これこそが、フォンの真の切り札である。
 証拠を出せと、なければ認めないとクラークが反論するくらいの抵抗はフォンも読んでいた。そこで、彼の事情を知る、しかも勇者についても詳しい人物を連れてきたのだ。
 アンジェラも彼女については知っていたようだが、クラークの正体までは前日まで聞かされていなかったようである。だからだろうか、腰に手を当てて頬を膨らませているのは。

「まったく、フォン、騎士使いが荒いわよ。まさかいきなりこんなお婆さんを私のところまで連れてきて、決闘の日まで匿ってくれなんて言い出すなんて!」
「それは済まなかった。けど、僕の言う通りにしてくれたのは感謝してるよ」
「お礼もいいけど、形で感謝を伝えてくれないとね。一日買い物に付き合ってもらわなくちゃ、割が合わないわ! 王都まで連れてくから、覚悟しなさいね?」
「お手柔らかに頼むよ、アンジー」

 さらりとデートの約束を取り付けたアンジェラに、フォンは流すように微笑む。
 一方で、汗と震えを隠そうともしないクラークは、絶望した声で問うしかなかった。

「……どう、やって……?」

 彼の心底の疑問は、フォンからすれば簡単なものだった。

「どうやって今日までに長老さんをここまで連れてきたか、かい? 確かに僕が担いでここまで運べば、来る時よりもっと時間がかかっただろうね。けど、僕には心強い味方がいる」

 フォンが空を指差すと、ミハエルがぐるぐると輪を描きながら飛んでいた。彼はそのまま説明を続けたが、目を見開いたクラークにもからくりが見抜けた。

「ミハエルの背に乗せれば、三日で届けるなんて簡単だ。あとはアンジーが言った通り、君にも自警団にもばれないようにこっそり隠してもらっていたんだよ」

 成程、と誰もが口にしそうになったが、ゆっくりと長老らしい女性に歩み寄るフォンを見て、口を噤んだ。彼女が齎す真実と結論を聞かねばならない、ギルディアに住まって勇者問い続けた者達の義務であると確信していたからだ。
 ふがふがと歯を鳴らす老婆に、フォンは問いかけた。

「さて、長老さん。この男に見覚えはありますか? どこの誰か、ご存じですか?」

 長老はじっとクラークを見つめた。
 長く伸びた髪、数年間でやや変わった顔つきのせいか、彼女は何度か首を傾げた。クラークはただひたすら、薬物で一部が変貌した自分の正体がばれないよう祈った。
 たっぷりと時間をかけた末に、長老は皺だらけの口を開き、言った。

「……あー……クラーク、だねえ……勇者ガルシィの、付き人……だねえ」

 ざわざわと、静寂が騒音へと変ってゆく。

「間違いないですか? 彼は勇者ではありませんか?」
「……違うよ……この子は……証がない、ものさ……」

 果たして長老は、真実を語った。
 クラークは勇者ではなく、勇者の付き人。証は生まれた時にはなく、どこかでつけたただの傷痕。つまり彼は、力を除けば――ただの人間である。
 いや、犯罪者である点を加味すれば、凡人よりもたちが悪い。
 勇者だからこそ許されてきたことがある。勇者だから大目に見られていたことも、勇者だから賄賂の話に乗っていたことも、勇者だから体を許していたことも、街の人々にはある。ならば、勇者の称号が剥がれた男に対する答えとは、何なのか。

「――この大嘘つき!」

 一人の男が投げ捨てた木皿と大声で、彼等の憤怒は決壊した。
 フォンの、アンジェラの、長老の頭を跳び越えて物と怒号が飛び交った。いずれも俯いてしまったクラークに向けて投げつけられ、中にはトマトや石をぶつける者もいる。

