『――おやすみ、ハク』

 ハクとの念話を切り、砂のベットに寝転ぶ。
 大きく伸びをして、目を閉じた。
 明日、ダンジョンボスのレッドソードキングを俺ひとりで討伐する。
 不安がないわけではない。それ以上にとても楽しみで仕方がない。考えただけでソワソワする。
 遠足前の子供のようだと頬が緩む。
 この数週間のダンジョン生活で、大きく成長した確信が、いまの自信に繋がっている。
 そろそろ身体を休めないと。
 独り寝の権利を得るために、ヴィリー叔父さんを説得した苦労が無駄になる。
 興奮状態の身体を整えるために、深く息を吐き、瞑想の準備に入ろうとすると、外から声がした。

「ジークベルト様、少しよろしいですか」
「その声は、ディア?」

 遠慮がちな声の主にあたりをつけ、砂の扉を開けると、マントを羽織ったディアーナ王女が立っていた。
 周囲に護衛や侍女のエマもいない。どうやら魔テントから抜け出してきたようだ。

「お疲れのところ申し訳ございません。明日は最下層、二人でお話がしたくて参りました」

 大きな金の瞳が、不安気に揺れまつ毛が影を作る。
 その様子から、緊張しているのが伺えた。

「エマたちには?」

 俺の問いかけに、王女は軽く首を振ると「二人でお話がしたくて」と、金の瞳がまっすぐ俺を見た。
 視線が絡み合う。
 ほんの数秒、先に視線を外した俺は、二人で話せる場所を『地図』を起動し探す。
 近くの砂山に見当をつけ、魔物が周辺にいないこと、半径一キロ以内に魔物が出現するとアラームが鳴る設定をした。
 叔父は俺たちの位置を把握できるので、少し離れた場所でも問題ないはずだ。
 子供とはいえ、密室に二人はまずい。
 敗者に言えた義理ではないが、王女の纏う雰囲気が、色気が、可愛さが、大人の女性なんです。
 額に冷や汗を掻きつつ、王女を誘う。

「近くの砂山に行こうか?」
「はい!」

 さきほどの雰囲気と一変した元気な返事に、心の中で苦笑いしつつ、王女に手を差し出す。
 戸惑うこともない小さな手が、俺の手に重なり、二つの影が砂山に向かって歩き出した。
 頭上には、二つの月『朱月』『蒼月』が、幻想的に揺れて見えた。



 ***



「よし着いた。ディア足元に気をつけて」
「はぃ……」

 頬が赤い王女を腕から降ろす。
 小さく返事をした王女は恥ずかしいのか目線を下げた。
 俺もつい勢いで、やってしまったのだが、そもそも王女が悪いと思う。
 普段被っているフードを今日は被っていなかった。
 王女が歩く度に、白い耳がピクピクと俺を誘うように至近距離で揺れるのだ。
 しかも、話の途中で黙ってしまった俺に「ジークベルト様?」と小首を傾げる仕草が小悪魔すぎた。
 俺の触りたい欲望が、我慢の限界を超え「失礼」と王女の肩と足に手を入れ抱き上げていた。
 所謂、お姫様抱っこだ。
 俺の行動に「えっえー!!」と、王女らしからぬ声を出して慌てている彼女の反応を無視して『倍速』を使用して、一気に砂山をかけ登った。
 いま考えれば、お姫様抱っこも耳モフモフと同じぐらいダメな行動だったが、もう手遅れだ。
 まだ動揺している王女を尻目に、『土塊』で、座るスペースを作製する。

「まぁ、これぐらいかな」

 そこそこの出来栄えに満足して、椅子に布を被せ、王女を椅子に招く。

「ジークベルト様は、やはりすごいお方ですね」

 椅子に腰をかけた王女が、椅子の感触を確かめながら感心した様子で話す。

「わたくしと同じ年なのに、魔法だけではなく、博識で礼儀や作法も完璧。何より気配りが素晴らしいです」
「博識かどうかは別として、礼儀や作法と気配りは、侍女のおかげだよ」
「侍女ですか?」

 意外な答えだったのか、王女が興味深そうな目を俺に向けた。

「うん。我が家の侍女長のアンナがスパルタで、物心がつくかつかない頃から叩き込まれたからね。自然と身についたんだ」
「そうなのですね」
「うん。感謝しているよ。だけど少しは手加減してほしいかな」

 俺が、おどけたように肩をすくめると、王女から「うふふ」と笑い声が聞こえる。
 うん。美少女の笑顔は癒されます。
 そこから緊張の糸がほぐれたようで、他愛無い会話が続き、お互いの家族の話にまで至った。

 エスタニア王国には、国王と正妃の他、側室が二名いる。
 王子が三名、王女が三名おり、ディアーナ王女は、正妃の第二子、六兄姉の末っ子で、王位継承権がある。
 王位継承権、第一は、正妃の第一子でディアーナ王女の兄である王太子の三男。
 次いで長男が第一側室の子で、次男が第二側室の子で三番となり、ディアーナ王女が四番目となるそうだ。
 正妃の子以外の女児には、王位継承権は与えられないため、三姉妹は争うことなく仲が良く、お茶会を開催しては、兄王子たちの悪口を言いあっているそうだ。
 だが、国王が病に倒れてから、継承争いが火種しているという。
 王太子が成人していないこともあり、兄弟間での衝突もあるそうだ。
 今回のダンジョン転移も、おそらくこれが関わっているのではないかと、肩を落とした。
 深刻な内容に言葉を詰まらしていると、王女の雰囲気が一変した。

「あらためて、エスタニア王国第三王女ディアーナ・フォン・エスタニアとして感謝いたします。わたくしたちだけでは、このダンジョンは踏破できませんでした。このご恩は一生忘れません。ディアーナ・フォン・エスタニアとして、ジークベルト様に何かあれば必ず尽力いたします。――捧げます。ジークベルト様、ありがとうございました」

 王女は立ち上がると、俺に深く頭を垂れ、洗練されたカーテシーをした。
 その美しさと品位に圧倒され、最後の感謝の前の言葉を正確に聞き取れなかった。
 なにを捧げるんだ?
 王女も意識してかその部分だけ、早口だったような……。
 思い出そうとして、はっと気づく。
 先に返事をしないと、マナー違反になる。
 スパルタ教育のアンナの怒った顔が横切り、考える暇もなく、王女の前に膝まつき手を取ってそれに答えた。

「ジークベルト・フォン・アーベル、ディアーナ・フォン・エスタニア様の感謝の言葉、御意に受け入れます」

 俺の言葉を受け、王女が顔を上げ、破顔する。
 その顔は、もう可愛いのなんのって。
 王女が勢いそのまま俺に抱きついた。俺は王女を支え、抱きしめ返す。

「ジークベルト様、わたくし嬉しいです」

 感極まった王女の声が聞こえ、さきほどの疑問を俺はすっかり忘れた。
 あとで、王女の言葉の意味を知ることになる。
 うん。事前の確認は大事です。


 最下層には、小さな広場があり、その奥に天井まである大きな扉があった。

「ヴィリー叔父さん、これがボス部屋の入口?」

 扉の大きさに圧倒されつつ、俺は隣にいる叔父に声をかけた。

「そうだよ。なかなか立派だろ。最下層はボスしかいないからね」
「? だとしたら、この広場で、野営をすればよかったのではないですか?」

 俺が不思議そうに問うと、叔父の眉が少し下がる。

「それがね、ボス階層で野営をすると必ず別階層に転移されるという摩訶不思議な現象が起きるのだよ」
「それは……また厄介ですね」
「ほんとうにね。さてジークの心の準備ができたら行こうか。そろそろ屋敷にも帰宅したいしね」
「はい」

