◇
「ねえ青葉、このあと遊びに行くんだけど青葉も来ない?」
帰り支度をしていると、クラスメイトに声をかけられた。
わたしはペンケースとノートを適当に放り込んだ鞄を肩にかけ、片手で『ごめん』のジェスチャーをする。
「これからバイトなんだよね」
「今日も? 今週ずっとじゃない?」
「大学生の人が、レポートの提出期限が近いみたいで休んでてさ。代わりにわたしが入れるところは全部出ますって言っちゃったんだ」
「マジ? 大変だねえ。無理しないようにね」
「ありがと。また誘って」
手を振って、まだ人の多く残っている教室を出る。
授業が終わった直後の学校はどこもかしこも賑やかだ。部活へ向かう人。帰る準備をする人。補習を受ける人。まだしばらく居残って友達とお喋りをする人。
生徒と先生が行き交う廊下は、そこら中から笑い声と足音が聞こえてくる。
毎日同じ日を繰り返しているみたいな変わらない日常。
いつもどおりの放課後の始まる校舎を、昇降口まで向かっていく。
すると、渡り廊下の真ん中で、
「青葉」
と呼ぶ声が聞こえ、足を止めた。
「恭弥」
振り返ると、見慣れた顔が立っていた。わたしを捜して追いかけてきたのだろうか、少し暑そうに、伸びた前髪を掻いている。
鞄を持っていないからまだ下校するつもりではないみたいだ。一緒に帰ろうと誘いに来たわけではないらしい。
どうしたの、と言おうとしたら、恭弥が先に口を開いた。
「おまえ、今日もバイト?」
その口調と表情で、恭弥の言いたいことをなんとなく察した。
面倒くさいことになりそうだと何も言わずに歩き出す。恭弥は懲りずにあとを追ってくる。
「夜までなんだろ? ここんとこ毎日じゃねえか」
「そうだけど、だから何?」
「無理してんじゃねえのかって言ってんだよ。いくらおまえでもそのうち体壊すぞ」
「平気だって。ごはんは食べてるし、それなりに寝てるし」
「そうやって自分は大丈夫だって思ってるから余計に心配なんだよ。現におまえ、今日ちょっと顔色悪いぞ」
わたしは隠すことなく大きなため息を吐いた。思ったとおり、恭弥はお節介モードに入っているみたいだ。
この幼馴染みは昔から度々余計なお世話を焼いてくる。やれ給食を残すなだの、やれあの子と仲直りしろだの、やれ体調が悪いなら無理せず休めだの。
他の友達からは『恭弥くんはクールで大人びている』と言われているらしいが、わたしは全然そう思わない。むしろしつこい小姑みたいだ。
「ねえ恭弥、話ってそれだけ? わたしバイトに遅れちゃうから、もう行くよ」
一度立ち止まり振り返る。
いつの間にか頭ひとつ分身長差のついた幼馴染みは、小さい頃から変わらない視線でわたしを見下ろしていた。
「あのな、おまえのこと、おばさんも心配してんぞ」
恭弥が言う。
「家のことなんて気にせずにおまえの好きなように時間を使えばいいって言ってた。なあ青葉、あんま意地張るのもいい加減にしとけよ。家のためにって頑張るのもいいけど、おまえ自身の負担になることをおばさんは望んでねえよ」
「……言われなくても、わたしは自分の時間を好きに使ってバイトしてる」
「するなとは言わねえよ。ただ不必要な無理はするなっつってんだ」
「あのね恭弥」
思わず口調が強くなる。
反して、視線は逃げるように恭弥の目からずらしていた。
「あんたにどうこう言われるまでもなく、自分のことくらい自分で管理できるから」
「青葉」
「わたしがどうしようと恭弥には関係ないでしょ」
「関係ねえとか、そんなの……」
恭弥は濁すようにして口を噤んだ。
その隙にわたしは踵を返し、ふたたび昇降口に向かって歩き出す。
「わたしのことはほっといて。じゃあね」
「おい青葉!」
背中越しに恭弥の声が聞こえていた。
もう足は止めることなく、幼馴染みを振り返ることもなかった。
コンビニでのバイトは高校に上がった直後から始めた。
もう一年半になる。顔触れの変わらないパートさんたちと違い学生バイトは出入りが激しく、わたしの年数でもすでにベテラン扱いされている。
平日の勤務は大体十七時から二十二時まで。
家に帰るのは面倒だから、学校から直接バイト先まで行き、裏で腹ごしらえをしてから勤務することにしている。
いつものように二十分前に入店し、カウンターから繋がるバックヤードで夕飯代わりのチキンを食べていると、「ねえ」と呼ばれ顔を上げた。
わたしと交代で退勤するパートのおばちゃんが、壁に貼られたシフト表を見ていた。
「青葉ちゃんって学費とか自分で払ってるんだっけ?」
「ううん。どうしてですか?」
「だって、今週ずっと休まず入ってるじゃない」
「ああ」と頷く。
「うち母子家庭じゃないですか。だから、なるべく親に負担かけないように自分でできることは自分でしようって思って」
「あら、偉いわねえ」
「偉い、のかなあ」
チキンを半分だけ食べて、残りはゴミ箱に捨ててしまった。
大好物なはずなのに、どうしてか胃が受け付けず食べる気にならなかった。
ロッカーに入れていたTシャツとジーンズを引っ張り出し、学校の制服から着替え、ユニフォームを羽織る。
髪は結ぶほどの長さがないから、邪魔にならないよう耳にだけ掛けておいた。
