「ジーク、こっちよ」
母リアの呼びかけに、ソファをつかみながら、ゆっくりと横へ進む。
高速ハイハイのおかげか、全身に筋肉がつき、一歳の誕生日前に、つたい歩きができるまでに成長した。
今は歩行の大特訓中です。
これが難しいのなんのって。支えなしで立つことはできる。
けれど、一歩を踏み出すことができない。踏み出そうとするとバランス感覚を失い、尻もちをついてしまうのだ。全身のバランス感覚を鍛えるため、つたい歩きを目下練習中です。
歩くって大変なことだったのだ。自然にできると勘違いしていたよ。うんうん。
あっ、立った瞬間を最初に目撃したのは、父上です。
その時の父上の反応は、すごっかった。
「ジークベルトが立った!」
某アニメを再現されました。
そして俺は抱き上げられ、振り回された。三途の川が見えましたよ。今度こそ死ぬかと思った。
例のごとくアンナに説教された父上だが、興奮さめやらぬまま、母上の部屋へ突撃し、その場で俺に立つことを強要した。
「リア、ジークベルトが立ったんだ! 見てみろ。ほらジークベルト立ちなさい!」
リクエストにはもちろん答えました。
母上もすごく喜んでくれたしね。
だけど父上、赤ん坊ですからね。普通なら理解できずに、その迫力で泣きますよ。
むちゃぶりにもほどがあります。まじで反省してください。
「ぶーぶーーぶぅ(次はないですからね!)」と立った後、抗議はしてみました。
父上に伝わっているかどうかは別として、声を出すことは大事です。
その後、執事ハンスに無事回収され、父上は執務に戻って行きました。
「うふふ、ジーク。ここまでいらっしゃい」
「まーままんまー(母上、あと少しです)」
声の発生も、なかなか難しい。
器官がまだ未発達で、口や声帯の使い方に慣れない。あ、う、ま、ぶ、といった言葉しか出ないのだ。
精神年齢が高い俺からしてみれば、どんな羞恥プレイだ。
無意識にできていたことが、大変有り難いことだったとつくづく思う。
この時期の記憶がないだけなんだけど、あれば記憶から抹消したいよね。
そうそうアンナたち侍女との勝負は、俺が立つことで終わりを迎えた。
歩行練習の一環として、部屋の中を自由に動いている。
本棚も近づき放題です。ただ身長が足りず、欲しい本は獲得できないでいる。
勝負の結果は、一勝したとだけ伝えておこう。敵は強かった……。
その際に、無属性の初級魔法の本を手に入れた。
中身が生活魔法だったのには、驚いたけどね。
そもそも無属性は、個性的な魔法が多い。オリジナル魔法の宝庫なのだ。
一般的に周知されている無属性の魔法は、生活魔法と空間魔法だ。
特に生活魔法は、無属性の適応者は、ほぼ取得が可能な便利魔法である。
一方、空間魔法はその難しさから、すぐに断念する者が多い。
空間魔法で最初に覚えるのが『収納』の魔法だ。
魔道具では『魔法鞄』『魔法ポーチ』『魔法袋』などが流通している。
所謂アイテムBOXだ。
他にも空間魔法はあるが、それはおいおい。
無属性の適応者が少ないことと、術者が少ないため、空間魔法の本自体が少ない。
ただ我が家にはあると思う。
そして、なんとなくだが、俺は魔法書を読まなくても『収納』や『移動』の魔法を使えるんじゃないかと最近思い至った。
魔法書は、その魔法の特徴と注意点が掲載されている。
失敗例や成功例を基に、いかに効率よく取得するかを細々と丁寧に書いてある。
要は魔法のイメージだ。
『収納』は亜空間を『移動』は座標をイメージすればいいのではないかと考えている。
まぁ消費MPが不明な状況で、気絶するなんてことは避けたいので試していませんけどね。
あれ? ヘルプ機能様に掘り下げれば、消費MPわかるかも……。
いやその前に魔力が足りないだろう。
俺の目的である『移動』の魔法だが、国家最高レベルの魔法と謳っているだけではない。
取得の難しさの要因の一点は魔力だ。
空間魔法Lv6で取得可能なのは、スキルLvでその人の魔力を補う役目もあるからだ。