 叔父の言葉に同意すると、なぜか王女が心配顔で問う。

「ジークベルト様、お一人で戦闘されるのですか?」
「うん」

 俺がそれに頷くと、叔父が補足する。

「Bランクだからね、ジークだけでも大丈夫だよ」
「ですが……危なくはございませんか? ジークベルト様がお強いのは認識しております。ダンジョンボスですし、ここは協力して倒したほうがよろしいのではないでしょうか?」

 王女の意見はもっともで、安全や効率を考えても正しい。
 でも、叔父がその考えを直すことはない。
 俺ひとりでBランクの討伐ができると『赤の魔術師』である叔父が言っているのだ。
 不安気に揺れる瞳に、力強い声の援護がはいる。

「姫様、ご心配なさらずとも、ジークベルト殿の身に何かあれば、私やアーベル殿が助けに入ります。まぁジークベルト殿は、助けなどもいらないでしょうがな」

 伯爵は大声で笑いながら俺の肩をバンバンと叩く。
 痛い痛い痛い。
「痛いです。魔物討伐前に弱らせてどうするんです」と、手加減なく叩かれた俺は涙目で伯爵に訴えた。
「これは、失敬しましたな」と、高らかな伯爵の声が響く。
 王女はそのやりとりから大丈夫なのだと判断したようで、さきほど見せた不安気な様子から一転して、クスクスと静かに微笑んでいた。


 ***


 ボス部屋の扉の前に立ち、大きく深呼吸をする。
 俺の緊張が伝わったのか、周囲も静観して見守ってくれる。
「よし!」と気合いを入れ、目の前の扉を押す。
 ギッギギギーと、ゆっくり扉が開いていく。
 完全に開いた扉の先には、大きな広間があり、その中央にレッドソードキングが立っていた。
 その佇まいに、ゴクリっと喉が鳴る。
 さすがダンジョンボス。同じBランクの魔物と違い迫力があり、別格であることがわかる。
 先手必勝。
 黒い剣を右手に『狂風』を放ち『倍速』で、レッドソードキングに切りつけた。
 キンっと、小高い剣と剣がぶつかる音が聞こえると共に、俺は後方に吹き飛ばされ、ズズズッーと膝をつきながら着地した。
 やはり攻撃力が違いすぎる。力負けしてしまった。『守り』の魔法を展開していてよかったと、冷や汗をかいた。
 一方、レッドソードキングは『狂風』の影響で、身体中に切り傷ができていた。身に着けている鎧も所々穴が空いている。
 初手の攻撃が、効いている。

 倒せる。

 手応えを感じた俺は、すぐさま黒い剣に『熱火』を施す。
 黒い剣が真っ赤に燃え、一振りすると直線状上に火が舞った。
 よし! 計算通り!!
 再度『倍速』で、レッドソードキングの後方に動き、間近で剣を振る。鎧に火が舞う。
 驚いたレッドソードキングが、火を払いのけようと奮闘するが、なかなか鎮火しない。その隙に正面へ移動し、懐めがけて乱突きをする。
 慌てたレッドソードキングは、体制を立て直せないまま、剣で防御しようとするが、遅すぎた。
 黒い剣は確実に鎧の穴ができたレッドソードキングの急所を刺した。
「グッ(やるな)」と、レッドソードキングがもらす。
 しかし、急所を刺したはずのレッドソードキングは、ドロップ品に変わらない。
 まだだめかと、ザッーと後ろに下がり、レッドソードキングとの距離をとる。
 黒い剣に集中し『疾風』を施すと、剣の周りに風が舞う。
 レッドソードキングは俺の行動を警戒してか、剣を正面に構えたまま動かずにいる。
 急所に狙いを定め、地面を蹴り剣を突く。
 俺の動きに合わせレッドソードキングも剣を動かすが、僅かばかりか反応が遅い。
 剣先がレッドソードキングの剣にあたるも周りの風に防御され、レッドソードキングの剣が宙に舞う。
 無防備なレッドソードキングの急所に、先ほどよりも深く黒い剣を突き刺した。
 すると白い光がレッドソードキングを包み、赤い大きなルビーへと変わる。
 それと同時にアナウンスが流れる。


 **********************

 剣スキル・魔法剣スキルを取得しました

 **********************


 俺は「よっしゃーー!!」と声を上げ、ガッツポーズをする。
 待望の剣スキルを取得できた。
 よくやったよ、俺!



 レッドソードキングを倒した喜びと、念願だった剣スキルが獲得できた感動に身体が打ち震えていると、可愛らしい声が聞こえた。

「「ジークベルト様!」」

 王女とエマだ。
 二人は仲良く嬉しそうに俺にかけよると、俺を褒めたてた。
 恥ず嬉しい言葉の羅列を素直に受け止めていると、後ろからポンポンと優しく頭をなでられる。

「ジーク、いい戦闘だったよ」
「ヴィリー叔父さん! 剣スキルを取得できました! ついでに魔法剣スキルも取得してました!」

 その声に俺は勢いよく振り向き、叔父に興奮して話しかけた。
「それはよかったね!」と、叔父が満面の笑みで、さらに褒めてくれる。
 普段でも俺に甘々の叔父だが、手放しで喜ぶその姿が、強さを認められていると感じ、それが嬉しくて俺は破顔した。
 また伯爵が「魔法剣スキルがついでとは、恐れ入りましたな」と、カミルが「おまえ、すごいな!」と賞賛してくれた。
 いつの間にか俺の周りに、皆が集まっていた。
 そして絶妙なタイミングで、前方が光だし、階層スポットが現れた。

「これで帰れますね」

 王女が嬉しそうに、少しだけ寂しそうに呟いた。
 その呟きに「そうだね」と同意したところで、ゴトッと『黒い玉』が、俺たちの方へ転がってきた。
 叔父が反射的に『微風』で黒い玉を遠ざけるが、『黒い玉』は割れることもなくヒビさえ入らず、黒い霧を発するとその上に魔法陣を浮かべた。

「あの魔法陣は、召喚魔法! 誰かが干渉しているみたいだね。よほどダンジョンから出したくないようだ。心あたりは……あるんだね」

 叔父の言葉に伯爵が神妙な面持ちで応えた。

「数人いますな」
「そうですか。エスタニア王国の事情に私たちを巻き込むのはやめてほしいですが、先方は敵を選んでいるわけでもないようですしね」
「申し訳ないですな」

 二人の視線が絡む。
 叔父が呆れたようにため息を吐くと、俺に指示をだした。

「ジーク、ここは私と伯爵に任せて、王女たちを守りなさい」

 叔父は指示をだすとすぐに、黒い霧の魔法陣から現れた五匹のデュラハンに、ゆっくり近づいていく。
 伯爵もそれに追従する。
 デュラハンは、Bランクの魔獣だ。
 魔獣は、魔物より上位に存在し、全体的なステータス値が魔物より上である。
 強力な魔法や攻撃もあり、知性もある。

「ディア、エマ、ぼくから離れないで『守り』」
「「はい」」

 二人を伴って、慎重に後方へ下がる。
 叔父は、誰かが干渉していると言っていた。
 この場に第三者がいるのか、遠隔で『黒い玉』を転移させたのか。
 それともこの中に裏切りものがいるのか……。
 俺が思案していると「グッ」と、男のこもった声がした。
 声のする方に視線を向けると、カミルの胸に女騎士の剣が刺さっていた。

