ゲルトの出産から三日が過ぎた。
デボラは寝台に身を起こし、揺り籠で眠るゲルトを見つめていた。
小さな指は、まだあの魔力結晶を握ったままだ。
「……やるしかないの。ごめんなさい」
かすれた声だったが、迷いはなかった。
産婆も侍女も遠くの部屋に下がり、客室にはデボラとゲルトだけがいる。
デボラはそっと水晶細工を手に取った。
光を受けて淡く輝くその奥には、誰にも知られてはならない魔道具が眠っている。
深く息を吸い、魔力循環を始める。
『漆黒』
つぶやいた瞬間、客室全体が薄い闇に包まれた。
外からは何も見えず、何も聞こえない。完全な闇の結界。
デボラは水晶細工へ手をかざし、魔力を流し込む。
水晶の奥で、封じられていた魔道具がゆっくりと姿を現した。
「さあ、出てきなさい」
ぱきり、と小さな音を立てて水晶の表面がひび割れ、魔道具が露わになる。
デボラはそれを両手で受け止めた。
その瞬間、ゲルトの手の中の魔力結晶が微かに光る。
「……皮肉なものね」
デボラは一度だけ瞬きをし、揺れを押し殺した。
魔道具をゲルトの小さな手へそっと近づける。
魔力結晶が反応し、淡い光が二つの間を行き交う。
そして結晶と魔道具は、まるで最初からひとつだったかのように重なり合った。
その瞬間、ゲルトが目を開けた。
泣き声はない。
ただ、まっすぐにデボラを見つめていた。
世界を知らないはずの瞳が、どこかすべてを受け入れているように見えた。
デボラの胸がきゅっと痛む。
「ごめんなさい。あなたを巻き込んで……強く生きて、ゲルト」
ゲルトは瞬きもせず、母を見つめ続ける。
デボラはその小さな手を包み込み、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
「愛しているわ、ゲルト」
そっと額に唇を寄せる。
闇の結界はまだ部屋を覆っていた。
デボラは魔道具を手に取り、影の中へと足を踏み入れた。
『闇渡』
闇が揺れ、彼女の姿はすっと溶けるように消えた。
デボラが次に現れたのは、侯爵家にある当主夫妻の寝室だった。
この日はまだギルベルトが執務に追われていて、部屋には戻っていない。
薄明かりの中、リアは静かに眠っている。
デボラは影から抜け出し、寝台のそばに立った。
その手には、完成した神の呪いの媒体。
「リア様」
ささやくような声だったが、その奥には鋭い決意があった。
「恨むなら、あなたに宿ったアーベル家の至宝を恨んでちょうだい」
リアは眠ったまま、なにも知らない。
その無防備さが、かえって残酷だった。
デボラは魔道具をそっと枕もとに置く。
空気が震え、魔道具が淡く光を放ち、脈動する。
リアの眉がわずかに寄り、胸の奥へ見えない何かが入り込んでいく。
「……これで、いい」
デボラは影へと後ずさり、闇に溶けるように姿を消した。
魔道具は静かに作動を続け、神の呪いは、リアの体に深く根を下ろしていった。
***
ギルベルトが寝室に戻ったのは、深夜を過ぎたころだった。
執務の疲れを引きずりながら扉を開けると、薄明かりの中でリアが寝台に横たわっているのが見えた。
「……リア?」
返事はない。
いつもなら気配に気づいて目を開けるはずの彼女が、微動だにしない。
ギルベルトは眉をひそめ、寝台へ駆け寄った。
「リア!」
ギルベルトの声が震えた。
リアの胸もとには、見慣れない淡い光が脈打っていた。
枕もとには、砕け散った小さな魔道具の破片が散らばっている。
「なにがあった!」
手を伸ばした瞬間、リアの体を走る黒い紋様が、かすかに浮かび上がった。
ギルベルトの表情が凍りつく。
「リア! しっかりしろ!」
ギルベルトは彼女の肩を抱き寄せたが、その手に伝わるのは、冷たさとなにかの気配。
リアの眉が苦しげに寄る。呼吸が乱れ、胸の奥でなにかが蠢いている。
「誰か──!」
叫びが廊下に響き、侍女たちが駆け込んでくるが、誰も状況を理解できない。
リアの体を蝕む神の呪いは、すでに深く根を張っていた。
ギルベルトは歯を食いしばり、彼女の手を強く握りしめた。
「……いったい、誰が……」
その問いに答える者は、どこにもいなかった。
翌朝。
リアはまだ目を覚まさず、ギルベルトは一睡もせずに傍らに座っていた。