逆に空間魔法Lv1でも魔力値さえあれば取得は可能だ。
個人によっては、空間魔法Lv10でも使えないこともあるらしい。
そもそも『移動』の魔法を使用できる術者は、魔力が非常に高い。
魔法スキルの取得はある一定の魔力値によって可能となる。
例えば生活魔法は魔力値10以上が必要となる。
『洗浄』の魔法は使えるが、生活魔法のスキル取得ができない者もいるのだ。
スキル取得有無で効果は大きくことなるので、Lv上げと修練はかかせない。
生活魔法の初級は『洗浄』である。
これが、すっごーく役に立っています。
この世界のお風呂事情だが、庶民は身体を拭くか、公衆浴場に行くか、『洗浄』の魔法をするかである。
金銭的に考えて、 拭く < 洗浄 <<< 公衆浴場 だ。
元日本人の俺からすると、お風呂に入れない生活は苦でしかない。
だがお風呂に入ることは、かなりの贅沢なのだ。
あっ、我が家には、各部屋にお風呂があり、魔石でお湯も沸かし放題だ。
ただ幼児のため、満足いく入浴ができない。
また石鹸などもあるにはあるが、技術が発達しておらず、その効果はいまいち。
それでも贅沢品にはかわりがないのだが、元日本人からすると不満だ。
そこで『洗浄』の魔法だ。
この魔法のすごさは、お風呂に入った後の爽快感が身体に走り、お風呂に入ったと思える満足感が味わえる。
『洗浄』魔法を生業としている者もいるぐらいだ。
もう救世主とはこのことだと思った。
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ご主人様の『洗浄』ならではの効果です。
一般的な『洗浄』は、その術者の魔力やスキルLvにもよりますが、このような効果はありません。
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ヘルプ機能から突っ込みが入りました。
俺のイメージが魔法に反映されているのね。
この世界の人が、俺と同じイメージを持つことは、今のお風呂事情では難しいよな。
まぁそれはさておき『洗浄』の魔法はとても有意義である。
毎日、お世話になっています。
「ねぇジーク、内緒だけど」
「うー??(なんでしょう)」
母リアのそばまで辿りつき、ただいま休憩中です。
つたい歩きは体力を消耗します。
侍女たちはお茶の用意で、今は母上と俺しか部屋にいません。
「あなたには、自由に生きて欲しい。貴族であることに囚われないで、自由に羽ばたいて欲しいの」
「まんーま、うぅ!(母上、もちろんそのつもりです)」
「そう。わかってくれるのね。これは母としての助言よ。あなたはこれから多くの出来事を経験するでしょう。その中には理不尽な事や不条理な事もあります。判断を間違えることもあるでしょう。でもその判断を後悔することはしないで。あなたはその時の最善を選択したのだから。前を向きなさいジーク。そして誰よりも強く優しくありなさい」
「うぅ(わかりました)」
「私の愛しい子、私はいつでもどんな時もあなたの味方です」
「まんーま、うぅ??(母上、どうしたのですか)」
母リアは、感極まった様子で、俺を強く抱きしめた。
今までも「内緒ね……」と話し、母上の身の上や父上との馴れ初め、俺に対する渇望、この世界の価値観などを教えてくれた。
話が終わると抱きしめる。このパターンが定番だった。
ただ今日は様子が違ったように見えた。
ふと父上もそうだが、母上のステータスを『鑑定眼』で見たことがないと思った。
いまさらMP50を消費して確認する必要もないし、鑑定で魔属性やLvは把握ができている。
母上の魔属性は、光と水であり、Lv18。二属性適応は平均で、Lvは平均より少し高いが、貴族では無難なのだ。
叔父ヴィリバルトのようなリアルチートはそうそういないし、今は魔法の修練が大事だ。
取得した光魔法と生活魔法のスキルLv上げに、全MPを使用中だ。