時間は十七時の五分前になっていた。タイムカードを押し、一度ぐっと伸びをしてからカウンターに出る。
ほんの少し立ちくらみがしたけれど、一瞬だけだったから気にしないことにした。
「うちの息子も青葉ちゃんを見習ってほしいわあ。もう大学生なのに親のすね齧ってばっかりなのよ」
ふたりでレジの点検を行っている間、おばちゃんがしみじみと呟いた。
さっきの会話の続きだろうか、おばちゃんは、わたしのことを自立したしっかり者だと思っているみたいだ。
「でも、わたしもバイトしてるのって、家のためじゃなく自分のためなんですよね」
コインカウンターにレジの小銭を入れながら、なんとなくそう答えた。
「なんて言うのかな、罪悪感から逃れるための逃げ道を作ってるのかも」
「罪悪感?」
「そう。なんか時々、わたしがいなかったらお母さんはもっと自由に、幸せに生きられるのかなあとか考えちゃうんです」
わたしが小学校に入ってすぐ、両親が離婚した。わたしはお母さんに引き取られ、以来、親子ふたりだけの家庭で育った。
片親だったことで苦労した経験はあまりない。
お母さんが安定した収入を得られる職に就いていたこともあって、経済的に困ったこともそれほどないし、嫌な思いをしたこともなかった。
けれど、お母さんはそうではなかったはずだ。
高学年になって、中学生になって、少しずつ身のまわりのことを理解するようになって、もしも、と考えるようになった。
もしもわたしがいなければ、お母さんはもっと好きなように生きられたのかな、と。
「だから、自分はお母さんの負担になっていないって思いたいのかもしれないです」
そこまで言って、はっとした。つい変な話をしてしまった。
「あ、でも別に、お母さんと仲が悪いわけじゃないんですけど」
慌てて笑顔を浮かべたけれど、おばちゃんは眉を寄せて、苦いものでも食べたかのような顔をしていた。
「あのね青葉ちゃん」
と、レジの付近にお客さんがいないのを確認してから、作業の手を止めわたしと向かい合う。
「あたしも人の親だからわかるけどね、親ってのは子どもが思っている以上に、子どもに力をもらっているものなの」
「……力?」
「そう。確かにひとりで子どもを育てるのはとっても大変よ。綺麗ごとばかりじゃない。でもね、お母さんは、あなたがいるから頑張れる。そういうこともあると思うよ」
おばちゃんはわたしの肩を力強く叩き、にいっと笑った。
わたしは、笑い返すことができなかった。
二十二時ちょうどにバイトを終え、夜勤の人に挨拶をし、店を出た。
雨は朝から降り続いている。
安物の赤い傘をぱっと開いて、水溜まりだらけの道に一歩踏み出す。
時間も遅いしこの天気だ。
それでも金曜ということもあってか、街はまだ明るく賑やかだった。
大通りの交差点で信号待ちをしながら、雨を避ける傘の中で、お母さんに【今から帰る】とメッセージを送った。
わたしの送った内容はすぐに既読マークが付き、お母さんから【気をつけて帰っておいでね】と返事が届いた。
「……」
パートのおばちゃんは、わたしがお母さんの力になっている、だなんて言っていたけれど。そんなの本当だろうか。
わたしは本当に、お母さんのためになれているのだろうか。
お母さんは、わたしの前で弱音を吐いたことがない。
いつだって元気に笑っていて、わたしのしたいことはなんでもさせてくれたし、欲しい物も買ってくれた。
わたしにはお父さんがいなかったけれど、お母さんがいたから、お父さんが欲しいと思ったことは一度もなかった。
でも、お母さんは本当に、弱音を吐きたいときがなかったのだろうか。
小学生のときに、たまたま夜中に目が覚めて、まだ明かりの点いていたリビングをこっそり覗いたことがある。
そのときに、お母さんが疲れた顔をしてぼんやりとしているのを見てしまった。
わたしは、お母さんもこんな顔をするんだとはっとした。
そして、今までもきっと何度もこうしていたはずなのに、その姿を決してわたしには見せていなかったんだということに気づいた。
中学生のときには、お母さんの知り合いから、お母さんが職場の同僚に申し込まれた交際を断っていたことも聞いた。今は子どものことを第一に考えたいからって理由だったのだと。
知り合いの人は、お母さんがわたしをどれだけ大事に思っているかを伝えたくてその話をしてくれたみたいだった。
でもわたしは、嬉しさよりも、別の思いを強く抱いてしまった。
もしかしたら、わたしがお母さんの重荷になっているんじゃないかって。
わたしがいなければ、お母さんはもっと自由な人生を送っていたのかもしれないって。
そう思うと申し訳なくて、早く大人にならなければいけないと考えるようになった。
だから自分なりに自立できるよう頑張ってきたのだ。
できるだけ、お母さんの負担にならないようにしようと。
「わたしがいるから頑張れる、かあ」
別に、いなくなりたいなんて思っているわけではない。
お母さんのことは好きだし、大事にされている自覚だってある。
でも、もしもお母さんの人生にわたしがいなかったらとは、たまに考えてしまう。
もしもわたしがお母さんの前からいなくなったら、お母さんは、どんな顔をするのだろう。
「……難しいな」
周囲に聞こえないよう小さくひとりごとを呟いた。