胸もとの淡い光は消えていたが、肌はまだ冷たい。
扉が控えめに叩かれる。
「旦那様……ハンスでございます」
「入れ」
ハンスが深刻な面持ちで告げる。
「魔術団の遠征に出ていたヴィリバルト様が……急ぎ戻られました」
「ヴィリバルトが?」
ギルベルトが立ち上がろうとしたその時。
「兄さん!」
荒い息をつきながらヴィリバルトが駆け込んできた。
肩の上にはフラウが浮かんでいるが、その様子がおかしい。
「なに……これ……!」
ヴィリバルトが寝台に近づこうとした瞬間、風が弾けるように暴れ出した。
「だめ! だめよ、ヴィリバルト! 近づいちゃだめ!」
ヴィリバルトは思わず足を止めた。
「フラウ、どうしたんだい」
「わからない……でも、あれは……人間が触れちゃいけないものよ……!」
フラウの声は震え、風がざわざわと部屋の空気を乱す。
ギルベルトはリアを庇うように立ち、ヴィリバルトを見た。
「人が触れられないもの、だと?」
ヴィリバルトは枕もとに散らばる砕けた魔道具の破片に目を留めた。
「兄さん、これは……」
「わからん。だが、リアは突然こうなった」
ギルベルトの声は低く、怒りと恐怖が混じっていた。
フラウは部屋の外へ逃げるように飛び出し、風の膜のようなものを張って震えている。
「いや、いや……これ、だめ……!」
尋常ではない怯え方に、ヴィリバルトは拳を握りしめた。
「兄さん、『鑑定眼』で視るよ」
ギルベルトはうなずき、リアの体をそっと横に向ける。
ヴィリバルトの赤い瞳が見開く。
「兄さん……これは、ただの呪いじゃない。私の『鑑定眼」でも解析不能だ」
「呪いだと……?」
ギルベルトの表情がこわばる。
その時、ハンスが静かに告げた。
「ギルベルト様。デボラ様の姿が、どこにもございません」
ギルベルトは息をのむ。
「ゲルト様は、お眠りになられています」
静寂が落ちた。
ギルベルトはゆっくりとリアの方へ向き直り、その手をそっと握り直した。
その時だった。
「……ギル……?」
かすかな声が、寝台から漏れ、リアがゆっくりと目を開けた。
「リア……!」
「……どうしたの、ギル。そんな顔をして……」
リアは胸もとに手を当て、視線を彷徨わせる。
廊下の外で、フラウが叫ぶ。
「だめ……まだ近づいちゃだめよ! あれは、消えてない……」
ギルベルトはリアの手を握りしめたまま、顔を覗き込む。
「リア、なにがあった。覚えているか」
リアはゆっくりと首を振った。
「……夢を見ていた気がするの……暗闇の中で……誰かが……」
「リア……」
「大丈夫よ、ギル。あなたがいてくれるもの」
リアはギルベルトの顔を見つめ返して、安心させるようにふっと微笑んだ。
デボラは寝台に身を起こし、揺り籠で眠るゲルトを見つめていた。
小さな指は、まだあの魔力結晶を握ったままだ。
「……やるしかないの。ごめんなさい」
かすれた声だったが、迷いはなかった。
産婆も侍女も遠くの部屋に下がり、客室にはデボラとゲルトだけがいる。
デボラはそっと水晶細工を手に取った。
光を受けて淡く輝くその奥には、誰にも知られてはならない魔道具が眠っている。
深く息を吸い、魔力循環を始める。
『漆黒』
つぶやいた瞬間、客室全体が薄い闇に包まれた。
外からは何も見えず、何も聞こえない。完全な闇の結界。
デボラは水晶細工へ手をかざし、魔力を流し込む。
水晶の奥で、封じられていた魔道具がゆっくりと姿を現した。
「さあ、出てきなさい」
ぱきり、と小さな音を立てて水晶の表面がひび割れ、魔道具が露わになる。
デボラはそれを両手で受け止めた。
その瞬間、ゲルトの手の中の魔力結晶が微かに光る。
「……皮肉なものね」
デボラは一度だけ瞬きをし、揺れを押し殺した。
魔道具をゲルトの小さな手へそっと近づける。
魔力結晶が反応し、淡い光が二つの間を行き交う。
そして結晶と魔道具は、まるで最初からひとつだったかのように重なり合った。
その瞬間、ゲルトが目を開けた。
泣き声はない。
ただ、まっすぐにデボラを見つめていた。
世界を知らないはずの瞳が、どこかすべてを受け入れているように見えた。
デボラの胸がきゅっと痛む。
「ごめんなさい。あなたを巻き込んで……強く生きて、ゲルト」