正直、他の魔法を使用したいのも山々だが、MPが100しかない現状で手を出すのはどうかとの結論に至った。
MP10が初期値であることからすれば、贅沢な悩みなんですけどね。
Lv2になれば、ステ値が上がるため、この悩みもほぼ解決する。
俺には基本値MAXUP+10の『成長促進』がある。
おそらくMPと魔力値は極稀の+100になると予想している。
魔物退治はやくしたいな。
侍女たちが部屋に戻ってきた。
母リアの腕から解放され、顔を覗くが普段通りの美しい母上だった。
気のせいかと安堵し、ソファに座りなおす。ここからは美味しいお茶タイムだ。俺は飲めないけどね。
「奥様、今日は北国アイリスより仕入れました紅茶でございます」
「アイリスの紅茶は大好きよ。でも手に入れづらいのではなくて」
「旦那様が奥様のためにお取り寄せをされました」
「ギルにお礼を言わないといけないわ」
「内密にとのことです」
「まぁ、すごく喜んでいたと伝えてくれる」
「もちろんです」
頭上では、いつものまったり会話が続く。
やはり、俺の気のせいだったようだ。
気持ちを切り替え、貴重な情報源である母上と侍女の会話に耳を傾けつつ、効率的な歩行訓練に知恵を絞るのだった。
俺は、この選択を大後悔することになる。
もうすぐ俺は一歳の誕生日を迎える。
『落雷』
脳天に直撃した攻撃は、俺の全身を痙攣させ、意識が途切れた。
「「「ジーク!」」」
マリアンネは、ぐったりしているジークベルトに駆け寄り、全力で『癒し』を施す。
「お願い。ジークまで連れて行かないで『癒し』『癒し』『癒し』」
「ゲルト、なにをしたのかわかっているのか! 『聖水』」
「貴様、なぜこのようなことを! やはり貴様は!」
テオバルトは、誰よりも先に『落雷』の術者であるゲルトに詰め寄るが、マリアンネの回復魔法だけでは心もとないと判断し、ジークベルトへ水魔法の『聖水』を施すため、ゲルトから離れた。
同じくゲルトへ詰め寄ったアルベルトは、これ以上の攻撃を避けるため、ゲルトに威圧をかけ、押さえつける。
そこには家族の情はなく、最愛の弟を傷つけた犯罪者を捕縛することに集中する。
「姉上! 兄上! なぜわかってくれないのです。ジークベルトさえいなければ、母上は死なずにすんだのです」
「貴様、何を馬鹿なことを言っている!」
「ゲルト、正気なのか!」
部屋の様子がおかしいと気づいた侍女たちが慌てて部屋へ入室しようとするが、一人また一人と、扉の前で立ち止まり、唖然とする。
そこには、鬼の形相をしたアルベルトが、ゲルトを床へ押さえつけ、黒く焼け焦げた跡が点在しているソファにジークベルトが横たわっており、マリアンネとテオバルトが、必死に回復魔法を施していた。
何かあったことは明確だ。だが、アーベル家の優秀な侍女たちが一瞬躊躇する光景だった。
侍女長のアンナが素早く状況を理解し、侍女たちへ指示すると、各自が機敏な動きをみせる。
「旦那様へ至急連絡を! 『癒し』『聖水』の魔法が使える者は前へ!」
「「「「はい」」」」
「ジークベルト様! 『聖水』」
アンナは後悔した。
お子様たちだけにするのではなかった。
普段からジークベルトを見るゲルトの様子は尋常ではなかった。
ゲルトのリアへの執着心は、この屋敷では知れ渡っていたが、母親を愛する子供だった。
リアの関心が、ジークベルトへ高まったのは仕方がないことだ。末弟ができた戸惑いと子供の単なる嫉妬だと流していたのだ。
リア様に顔向けができない。
長年お側に仕え、何事にも公平なあのリア様が、はばかることなく愛情を注いだジークベルト様に、危害を加えるはずがないと、なぜ思ったのか、後悔しても悔やみきれない。
ジークベルト様、我が主の至宝。神よ、どうか再び奇跡を。
「ジーク、頑張るのよ」
マリアンネは、MP枯渇寸前だった。
このままでは意識が途切れる。
もう少し、もう少しなのだ。お願いもって……。
