不運からの最強男

 あの日を境に、リアは体調を崩すことが増え、ベッドの上で過ごす時間が少しずつ長くなっていった。
 リアの療養部屋の前では、子どもたちが母に会いたいとアンナに迫っていた。

「今日もお母様に会えないの?」
「マリアンネ様、申し訳ございません」

 アンナが頭を下げると、マリアンネと手を繋いでいたゲルトが、絵本を胸に抱えたまま上目遣いで訴えた。

「お母ちゃま、絵本よんでくれるやくそく……」

 空気を察したテオバルトが、そっとゲルトの肩に手を置く。

「ゲルト、僕が代わりに読むよ」

 しかしゲルトは首を横に振り、ぎゅっと絵本を抱きしめた。
 唇が震え、今にも泣き出しそうな顔で言う。

「……いや、お母ちゃまがいい」

 アンナは困ったように膝を折り、ゲルトと目線を合わせた。

「リア様は、今日は少しお疲れでして……」

 そう言いかけたとき、部屋の奥から小さな鈴の音が響いた。
 リアが枕もとの呼び鈴を鳴らしたのだ。
 アンナはすぐに姿勢を正し、扉を軽くノックしてから静かに開けた。

「リア様、失礼いたします」

 リアは枕に身を預けたまま、弱い声で言った。

「アンナ……子どもたちを、連れてきて?」
「しかし、お体の調子が……」
「お願いよ。少しだけでいいの」
「承知しました」

 アンナが扉を大きく開けると、ゲルトが真っ先に駆け寄った。

「お母ちゃま!」
「まあ、ゲルト。見ない間にまた大きくなったわね」

 リアは上体を起こし、いつものように微笑みを向けた。
 その動きはゆっくりで、息が少しだけ乱れていたが、子供たちは母の笑顔に気を取られ、変化に気づかない。
 扉の前で立ちすくんでいたマリアンネとテオバルトに、リアは優しく手を伸ばした。

「マリーも、テオも……近くで顔を見せて」

 ふたりは顔を見合わせ、ほっとしたように笑って、リアのもとへ駆け寄った。


 子どもたちが部屋を出ていったあと、リアはしばらく目を閉じて休んでいた。
 眠っているというより、力を取り戻そうと必死に呼吸を整えているようにも見えた。
 夕方が過ぎ、部屋の灯りが柔らかく揺れるころ、ギルベルトが扉を開けて入ってくる。

「今日、子どもたちが会いに来たと報告を受けた」

 ギルベルトは枕もとの椅子を引き寄せ、リアのそばに腰を下ろした。

「うふふ、大きくなっていて驚いたわ」

 リアは微笑みながら、子どもたちの姿を思い返した。

「そうか……よかったな」

 ギルベルトは目を細め、リアの横顔をしばらく見つめていた。
 うれしそうな表情が、今から告げる言葉で曇るかもしれないと分かっていて、ギルベルトは一度だけまぶたを伏せた。
 表情を変えないまま、リアの手を包み込むように握る。触れた指先に、わずかなこわばりがあった。

「父上が、また有能な呪術師を他国で見つけたとの報告が入った」
「まあ……お義父様が?」

 リアが目を見開く。
 その反応を見て、ギルベルトの喉がひくりと動いた。

「またしばらく、治療に専念してもらうことになるが……大丈夫か」
「ええ、私は大丈夫よ」

 リアはギルベルトの手を握り返し、弱々しくも微笑みを浮かべた。
 その握り返す力が、少し前よりも弱くなっていることに、ギルベルトは気づいていた。
 だが、彼はなにも言わず、ただその手を離さなかった。


 療養部屋の扉が閉まった瞬間、廊下の冷えた空気が肌を刺した。
 ギルベルトは一度だけ深く息を吐き、胸の奥のざわめきを押し込める。
 そのとき、壁際に控えていたハンスが一歩前に出た。

「ギルベルト様。……また魔術学校から連絡が入っております」

 ギルベルトの眉がわずかに寄る。
 その反応を見て、ハンスは続けた。

「ゲルト様の件でございます。まだ四歳でいらっしゃること、特待生枠への勧誘は異例であること……何度もご説明申し上げているのですが、先方は引き下がる気配がございません」

 ギルベルトは短く息を吸い、視線を床に落とした。
 ハンスの言葉の裏にある理由は、すでに理解している。
 鑑定士が不用意に漏らしたあの日から、ゲルトの名は望まぬ形で人々の耳に届き、幼い子供に向けられるべきでない期待が膨らんでしまった。

「……しばらくは、相手にするな」

 低く抑えた声だった。
 ハンスは深くうなずく。

「承知いたしました。ただ、先方は才能の保護を理由に──」
「ゲルトはまだ子どもだ」

 ギルベルトは言葉を遮った。
 その一言の奥に、先ほど見たリアの弱った横顔が静かに影を落とす。

「家族のそばにいればいい。……今は、それでいい」

 ハンスはそれ以上なにも言わなかった。
 ギルベルトの横顔に宿る影が、どこから来たものなのかを察していたからだ。
 ギルベルトはリアの部屋の扉を一度だけ振り返り、胸の奥の疼きを押し隠すように、無言のまま歩き出した。