ギルベルトは客室の扉を、ゆっくりと押し開けた。
ベッドのすぐそばには、産婆が用意した小さな揺り籠が置かれている。
そっと中を覗くと、赤子のゲルトが寝息を立てていた。
ぐずりもせず、ただ静かに眠っている。
「この子を、どうする」
ギルベルトの声は低く、誰に向けたものでもなかった。
背後で足音がした。
振り返ると、ヴィリバルトが立っていた。
荒れ狂うフラウを別館に置いてきたらしく、疲れの残る顔で、それでも兄をまっすぐに見つめている。
「兄さん。デボラ嬢がいなくなったって……本当に?」
「ああ。どこにもいない」
短い沈黙が落ちた。
その間にも、ゲルトは静かに眠り続けている。
「……この子は、デボラの子だ」
ギルベルトは揺り籠を見下ろしながら言った。
「だが、デボラ嬢はもう戻らないだろう。このままでは……身分も、行き場もない」
ヴィリバルトは眉を寄せた。
兄の言葉の重さを理解しながらも、慎重に口を開く。
「兄さん。まずは義姉さんと話したほうがいい。勝手に判断したら、きっと悲しむ」
「ああ……」
ギルベルトは目を閉じた。
リアはまだ寝台に伏している。呪いの影響は見えないが、体が弱っているのは明らかだった。
「リアを巻き込みたくはないが……避けられんか」
揺り籠の中で、ゲルトが小さく指を動かした。
その手からは、生まれた時に握っていた魔力結晶が消えている。
ギルベルトは、その小さな手を見つめながら、胸の奥に重い痛みが広がるのを感じた。
「……リアが目を覚ましたら、話をしよう。この子のことを、決めねばならない」
朝の光が、揺り籠の縁を静かに照らしていた。
リアの目覚めを侍女から聞いたギルベルトは、執務を放り投げるようにして寝室へ向かった。
扉を押し開けると、リアは枕もとに身を起こしていた。
まだ顔色は悪いものの、意識ははっきりしている。
「ギル?」
リアが気づき、微笑んだ。その笑みは、いつものリアのものだった。
ギルベルトは胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じながら、寝台のそばに腰を下ろした。
「体調はどうだ」
「大丈夫よ。少し……胸が重いだけ」
リアは胸もとに手をあてた。
昨夜そこに灯っていた光は、今はもう消えている。
ギルベルトはリアの細い肩に手を伸ばしかけて、そのまま拳を握りしめた。
触れれば壊れてしまいそうで、怖かった。
だが、それだけではない。
伝えるべきことが多すぎて、どれから口にすればいいのか分からなかった。
静かな沈黙がふたりの間に落ちる。
リアはその沈黙の重さに気づき、ゆっくりと首をかしげた。
「……ギル?」
ギルベルトは深く息を吸い、吐き出した。
「リア、デボラ嬢がいない」
リアの表情がわずかに揺れた。
「……そう。やっぱり」
「やはりとは?」
リアは視線を落とし、膝の上で指を組んだ。
「以前……デボラ様からお願いをされたの」
ギルベルトはリアの言葉に耳を傾ける。
「もし……デボラ様が私に刃を向けることがあったとしても、ゲルトだけは守って欲しいと」
「なっ……!」
ギルベルトは息をのんだ。
「ギル、私はデボラ様と約束したの。私の名にかけて、あの子を守ると」
「リア! なにを言っている?」
ギルベルトの声は震えていた。
リアは静かに目を閉じ、そしてゆっくりとギルベルトの手を取った。
「ギル。あの子は……デボラ様が託した子よ」
リアの紫の瞳が、まっすぐにギルベルトを見つめた。
「デボラ様は覚悟していた。だから、あの子を……守ってほしいって」
リアは微笑んだ。その微笑みはどこまでも慈悲深く、それでいて確かな決意を帯びていた。
「ギル。お願い。ゲルトを……私たちの子として迎えてあげて」
ギルベルトの目が大きく見開かれた。
「リア……それは……」
「簡単なことじゃないのは、わかっているわ。でも……あの子をひとりにしたくない。ゲルトはアーベル家で生まれた、私とあなたの子よ」
リアは静かに、しかし揺るぎなく言い切った。
「リア……」
ギルベルトはリアの手を握り返した。
「……わかった。お前の願いなら……無視はできん」
リアはほっと息をつき、微笑んだ。
「ありがとう、ギル」
数日が過ぎた。
デボラの行方は依然として掴めず、屋敷には重い空気が漂っていた。