最後となるだろう回復魔法を使用する直前、一際強い回復魔法が、ジークベルトの身体を包む。
土色だった顔に変化が現れ徐々にだが赤みが戻る。
「マリー、よく頑張ったね」
「ヴィリー叔父様……」
「もう大丈夫だからね」
ヴィリバルトは優しくマリアンネの手に触れ、『聖水』と再び回復魔法を施す。
マリアンネは、安堵からその場に崩れ落ちた。
助かったんだわ。ジークベルトはもう大丈夫。
自然と涙が溢れてくる。淑女が人前で泣くなどはしたない。だけど止まらない。
スーッと流れる涙をすくい上げた指先の主は、酷く冷たい表情をして、ジークベルトの顔、首、胸、腕、足と、身体の各箇所を丁寧に確認する。
その動きに迷いはなく、最小限の負担ですむよう、気遣われている。
ジークベルトがとても大事なのだとわかる。
そして――心火を燃やしていた。
その様子を、回復魔法をかけていた侍女たちやテオバルトも見ていた。
誰も口を開かないが、気持ちは全員一致していた。
一歳の母親を亡くした子供への仕打ちに、身勝手極まりない犯人への激しい怒りが沸き起こり、次はないと守る決意をする。
ジークベルトの呼吸が戻り、身体には異常がないことを確認したところで、ヴィリバルトはジークベルトを抱き上げた。
「兄さん、ジークは私が引き取ります」
「あぁ、頼む」
「マリー、君も一緒にきなさい。立てるかな」
「はい。ヴィリー叔父様、一人で立てます」
MP枯渇寸前の身体は、意志とは別に油断すればフラフラと倒れてしまうほど、精神をすり減らしていた。
だが、マリアンネは、アーベル家の娘である。
そこらの淑女とは鍛え方が違うのだ。気合いで立ち上がり、ヴィリバルトの後ろに続く。
部屋を出る際、マリアンネはゲルトに視線を向けた。
憎悪にみちた目が、叔父の腕にいるジークベルトを静かに捉えていた。
ああーと、絶望に近い声が出そうになるが、ぐっと堪える。今、取り乱すことは許されない。
もう修復が不可能なのだ。ゲルトにどのような言葉を告げても、その憎悪が消えることはない。
なぜそうなったのかは、わからない。
母リアの死にジークベルトが、関係するなどありえない。
そもそもお母様は、ジークベルトが誕生する以前より体調を崩されていた。
『長くはない』何度この絶望の言葉を聞いただろう。医者も匙を投げた状態だったのだ。
その中で、ジークベルトの誕生は奇跡だった。
お母様の体調も以前より格段に良くなり、この奇跡に誰もがジークベルトに感謝した。
ここ数年、ほぼ面会謝絶だったお母様が、私たちのために時間を割いてくれ、多くの思い出を残してくれた。
「これもジークベルトのおかげね」と、お母様自身が、奇跡はジークベルトが起こしたと、確信に近い何かを感じているようだった。
末弟が皆から愛され、とても大事にされる理由の一端はこれなのだ。
奇跡の確証などどこにもない。
だけど、私たちはこの奇跡をジークベルトがもたらしたものだと思っている。それが永遠に続かないこともわかっていた。
それなのに……。
見当違いな憎悪を抱き、抵抗する間もなく不意打ちで殺そうとした。
なんて身勝手な行動だろう。
ゲルトの心情を理解することは、到底できない。
兄弟間で憎しみ合うなんて悲しすぎる。
だけど、ジークベルトを守ると、お母様に誓ったのだ。
マリアンネは、意を決して声に出す。
「お父様、今後ジークにはゲルトを近づけないでください」
「姉上!」
「ゲルト、私にはジークをこれほどまでに憎む理由がわからないわ。お母様の死にジークベルトは関係していない。それだけは断言できる」
「みんな騙されているんだ!」
「やれやれ、誰に仄めかされたのか。これは調べる必要があるね」
普段と変わらない口調だが、赤瞳は静かに怒気を帯びており、ギルベルトへ目を向けた。
事の顛末があまりにもお粗末だ。誰がこの茶番をたくらんだのか。
それ相応の覚悟があってアーベル家に牙を向けたのだ。
黒い影が見え隠れする。私を怒らせたことを後悔すればいい。