信号はまだ変わらない。
車道には車がたくさん走り、歩道では仕事終わりのサラリーマンや居酒屋を渡り歩く大学生たちが一緒に青信号を待っている。
傘に降り落ちる雨の音が絶えず鳴っていた。雨の日の独特の匂いが、足元から強く濃くのぼってくる。
手に持ったままのスマートフォンをちらりと見た。
お母さんを一番上にしたトーク履歴の五番目に、幼馴染みの名前があった。
……恭弥にも、おばちゃんと似たようなことを言われたっけ。
いちいちうるさいといつも邪険にしてしまうけれど、本当は、恭弥がわたしを思って言ってくれているんだってことくらいわかっている。
むきになるのは図星だから。恭弥に見透かされているのが悔しくて、つい意地を張ってしまうのだ。
小さい頃はなんでも言い合えたし、相手の思いやりも素直に受け止められたのに、いつからそんな簡単なことすらできなくなったのだろう。
自分のことは自分でできるって大人ぶってみたところで、それこそ子どもみたいで、かっこ悪くて情けない。
「……」
さすがに反省の心が芽生え、恭弥とのトーク画面を開いた。
けれど、わざわざメッセージを送ってまで言うことでもないかと、何も打たずに閉じた。次に学校で会ったときにでも声をかければいい。
スマートフォンを鞄にしまう。目の前の信号はまだ赤だ。横の歩行者信号が点滅し始めたから、あと少しで青に変わる。
後ろから賑やかな声が聞こえていた。
お酒の入った大学生が随分盛り上がっているようだった。
ひと際背後が騒がしくなったとき、「あ」という声とともに、背中にどんと何かがぶつかった。
咄嗟に足を踏み出す。
けれどどうしてか力が入らず、支えきれなかった体がふらりとよろけた。
バランスを崩したわたしは、二歩三歩とふらつき、立ち止まった。
立ち止まった場所は、太い白線の上――まだ赤信号のままの、横断歩道の上だった。
これは、まずい。
そう思ったときには目の前に大きなヘッドライトが見えていた。
傘が風に流される。
雨の線が光を受けて、描いたみたいにはっきりと浮かんだ。
甲高いブレーキ音と、誰かの悲鳴が聞こえた。
世界が、やけに鮮明だった。
◇
気づくと知らない場所に立っていた。
大袈裟なベッドが等間隔で並んでいる、広い部屋の片隅に立っていた。
各々のベッドのそばには数個のモニター類が設置され、そのうちのいくつかが無機質な音を淡々と響かせ続けている。
わたしは呆然と辺りを見回した。
見た限り、ベッドは使われているものと無人のものとがあるようだ。
誰かがいるのだろうベッドの脇には、見慣れない機械や点滴のバッグがぶら下げられている。
室内には、白いユニフォームを着た人が数名いた。
忙しく動き回る彼らは、誰もわたしのことを気にしていないようだった。
「……」
ここは、おそらく病院の中だ。病院の、一般病棟ではないところ。
似たような場所をテレビで見たことがある。たぶん、重症の患者さんが入る部屋なのだと思う。
自分がどうしてここにいるのか、まったく覚えがなかった。
わたしは怪我も病気もしていない。体に痛みはなく、自分の手足を動かしてみても、どこも不自由なところはない。
ベッドに寝かされるどころかさっきからずっとこうして突っ立っているくらいだし。
着ている学校の制服も多少しわがあるだけで綺麗そのもの。
病院に来る理由なんて見当たらなかった。
なら、わたしはどうしてここにいる?
どうして、気づいたらここにいた?
「あの」
と、近くを通った看護師さんに声をかけてみた。
しかしその人はわたしの声がまるきり聞こえていないかのように、振り向きもせずに通り過ぎてしまった。
「……無視」
ショックを受けながら、とぼとぼと視線を自分のそばへと戻す。
わたしの目の前にあるベッドに、寝ている人がいた。
酸素マスクが着けられ、いくつもの機械と管で繋がり、点滴を絶えず落とされている。
大怪我をして運ばれてきたのだろうか、頭全部と右目までを覆うようにガーゼが貼られていた。
シーツから出された両腕にも包帯が巻いてある。
白いガーゼには、ところどころ赤い染みが滲んでいた。
眠っているようで、唯一隠されていない左目はずっと閉じられたままだ。
なんとなく、その人のことが気になった。
もっと近くで顔を見ようと、一歩足を踏み出しかけた。
そのとき。
「こちらです」
と声がし、振り返る。
開いた自動ドアの向こうから、看護師さんに連れられ、わたしのお母さんがやってきた。
「あ、お母さん!」
「……青葉」
お母さんは、着古した長袖のTシャツと安いスウェットパンツを着ていた。パジャマ代わりの部屋着だ。髪も適当に結っているだけでところどころに後れ毛がある。
お母さんは普段、近くのコンビニに行くときだってこんな恰好では出歩かない。
「青葉!」
引き千切れそうな声が広い治療室内に響いた。
お母さんは見たことのない顔をしながら、わたしの名前を呼び、駆け寄った。
わたしに、ではなく、目の前のベッドで眠っている人のもとに。
「あ……青葉ぁ……」
眠る人の顔を覗き込むと、お母さんは力なくうな垂れ、泣き始めた。
「お、お母さん? 何?」
尋常ではない様子にぎょっとする。お母さんが泣いているところなんて初めて見る。
なんで?