「ダニエラ……どうしてっ……」
「………………死ねっ!」

 カミルの非難めいたまなざしとその言葉に返答することもなく、女騎士は感情を伴わない抑揚のない声でカミルに告げると、更に深く剣を刺した。
 後ろにいた王女たちが「ヒッ」と言葉を詰まらせる。
 幸い彼らと少し離れていたため、すぐに俺は行動に移せた。
 王女たちに向け『守り』の防御を展開し『倍速』で女騎士に近づき剣を振る。
 俺の動きを察した女騎士が、カミルから剣を抜くと素早い動きで離れていく。
 カミルは地面に倒れ、その周囲が赤く染まっていく。
 すぐさま「カミル!」とかけよるが、心臓あたりに深い刺し傷があり、意識はない。
 だが息はある。

『癒し』

 躊躇することなく、水魔法よりスキルレベルが高い光魔法を使う。
 人の命がかかっている。
 隠蔽している魔属性を使用することに、戸惑うことはない。
 いまできる最大限の力で、カミルに再度『癒し』をかけ『守り』の防御も施す。
 止血はできたが、余談を許さない状態だ。
 カミルのその姿に、心を決める。
 相当数の魔物を殺めてきた。
 一方的に殺されかけた経験もある。
 だけど、面と向かって、人と殺し合いをするのは初めてだ。
 人を殺めることに抵抗がないと言えば嘘になるが、やらなければやられる。
 覚悟を決め、剣先を女騎士に向ける。

「仕損じたか。赤の魔術師だけでも厄介なのに、こんなチビに邪魔されるなんて! 予定外もはなはだしい。あの方に申し開きができない……ちっ」

 女騎士は、髪を振りながら悔しそうに言うと、俺に背を向け走り出した。
 女騎士の予想外の動きに後れを取った俺は「逃がすか!」と『倍速』で女騎士に近づく。
 すると女騎士は懐から『黒い玉』を出し、俺に投げつけた。
 それを回避するが、黒い玉からは黒い霧が発生して、さきほどと同じく魔法陣が浮かび、黒い霧の中から魔獣が三匹現れた。
 高レベルの魔獣を召喚する魔道具を複数所持していたことに驚く。
 警戒して女騎士から距離をとると、その隙に女騎士は、階層スポットに手をあて消えた。


***


 女騎士が消えてからすぐ、叔父たちの加勢が入り、追加で現れた魔獣三匹は討伐された。
 その後すぐに判明したことだが、女騎士の名は偽名だった。
 正確に言えば、彼女ダニエルの姓が偽りだった。
 彼女の本来の名は、ダニエラ・マイヤーで平民だった。
 叔父は『鑑定』で把握していたが、貴族を装った偽名はよくあることなので、注視しなかったそうだ。
 だから『誓約魔書』は、名前ではなく血液での契約に変更していたのだ。

「偽名で契約しても効果がないからね」

 叔父の説明にほっと安堵する。
 これで俺の情報が外部に漏れることはないはずだ。
 たが女騎士が、俺を要注意人物として『あの方』に話す可能性はある。
 あの方がどのような人物かはわからないが、魔獣を召喚する魔道具を与えることができる『裏』との繋がりが深い人物であることがわかる。 今後の行動は注意しなければならない。

「さてドロップ品の回収もできたし、カミル殿の手当も簡易的ですが終わりましたよ。あとは地上で意識が戻るのを待ちましょう。地上に戻りますかね」
「そうですな……。すぐに帰国して確認することもありますしな」

 叔父の呼びかけに、伯爵が応える。
 伯爵の言葉は重い。
 本国内に王女の抹殺を考えている輩がいるのだ。
 しかも王女付き騎士として配属されたものがその手先だった。
 まぁダンジョンに転移された時点で、不穏だったのだけどね。
 狙われた王女も事の重大さに気づいており、神妙な顔で女騎士が消えた階層スポットを見つめている。

「ディア、いろいろと思うことはあるけど、今はただ前を向いて、伯爵を信じるんだ」
「ジークベルト様……」

 俺の励ましに、王女は俺のマントをギュッと握り、頷く。
 そばのエマも王女に近づき「姫様、私はおそばにいます」と王女の左手を握る。
 マントから手を離す様子がない王女に、これは大丈夫だよね? 不安な少女を応援しているのだと言いきかせ、そっと左手をマントを握っている右手に重ねた。
 ハッと俺に視線を向けた王女は、俺の手を強く握りかえした。

 その微笑ましい様子に、叔父と伯爵が静かに会話を交わしていた。

「王女って、婚約者いませんでしたよね」
「えぇ、ジークベルト殿は?」
「アーベル家は自由恋愛なんですよ」
「それはいい!」
「いろいろとあるようですが、ジークが選んだ相手ですしね。力になりましょう」
「有難い。感謝します」

 盛大な勘違いをされ、俺の知らないうちに外堀が埋められていく。
 そうとは知らない俺は、王女とエマ、三人横並びで、階層スポットへ向かい歩いていた。



 最下層の『階層スポット』に全員で手をかざす。
 白い光に包まれ、気づいたら小部屋に転移していた。
 小部屋の中は、魔法陣の上に設置された台座があり、台座には大きな丸い玉が置いてあった。
 俺たちはその台座の前に並んで転移していた。
 俺はダンジョンの外に転移すると思っていたため、拍子抜けした。
 物語とかでは、踏破したら外に転移して、周囲にダンジョン踏破したことがわかるような派手な演出があったりとか……。
 いや、あくまで物語だけど……。決して期待してたわけじゃないよ。

「なんだか不服そうな顔しているね」

 俺の反応を見ていた叔父が、若干笑いながら尋ねてきた。
 自分が子供じみた考えをもっていたことが、少し恥ずかしくて視線を外しながら、誤魔化すように答える。

「ダンジョンの外を想像していたんです」
「それは残念だったね」

 俺の返答に笑いながら返事をし、俺の頭をポンポンとなでる叔父。
 少しぐらい夢見たっていいじゃないか。
 俺の機嫌が急下降したのを感じとったのか、叔父がダンジョンの仕組みについて、詳しく説明してくれた。
 その説明のおかげで、ここが、ダンジョン入口付近にある『階層スポット』であることがわかった。

「さてお迎えもきたようだし、行こうか」

 叔父がそう言って小部屋の扉を開けた瞬間、白い物体が俺に向かって飛びついてきた。

「「ジークベルト様!!」」

 王女とエマの悲鳴に近い声と共に、俺はその白い物体と一緒に後方へ倒れ込んだ。

「ガウッ! ガウッ! ガウッ!(ジークベルト! ジークベルト! ジークベルト!)」

 その正体は、ハクだった。
 ハクが興奮して、俺の名前を呼び、抱きついたようだ。
 一緒に倒れてからは、顔中のいたる所を舐め回されている……。
 傍から見ると魔獣に襲われている少年に見えるだろうな……。
 俺は遠い目をして、うん。ハクが満足するまで耐えようと思った。
 10分ほどたち、ハクが周囲の生暖かい視線に気づいたようで、素早く俺の上から下りると、すぐそばで座る。
 俺はその様子を確認してから、起き上がるとハクに向けて手を伸ばし、ハクのふわふわの頭をなでる。