地獄の果てまで追いつめてやる。
ギルベルトは、弟の言葉には出さない思いをくみ取り、俺も同じ気持ちだと、無言で頷いた。
「ゲルト。どのような理由があれ、貴方がしたことは、殺人未遂よ。私はジークの味方よ。今後、ジークを傷つけることがあれば、私は貴方を許さない」
「姉上! どうして、誰もわかってくれない!」
ゲルトは絶望に顔を歪める。
だが、その場の誰もがゲルトの主張にがえんじなかった。
「マリー、さぁ行こう」
ヴィリバルトに促され、マリアンネはその場を後にした。
***
目が覚めると、ベッドの上にいた。
意識が朦朧としている。
なにが起きたのか、少しずつ記憶を辿る。
母リアが亡くなってから一ヶ月、『最後の別れ』をした。
日本の四十九日みたいなものだ。
儀式が終わり、兄姉だけ部屋に戻された。そう兄姉が揃ったのだ。
ガタガタと全身が揺れはじめる。
マリー姉様に手を引かれ、ソファに座った。
ゲルト兄さんがマリー姉様を呼び、一人になった瞬間、『落雷』の魔法が俺の脳天に落ちた。
『生きている』喜びと『死んでいた』恐怖が交差する。
殺意の恐怖が全身を覆い、「あっぁあーーーー」と、声にならない声が部屋中に響く。
「ジーク! 大丈夫よ。もう大丈夫だからね」
マリアンネの涙声は、耳に聞こえるが何を言っているのか把握できない。
混乱とともに、精神が病んでいく寸前、意識が明瞭に戻る。
ヴィリバルトが『聖水』を施していた。
全身が温かなものに包まれ、気持ちがだんだんと落ち着いてきた。
周囲の様子も確認できるまでに回復し、俺の手をギュッと強く握っていたマリー姉様の泣き顔を見て、明日はひどく腫れるだろうなと、見当違いなことを考えていた。
俺の視界いっぱいに赤い髪が入った。
「ジーク、私がわかるかな。わかるなら返事をして欲しい」
「はぃ」
「うん、大丈夫そうだね。気持ちを落ち着かせる魔法を使ったからね」
叔父の繊細な手が、俺の髪をゆっくりと梳かす。
ここは安全だ。ここに敵はいない。
心底安心して、瞼を閉じる。
ゲルトとは、数回対面しただけだが、嫌われているのは明白だった。
初対面は、顔を認識できなかったが、雰囲気で察した。
母親をとられた子供の嫉妬だと、時間が経てば解決するだろうと、安易にしか考えていなかった。
それは他の兄姉がとても好意的に、俺に接してくれていたからだ。
特に長兄アルベルトの溺愛はすごかった。
十五歳の差が影響しているのだと、それだけであるとそう信じたいほどだった。会えば全身を抱きしめられ、顔中にキスの嵐。
片時も俺を離さないその態度に、母上も父上も毎回苦笑いをしていた。
だがゲルトは、回を重ねる度、態度が悪化していき、母リアが「困ったわね」と嘆いていた。
あぁ、この人とは、どんなに努力をしてもわかり合えないのだ。相性がすこぶる悪いのだと感じた。
そう悟ったのは、三回目の対面だった。
母上の目を盗み「お前さえいなければっ」と、動けない俺に何かを仕掛けようとした。
母上がゲルトの変化に気づき、事なきを得たが、もうこの時には予兆があったのだ。
俺は兄弟でこのような関係はよくないと思ったが、解決の糸口が見つからない。
長期戦と考え、極力近づかないでおこうと決めていた。
まさか、殺意を抱くまで、憎まれていたとは想定外だった。
俺がなにかしたのだろうか。死に際まで、母上を独占したのは、悪かったと思う。
だけど、知らなかったのだ。母上が不治の病に冒されているなんて、わからなかった。
いつでも美しく元気だった。身体が弱いのであろうとは、周りの態度で認識はしていた。
もしあの時、俺が『鑑定眼』を使っていれば、母上の病を治せたのだろうか。
原因をヘルプ機能に追及させ、特効薬を手に入れることもできたかもしれない。
もしくは、事情を父上に話し、俺のチートスキルで母上を治すスキルを獲得できたかもしれない。
何もできなかったかもしれない。だけど知らないよりも知っておきたかった。
あの時の選択を後悔した。
