フォンの静かな笑顔。お節介なクロエの微笑み。カレンの満面の笑み。

(なんで、あいつらの顔を思い出す?)

 死に直面している最中に浮かんだ面々に、サーシャは自ら疑問を呈した。
 全てがスローモーションに感じ、足もまだ彼女を潰していない。ただ、サーシャは己の謎を解くのに頭がいっぱいで、圧死に対する恐れなどまるでない。思い浮かぶのはひたすらに、彼らと過ごした何でもない日々のワンシーン。
 どうしてだろうか。孤独な戦士である自分が、どうして死の間際に彼らを想うのか。

(サーシャ、いつも一人。あいつらとは目的が同じだけ。勝つのも、一族の誇りの為――)

 彼女は勝つ為に来た。サラとの因縁の決着をつける、一族の掟に従うべく。

(……どうして、勝つ? 誰の為に、勝つ?)

 ――いつからか。いつから、一族の掟を忘れていたのか。
 ――違う。忘れていたのではない。掟よりも大事なものを、見出していた。

(違う、分かってる。サーシャ、一人じゃない。勝つのも、サーシャの為じゃない)

 フォン、クロエ、カレン。ついでに、おまけ程度に、アンジェラ。
 自分一人ならば、ここで決着を付けようとも考えなかった。死に恐れを抱かなかったし、誰かへの侮辱で怒りを燃え上がらせなかった。何より、己の死が齎す悲しみを知らなかった。

(ここで死ぬ、あいつら、泣く。そうなったら、辛い)

 血に濡れた顔が、瞳が、虚空を見つめるのを止める。代わりに、迫る足を睨む。
 自分はまだ死んでいない。敗北もしていない。そのいずれも許されない。

(サーシャ、死ねない、負けられない――ッ!)

 掟でも何でもなく、仲間の為に、勝つ。
 心に浮いているばかりの意志が糸で繋がり、サーシャの目が闘志に覚醒した時、彼女の体はサラが足を踏み下ろすよりも速く――人間の思考を超越して動いた。
 足がサーシャの頭を粉々に砕くよりも先に、彼女は折れた方の腕を振るい、今まさに超速で人を殺そうとしていた者の脛を打ち抜いた。

「……えっ?」

 折れた腕。しかし、凄まじい速度。サラのみならず、観客すらも押し黙る、衝撃。
 思考を超え、反射のみで殴り抜いたサーシャの拳は、自らの指諸共サラの脛をへし折った。

「あ、え、な、なんでええええぇぇぇッ!?」

 骨が飛び出た脛を凝視するサラは、思わず後方に倒れ込んだ。いかに薬物で眼球が飛び出るほど高揚しているとしても、痛みは感じる。いや、あらゆる身体能力が過敏なほど強化されている今は、余計に激痛として刺激されているのかもしれない。
 喉が裂けるほど叫ぶサラの醜態に、残虐な観客が再び沸き上がった。
 クラーク達はというと、状況が未だに呑み込めていなかった。ついさっきまでサーシャを始末できる一歩手前までいったというのに、どうしてこうなったのかが分からない。

「ど、どうなってんだ!? なんで踏み潰したサラの足がへし折れてんだ!?」

 戸惑うクラークへの返答ではないが、反対側のフォンは彼女の攻撃を見抜いていた。

「踏みつけをかわして、残った拳で脛の骨を砕いたんだ……けど、あれだけ負傷したサーシャが、どうしてあそこまで動けるんだ!?」

 フォンの見立てでは、サーシャはほぼ動けない。だが、仲間達は応援を優先する。

「何だか知らんがとにかく良しでござるよ、師匠!」
「いけええぇーッ! サーシャ、ぶちかませええぇーッ!」

 仲間の復活に目が血走るほど熱く煮えたぎったクロエとカレンの声援が、サラの耳に飛び込んでくる。喧しいと怒鳴ってやりたいが、鋭く鈍く、凄まじい痛みだけが脳を支配する。

「あっ、あぎ、足、足があぁ!」
「馬鹿野郎、立て、立ちやがれ! あともうちょっと殴ってやれば死ぬんだ、反撃しろ!」

 じたばたともがくサラに対し、投げかけられたのは残酷な言葉。
 脛を破壊された当の本人でもないのに無責任な、とサラは怒り散らしたかったが、サーシャに意識を向け直さなければいけないのも事実だ。そういう意味では、クラークの助言は正しいともいえる。