「ただいま。ハク」
「ガウッ!(おかえり!)」

 ハクが元気に返事をする。
 尻尾をパタパタと振り全身で喜びを表している。
 そして、もっとなでて欲しいのか俺の膝に頭を乗せ、咽喉を鳴らした。

「盛大な歓迎を受けたね」

 笑いながら叔父が近づき『洗浄』を俺にかけてくれた。
 ベタベタだった顔がさっぱりとする。
 その声を聞いたハクの耳がピクッと動き「ガウッ、ガウッガゥー(ヴィリバルト、ジークベルトを守ってくれてありがとう)」と、感謝の言葉を叔父に伝えている。
 なぜかハクと意思疎通ができる叔父が「大切な家族だから、当たり前のことだよ」と、ハクの頭をなでた。
 ハクの言葉に感動した俺は「ハク!」とふわふわの身体に抱きついた。
 俺の行動の意味を理解していないハクは、小首を傾げながら「ガウッ?(どうした?)」と俺を受け止めていた。
 そのハクの反応で、帰ってきたのだと安堵した。

「ジークベルト様? その魔獣は?」

 俺たちの様子を遠目で見ていた王女が、俺に声をかける。
 そしてエマと二人で、恐る恐る俺たちに近づいてきた。

「ハクだよ。ぼくの相棒なんだ。ハク、この子たちは一緒にダンジョンを踏破した。ディアーナとエマだよ」

 ハクは、二人が近づくと耳をピンと立て、はじめは警戒した様子をみせるが、俺が二人を紹介すると、たちまち尻尾を激しく振り喜んだ。

「ガウッ!(仲間!)」
「そうだよ。ディアもエマもいい子なんだ。きっとハクも仲良くできるよ」

 俺の言葉をうけ、王女がハクに挨拶をする。 

「はじめましてハク様、わたくしディアーナと申します」
「エマです」
「ガゥ!(ハクだ!)」

 続けてエマも挨拶をして、ハクたちが和みだした頃に、見慣れた赤い短髪の大柄な騎士が近づいてきた。

「ジークベルト、無事で何よりだ」
「父上!」
「積もる話もあるが、ここでは邪魔になる。宿をとってある。お嬢さんたちも一緒にな」

 父上は俺の頭に手をポンと置き、小部屋の扉にいる騎士たちに指示を出す。
 あれは父上が率いている第一騎士団の精鋭部隊だ。カミルは回収されたようで姿はもうなく、扉の前には伯爵が立っていた。
 俺は頷くと立ち上がり、扉に向かって歩む。その横にはハクが、後ろには王女とエマが続いた。


 その三人と一匹の姿を見たギルベルトが深く頷き、つぶやいた。

「ヴィリバルトの報告通りだな」
「兄さん、私を疑っていたんですか」

 心外ですと言わんばかりに、ヴィリバルトがわざとらしく肩をすくめた。
 ギルベルトは、弟のその仕草に眉を顰める。
 アーベル兄弟の日常がうかがえた。
 ギルベルトが言葉を発する前に、ジークベルトの弾んだ声が聞こえた。

「父上! ヴィリー叔父さん! 先に行きますよ」
「すぐに行くよ。行きますよ兄さん」
「あぁ」

 かわいい息子の声とヴィリバルトに促され、ギルベルトはその場を後にする。
 そして、静かに小部屋の扉が閉じられた。



 カタコト、カタコト――。
 規則正しい音を鳴らして、コアンの白い町並みを進む。
 馬車内では、叔父が父上に、俺とレッドソードキングの戦闘の様子を事細かに、そして大袈裟なほど俺を褒めて伝えていた。
 父上は、その一つ一つに相槌を打ち、表情は崩さないが、とても満足そうではある。
 横でそれを聞いている俺は、とても居心地が悪いんだけどね。
 いたたまれない気持ちを惑わすように、膝の上にいるハクの柔らかい毛をなでる。

 先行した王女たちは宿に着いただろうか。
 ふと馬車に乗りこむ二人の不安気な様子を思い出した。

 ――馬車に乗る前。
 ダンジョンの外では、マンジェスタ王国の騎士たちがダンジョン入口を囲んでいた。
 厳重な警備体制に驚きもしたが、一国の王女を警備するには当然のことである。
 だけど、ピリピリとした肌にも感じる緊張感と国の精鋭部隊での護衛。
 エスタニア王国の王女でも、ここまでの体制はありえない。何かあったのは明確だった。
 俺たちに気づいたひとりの騎士が、父上のそばにより声をかけた。

「団長、馬車の用意はできています。道中の警備も問題ありません」
「王女殿下を先にお通しする」
「承知しました」

 父上の指示に、騎士は素早く返事をすると後方へ下がった。
 すると横にいた王女が、父上に問うた。

「アーベル侯爵、わたくしどもはジークベルト様と同伴でしょうか?」
「いいえ、王女殿下。ジークベルトとは別の馬車をご用意しております」

 父上が否定すると、すぐさま王女が難色を示す。

「ジークベルト様との同伴をお願いしたいのですが」
「それはできません」

 父上がはっきりと拒否した。
 なおも父上に縋ろうとした王女を伯爵がたしなめる。

「姫様、アーベル侯爵を困らせてはなりません」

「ですが……」と声を王女はあげるが言葉は続かず、マントをギュッと握りしめる。
 しばらくして「わかりました」と言い、下を向いた。
 その様子に周囲も気遣わしげに王女を見ていた。
 まぁ無理もない。ほんの先ほど、王女は自国の騎士に裏切られ、命を狙われたのだ。
 精神的に考えても、ダンジョン踏破した俺たちと一緒に行動したいのはわかる。
 それに他国の騎士たちに囲まれて、気が休まないのだろう。
 そして促されるまま、王女たちは馬車に乗り込んだ――。

 車輪の音が止まった。どうやら宿に着いたようだ。


 一目で格式ある宿だとわかる佇まいに、多くの魔法の痕跡。精密な魔道具が多数使用されている。
 その精度に俺は、言葉を失くしてしばらく呆けた。

「コアンの技術が詰まっている宿だからね。安全は保障するよ」
「ヴィリー叔父さん、あとで魔道具を見せてもらえるでしょか?」
「それは交渉しだいだね」

 叔父が面白そうに俺を見て答え、宿の中に先導すると、先に大部屋へ行くよう促された。
 ハクと一緒に大部屋の中に入ると、そこには王女とエマが二人、ソファに座っていた。

「「ジークベルト様!」」

 二人の声が部屋に響く。
 すると王女が素早い動きで立ち上がり、俺の手をとると二人の間に座らされた。
 王女の早業に、俺は言葉を失くしていると王女が「ジークベルト様、手を繋いだままでもよろしいでしょうか」と、かわいらしくお願いされた。
 あざとすぎる。ほんの数分で性格変わっていませんか。
 王女の行動に唖然としていると横にいるエマが「では、私もお願いします」と、手を差し出された。
 えっ、これ。断れないよね。
 困惑する俺にハクが「ガウッ?(どうした? ジークベルト?)」と小首を傾げた。



 両手に花。
 男なら一度は憧れるシュチュエーションだとは思う。
 だけど、俺は冷や汗が止まらない。色々と考えてしまうのだ。
 背景とかを……。もちろん居心地が悪いのではない。
 それに彼女たちの要望を無下にできるほど、俺は鬼でもない。
 二人は俺を間に挟んで、一見楽しく会話が弾んでいるようにみえるが、言葉の端々に緊張がうかがえた。
 おそらく、あまりにも重度な警戒態勢に、何かがあったのだと察し、不安から心を守るために、俺にすがったのだと思う。
 背景とかを考えなければ、俺は役得なのだけど……。