お母さんはどうして泣いているの?
何に泣いているの?
わけがわからなかった。
今何が起きているのかを、まったく理解できない。
「ちょっと、お母さんどうしたの? わたしならここに……」
いるよ、と言いかけたそのとき。ふいにあるものが目に映った。
ベッドのヘッドボードに掲げられたネームプレートだ。
マジックで【日野青葉】と、書かれている。
「え……なんで、わたしの名前」
そこに書かれているのはベッドを使っている人の名前のはずだ。
でもわたしはここにいて、ベッドには、わたしじゃない人が寝ている。
わたしの名前であるはずがない。わたしが使っているはずがない。けれど。
何か、嫌な感覚がした。
一歩二歩と頭側へ歩み寄り、お母さんとは反対の場所から、そこで眠る人の顔を覗き込む。
ひどい怪我をしたらしいその人は、右目がガーゼに覆われており、さらに酸素マスクも着けられていた。
はっきりと顔が見える部分は閉じられた左目のみだ。
それだけで十分だった。
だってそこにあったのは、わたしが誰よりも見慣れた顔だったから。
「わたし?」
そんなこと、あるはずない。だってわたしはここにいるのだから。
自分自身を見下ろすことなんてできない。目の前の相手が、わたしであるわけがない。
あるわけが、ないけれど。
眉毛の生え方や目尻の小さなほくろ、マスクの奥に見える鼻と唇の形は、毎日鏡の中に見ているものとまったく同じ。
何度も瞬きをし、自分の目を疑って見直してみても、間違いなくそこにはわたしがいた。
わたしが、眠っているのだ。
「日野さん、先生からのお話はもう聞かれましたか?」
看護師さんの呼びかけに、お母さんが真っ赤な目を拭いながら顔を上げる。
「……はい。まだどうなるかわからないと」
「娘さんを信じてあげましょう」
「はい、ありがとうございます……」
「のちほど、入院についてのご説明をいたしますので、それまで娘さんのそばにいてあげてください」
「ええ……わかりました」
看護師さんはお母さんの肩にそっと手を置くと、その場を離れていった。
わたしには――まるでここにはいないかのように――一切見向きもしないままだった。
……頭がおかしくなりそうだ。少しも状況を理解できない。
いや、違う。理解ならできている。
全部誰かが仕掛けた悪戯に決まっていた。わたしを騙して驚かして、笑ってやろうとしているに違いない。
やり始めたのは誰だろう。なんて質の悪いことを。こんな大掛かりなことをして、お母さんまで巻き込んで。
「ねえ、お母さん」
ベッドを挟んで声をかける。しかしお母さんは真っ白な顔をしたまま、目だけを赤く腫らし、寝ている人を見続けている。
わたしの声には振り向かない。
こんなに近くで話しかけているのだから、わたしの声が聞こえていないはずないのに。
「もうやめてよ……なんなのこれ」
回り込んでお母さんの隣に立つ。
それでもお母さんはわたしを見ようとしない。
「お母さんってば!」
強く叫びながら左手を伸ばした。
しかしその手は、お母さんに触れることはなかった。
「うわっ!」
思わず飛び退く。
「な、何?」
自分の手のひらと甲を眺め、指先を何度も曲げ伸ばしして、ぎゅっと両手を握る。
おかしなところはない。
でも、今わたしの手が、お母さんの体をすり抜けたような気がした。
肩に触ったはずなのに、空気に触れるみたいに、なんの感触もなかったような……。
「何、今の」
気のせい、だろうか。そう思い、もう一度恐る恐る手を伸ばす。
左手はやはりお母さんをすり抜けた。
お母さんだけではない。ベッドのサイドフレームにも、点滴のスタンドにも、カーテンにも、何にも触れることができない。
「ちょっと、何これ。どうなってるの」
仮想現実の世界にでも入り込んでしまったみたいだ。
見えているものすべてが映像で、本当はここには何もないかのよう。
もしくは、わたしが本当は、ここにはいないかのよう。
「……」
瞬きひとつするのも忘れて、お母さんの横顔を見ていた。
お母さんの目は、ベッドの上で眠っている人の顔に向けられている。
表情はひどく苦しげだった。
自分はどこも怪我をしていないはずなのに、深く傷ついているみたいに、辛そうな顔をしていた。
「お母さん……」
聞こえた足音に振り返る。さっきとは別の看護師さんが様子を見にやってきていた。
「あの、すみません! 助けてください!」
わたしはその人に縋りつく。もちろんその人の体も、わたしの手は掴むことができない。
「ねえ、わたしの声聞こえますか! わたしが見えませんか!」
触れることのできないその人に向かい必死に叫んだ。
けれどわたしの声は届かず、看護師さんは最後に寝ているわたしの様子を確認し、立ち去ってしまった。
しんと静かな中で、繋がれた機械だけが音を立てている。
