「リア様の体調がよくなっています。これは奇跡としか言いようがありません」
医師の言葉に、ギルベルトは眉を寄せた。
奇跡──その言葉が、今の状況にそぐわないことを、彼自身が一番よく知っている。
あの夜から、まだ一週間も経っていない。
死の淵にいたはずのリアの体は、ゆっくりと、しかしたしかに回復の兆しを見せていた。
抜け落ちていた銀の髪は枕に散る量が目に見えて減り、こけていた頬の線も、わずかだがやわらかさを取り戻している。呼吸は深くなり、胸の上下がはっきりとわかるようになった。
「症状が明らかに改善しています。……むしろ回復していると言ってもいいほどです」
医師の言葉に、ギルベルトは返事をしなかった。
ただ、リアの寝顔を見つめる。
あの夜、彼女が最期の願いとして求めた温もり。
そのあと数日間、リアはまるでなにかに守られるように眠り続け、目を覚ますたびに、少しずつ生の気配を取り戻していった。
リアの中でなにかが変わり始めている──そんな感覚があった。
眠りの中で、リアの指先がそっと動いた。以前のような力強さはない。それでも、死の影に触れていた頃の弱々しさとは違っていた。
ギルベルトはそっとその手を包み込む。
「リア」
呼びかける声には、希望と戸惑いが混ざっていた。
それから一月後。
「兄さん、聞いたよ。義姉さんの体調に、回復の兆しがあるって」
他国への遠征から戻ったヴィリバルトが、まだ旅装のまま屋敷に姿を見せた。
しかし、その傍らには、いつも寄り添っていたフラウの姿がない。
「ああ」
ギルベルトの視線に気づき、ヴィリバルトは気まずそうに肩をすくめた。
「フラウは近づけないみたいだよ。どうしても、屋敷の敷地内に入ると影響が出るらしくて」
「そうか。やはり神の呪いが消えたわけではないんだな」
ギルベルトが額に手を当て、短く息を吐いた。
「兄さん」
「ヴィリバルト、悪いが……視てくれ」
「うん。そのために仕事を切り上げて戻ってきたんだ」
「悪いな」
ギルベルトの声は低く、しかしどこか安堵が滲んでいた。
リアの療養部屋に入ると、窓辺の光を受けて、リアがゆっくりと顔を上げた。
ベッドではなく、窓際の椅子に腰をかけている。
その姿だけで、以前とは違うとわかる。
ギルベルトと並んで部屋に入ったヴィリバルトは、ほんの一瞬だけ目を見開いた。
痩せてはいるが前ほどではなく、表情は和らぎ、自分の力で姿勢を保っている。
その姿に、ヴィリバルトは胸の奥で安堵が広がるのを感じた。
「義姉さん、久しぶりだね」
驚きを声に乗せないように、ヴィリバルトは穏やかに言った。
脳裏には、数か月前にベッドに横たわっていた義姉の姿がよぎっていた。
「ヴィリー、元気そうね」
「うん。義姉さんこそ……思っていたより、ずっと元気そうで安心したよ」
「うふふ、とても調子がいいのよ」
リアが嬉しそうに言うと、ギルベルトがそっと口を挟んだ。
「リア、あまり無理はするな」
「ギルは心配性ね」
リアが柔らかく笑う。
ギルベルトはその笑みを静かに受け止め、ヴィリバルトはその様子に口もとを緩めた。
三人の間に、久しぶりに穏やかな空気が流れた。
その心地よい時間の中で、ヴィリバルトは一歩前へと進んだ。
「義姉さん、視るよ」
「ええ」
ヴィリバルトは目を閉じ、意識を集中させる。
『鑑定眼』
目を見開いた瞬間、ヴィリバルトの表情が固まった。
「ヴィリバルト、どうした?」
ギルベルトが眉を寄せる。
リアは穏やかに微笑んだまま、ふたりを見つめている。
「兄さん、義姉さん……信じられない」
ヴィリバルトはゆっくりと息を吸い、告げた。
「義姉さんは、身ごもっているよ」
「なんだとっ」
ギルベルトは息をのみ、リアを確かめるように見つめた。
リアは落ち着いた声で答えた。
「そうなのね」
「義姉さんは、気づいていたの?」
ヴィリバルトが問うと、リアは首を横に振った。
「いいえ。でも……大切ななにかが、ここにいる気がしていたの」
リアはそっと自分のお腹に手を添えた。
ヴィリバルトからの懐妊報告は、アーベル侯爵家に衝撃をもたらした。
誰もが言葉を失いながらも、リアの身を案じ、慎重に見守ろうとしていた。
だが、その心配を追い越すように、リアの回復はさらに目に見えて進んでいった。