 コンコン。
 扉のノックの音ともに父上たちが部屋に入ってきた。
 俺たちの姿を見た叔父が冷やかしてくるが、その声色は優しい。

「三人は仲良しだね。ジークは、これから大変だね。ねぇ兄さん」
「ジークベルトは、上手くやるだろう」
「そうだね。さて、さっさと本題を片づけよう。私は休みたいしね」

 父上が大きく頷きながらそれを肯定すると、叔父が父上たちをソファに誘導する。
 その様子をみたエマが急に立ち上がると、ソファの後ろに行こうとしたため、俺はエマの手を力強く引っ張り、無理矢理ソファに座らせた。
 俺の行動に困惑したエマが「ジークベルト様、私は侍女なので立たなければ」と、慌てているが無視だ。
 その様子に叔父が、安心させるように伝える。

「エマ、気にしなくても身内(・・)だけだから大丈夫だよ」
「しかし……アーベル様」

 なおも拒否しようとするエマに、王女が命令した。

「エマ、座っていなさい」
「はい。姫様」

 王女の命令に、エマは即座に反応し従う。
 二人の主従関係が、垣間見れた瞬間だった。
 俺たちの正面に、叔父と父上が座り、王女の斜め横に伯爵が座った。
 ハクは大事な話合いをすると察したようで、邪魔にならないよう部屋の隅で寝そべった。
 全員が着席したのを確認すると、父上が叔父の名を呼ぶ。

「ヴィリバルト」
「はい兄さん『遮断』」
「これで外部からの盗聴は防げます。挨拶が遅れて申し訳ない。私はマンジェスタ王国、第一騎士団団長ギルベルト・フォン・アーベルです。エスタニア王国、第三王女殿下ディアーナ様とお見受けいたします」
「はい。エスタニア王国、第三王女ディアーナ・フォン・エスタニアと申します」
「パスカル・フォン・バルシュミーデです」

 父上の挨拶を皮切りに、建前上の簡易的な自己紹介をする。
 自己紹介の際、王女は身を包んでいたマントを外すと、白い耳を父上に見せた。
 父上は、視線に一度耳を移すが、すぐに正面を見据え話を続ける。

「お預かりした騎士は、我が騎士団の聖魔術師にて治療を施しています。順調に回復しているため、後遺症もなく明日には目覚めるとのことです」
「それはよかった。エスタニア王国の王女として、第一騎士団に敬意と感謝を申し上げます。ありがとうございます」

 王女が深々と頭を下げる。それに続き、伯爵とエマも頭を下げた。
 カミルの状態が快方に向かっていると聞き、俺もホッと軽く息を吐いた。
 心臓付近を深く刺されていたため、今後の騎士活動に制限がかかるのではないかと思っていたのだ。
 場の雰囲気が少し明るくなったのも束の間、父上が重い口調で切り出した。

「残念なお知らせがあります。貴殿らがコアンダンジョンにいる間に、エスタニア王国内で反乱が起こりました」
「「「」」」
「なんですと!」

 伯爵がバンッと机を叩き、立ち上がる。
 王女とエマは、突然の事態に目を見開き、固まっている。
 父上は王女たちの反応を観察しつつ、はっきりと告げる。

「反乱の首謀者は、第三王女ディアーナ・フォン・エスタニアとのことです」
「「「「!!」」」」

 その言葉に、伯爵はドカッと椅子に座ると両手を組み、ギラついた目で父上に問う。

「アーベル侯爵、その話は誠であるな」
「えぇ、バルシュミーデ伯爵、貴殿の名も副官としてありました。当初は不意打ちなどもあり反乱軍が有利でしたが、一週間も経たずして、反乱軍が不利となり、最後はあっけなく王国軍に軍配が上がりました。捕虜となった反乱軍のほとんどが雇われた冒険者と奴隷だったようです。各国に通達が届いています。逃亡した第三王女以下を捕まえ、エスタニア王国へ帰国させるようにと」

 繋いでいた王女とエマの手に力が入る。
 俺は二人を落ち着かせるため、強く握り返し、二人それぞれと目を合わせる。
 急な展開で俺も驚いたが、父上と叔父がこの場を設けたということは、悪いことにはならない。
 もし捕まえるなら、このような手間はかけない。
 俺が父上たちの行動を確信していると、すぐにその答えが出る。

「マンジェスタ王国は、貴殿らを保護します」
「保護? 捕縛ではなく?」

 伯爵が鋭い視線で疑問を言葉にすると、父上がそれに応えた。

「弟より、貴殿らとダンジョン内で一緒に行動していると事前に情報をえていました。反乱が起きたのは、弟たちと一緒に行動をした数日後。コアンの下級ダンジョンにいる貴殿らが、何らかの方法でエスタニア王国に戻り、反乱を起こすなんて器用な真似、私はしたくもありませんし、ジークベルトが発見しなければ、亡くなっていたとの報告も受けています」
「その通りですな。姫様を守るどころか、命の危険にさらしました。騎士としてお恥ずかしい。ジークベルト殿には感謝してもしきれない大恩ができました」

 自嘲めいた言葉を口にした伯爵は、俺に向け深く頭を下げた。
 伯爵の纏っていた威圧が少し軽減する。
 父上が言葉をつなげる。

「エスタニア王国内でも、反乱軍にディアーナ王女やバルシュミーデ伯爵の姿がないため、他に真の首謀者がいるのではないかと怪しんでいるようです。我が国は貴殿らを保護し、反乱を首謀することはできない状況だと報告し、潔白を証明させましょう」
「有難い話ですが、なぜそこまで手厚くしていただけるのですかな?」

 伯爵の疑問は筋が通っている。
 他国の厄介事を引き受け、すべてを解決すると言っているのだ。
 俺でも疑問に思う。

「伯爵、我々も打算がないわけではありませんよ。ダンジョン内に転移した『移動石』、コールスパイダーの変異種に関しての情報収集に協力して頂きますよ。また伯爵のように力のある方が、なぜ繭内から抜け出せなくなったかも含めてね。研究材料が増えて私は嬉しいですけどね」
「今の弟の提案だけであれば、わざわざ面倒な案件に首を突っ込まず本国へ送還させますが、ジークベルトが大変お世話になったようですしね。アーベル家が貴殿らを守りましょう」
「「「!」」」

 父上のその発言で、アーベル家以外の全員の視線が俺に向かう。
 王女が繋いでいた俺の手を胸に寄せ両手で握った。
 金の瞳は若干濡れているようだ。

「ジークベルト様、ありがとうございます」
「いや、俺は何もしてないよ」
「いえ、いいえ、ジークベルト様と出会えたことを神に感謝します」

 戸惑う俺をよそに、父上たちは微笑ましいものを見るかのように沈黙している。
 俺はそんな父上に『言葉の責任は取ってくださいね』と目配せするが、なぜか思慮深く頷いてる。
 その横にいる叔父は、肩を小刻みに揺らし笑うのを我慢しているようだ。
 ヴィリー叔父さん! 笑ってないで助けてください。
 あきらめににた状況で視線を伯爵に向けると、そこには俺を崇拝したような目をした伯爵がいた。
 あっ、あれはダメなやつ。
 ハッとして、俺は横にいるエマに視線を向けた。
 エマの視点が合っていない。
 エマ、エマさんや、現実に帰ってきなさい。
 エスタニア王国一行が、カオスだ。
 先ほどまでのシリアス、どこにいった! 