命を繋いでいる音がしている。
それは、誰の命だろうか。
「なんなの……何が、起きてるの」
その呟きすらもどこにも届かない。
どうしてかは、知らないけれど、今のわたしは誰にも認識されない存在になってしまっている。
触れることも声を送ることもできず、人の目に映ることもない。
そして目の前には、眠り続ける、もうひとりのわたしがいる。
「……」
立ち尽くすしかなかった。
一体何が起きているのか、どうなってしまったのか、何ひとつわからなかった。
「日野青葉」
ふいに、名前を呼ばれた。
どうせわたしを呼んでいるわけではないのだろうと思いながらも、反射的にのそりと顔を上げ振り返る。
ベッドの足元に、ひとりの男の子が立っていた。
わたしと同じくらいの歳だ。
癖のない髪は色素が薄く、ほんの少し茶色がかっている。古臭いデザインの襟付きシャツに、折り目のついたスラックスを穿いていた。
顔立ちは上品だけれど、表情がまるでなく、冷たい印象を受ける。
わたしはその男の子を見つめていた。
そしてその男の子も、わたしのことを見ていた。
「日野青葉」
と、男の子はもう一度わたしの名前を呼ぶ。
お母さんも、近くにいる看護師さんたちも、その声には誰も反応を示さない。
「おまえ、日野青葉で間違いないな」
「そ、そうだけど……ねえ、わたしのことが見えてるの?」
「ああ」
答えはあっさり返ってきた。
考える間もなく男の子の腕を掴んだ。わたしの手は確かに、その子の細い腕を掴んでいた。
「ねえ、わたしに何が起きてるか知ってる? わたし今どうなってるの? 知ってるなら教えて!」
縋れるのはこの腕しかなかった。他の誰にも声が届かなかったのだ。
わたしは必死に叫び、男の子へ――何者なのかすらわからない彼へ、答えを求めた。
男の子は、表情ひとつ動かすことなく、右手の人差し指を正面へ向ける。
「おまえは今、あの体から意識だけが離れた状態になっている」
指し示された場所はベッドの上だ。
微動だにしないから、見ただけでは生きているのか死んでいるのかもわからない。ただ、機械は間違いなく鼓動を刻んでいる。
「いわば魂のみの状態だ。幽体離脱とでも言うのか。だから生きている者にはおまえの姿は見えないし、声も聞こえない」
「魂って……待ってよ、じゃああそこにいるのって、やっぱりわたしなの?」
「そうだ。日野青葉、おまえは死んだ」
声も出せなかった。
ゆっくりと戻した視線の先にいる男の子は、いまだわたしの体のほうを見つめたまま、ほんの少しだけ目を細める。
「……はずだった」
男の子はわたしの手を振り払うと、どこから取り出したのか古びたぶ厚い手帳を開いた。紙を雑に捲り、後ろ寄りのページで手を止める。
「二〇一九年十月十八日、二十二時十四分。酔っぱらった若者が背中にぶつかったことと、体調不良が重なったことから、道路に飛び出し、走ってきたトラックと衝突」
そこに書いてあるのだろうことを、やや掠れた声が淡々と読み上げる。
「その場で死亡。これがおまえの運命だった」
男の子が手帳を閉じた。わたしはこめかみを押さえながら、彼が言ったことを頭の中で繰り返し、自分に起きたはずのことを思い出す。
……そうだ、確かにわたしはバイトの帰り道、信号待ちをしている最中にふらついて、まだ赤だった横断歩道に出てしまった。
目の前に迫ったヘッドライトの眩しさと、肌に当たる雨粒、誰かの叫び声を、覚えている。
ぶつかった瞬間のことまでは思い出せないし、怖くて思い出そうとすることもできないけれど……あのとき事故に遭ったのは事実だ。
この男の子は本当のことを言っている。でも。
「わたし、まだ死んでないよ。あそこに寝てる体、ちゃんと生きてるじゃん」
あれが本当にわたしの体だとして、そして今ここにいるわたしが体から離れ出た魂であるとして。
わたしはまだ、死んでなんかいない。
ベッドで横になっているわたしの体は確かに生きている。
「死んだはずだった、と言っただろう。この件に関して、少々問題が発生した」
男の子の目がわたしに向く。
髪と同じく色素の薄い瞳は、綺麗だけれど、どこか作り物のようでもあった。感情のない人形の目……ガラス玉みたいだ。
「運命の不具合というものだ。ごく稀にしか起こらないそれが、今回おまえの身に起きてしまった」
「運命の、不具合?」
「本来のおまえに定められた運命は、事故で即死。つまりすでに死んでいるはずだった。だが不具合により、おまえが歩むはずだった運命がほんのわずかに歪んでしまい、一時一命を取り留めた。ぎりぎりではあるが、まだおまえの魂は体と完全に切り離されることなく、繋がっている状態だ」
あまりに現実味がない話だった。とても信じることなどできない。けれど、信じるしかない。
自分がもうひとりいることも、わたしが誰にも認知されず、触れることすらできないことも、すでに知ってしまっているのだから。