食事の量が増え、歩くときの足取りも、以前のようにふらつかなくなった。声には力が戻り、笑うと頬にうっすらと赤みが差すようになった。
医師は診察のたびに首をかしげ、奇跡としか言いようのない回復に驚きを隠せなかった。
面会謝絶が解かれたと聞き、子供たち三人は信じられないといった面持ちで顔を見合わせた。
「父上、本当に、母上に会っていいのですか」
アルベルトが、慎重に確認するようにギルベルトを見上げた。
嫡男としての自覚が芽生え始めた彼は、喜びよりもまず母の体を案じていた。
「ああ」
ギルベルトが短くうなずくと、アルベルトは真剣な表情で息を整えた。
「お母様……」
マリアンネは胸の前で手をぎゅっと握りしめ、今にも駆け出してしまいそうな衝動を必死に抑えている。
テオバルトは落ち着かず、扉の前でそわそわしていた。
「リア、入るぞ」
ギルベルトが扉を開ける。
窓際の椅子に座るリアが、三人の姿を見つけてゆっくりと微笑んだ。
「アル、マリー、テオ……いらっしゃい」
その声は、以前と変わらない穏やかな温かさを帯びていた。
マリアンネが真っ先に駆け寄り、リアの膝に抱きつく。
「お母様……!」
震える声が、胸の奥からこぼれた。
テオバルトも続き、リアの手を両手で包み込むように握った。
「母様。ほんとうに、ほんとうに……」
リアはふたりの頭をそっとなでた。
そして、少し離れた場所で立ち尽くしているアルベルトに目を向ける。
「アル、来てくれてありがとう」
アルベルトは一瞬だけ迷い、ゆっくりと歩み寄った。
家を背負う立場の者として、幼い頃のように勢いよく抱きつくことはしなかった。
けれど、リアが手を差し伸べると、その手をぎゅっと握りしめた。
「母上が、こうして座っておられるのを見るのは……久しぶりです」
アルベルトの声は震えていた。
リアは微笑み、三人を順に抱き寄せた。
「ええ……みんなの顔を、こうして見られるくらいには元気よ」
その瞬間、部屋の空気がふわりと明るくなる。
ギルベルトは扉のそばで、その光景を見守っていた。
失われたと思っていた日常が、戻ってきた。そんな奇跡の時間の始まりだった。
医師の言葉に、ギルベルトは眉を寄せた。
奇跡──その言葉が、今の状況にそぐわないことを、彼自身が一番よく知っている。
あの夜から、まだ一週間も経っていない。
死の淵にいたはずのリアの体は、ゆっくりと、しかしたしかに回復の兆しを見せていた。
抜け落ちていた銀の髪は枕に散る量が目に見えて減り、こけていた頬の線も、わずかだがやわらかさを取り戻している。呼吸は深くなり、胸の上下がはっきりとわかるようになった。
「症状が明らかに改善しています。……むしろ回復していると言ってもいいほどです」
医師の言葉に、ギルベルトは返事をしなかった。
ただ、リアの寝顔を見つめる。
あの夜、彼女が最期の願いとして求めた温もり。
そのあと数日間、リアはまるでなにかに守られるように眠り続け、目を覚ますたびに、少しずつ生の気配を取り戻していった。
リアの中でなにかが変わり始めている──そんな感覚があった。
眠りの中で、リアの指先がそっと動いた。以前のような力強さはない。それでも、死の影に触れていた頃の弱々しさとは違っていた。
ギルベルトはそっとその手を包み込む。
「リア」
呼びかける声には、希望と戸惑いが混ざっていた。
それから一月後。
「兄さん、聞いたよ。義姉さんの体調に、回復の兆しがあるって」
他国への遠征から戻ったヴィリバルトが、まだ旅装のまま屋敷に姿を見せた。
しかし、その傍らには、いつも寄り添っていたフラウの姿がない。
「ああ」
ギルベルトの視線に気づき、ヴィリバルトは気まずそうに肩をすくめた。
「フラウは近づけないみたいだよ。どうしても、屋敷の敷地内に入ると影響が出るらしくて」
「そうか。やはり神の呪いが消えたわけではないんだな」
ギルベルトが額に手を当て、短く息を吐いた。
「兄さん」
「ヴィリバルト、悪いが……視てくれ」
「うん。そのために仕事を切り上げて戻ってきたんだ」
「悪いな」
ギルベルトの声は低く、しかしどこか安堵が滲んでいた。
リアの療養部屋に入ると、窓辺の光を受けて、リアがゆっくりと顔を上げた。