 俺が心の中で叫んでいると救世主? が現れた。大部屋の扉が勢いよく開いた。
 そこには人間の姿に顕現したフラウと、それを止めようとしたのだろうテオ兄さんがいた。
 全員が注目する中、フラウは腰に手をあてプリプリと怒っている。

「ヴィリバルトもジークベルトも帰ってきたのに、わたしに、ただいまの挨拶がないわ!」
「すみません。いまはダメだといったんですが……」
「テオは悪くないよ」

 叔父は立ち上がり二人に近づくと、テオ兄さんの肩をポンと叩く。テオ兄さんはスーッと横に動き、叔父に場所を譲る。
 すると叔父は侍女たちが失神するほどの全開の笑顔で、フラウの前に立つと両手を広げた。

「ただいまフラウ。心配かけたね。フラウがいてとても助かったよ。ありがとう」
「おかえりなさい。ヴィリバルト! わたし役にたったのね! 嬉しいわ! もっと褒めてもいいのよ!」

 フラウは満面の笑みで、叔父の懐に入り抱きつく。上機嫌だ。
 絶世の美女がフラウだと、残念美女に見えるのはなんでだろう。と思った瞬間、今しがた叔父の前にいたフラウが、俺の顔面20cm以内にいた。

「ジークベルト、いまわたしのことを悪く考えなかった?」

 俺は「滅相もない」と、頭を激しく横に振り否定する。

「そう? 悪意を感じたのだけれど、それならいいわ! おかえりなさい。ジークベルト! ハクと一緒に頑張ったのよ!」
「ただいま、フラウ。うん、ありがとう! とても助かったよ」

 俺を上からギュとフラウが抱きしめる。
 人間の姿だと豊満な胸が顔にあたるんですが、役得……。両横の視線がとてもいたい。
 なぜだろう。浮気がバレた夫の心情のようだと思ってしまった。一度も浮気の経験などないのに……。
 フラウは満足したのか、叔父のもとに戻り、叔父の膝の上に座ろうとしたところ、テオ兄さんに指摘され、渋々叔父の横に座りなおした。

「さぁ、お話の続きをして頂戴!」
「終わったよ」
「なんですって! わたしは聞いてないわ!」

 フラウは口を大きく開け、ムンクの叫びのような表情のまま固まった。
 完璧な残念美女だ。
 しばらくすると「テオバルトが邪魔するから間に合わなかった」とテオ兄さんをキッと睨む。
 相変わらずの貧乏くじを引いているテオ兄さんに心の中で合掌した。



 ――ジークベルト転移事件当日。
 アーベル家本邸、ジークベルトの部屋。

「ガウゥー!(ジークベルトがまだ帰ってこない!)」

 ハクはお気に入りのソファから飛び降り、部屋の中を歩き回る。
 ジークベルトが、屋敷を出てから半日が過ぎていた。

 ハクは今朝の出来事を思い出していた。
 ジークベルトは、魔法砂を貰いにフラウがいる魔術団に行く事になった。
 ハクはしぶしぶお留守番をすることになった。本心は一緒に行きたかった。
 ジークベルトのそばを離れるのは嫌だけど、ジークベルトから『お留守番をしていて欲しい』とお願いされた。
 魔術団には恐い人たちがたくさんいて、ハクを研究対象として捕獲されたら大変なことになる。ジークベルトの迷惑になるのも嫌だ。
 だから、お留守番をすることにした。

 もうすぐ夜になるのに、ジークベルトが帰ってこない!
 早く帰ってくると、約束したのに帰ってこない!
 まさか!!
 ハクの代わりに魔術団に捕まった!?
 大変だ! すぐに助けに行かないと!!

 ハクの結論はそこに至ると「ガウゥー」と遠吠えして、部屋の扉に向かう。
 器用にドアノブを掴み、扉を開け廊下を駆け抜けた。
 ハクの遠吠えに気づいた侍女たちが、慌ててジークベルトの部屋に向かっていたが、時遅し。その姿を愕然と見送ることしかできなかった。
 平然を取り戻した一人の侍女が「アンナ様に報告を!」と動くと「マリアンネ様は、自室? 応接室ね!」とまた一人が消える。残った侍女たちは、ハクの後を追いかけた。

 侍女からの報告を聞いたアンナは「ハク様は、いまどちらに!」と、冷静沈着な彼女にはめずらしく動揺している。
 そこにまた一人、侍女が肩で息をしながら部屋へ入り、報告する。

「アンナ様、ハク様を玄関にて捕獲しました。いまマリアンネ様の元にお連れしています」
「大事に至らず安心しました。すぐに参ります」

 その報告内容に安堵のため息を吐くと、さきほど見せた動揺は微塵もかけず、姿勢を正したアンナがそこにいた。

 現在、アーベル家は、大混乱の中にあった。
『アーベル家の至宝』ジークベルトが行方不明なのだ。

 夕方に魔術団から二人の団員が、極秘でアーベル家を訪れていた。
 魔術団員の報告では、研究の作業中に、研究室を訪れたジークベルトが、ヴィリバルトと一緒に研究施設から消えた。
 行き先は現在も不明。
 原因は、研究中の転移石の作業を失敗したとのことだった。

 魔術団員Aは、証言する。
 俺たちの報告を聞いたマリアンネ様は、一言「そうですか」と言ったきり無言になった。
 終始、穏やかな顔をしていたけれど、纏っていた雰囲気は、殺意ともいえぬ恐ろしいものだった。
 俺、死んだと思ったよ。

 魔術団員Bは、証言する。
 中年の侍女に「失敗するのは勝手ですが、なぜジークベルト様を巻き込んだのですか!」と詰め寄られ、執事に「失敗した魔術団員のお名前をお伺いできますか」と丁寧だが、有無を言わさぬ態度で聞かれたんだ。
 もちろん素直に答えたよ。答えなかったら、何されるかわからないじゃないか!
 執事や侍女ごときだって!! お前はあの場にいないからそんなことが言えるんだ! あの背筋が凍るほどの恐ろしさ……。
 俺は精神ともに五体満足で生涯を過ごしたいんだ。

 魔術団員ABは、アーベル家から戻るとすぐに上官へ『二度とアーベル家には、報告に行きたくない』との要望書を提出した。
 その要望書を手にした上官は「気持ちはわかるぞ……」と、五年前を思い出し身震いした。上官は魔術省出身だったのだ。
 上官は、魔術団員ABの気持ちを汲み取り、アーベル家と関わらない部署へ移動させた。
 後に魔術団員ABは、要望書を提出したことを後悔することになるのだが、それは別の話しだ。



 魔術団員がアーベル家を後にした応援室内では、興奮状態のマリアンネを宥めるテオバルトがいた。

「マリー姉様、落ち着いて」
「落ち着いていられないわ! ジークが魔術団内で消えたってどういことなの!」
「ヴィリー叔父さんも、一緒に消えたんだよ。だから大丈夫だよ」
「一緒に消えたからといって、二人が一緒にいる証拠がどこにあるの! そんなことわからないわ! もう、こんな大事になるなら躊躇せず『追跡』の魔道具を渡せばよかった」

 廊下まで聞こえる二人の会話、そこに侍女に伴われたハクが入室してきた。
 二人の会話の内容をハクは、反芻する。

 ジークベルトが消えた……? ジークベルトが消えた? ジークベルトが消えた!?