その日の午後、アーベル家の執務室にはギルベルト、ヴィリバルト、そして隠居したヘルベルトが揃っていた。
壁際には、ハンスが控えている。
ヘルベルトは机に肘をつき、深い皺を寄せて息子たちを見た。
「それで、ギルベルト。話とはなんだ」
ギルベルトは一度だけ息を整え、父と弟の視線を正面から受け止めた。
「ゲルトのことです」
その名がでた瞬間、室内の空気がわずかに張りつめた。
ヴィリバルトが姿勢を正し、ヘルベルトは黙って続きを促す。
ギルベルトは言葉を選ばず、まっすぐに告げた。
「ゲルトをアーベル家の四男として発表します」
ハンスが小さく息をのんだ。
ヴィリバルトは目を見開き、ヘルベルトは深く目を閉じた。
「ギルベルト」
ヘルベルトの声は低く、重い。
「その子供はローゼン男爵家の子だ」
「承知しています」
ギルベルトは迷いを見せなかった。
「しかし、デボラ嬢は行方不明となりました。このまま放置すれば、あの子は身分も行き場もなく、ただ捨てられるだけです」
ヴィリバルトが口を開いた。
「兄さん、本気なのかい。四男として迎えるということは、アーベル家の名を背負わせるということだよ」
「わかっている」
ギルベルトは静かに答えた。
「リアが望んでいる。ゲルトを私たちの子として迎え入れてほしいと」
「義姉さんが……」
ヴィリバルトは言葉を失い、室内には重い沈黙が落ちた。
やがて、ヘルベルトがゆっくりと息を吐いた。
「お前が当主だ、ギルベルト。すべてはお前の決断に委ねられている」
ギルベルトは父の言葉を静かに受け止めた。
「私は、ゲルトをアーベル家の子として守る。それが、リアの願いであり、私の責務だ」
ヘルベルトは目を閉じ、そしてうなずいた。
「ならば、私は口を挟まん。アーベル家は弱き者を捨てる家ではない。お前の決断を支持しよう」
ヴィリバルトも息を吐いた。
「兄さんがそこまで言うなら、私も従うよ。ゲルトは……私の甥っ子だ」
ハンスが静かに胸に手を当てた。
「では、準備を進めます。正式な発表は、生後一ヶ月のお属初めにて」
ギルベルトはうなずいた。
ゲルトはアーベル家の四男として、正式に迎えられることが決まった瞬間だった。
ベッドのすぐそばには、産婆が用意した小さな揺り籠が置かれている。
そっと中を覗くと、赤子のゲルトが寝息を立てていた。
ぐずりもせず、ただ静かに眠っている。
「この子を、どうする」
ギルベルトの声は低く、誰に向けたものでもなかった。
背後で足音がした。
振り返ると、ヴィリバルトが立っていた。
荒れ狂うフラウを別館に置いてきたらしく、疲れの残る顔で、それでも兄をまっすぐに見つめている。
「兄さん。デボラ嬢がいなくなったって……本当に?」
「ああ。どこにもいない」
短い沈黙が落ちた。
その間にも、ゲルトは静かに眠り続けている。
「……この子は、デボラの子だ」
ギルベルトは揺り籠を見下ろしながら言った。
「だが、デボラ嬢はもう戻らないだろう。このままでは……身分も、行き場もない」
ヴィリバルトは眉を寄せた。
兄の言葉の重さを理解しながらも、慎重に口を開く。
「兄さん。まずは義姉さんと話したほうがいい。勝手に判断したら、きっと悲しむ」
「ああ……」
ギルベルトは目を閉じた。
リアはまだ寝台に伏している。呪いの影響は見えないが、体が弱っているのは明らかだった。
「リアを巻き込みたくはないが……避けられんか」
揺り籠の中で、ゲルトが小さく指を動かした。
その手からは、生まれた時に握っていた魔力結晶が消えている。
ギルベルトは、その小さな手を見つめながら、胸の奥に重い痛みが広がるのを感じた。
「……リアが目を覚ましたら、話をしよう。この子のことを、決めねばならない」
朝の光が、揺り籠の縁を静かに照らしていた。
リアの目覚めを侍女から聞いたギルベルトは、執務を放り投げるようにして寝室へ向かった。
扉を押し開けると、リアは枕もとに身を起こしていた。
まだ顔色は悪いものの、意識ははっきりしている。
「ギル?」
リアが気づき、微笑んだ。その笑みは、いつものリアのものだった。
ギルベルトは胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じながら、寝台のそばに腰を下ろした。
「体調はどうだ」