「お前、今まで俺達をずっと騙してたのか! 勇者だなんて大法螺吹きやがって!」
「証を見せつけて俺の女を寝取ったろ! 証が嘘だなんざ、ふざけんな!」
「そういえばうちの店でもツケばかりだね! 勇者だからって大目に見てたけど、もう勘弁ならないよ! 決闘が終わったら全額払ってもらうからね!」

 街にいるほぼ全ての住民からの罵詈雑言。

「組合長である私まで騙していたのか! 恥を知れ!」

 ずっと味方だったはずのウォンディまでもが、スモモの白い目を無視して罵っている。

「ゴミ野郎!」
「ペテン師!」
「田舎に帰れ!」

 止まる様子のない暴言の雨霰。
 果物や野菜のクズで汚れ、言葉のナイフを刺され、クラークは屈辱に耐えるばかり。掌返しにも思えるこれらの仕打ちは、逆に言えば、彼がどれほど勇者であることを盾にギルディアで好き勝手に生き続けたかを示している。

「この掌返しも、ちょっと怖いけど……ま、自業自得かな」

 だから、傍から彼の様子を眺めるクロエも、同情はしなかった。
 一頻り罵倒が終わり、ゴミと汚れ塗れになったクラークの前へと来たフォンもまた、同情はしていなかった。ただ静かに、必要な事柄だけを聞いた。

「どうする、クラーク? 負けを認めるしか、道は残されていないと思うが?」

 最早、勝敗は決まったも同然である。
 腕を折られ、街には味方もいない。本性も暴かれ、全ての立場が立ち消えとなった。ギルディアにおいて、クラークに未来はない。ならば、大人しく負けを認めるのが道理だ。
 そう、普通ならば。

「…………いいや、道はあるぜ。『覚醒蝕薬』がある限りな」

 にやりと笑いながら、涙を目一杯に浮かべたクラークは、もう普通ではなかった。
 左手の動きに気付かなかったフォンも、瞬時に油断を反省して動き出そうとしたが、全てが遅かった。失うものがなくなった人間の恐ろしさを、彼はこの場で知った。
 何とクラークは、左掌に山のように積んだ『覚醒蝕薬』を、全て口に押し込んだのだ。

「こいつ、まさか! ありったけ全部の薬を!?」
「よせ、クラーク!」

 フォンの制止も、アンジェラの警告も意味はなかった。
 どれだけの吸引力か、クラークは何粒もの『覚醒蝕薬』を悉く呑み込んでしまった。フォンが背後に回り、吐き出させるべく背中を叩くよりも先に、勇者の体が痙攣し始めた。
 サラ、ジャスミン、パトリスとは明らかに違う変化。彼の足元でだけ地震が起きているかのような異常な光景を目の当たりにして、観客達の間にも動揺が広がってゆく。
 彼らのうち数名が、クラークの警告も無視して逃げ出すそぶりを見せ始めた頃には、既に彼にも変化が起こっていた。筋肉が膨れ上がり、背がどんどん高くなる。折れたはずの右腕が大木ほど太くなり、ズボンが破けるほど足も肥大化する。
 口元には牙が生え揃い、肌の色は赤黒く染まる。瞳は人間のそれよりも倍近く大きくなり、髪はいよいよ萎れた木のように長く粗雑に伸びてゆく。

「そうだ、最初からこうすればよかったんだよ! 話なんて聞いてやる必要はなかった、初めから全部ぶち壊してやれば俺の思い通りだ!」

 それでも、金色の波動は彼を覆い続けたままだ。彼の体躯からすればナイフほどの大きさにしか見えない剣を再び拾い上げると、波動を纏わせ、天高く突き付ける。

「俺は勇者のままだったんだ、ア、アァ――」

 誰も止められない。人間の姿を捨てた勇者の振るった剣は、僅かな沈黙の後。

「――ギャーハハハハハハアアアァァッ!」

 絶叫にも似た笑いと共に、広場に衝撃波を炸裂させた。
 観客席、司会席、診療所を問わず、彼の齎す破壊は等しく与えられた。