「ガウッ!(ジークベルトは、いまどこにいるの!)」

 ハクの乱入に二人は驚き会話を止めると、テオバルトがハクのそばにより、安心させるような仕草でハクの頭をなでる。

「ハク、大丈夫だよ」
「ガウ、ガゥ、ガウッ?(大丈夫ってなに? ジークベルトはどこ? ジークベルトが消えたってなに?)」

 テオバルトは、ハクがジークベルトを心配していることは読み取るが、これほどまでに興奮したハクを見るのは初めてだった。
 どう接すればいいか対応に困ってしまう。下手に接すれば、ジークベルトを探しに屋敷から抜け出しそうな勢いだった。
 ふとハクのそばにいた侍女と目が合った。
 あぁー、もう抜け出そうとしたのかと、状況を把握し、どう説得すればいいのだと匙を投げかけた。
 脳裏にあまり関わりたくないが、小さな妖精を思い浮かべた。

 ハクは、テオバルトの返事を待っていたが、一向にテオバルトは話さない。
 やはりハクがジークベルトを探しに行くしかない! と決断し、応接室から出ようと方向転換しようとした。
 するとどこからともなく『ハク』とジークベルトの声が聞こえた。

「ガウッ?(ジークベルト?)」

 応接室を見回すが、姿はない。
 気のせい? 再び動こうとするとまた『ハク』と聞こえる。

「ガウッ?(ジークベルト?)」

 再び見回すが、やはり姿はない。ハクは小首を傾げる。
 その仕草を見たマリアンネは、ハクが寂しさのあまり、虚無に話しかけ、ジークベルトを想い鳴いているのだと思った。
 胸が締めつけられる。まだ幼い魔獣の赤子が、これほど嘆いているのだ。
 マリアンネは決断する。

「テオ! すぐに屋敷を出てジークベルトを探します」
「えっ? どうして急に!?」
「ハクが可哀想過ぎます」
「いやいや待って! 父様の帰りを待ってください」

 テオバルトは必死にマリアンネを止める。
 侍女たちに目配せし、アンナとハンスへ報告に行かせた。
 父様、すぐに帰ってきてください。僕、一人ではマリー姉様はもう説得できません!!と、自分の不甲斐なさに内心苦笑いした。

 ハクは二人の状況を気にも留めず『ハク』と、ずっーと聞こえるジークベルトの声を考えていた。
 ジークベルトの声は、マリアンネたちの様子からして、ハクにだけ聞こえると考えた。
 ハクにだけ聞こえる……心の声!!
 この声に返事をするには、ハクも心で話せばいいのではないか。
 集中して想いをのせて『ジークベルト!!』と心の中で叫んでみると『ハク聞こえるかい!』と、ジークベルトの応答があった。

 ジークベルトとの念話を終えたハクは、項垂れた。
 ジークベルトは、ヴィリバルトと一緒にダンジョンにいる。
 無事だったのは嬉しかったが、すぐに帰れる状況ではないようだ。
 ハクも一緒に行きたいと伝えたが、ここで待っていて欲しいとお願いされた。
 ジークベルトのお願いは、ハクにとっては絶対だ。
 だけど、ジークベルトがいないのは、寂しい。

 ハクの耳がシュンと下がり、尻尾がお尻にまとわり付いている姿に、テオバルトが気づく。
 その変化に戸惑うテオバルト。
 えぇーーと……。先ほどまでは、ジークベルトを探すんだ! と、興奮状態だったのに、この短期間での落ち込みよう。いったいなにがあったんだ。
 えっ、もう泣きそうなぐらい落ち込んでいるじゃないか。
 えっ、これどうするんだ? どうすればいいんだジークベルト!!
 テオバルトの心の叫びは、虚しく響きわたるのだった。



***



 その夜、帰宅したギルベルトは、マリアンネに説明という名の説得を終えた後、アルベルトとテオバルトを執務室へ呼び出した。

「ジークベルトは、ヴィリバルト一緒に、コアンの下級ダンジョン十七階にいる」
「父上、それはどういことですか?」

 アルベルトが、詳細な情報を掴んでいる様子のギルベルトに問うた。

「本日、ジークベルトは、ヴィリバルトに魔法砂を貰うため、魔術団を訪れた。『移動石』の研究中に作業が失敗。その時たまたま訪れたジークベルトが巻き込まれたそうだ」

 その説明を受けた二人は、しばらく沈黙する。
 すると、なにかに気づいたテオバルトが、言葉を発した。

「父様、ダンジョン内は転移ができないはずです」
「テオバルトの言う通り、ダンジョン内は転移ができないのだ。だが今回はできた。ヴィリバルトの報告では、魔法の暴走も考えられるが、ダンジョン内に転移できる手段があるかもしれないとのことだ」
「その手段がわかれば、冒険者も楽になりますね」
「そうだな……」

 ギルベルトは、テオバルトの率直の意見に同意するものの、王都を指定していた『移動石』が、コアンの下級ダンジョン内に転移した。これが指す理由、暗躍している人物がいる可能性が高いと危惧した。
 思い過ごしだといいんだが、こういった勘は大抵当たるのだ。
 今回は、はずれてくれと願い、目の前の二人の息子と、弟と一緒にいるもう一人の息子を想った。

「父上、コアンの下級ダンジョンは二十五階層ですが、広大です。叔父上はこのダンジョンの経験は?」
「ない。そのため踏破することにしたそうだ」
「その判断が妥当ですね。叔父上の『索敵』は広範囲ですから一週間以内には、踏破できるでしょう。もちろん戦闘は叔父上の単独ですよね」

 ジークベルトの居場所がわかり、安堵したアルベルトは饒舌に語る。
 それをギルベルトが否定した。

「いや、ジークベルトが主動だ」
「「!!」」
「叔父上は何を考えているのです! ジークはまだ七歳です。そのような危ない真似許せません!」

 興奮したアルベルトが、執務室のテーブルをドンと叩いた。
 普段見せないその様子に、長男は末弟が余程大切なようだと、ギルベルトは苦笑いする。

「アルベルト落ち着け。ジークベルトの強さは、お前たちも認識しているだろう」
「「はい」」
「コアンの下級ダンジョンは、ボスがBランクだ。各階層の魔物はCランク以下となる。レベルを一気に上げ、ジークベルトの強さを隠蔽するいい機会だと考えている」
「しかし、父上……」
「心配しなくとも、ヴィリバルトがいる」

 その名前を耳にしたアルベルトは、一気に冷静になった。
 ギルベルトとヴィリバルトの思惑を理解し、ジークベルトを危険に曝すが今後のことを考えればレベル上げには賛成だ。
 しかも『赤の魔術師』が一緒なのだ。ほぼ無傷のジークベルトが想像できた。
 色々と葛藤した結果、最善はジークベルトのレベル上げであるとの結論に至る。

「それにしても父上と叔父上はどのようにして連絡を取っているんですか」

 アルベルトの素朴な疑問に、ギルベルトとテオバルトの動きが止まる。
 ダンジョン内は外部への『報告』魔法が使えない。普通に考えればそう思うのは当然である。
 若干視線を逸らしながら、ギルバルトは答えた。

「それは……ヴィリバルトに許可をえれば、お前にも紹介しよう」
「紹介ですか?」
「いや……、教えよう」
「アル兄さん、世の中には知らないほうが幸せってこともあると思うんです」
「テオ、急にどうした?」
「いえ、なんでもありません」