「運命の不具合が起きた場合は再度生死の審査が執り行われる。日野青葉、おまえの場合も同様だ。審査結果が出るまで数日からひと月ほど、おまえはこのままの状態となる。その間、おまえのその身はぼくが預かることになる」
まるで抑揚のない口調で語られるから、それがわたしの生死をかけた話であるという気がしなかった。
ただ、理解はした。
わたしの身に起きていることとその原因、そしてそれが不具合なんて簡単な言葉で表されていることを。
即死を免れたことを感謝するべきなのだろうか。それとも、命を軽く扱われていることを怒るべきなのだろうか。
頭がおかしくなりそうだ。おかしくなる頭が、今のわたしにあるのかもわからないけれど。
「……待って。審査って、じゃあもしもそれで死ぬって決まったら、わたしは死ななきゃいけないってこと?」
「そうだ」
「嫌だよ、そんな……死にたくない!」
男の子の腕をきつく掴み叫んだ。
こんなにも大声を上げているのに、わたしの声が聞こえているのは目の前の人だけだった。
同じ高さの目線が真っ直ぐにわたしの目を見つめ返している。
「なぜ?」
と男の子は聞いた。
さっきまでと変わらない口調と表情で、わたしに、なぜ死にたくないのかと。
「なぜって、そんな、当たり前じゃん……」
「当たり前? はたしてそうか? おまえはなぜ死にたくない? 誰であってもいつかは必ず死が来るのに? ほんの少し生き長らえてなんの意味がある?」
「意味、なんて」
あると言いたかった。わたしはまだ十七歳になったばかりだし、まだ未来がある。生きる意味も、死にたくない理由もあるはずだ。
けれど、何も言えなかった。
わからなかった。
どうして生きるのか、わたしが生きている意味は何か、なんて。
誇れる特技があるわけでもない。未来はあっても目標はない。将来の夢とか、人生に抱く希望とか、守りたいものとか、そんなものもない。
死にたくないのは確かだ。けれど、生きている意味を聞かれて、胸を張って言える答えが、今のわたしの中にはない。
「嫌だと言おうと、おまえにもぼくにもどうにもできない。こればかりは受け入れるしかない」
視線を逸らさずに、男の子はそう言った。
わたしに寄り添う気などかけらもなさそうだった。
腕を掴んでいた手を下ろす。代わりに、制服のブレザーの裾をぎゅっと握る。
「……あんた、何者?」
見た目は、普通の男の子だ。同じくらいの歳で、身長も同じくらい。服装は古臭くて少しダサい。
幽霊みたいなものになっているわたしの姿が見えていて、今のわたしの状況をわたしよりも知っている。
感情が見えない、ガラス玉みたいな目をした少年。
わたしと同じく、他の人たちには姿が見えていない、不思議な存在。
「ぼくは、死んだあとのおまえを導くはずだった者」
「死神?」
「そう言われることもある。あとは、天使とか」
こんな無愛想な奴、天使には到底見えないし、そうだと思いたくもなかった。
「名前はあるの?」
訊ねると、少し間を置いてから答えが返ってくる。
「キュウ、と呼ばれている」
「……変な名前」
意地悪のつもりで言ってみたのに、目の前の男の子――キュウは、とくに何も言い返してはこなかった。
ブレザーを強く握っていた手を離し、自分の両方の手のひらを眺めてみる。
ほんのり赤くなっていて、血が通っているように見える。
指を握れば感触がするし、温度もあるように思う。
でもここに、わたしの体はない。これはわたしの体ではないのだ。
わたしの体は眠っていて、一生懸命生きようとしている。
けれど、未来はわからない。神様か誰かに決められた運命に従うしかない。
「日野青葉」
キュウが呼んだ。
「……何?」
「行くぞ」
「どこに?」
「仕事だ。ぼくはおまえの面倒を見ること以外にも仕事をしなければいけない」
キュウはそう言って、治療室の出入口へ向かっていく。
わたしはちらりとお母さんを見た。
お母さんとはさっきから一度も目が合っていない。
お母さんは、わたしがここにいることに気づかずに、眠る抜け殻を見つめ続けている。
死にそうなのはわたしのほうなのに、まるで自分が死んだような顔をして、目を覚ますことのないわたしが起きるのを待っている。
「……わたし、ここにいる」
キュウが足を止め振り返るのがわかった。
わたしは下唇を噛みながら、お母さんの横顔を見ていた。
わたしはお母さんの人生の重荷になっている。そう思っていた少し前までの自分に馬鹿だって言いたかった。
いなければいいなんて思っている人が、こんな顔をするはずがない。
「うっ、お母さん……」
じわりと目に涙が滲む。
幽霊でも涙は出るのかと、慌てて手の甲で瞼を拭った。
ここにいても何もできないことはわかっている。
それでもここを離れることはできなかった。