「分かってらあ、今度こそ確実に……あれ?」

 ただ、まだ起き上がらない、起き上がれないサラにとっては、最早手遅れだった。
 上体すら半分も起こせていないサラの正面に、陽を背に浴びるサーシャが立っていた。

「……なんで、なんでまだ意識があるんだよ、この女は……!」

 心底ぞっとした。こいつは、人間ではないとサラは確信した。
 逆光のせいで真っ黒に染まった体と顔、滴る血の量、爛々と光る真紅の瞳がサラを捉えた時、獣の如く開いた口から、掠れた言葉だけが漏れ出してきた。

「…………サーシャ、負けない」
「つべこべ言ってねえで死んでろ――おぼごぁああぁッ!」

 辛うじて反論し、強がったサラだが、余計なことを言う前に逃げるべきだった。
 超強化されたはずの彼女の目ですら追えない速度で、サーシャのストンピングが、彼女の残った足を踏み抜いたからだ。普段の彼女の力ではない――意識を超越した、ただ執念のみが生み出した怪力によって。
 赤黒い肌が破れ、筋肉が露出し、骨が飛び出る。グロテスクな光景に叫ぶ観客の声が示す通り、奇怪な方向に曲がった両足は、もう彼女から動く手段を失ったと言っていた。

「骨、ほ、骨がぁ!? 見えでる、出でる、骨、やべえよ、やべえよぉ!?」

 狂いそうなほど痛い。喉が潰れるくらい叫ばないと、正気を失う。

「ふっ、ふざけ、ふざけんなああああ! あたしがずっと有利だったろうが、優勢だったろうが! どうして逆転されるんだ、おかしいだろ、おかしいぶぎゅえッ!?」

 そんな無駄な雄叫びを封じるべく、サーシャは彼女が振り回していた右腕を殴り潰した。
 悶え苦しみ、吐瀉物と唾液の混合物を撒き散らしながら喚くサラ。追い詰められてはいるが、サーシャもすでに限界を迎えようとしているのか、ふらふらとサラの上に跨る。
 ただし、今は決して気絶しない。死にもしない。最後の一撃を、叩き込むまでは。

「サーシャ……これ以上……殴らない、あと、一発……だけ……」
「あ、ああ、あああ、あひいいぃぃ……!」

 サラの顔が恐怖に歪む。薬物による覚醒の強さなど、忘却の彼方に押しやられる。
 小指から順に折り曲げ、握りこぶしを作ったサーシャはサラの顔の横に掌をあてがい、太陽に届くほど高く、高く拳を振り上げ――。

「――フォン、サーシャ、勝ったぞ」

 口元に笑みを浮かべ、先程のサラのように、とどめの一撃を顔面目掛けて振り下ろした。
 誰にも邪魔されない、誰も止められない、ありったけの力を込めた拳。

「あああああああああああんぶッ」

 それは果たして、サラの顔面に直撃した。
 鼻、目玉、唇、全てがめり込んだ。血は噴き出しこそしなかったが、手足が大きく震え、力なく垂れ下がった姿こそが、サラが再起不能になった証拠でもあった。
 しかし、サーシャも同様だった。拳で顔を破壊したまま、動かなかった。

「……どう、なったの……?」

 クロエが息を呑む。フォンですら、戦いの良く先を見守ることしかできない。

『両者動きが止まりました! 私が状況を確認します、救護班も急いでください!』

 広場を静寂が包む中、スモモがタープの下から飛び出し、動かなくなった二人に駆け寄る。特設診療所からも白衣の男女が何人かやってきて、状況を確認する。
 どうなるのか、どうなってしまうのか。双方のパーティが不安そうに見守っていると、スモモはサーシャの顔を見て頷き、サラの顔を見て顔を顰め、その場で宣言した。

『……クラークパーティのサラ、顔面陥没により再起不能! フォンパーティのサーシャ、出血多量に伴う意識喪失! よって――』

 どちらも戦えないのであれば、尚且つ同時に動けなくなったとすれば、答えは一つである。

『この試合は、引き分けとなります!』

 第一試合は、勝ちでも――負けでもない。
 引き分けの宣言がなされた途端、会場に歓喜とブーイング、二つの轟声が鳴り響いた。