『あなたはその時の最善を選択したのだから。前を向きなさいジーク』
母上の声がした。
はっとして瞼を開け、周囲を見るが、叔父と姉様が心配そうに俺を見ていた。
「まーねぇー。じょうぶ(マリー姉様、大丈夫です)」
「うん、よかった。ジークは私が絶対に守るから安心してね」
「あーとぉー。じょうぶ(ありがとう。でも大丈夫です)」
「心配はいらないよ。『監視』の魔法を使うからね。ジークにゲルトが近づけば、私や兄さんに報告が入るようにする。もう二度とこのようなことは起こさせない。だから安心しなさい」
「でもそれでも、ジークは私が守るわ」
「そうだね。心強いよ、マリー」
「ヴィーお、まーねぇー、あーとぉー。(ヴィリー叔父さん、マリー姉様、ありがとう)」
「ジーク少し眠りなさい。急激な回復を施したんだ。身体がまだ追いついていないはずだ。マリーも限界近くまで、魔法を行使したんだ。少しでいいから眠りなさい。私がそばにいるからね。安心しておやすみ」
叔父はそっと姉様を俺の横に寝かせ、布団を掛けた。
***
「ジークベルトは、大丈夫なのか」
「精神的に疲れて、いまはマリーと一緒に寝ているよ。念のため確認したけれど、後遺症はない。マリーたちの適切な処置のおかげだよ」
「あぁ、感謝している」
「兄さん、ゲルトはどうなの」
「駄目だ。何を言っても聞く耳を持たない。ジークベルトへの恨み辛みだけだ」
「鑑定もしたけれど『洗脳』はされていないよ」
「そうか……」
「外部からの魔道具の干渉も考えられるけれど、私が結界を張っている屋敷内にまで影響があるとすれば、日常的に汚染された可能性も低いながらあるよ。魔術学校が怪しいね」
「だろうな。父上がこの件を聞いて、ゲルトを引き取ると言っている」
「また父さんは……」
「俺は、その提案をのむつもりだ。厳しい決断かもしれないが、我が家の敷地内には、二度と入れない。どのような結果であってもだ。まずは魔術学校の内部を洗い出す。協力してくれ、ヴィリバルト」
「了解です」
「調査の結果、考えたくはないが、万が一、ゲルト個人の感情から生じたのであれば、俺はさらなる決断をしなければならない」
「兄さん。私たち大人にも責任はあるさ」
「あぁわかっている。ゲルトは我々大人の被害者でもある。俺は教育を間違えてしまった。アルベルトにも協力はしてもらう」
「アルベルトは、知っているんだね。了解したよ」
あの事件を機に、俺は強くなる決意をする。
今ある環境を存分に活用することにした。チート上等だ。
人目を気にするのをやめた俺の行動は、侍女たちをいささか困惑させたようだった。
しかし、優秀な侍女たちは、順応が早かった。
まず戦闘能力を上げるため、戦闘スキルを取得しようと試みたが、幼児には難しかった。
訓練するにも身体が小さ過ぎて、武器を構えることもできない。武器を所持しない体術なども身体が保たない。
では基礎だけでもと考えたが、未熟な身体が対応できるほど、甘くはなかった。
身体スキルはどうだろうと考えたが、実戦と経験が必要であるため、これも断念した。
次に魔法書だ。部屋にある魔法書を読み漁った。
また、知識本もいくつか見つけ、読破する。
その頃には、言葉を流暢に話せるようになり、侍女たちとのコミュニケーションも円滑になった。
屋敷内なら自由に歩けるようになり、書庫の存在を知る。
そこに毎日入り浸ることになるが、目標である『強く』には、ほど遠かった。
魔法の修練は続けているが、MPにも限りがある。上位の魔法スキル取得には、魔力値が足りず、足踏み状態なのだ。
ここ数日、書庫に入ると、本を読まずに考え込むことが多くなった。
もっともっと修練がしたい。徐々にはスキルLvも上がり、強くもなっている。
だが今の修練では、満足ができない。時間はある。だけど待ってはくれない。
どうすればいい。俺はチートだ。これを生かすしかない。遅かれ早かれバレるのだ。
決断しろ、ジークベルト!