お母さんと一緒にいたい。気づいてもらえなくても、そばにいられるだけでいい。
「……はあ」
大きなため息が聞こえ、顔を上げる。
キュウが大股でこちらに歩み寄ってきていた。
「ちょ、え」
キュウはわたしの腕を強く掴むと、そのまま壁のほうへと引っ張った。
キュウの足は止まらない。
目の前に壁が迫り、ぶつかる、と、思わずぎゅっと目をつぶる。
――何かにぶつかった感触はなかった。
そういえば今の自分は物に触れられないのだと思い至り、恐る恐る瞼を開ける。
真夜中の街が見えた。
建物の明かりは少なく、空は真っ暗だった。朝はまだしばらく来ないみたいだ。
わたしの腕を引っ張るキュウの髪がふわと揺れた。
振り返ると、今までいたであろう建物が見えていた。
市内にある一番大きな病院だ。中に入ったことはなかったけれど、外観は通りがけに何度も見たことがある。
照明の中にぼんやりと浮かぶ病院の壁面看板が、目線と同じ高さにあった。
八階建ての病院の、最上階に設置されている看板だった。
ふと下を見る。
ローファーを履いた足の下に、地面はない。
「うわあっ!」
咄嗟にキュウに抱きついた。
宙に浮いている。そう気づき、体の中心にさあっと冷たいものが走る。
幽霊だから落ちても平気だし、そもそもさっきから浮いているから落ちる心配はないはずだ。そうわかっていても、この状況は怖かった。
しかしわたしのパニックなどお構いなしに、キュウは縋りつくわたしを乱暴に引き剥がす。
「日野青葉」
低く棘のある声でキュウはわたしを呼んだ。
さっきまでのっぺらぼうのようだったキュウの表情に、ほんの少しだけ感情が見えていた。
わずかに寄せられた眉根からして、いい感情ではないのは確かだ。
「話を聞いていなかったのか。おまえの身はぼくが預かることになっているんだ。おまえがどうしたいかなんて聞いていないし心底どうでもいい」
「……」
「大変な目に遭っていると思っているだろうがな、面倒なことに巻き込まれたのはぼくも同じなんだ。こんなこと、滅多に起こることじゃない。事実ぼくは初めて担当する。いいか、これ以上ぼくの手間を増やすな」
早口でまくしたてられ呆気にとられた。
足元のぞわつく感覚。飛んでいる恐怖。異様な状況。非日常の始まりと、生死のはざまに立たされた不安。
今までにないものが一気に押し寄せ、すでに何もかもいっぱいいっぱいだったのに、さらにどうでもいいと突き放され怒られ、もう心は限界を超えていた。
どうしてこんなことを言われなきゃいけないんだろう。
わたしが一体、何をしたって言うんだ。
「おまえは文句を言わずに大人しくぼくのそばにいろ」
いいな、とキュウは念を押すように言った。
突き刺すような視線がわたしに向けられていた。
真夜中の道路をトラックが走り抜けていくエンジン音が聞こえる。
「よく、ない……」
「なんだと?」
「全然よくないよ! そっちはちょっと面倒なだけじゃん。わたしの気持ちももっと考えてよ。こっちは生きるか死ぬかって言われて、わけわかんないことになってて、頭で理解はしてても気持ちは全然追いついてないんだよ」
叫ぶと同時に一気に涙が溢れた。もう言葉にならず、閉じた唇からは嗚咽が漏れ、もう声を我慢することも諦めた。
情緒がおかしくなっているのだろうか、自分でも驚くくらい大声を上げて泣いてしまった。
これからどうなるのか不安しかない。
唯一頼れそうな人はわたしの味方じゃない。
怖い。助けてほしい。教えてほしい。誰でもいいから大丈夫だって言ってほしい。
お母さんから自立しようとして、恭弥を突っぱねて、ひとりでも大丈夫だと思っていたくせに。
本当にひとりになって、もう誰にも会えなくなるかもしれないと思ったら、こんなにも心細くなるなんて。
「わかった」
しゃくり上げながらキュウを見た。
涙の膜の向こうから冷たい視線が突き刺さる。
「なら、おまえはもうここに置いていく。好きにしろ」
「え……は?」
「だがおまえの担当はぼくと決まっている。ぼくがいなければおまえは生き返ることになってもそれを知ることなく、元の体に戻ることもできない。ずっとそのままだ」
「な、え、何それ」
「おまえがぼくと行くことを拒否するのだから仕方ないだろう。ぼくはきちんとおまえの面倒を見るつもりがあるのに、おまえにそのつもりがないのだから」
「そんな……」
最低だ。どう足掻いてもこいつはわたしの思いに寄り添う気なんてない。
自分の言うとおりにさせるか、わたしを見捨てるかの二択しか頭にないんだ。
「じゃあな」
不安と恐怖の中に、今度はふつふつと怒りが湧いた。
こんな奴と一緒になんていたくない。従いたくもない。
でも。
「ちょっと、待ってよ」
「なんだ?」
「言うとおりにするから、置いてかないで」
小さな声でそう答えた。キュウは能面みたいな表情に戻り、