ベッドではなく、窓際の椅子に腰をかけている。
その姿だけで、以前とは違うとわかる。
ギルベルトと並んで部屋に入ったヴィリバルトは、ほんの一瞬だけ目を見開いた。
痩せてはいるが前ほどではなく、表情は和らぎ、自分の力で姿勢を保っている。
その姿に、ヴィリバルトは胸の奥で安堵が広がるのを感じた。
「義姉さん、久しぶりだね」
驚きを声に乗せないように、ヴィリバルトは穏やかに言った。
脳裏には、数か月前にベッドに横たわっていた義姉の姿がよぎっていた。
「ヴィリー、元気そうね」
「うん。義姉さんこそ……思っていたより、ずっと元気そうで安心したよ」
「うふふ、とても調子がいいのよ」
リアが嬉しそうに言うと、ギルベルトがそっと口を挟んだ。
「リア、あまり無理はするな」
「ギルは心配性ね」
リアが柔らかく笑う。
ギルベルトはその笑みを静かに受け止め、ヴィリバルトはその様子に口もとを緩めた。
三人の間に、久しぶりに穏やかな空気が流れた。
その心地よい時間の中で、ヴィリバルトは一歩前へと進んだ。
「義姉さん、視るよ」
「ええ」
ヴィリバルトは目を閉じ、意識を集中させる。
『鑑定眼』
目を見開いた瞬間、ヴィリバルトの表情が固まった。
「ヴィリバルト、どうした?」
ギルベルトが眉を寄せる。
リアは穏やかに微笑んだまま、ふたりを見つめている。
「兄さん、義姉さん……信じられない」
ヴィリバルトはゆっくりと息を吸い、告げた。
「義姉さんは、身ごもっているよ」
「なんだとっ」
ギルベルトは息をのみ、リアを確かめるように見つめた。
リアは落ち着いた声で答えた。
「そうなのね」
「義姉さんは、気づいていたの?」
ヴィリバルトが問うと、リアは首を横に振った。
「いいえ。でも……大切ななにかが、ここにいる気がしていたの」
リアはそっと自分のお腹に手を添えた。
ヴィリバルトからの懐妊報告は、アーベル侯爵家に衝撃をもたらした。
誰もが言葉を失いながらも、リアの身を案じ、慎重に見守ろうとしていた。
だが、その心配を追い越すように、リアの回復はさらに目に見えて進んでいった。
食事の量が増え、歩くときの足取りも、以前のようにふらつかなくなった。声には力が戻り、笑うと頬にうっすらと赤みが差すようになった。
医師は診察のたびに首をかしげ、奇跡としか言いようのない回復に驚きを隠せなかった。
面会謝絶が解かれたと聞き、子供たち三人は信じられないといった面持ちで顔を見合わせた。
「父上、本当に、母上に会っていいのですか」
アルベルトが、慎重に確認するようにギルベルトを見上げた。
嫡男としての自覚が芽生え始めた彼は、喜びよりもまず母の体を案じていた。
「ああ」
ギルベルトが短くうなずくと、アルベルトは真剣な表情で息を整えた。
「お母様……」
マリアンネは胸の前で手をぎゅっと握りしめ、今にも駆け出してしまいそうな衝動を必死に抑えている。
テオバルトは落ち着かず、扉の前でそわそわしていた。
「リア、入るぞ」
ギルベルトが扉を開ける。
窓際の椅子に座るリアが、三人の姿を見つけてゆっくりと微笑んだ。
「アル、マリー、テオ……いらっしゃい」
その声は、以前と変わらない穏やかな温かさを帯びていた。
マリアンネが真っ先に駆け寄り、リアの膝に抱きつく。
「お母様……!」
震える声が、胸の奥からこぼれた。
テオバルトも続き、リアの手を両手で包み込むように握った。
「母様。ほんとうに、ほんとうに……」
リアはふたりの頭をそっとなでた。
そして、少し離れた場所で立ち尽くしているアルベルトに目を向ける。
「アル、来てくれてありがとう」
アルベルトは一瞬だけ迷い、ゆっくりと歩み寄った。
家を背負う立場の者として、幼い頃のように勢いよく抱きつくことはしなかった。
けれど、リアが手を差し伸べると、その手をぎゅっと握りしめた。
「母上が、こうして座っておられるのを見るのは……久しぶりです」
アルベルトの声は震えていた。
リアは微笑み、三人を順に抱き寄せた。
「ええ……みんなの顔を、こうして見られるくらいには元気よ」
その瞬間、部屋の空気がふわりと明るくなる。
ギルベルトは扉のそばで、その光景を見守っていた。
失われたと思っていた日常が、戻ってきた。そんな奇跡の時間の始まりだった。