 微妙な空気が執務室を包む。
 アルベルトは、地雷を踏んだのかもしれないと思った。
 連絡手段を聞いただけなのに、明らかにギルベルトの態度が一変したのだ。
 ギッギギーと、効果音がつくぐらい鈍い動きで自分を見て、意図して視線を逸らしたのだ。
 そして、なぜかテオも動揺している。
 言いようもない不安が襲う。なぜだろう。これ以上追及してはいけないと本能が察知している。
「やっぱりいいです」と言えないまま、その日は解散となった。
 後にアルベルトは「あの時、拒否しておけばよかった」と、眉間に皺を寄せることとなる。



「テオ、お前調教師になったのか?」

 友人の戯けた声に、テオバルトは歩んでいた足を止める。
 ここは王都にある魔術学校だ。
 魔属性を所持している者は、必ず通うことが義務付けられており、もちろん身分は問わない。
 魔法の実用的な修練と研究を主としているが、魔法以外の雑学、教養、技術面でのスキル習得などの授業もあり、近年では魔属性のない者も通っている。主に商家や町の権力者の子息や息女だ。将来の人脈を培い強固するのが目的だ。
 貴族社会に唯一邪魔されることなく接触できる機会を易々と逃すはずもない。彼らはどのような地位であっても平民なのだ。
 今後の有力者と縁を繋ぐこと、魔術学校は、社交場の予行でもあるのだ。
 また国が優秀な人材を確保、把握するための場でもある。魔術学校で優秀な成績を収めたものは、国の機関への就職が約束される。
 平たく言えば、国が優秀な人材を囲うための職業斡旋所でもある。

 その魔術学校の廊下で、あのアーベル侯爵家の子息だが、なぜか存在感が薄い優秀なのに注目されないテオバルトが、人々の視線の中心にいる。
 静寂に包まれたその場で、慣れない注目に苦笑いしつつ、テオバルトは、横にピタリと寄り添うハクに目をやる。

 まぁ目立つよね……。

 ここ数日、ジークベルトが転移事件に巻き込まれてから、ハクがテオバルトのそばを離れようとしないのだ。
 今日は、週三日ある魔術学校の日だった。
 ジークベルトが、ハクをとても大切にしていることを屋敷全員が認識していた。
 下手に連れ出し、厄介な相手に目を付けられると困るため、丁寧に根気強くハクを説得したが、頑固としてテオバルトのそばを離れなかった。
 しかたない休むかと、半月ほどの休学を覚悟したところ、ギルベルトから「連れて行きなさい」との命令が下った。
 父様の思惑は、なんとなくわかるが、それを僕がするのか……と、不満が口に出なかっただけでも褒めて欲しいぐらいだ。

「末弟が飼っているんだ」
「末弟? あぁーあの噂の銀髪くんね」
「噂?」
「ガルゥ?(うわさ?)」

 テオバルトが疑問を口に出すと、隣のハクも声を出して瞬きしながら首を傾ける。
 その仕草にその場にいた全員の心を掴んだようだ。
 場の空気が変わるのをテオバルトは感じた。
 目的の一つが、こうも簡単に片付いた。
 ジークベルトを銀髪と呼んだ友人が、その可愛さに凝視していたが、ハッと気づき言葉を返す。

「まあまあ、それにしても綺麗な毛並みだなぁ。触っても?」
「ハクが許したらね」

 テオバルトの声と同時にハクが動く。友人の前に座り「ガル!(いいぞ!)」と元気よく返事をした。

「お許しが出たってことかな。おおーー、すっげーーなぁ!! 艶々だし触り心地最高! さっすが侯爵家! 手入れ抜群じゃん!」
「末弟がとても大事にしているからね」

 その声に周りで傍観していた人々が、次々と列を作る。
 まぁそうなるよね……。
 友人の後ろに長蛇の列ができていた。
 友人は後ろの列に気づくと、ばつの悪そうな顔してテオバルトへ軽く頭を下げ、すぐ後ろの人物へ譲る。
 列は途切れることなく、授業が始まる直前まで続いた。その中に講師が含まれていたことに、テオバルトはほくそ笑む。
 ハクは大人しく、嫌な表情一つせず、されるがままだった。こちらの思惑を理解しているかの動きにテオバルトは関心する。
 さすがジークベルトが相棒と呼ぶだけのことはある。高い知性がかいま見れる。この魔獣を手元に置き、従えている末弟のすごさを再認識すると共に輝かしい将来の影で多くの暗躍が纏わりつくだろうと、未確定の不安要素に心を痛める。
 未自覚のブラコンの気苦労は絶えないのだ。

 授業中もハクは邪魔することもなく、ただ静かにテオバルトのそばにいた。
 当初教室に入った際は級友たちが大騒ぎしたが、それを気にすることもなく淡々とテオバルトの後に続く。
 その光景に騒然とした級友が押し黙り、様子を静観する。講師も一瞬怯んだが、ハクを指摘することなく、授業は進んだ。
 魔術学校は許可さえあれば、魔獣と一緒に授業を受けられるのだ。
 まぁその許可を使って魔術学校に魔獣を連れてきた生徒はほぼいないため、噂を嗅ぎつけた他教室の生徒が、休憩の都度押しかけ、ハクの可愛さに心を捕まれていた。

 全ての授業が終わり、生徒たちのハクへの好奇心も一段落したため、屋敷に戻る馬車へ向かう。
 粗方の目的は、ほぼ達成したが、まだ安心ができない。教授と顔を合わせていないのだ。一抹の不安も残したくはない。やはり屋敷に戻る前に研究棟へ足を踏みいれるかと考えていると、前を歩いてくる人物を見て舌打ちした。よりにもよってウーリッヒ教授か。
 ウーリッヒ教授は、伯爵家の次男で、魔術学校での地位もそこそこ高い。ただ生物実験などの研究を好んでおり、残虐な実験から何度か注意喚起を受けているはずだ。
 研究室に籠っていることが多く、滅多に遭遇することはない。牽制するには、最適な相手ではあるが厄介だ。
 素直に引いてくれればいいが……。

「テオバルト殿、その魔獣の赤子は……なんと! ブラックキャットの変異種! これはなかなかお目にかかれるものではないですね……研究対象、いや素材として使えるな! テオバルト殿、是非とも譲って頂きたい!!」

 即座に鑑定する技量に、再び舌打ちしたくなるが、ここはグッと我慢する。
 テオバルトは、ハクの右足にあるアーベル家の家紋が付いたアンクレットをわざとらしく見た。

「ウーリッヒ教授、申し訳ありませんが、この赤子は、アーベル家が所有しているのですよ」
「むーー。では、ゲルト殿に掛け合って、譲って頂きましょう」

 ウーリッヒ教授は、少し考えた素振りを見せるが、妙案だと提案する。
 それにテオバルトは淡々と答えた。

「ゲルトには、この赤子の所有権限はありません。また叔父ヴィリバルトの庇護下にいますので、手を出すとウーリッヒ教授の研究に支障が出る可能性がありますよ」
「赤め、忌々しい! 私の研究の邪魔ばかりをして……」

 ウーリッヒ教授は、ブツブツと恨み辛みを呟いている。
 矛先を叔父へ変えたことには成功した。ハクに手を出すことは当分ないだろう。
 この件が、他の教授にも伝われば、ジークベルトがハクを連れて魔術学校へ通っても問題はなさそうだ。
 テオバルトの影に隠れ、ジッーと事の成行きを傍観していたハクの頭を一撫でし満足する。
 ただゲルトが、ウーリッヒ教授と親交があると判明し、少なからずショックを受けたが顔には出さず、テオバルトとは、そのままフェードアウトした。