現状を打破するため、使いたくはなかったが、最終手段に打って出ることにする。
そうと決めたら、行動あるのみ!
書庫から廊下にでて、目的の部屋へ足を運ぶ途中、タイミングよく最終手段が、こちらへやって来た。
「テオ兄さん!」
「ジーク、どうしたんだい」
十歳上の次男テオバルト兄さん、アル兄さんの陰に隠れがちだが、とても優秀な人だ。
じつは魔属性を五個所持しているが、非公表であるため、周辺は穏やかだ。
頭の回転が速く、物腰も柔らかい、性格もよく、アーベル家兄弟の中で、一番の優良物件だと俺は思う。
だが、目立たない。いかんせん存在感がないのだ。
これはもう特殊スキルかと疑うぐらいの存在感の薄さである。
そのテオ兄さんの秘密を、俺は知っている。
ここは直球でいく。
「次の魔物討伐に連れて行って欲しいんです」
「えっ、何を言っているんだい、ジーク?」
「ぼく、知っていますよ。テオ兄さんが冒険者ギルドに登録をしていることを。Eランクですよね」
「はっ?!」
「来週、ご友人のニコライ様と行きますよね。魔物討伐。ぼくも連れて行ってください」
俺は笑顔のままテオ兄さんを見つめる。
テオ兄さんは、表情を引きつらせたまま動かなくなる。
テオ兄さんの秘密は、家族に内緒で、冒険者ギルドに登録して魔物討伐をしていることだ。
理由は、テオ兄さんの友人であるニコライ・フォン・バーデンである。
ニコライの妹セラが難病にかかっており、膨大な医療費が必要なのだ。
バーデン家は、先々代からの没落貴族だ。
金銭工面のため、ニコライは幼少期より、冒険者ギルドで活躍している。
テオ兄さんは、そのニコライのお手伝いをしているようだ。
この情報源は、ヘルプ機能からです。いい仕事するよね。
テオ兄さんのステ値を確認した時に発覚しました。
掘り下げもここまできたら、すごいとしか言葉がでない。どこまで掘り下げられるんだろうか。
**********************
試してみますか。
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怖いので、遠慮しておきます。
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残念です。
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週に一度、週の二日目に、魔物討伐をしに出掛けているのも情報収集済みだ。
この世界は、一週間が六日、月が週五の三十日、年が十二ヶ月の三百六十日である。
第一週の一日、二日、三日と表現する。
今日は第二週の四日だ。
「テオ兄さん、ぼくは、まだ誰にもこのことは話していません」
「ジーク、このことは内密に……」
「はい、わかっています。ぼくの希望は、レベル上げです。協力してください」
「それなら近く『白狩り』が行われる。本来なら四歳の誕生日だが、父様が、三歳の誕生日を過ぎたら行うと宣言していた。アル兄さんも僕も協力する予定だよ」
「テオ兄さん、ぼくが三歳になるまでには、あと三ヶ月と少しあります。時間は待ってくれません」
「いや、だが……」
「ぼくは強くなりたい。もうあのような思いは嫌です」
「ジーク……。だけど、レベルを上げるにも魔物を討伐しなければならない。僕たちは魔物を瀕死状態にできるほどの加減は持ち合わせてはいない。それに止めを刺すにも武器が必要だ」
