足を踏み出しかけた。
そのとき。
「こちらです」
と声がし、振り返る。
開いた自動ドアの向こうから、看護師さんに連れられ、わたしのお母さんがやってきた。
「あ、お母さん!」
「……青葉」
お母さんは、着古した長袖のTシャツと安いスウェットパンツを着ていた。パジャマ代わりの部屋着だ。髪も適当に結っているだけでところどころに後れ毛がある。
お母さんは普段、近くのコンビニに行くときだってこんな恰好では出歩かない。
「青葉!」
引き千切れそうな声が広い治療室内に響いた。
お母さんは見たことのない顔をしながら、わたしの名前を呼び、駆け寄った。
わたしに、ではなく、目の前のベッドで眠っている人のもとに。
「あ……青葉ぁ……」
眠る人の顔を覗き込むと、お母さんは力なくうな垂れ、泣き始めた。
「お、お母さん? 何?」
尋常ではない様子にぎょっとする。お母さんが泣いているところなんて初めて見る。
なんで?
お母さんはどうして泣いているの?
何に泣いているの?
わけがわからなかった。
今何が起きているのかを、まったく理解できない。
「ちょっと、お母さんどうしたの? わたしならここに……」
いるよ、と言いかけたそのとき。ふいにあるものが目に映った。
ベッドのヘッドボードに掲げられたネームプレートだ。
マジックで【日野青葉】と、書かれている。
「え……なんで、わたしの名前」
そこに書かれているのはベッドを使っている人の名前のはずだ。
でもわたしはここにいて、ベッドには、わたしじゃない人が寝ている。
わたしの名前であるはずがない。わたしが使っているはずがない。けれど。
何か、嫌な感覚がした。
一歩二歩と頭側へ歩み寄り、お母さんとは反対の場所から、そこで眠る人の顔を覗き込む。
ひどい怪我をしたらしいその人は、右目がガーゼに覆われており、さらに酸素マスクも着けられていた。
はっきりと顔が見える部分は閉じられた左目のみだ。
それだけで十分だった。
だってそこにあったのは、わたしが誰よりも見慣れた顔だったから。
「わたし?」
そんなこと、あるはずない。だってわたしはここにいるのだから。
自分自身を見下ろすことなんてできない。目の前の相手が、わたしであるわけがない。
あるわけが、ないけれど。
眉毛の生え方や目尻の小さなほくろ、マスクの奥に見える鼻と唇の形は、毎日鏡の中に見ているものとまったく同じ。
何度も瞬きをし、自分の目を疑って見直してみても、間違いなくそこにはわたしがいた。
わたしが、眠っているのだ。
「日野さん、先生からのお話はもう聞かれましたか?」
看護師さんの呼びかけに、お母さんが真っ赤な目を拭いながら顔を上げる。
「……はい。まだどうなるかわからないと」
「娘さんを信じてあげましょう」
「はい、ありがとうございます……」
「のちほど、入院についてのご説明をいたしますので、それまで娘さんのそばにいてあげてください」
「ええ……わかりました」
看護師さんはお母さんの肩にそっと手を置くと、その場を離れていった。
わたしには――まるでここにはいないかのように――一切見向きもしないままだった。
……頭がおかしくなりそうだ。少しも状況を理解できない。
いや、違う。理解ならできている。
全部誰かが仕掛けた悪戯に決まっていた。わたしを騙して驚かして、笑ってやろうとしているに違いない。
やり始めたのは誰だろう。なんて質の悪いことを。こんな大掛かりなことをして、お母さんまで巻き込んで。
「ねえ、お母さん」
ベッドを挟んで声をかける。しかしお母さんは真っ白な顔をしたまま、目だけを赤く腫らし、寝ている人を見続けている。
わたしの声には振り向かない。
こんなに近くで話しかけているのだから、わたしの声が聞こえていないはずないのに。
「もうやめてよ……なんなのこれ」
回り込んでお母さんの隣に立つ。
それでもお母さんはわたしを見ようとしない。
「お母さんってば!」
強く叫びながら左手を伸ばした。
しかしその手は、お母さんに触れることはなかった。
「うわっ!」
思わず飛び退く。
「な、何?」
自分の手のひらと甲を眺め、指先を何度も曲げ伸ばしして、ぎゅっと両手を握る。
おかしなところはない。
でも、今わたしの手が、お母さんの体をすり抜けたような気がした。
肩に触ったはずなのに、空気に触れるみたいに、なんの感触もなかったような……。
「何、今の」
気のせい、だろうか。そう思い、もう一度恐る恐る手を伸ばす。
左手はやはりお母さんをすり抜けた。
お母さんだけではない。ベッドのサイドフレームにも、点滴のスタンドにも、カーテンにも、何にも触れることができない。
「ちょっと、何これ。どうなってるの」
仮想現実の世界にでも入り込んでしまったみたいだ。
見えているものすべてが映像で、本当はここには何もないかのよう。
もしくは、わたしが本当は、ここにはいないかのよう。
「……」
瞬きひとつするのも忘れて、お母さんの横顔を見ていた。
お母さんの目は、ベッドの上で眠っている人の顔に向けられている。
表情はひどく苦しげだった。
自分はどこも怪我をしていないはずなのに、深く傷ついているみたいに、辛そうな顔をしていた。
「お母さん……」
聞こえた足音に振り返る。さっきとは別の看護師さんが様子を見にやってきていた。
「あの、すみません! 助けてください!」
わたしはその人に縋りつく。もちろんその人の体も、わたしの手は掴むことができない。
「ねえ、わたしの声聞こえますか! わたしが見えませんか!」
触れることのできないその人に向かい必死に叫んだ。
けれどわたしの声は届かず、看護師さんは最後に寝ているわたしの様子を確認し、立ち去ってしまった。
しんと静かな中で、繋がれた機械だけが音を立てている。
命を繋いでいる音がしている。
それは、誰の命だろうか。
「なんなの……何が、起きてるの」
その呟きすらもどこにも届かない。
どうしてかは、知らないけれど、今のわたしは誰にも認識されない存在になってしまっている。
触れることも声を送ることもできず、人の目に映ることもない。
そして目の前には、眠り続ける、もうひとりのわたしがいる。
「……」
立ち尽くすしかなかった。
一体何が起きているのか、どうなってしまったのか、何ひとつわからなかった。