「大丈夫よ。少し……胸が重いだけ」
リアは胸もとに手をあてた。
昨夜そこに灯っていた光は、今はもう消えている。
ギルベルトはリアの細い肩に手を伸ばしかけて、そのまま拳を握りしめた。
触れれば壊れてしまいそうで、怖かった。
だが、それだけではない。
伝えるべきことが多すぎて、どれから口にすればいいのか分からなかった。
静かな沈黙がふたりの間に落ちる。
リアはその沈黙の重さに気づき、ゆっくりと首をかしげた。
「……ギル?」
ギルベルトは深く息を吸い、吐き出した。
「リア、デボラ嬢がいない」
リアの表情がわずかに揺れた。
「……そう。やっぱり」
「やはりとは?」
リアは視線を落とし、膝の上で指を組んだ。
「以前……デボラ様からお願いをされたの」
ギルベルトはリアの言葉に耳を傾ける。
「もし……デボラ様が私に刃を向けることがあったとしても、ゲルトだけは守って欲しいと」
「なっ……!」
ギルベルトは息をのんだ。
「ギル、私はデボラ様と約束したの。私の名にかけて、あの子を守ると」
「リア! なにを言っている?」
ギルベルトの声は震えていた。
リアは静かに目を閉じ、そしてゆっくりとギルベルトの手を取った。
「ギル。あの子は……デボラ様が託した子よ」
リアの紫の瞳が、まっすぐにギルベルトを見つめた。
「デボラ様は覚悟していた。だから、あの子を……守ってほしいって」
リアは微笑んだ。その微笑みはどこまでも慈悲深く、それでいて確かな決意を帯びていた。
「ギル。お願い。ゲルトを……私たちの子として迎えてあげて」
ギルベルトの目が大きく見開かれた。
「リア……それは……」
「簡単なことじゃないのは、わかっているわ。でも……あの子をひとりにしたくない。ゲルトはアーベル家で生まれた、私とあなたの子よ」
リアは静かに、しかし揺るぎなく言い切った。
「リア……」
ギルベルトはリアの手を握り返した。
「……わかった。お前の願いなら……無視はできん」
リアはほっと息をつき、微笑んだ。
「ありがとう、ギル」
数日が過ぎた。
デボラの行方は依然として掴めず、屋敷には重い空気が漂っていた。
その日の午後、アーベル家の執務室にはギルベルト、ヴィリバルト、そして隠居したヘルベルトが揃っていた。
壁際には、ハンスが控えている。
ヘルベルトは机に肘をつき、深い皺を寄せて息子たちを見た。
「それで、ギルベルト。話とはなんだ」
ギルベルトは一度だけ息を整え、父と弟の視線を正面から受け止めた。
「ゲルトのことです」
その名がでた瞬間、室内の空気がわずかに張りつめた。
ヴィリバルトが姿勢を正し、ヘルベルトは黙って続きを促す。
ギルベルトは言葉を選ばず、まっすぐに告げた。
「ゲルトをアーベル家の四男として発表します」
ハンスが小さく息をのんだ。
ヴィリバルトは目を見開き、ヘルベルトは深く目を閉じた。
「ギルベルト」
ヘルベルトの声は低く、重い。
「その子供はローゼン男爵家の子だ」
「承知しています」
ギルベルトは迷いを見せなかった。
「しかし、デボラ嬢は行方不明となりました。このまま放置すれば、あの子は身分も行き場もなく、ただ捨てられるだけです」
ヴィリバルトが口を開いた。
「兄さん、本気なのかい。四男として迎えるということは、アーベル家の名を背負わせるということだよ」
「わかっている」
ギルベルトは静かに答えた。
「リアが望んでいる。ゲルトを私たちの子として迎え入れてほしいと」
「義姉さんが……」
ヴィリバルトは言葉を失い、室内には重い沈黙が落ちた。
やがて、ヘルベルトがゆっくりと息を吐いた。
「お前が当主だ、ギルベルト。すべてはお前の決断に委ねられている」
ギルベルトは父の言葉を静かに受け止めた。
「私は、ゲルトをアーベル家の子として守る。それが、リアの願いであり、私の責務だ」
ヘルベルトは目を閉じ、そしてうなずいた。
「ならば、私は口を挟まん。アーベル家は弱き者を捨てる家ではない。お前の決断を支持しよう」
ヴィリバルトも息を吐いた。
「兄さんがそこまで言うなら、私も従うよ。ゲルトは……私の甥っ子だ」
ハンスが静かに胸に手を当てた。
「では、準備を進めます。正式な発表は、生後一ヶ月のお属初めにて」
ギルベルトはうなずいた。
ゲルトはアーベル家の四男として、正式に迎えられることが決まった瞬間だった。