「戦闘スキルはありませんが、火魔法は使えます『灯火』」
指先に小さな火を出し、テオ兄さんへ見せる。
魔力制御で、火の大きさ、熱さ、持続ができるようになった。
「火魔法?! いつの間に」
「ぼくの魔力値が異常値であることを知っていますよね」
「なんの話だか……」
「『お属初め』の時に、テオ兄さん、ぼくの鑑定結果を聞いたのでしょう」
「記憶があるのかい?!」
「まさか! 赤ん坊ですよ」
「いや、今もそう変わらないと思うのだが……」
「マリー姉様が、以前話していたんですよ。『お属初め』の時にテオ兄さんと二人で、ぼくの鑑定結果を盗み聞きしたと、ね」
「姉様には、『報告』の魔法は失敗したと伝えたよ」
「はい。マリー姉様は、ぼくの鑑定結果を知りません。でもその反応は、テオ兄さんは知っていますよね」
俺の発言に、テオ兄さんは、言葉を詰まらせる。
しばらくして、一度大きく息を吐くと、俺を見つめ切り出した。
「ジーク、侍女たちが噂をしていたよ。『ジークベルト様は神童だ』とね。最近は流暢に言葉を話して、難しい本も読んでいるようだね」
「ぼくは、他の子供より、成長が早いだけですよ。珍しくはありますが、いないわけではありませんよね」
「そうだね、いなくはないね。ただ、ここまで対等に話せて、駆け引きまでする二歳児を僕は聞いたことはないよ」
「それは、テオ兄さんの前だけですよ。交渉相手がただ成長の早い幼児では、相手にしてもらえないじゃないですか。それに、ぼくは、テオ兄さんの秘密を知っています。最大限それを使うのは、交渉では当たり前のことです」
「交渉ね」
「交渉ですよ」
互いに視線を合わせ、相手の動向を窺い見る。
んー。あとひと押しかな。
ここは対等な関係を築かないとね。
「ぼくだけ秘密を知っているのは、不公平ですから、魔力値が異常で、Lv1で魔法が使えて、対等に会話ができ、難読な本も読める。他の大人には、神童と呼ばせて隠れ蓑にする二歳児なんです。これがぼくの秘密です。ぼくは、Lv2になれば満足です。その間だけお付合いください」
「わかったよ。第三週の二日に出掛けよう。ただし、ニコライの手は借りない。二人で討伐に行く。狙いはホワイトラビットだ」
「わかりました。ありがとう、テオ兄さん」
テオ兄さんは、あきらめたかのように視線を外し、不承不承頷いた。
俺は笑顔で答え、内心では、ガッツポーズを決めた。
当初の予定通りホワイトラビット狩りとなった。
ホワイトラビットは、『白狩り』で最初に戦う魔物だ。
『白狩り』とは、貴族の子が初めてのレベル上げをする行事である。
貴族は、四歳を過ぎると魔法の特訓が始まる。
だが、魔法スキルの取得は、魔力値が関係するため、平均的な初期値ではどんなに修練しても取得できないのだ。
そのため『白狩り』で、ある程度のレベルを上げ、魔法スキルの取得ができる状況にする。
ホワイトラビットは、魔物ではあるが、素早いだけで、非常に弱く、失敗しても、怪我ですむのだ。
「ジークは、いい性格をしているんだな。気づかなかったよ」
「褒めていただきありがとうございます」
「とんだ二歳児だよ」
「ぼく、テオ兄さんとは、とても仲良くできそうです」
「僕は、これからのことを考えると頭が痛いよ」
テオバルトは、そっと天を仰いだのだった。