「最初からそう言えばいい」
と、わたしから視線を逸らした。
ぎゅっと唇を結ぶ。
こんな嫌な奴の言うことは聞きたくない。もっと落ち着いて考える時間が欲しいし、わたしに優しくしてほしい。
こんな事態に陥って、冷静でいられるほうがおかしいのに、どうしてわたしが我慢して言うことを聞かなければいけないのだろう。
だけど、たとえそばにいるのがこいつだとしても、今ひとりになるのはもっと嫌だった。
それに、キュウに吐き散らかしたところで無駄だということもわかっていた。
たぶん、結局はキュウもわたしと同じなのだ。
決められた何かを受け入れ、従うしかない。
わたしにもキュウにも、最初から選べる選択肢なんてなかった。
「……」
ずずっと鼻をすすり涙を雑に拭う。
キュウも大変なんだと思うことにしよう。
だとしても、もう少し思いやりを持って接してくれてもいいんじゃないかとは思うし、やっぱり腹は立つけれど。
「あんたって性格悪いね」
丸い後頭部に向かって、ヤケクソ気味にそう言った。
振り返ったキュウは、不思議そうに眉を寄せていた。
「そんなこと初めて言われた」
こいつの周囲にはよほど優しい人しかいないか、もしくは友達がひとりもいないのだろう。わたしの予想としては、後者だと思う。
キュウは地面に向かって降りていく。
こっちに声をかけもしない勝手さに、わたしはこいつに友達がいないことを確信する。
慣れない空中への恐怖を押し殺しながら、適当にじたばたと空気を掻いて、なんとか地上に降り立った。
すぐ脇にあったコンビニを覗き込み時計を確認すると、四時前を示していた。わたしが事故に遭ってから随分時間が経っていたみたいだ。
いつもなら寝ている時間だけれど、病院で眠っていたからか、それともこの体のせいか、眠気は少しも感じなかった。
ふと、道路に立つカーブミラーを見上げる。
街灯に照らされた場所に、わたしの姿は映っていなかった。影のひとつもない。
「……」
もう散々実感していたけれど、改めて今の自分がどれだけ心許ないものであるかを目の当たりにし、ぞっとした。
今のわたしは透明な存在……いや、存在していない存在なのだ。
もしかすると、このまま体に戻ることなく、簡単に消えてしまうんじゃないだろうか。
そう考えて、慌ててぶんぶんと首を振る。
悪いほうに考えると本当にそうなってしまいそうだ。
わたしはまだ死んではいない。ちゃんとこの世に存在している。
今はちょっと中身だけが出かけているだけで、キュウと一緒にいさえすれば必ず元に戻れるはずだ。
自分の体に……お母さんや恭弥のいる、いつもの日々に。
だから大丈夫。心配することなんてない。
「ねえ、キュウの仕事って何?」
頭の中の考えを振り払うように、少し離れたところに立つキュウに声をかける。
キュウは、さっき持っていた古びた手帳をもう一度開いていた。書き込むことはなく、そこに記してあることを確認しているようだ。
「死んだ魂を還るべき場所へ導くこと。わかりやすく言えば、成仏させることだ」
キュウが手帳に目をやったまま答える。
「おまえも何事もなく死んでいれば、そのうちぼくが迎えに行く予定だった」
「何事もなくって……死んでる時点で大事だけど」
「あとは、魂が抱いている未練を解消させることも、ぼくらの仕事のひとつ」
手帳を閉じ、キュウはわたしに振り向いた。
「未練?」
「まあ、多少の心残りならない者のほうがいないから、大抵はそのまま成仏させるんだが。中には強い未練を残し、この世から動くことができない者もいる。そういった者には、この世から離れていけるよう手を貸さなければいけない」
そう言うと、キュウは街灯の少ない道をどこかに向かって歩き出す。
「どこ行くの?」
「次の仕事の場へ」
「……だったら、病院にいたほうがいいんじゃないの?」
自分もそこにいる手前、口にはしづらかったけれど、病院で亡くなる人が多いのは事実だ。
「病院にはほとんど用はない。死んだ直後に導くわけじゃないから、迎えに行く頃には大体の魂は縁のある場所に戻っている」
「へえ……そういうものなんだ」
「葬儀が行われる者はそれを終えてから。基本は四十九日を迎える前に成仏させる。四十九日を過ぎてしまうと、いわゆる地縛霊と言われるようなものになって、成仏させられなくなってしまうこともある」
だから仕事を遅らせることはできないとキュウは言う。
わたしは背後の建物を振り返った。肩越しに見る真夜中の病院は、なんだか妙に寂しげに見える。
自分の体があそこにいるからだろうか。
寂しそうだなんて思うのは、たぶんわたし自身が後ろ髪を引かれているからだ。
「日野青葉、早く来い」
まだ聞き慣れない声がわたしを呼ぶ。
わたしは一度唇を噛んでから、病院に背を向け、走ってキュウを追いかけた。