ゲルトは瞬きもせず、母を見つめ続ける。
デボラはその小さな手を包み込み、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
「愛しているわ、ゲルト」
そっと額に唇を寄せる。
闇の結界はまだ部屋を覆っていた。
デボラは魔道具を手に取り、影の中へと足を踏み入れた。
『闇渡』
闇が揺れ、彼女の姿はすっと溶けるように消えた。
デボラが次に現れたのは、侯爵家にある当主夫妻の寝室だった。
この日はまだギルベルトが執務に追われていて、部屋には戻っていない。
薄明かりの中、リアは静かに眠っている。
デボラは影から抜け出し、寝台のそばに立った。
その手には、完成した神の呪いの媒体。
「リア様」
ささやくような声だったが、その奥には鋭い決意があった。
「恨むなら、あなたに宿ったアーベル家の至宝を恨んでちょうだい」
リアは眠ったまま、なにも知らない。
その無防備さが、かえって残酷だった。
デボラは魔道具をそっと枕もとに置く。
空気が震え、魔道具が淡く光を放ち、脈動する。
リアの眉がわずかに寄り、胸の奥へ見えない何かが入り込んでいく。
「……これで、いい」
デボラは影へと後ずさり、闇に溶けるように姿を消した。
魔道具は静かに作動を続け、神の呪いは、リアの体に深く根を下ろしていった。
***
ギルベルトが寝室に戻ったのは、深夜を過ぎたころだった。
執務の疲れを引きずりながら扉を開けると、薄明かりの中でリアが寝台に横たわっているのが見えた。
「……リア?」
返事はない。
いつもなら気配に気づいて目を開けるはずの彼女が、微動だにしない。
ギルベルトは眉をひそめ、寝台へ駆け寄った。
「リア!」
ギルベルトの声が震えた。
リアの胸もとには、見慣れない淡い光が脈打っていた。
枕もとには、砕け散った小さな魔道具の破片が散らばっている。
「なにがあった!」
手を伸ばした瞬間、リアの体を走る黒い紋様が、かすかに浮かび上がった。
ギルベルトの表情が凍りつく。
「リア! しっかりしろ!」
ギルベルトは彼女の肩を抱き寄せたが、その手に伝わるのは、冷たさとなにかの気配。
リアの眉が苦しげに寄る。呼吸が乱れ、胸の奥でなにかが蠢いている。
「誰か──!」
叫びが廊下に響き、侍女たちが駆け込んでくるが、誰も状況を理解できない。
リアの体を蝕む神の呪いは、すでに深く根を張っていた。
ギルベルトは歯を食いしばり、彼女の手を強く握りしめた。
「……いったい、誰が……」
その問いに答える者は、どこにもいなかった。
翌朝。
リアはまだ目を覚まさず、ギルベルトは一睡もせずに傍らに座っていた。
胸もとの淡い光は消えていたが、肌はまだ冷たい。
扉が控えめに叩かれる。
「旦那様……ハンスでございます」
「入れ」
ハンスが深刻な面持ちで告げる。
「魔術団の遠征に出ていたヴィリバルト様が……急ぎ戻られました」
「ヴィリバルトが?」
ギルベルトが立ち上がろうとしたその時。
「兄さん!」
荒い息をつきながらヴィリバルトが駆け込んできた。
肩の上にはフラウが浮かんでいるが、その様子がおかしい。
「なに……これ……!」
ヴィリバルトが寝台に近づこうとした瞬間、風が弾けるように暴れ出した。
「だめ! だめよ、ヴィリバルト! 近づいちゃだめ!」
ヴィリバルトは思わず足を止めた。
「フラウ、どうしたんだい」
「わからない……でも、あれは……人間が触れちゃいけないものよ……!」
フラウの声は震え、風がざわざわと部屋の空気を乱す。
ギルベルトはリアを庇うように立ち、ヴィリバルトを見た。
「人が触れられないもの、だと?」
ヴィリバルトは枕もとに散らばる砕けた魔道具の破片に目を留めた。
「兄さん、これは……」
「わからん。だが、リアは突然こうなった」
ギルベルトの声は低く、怒りと恐怖が混じっていた。
フラウは部屋の外へ逃げるように飛び出し、風の膜のようなものを張って震えている。
「いや、いや……これ、だめ……!」
尋常ではない怯え方に、ヴィリバルトは拳を握りしめた。
「兄さん、『鑑定眼』で視るよ」
ギルベルトはうなずき、リアの体をそっと横に向ける。
ヴィリバルトの赤い瞳が見開く。
「兄さん……これは、ただの呪いじゃない。私の『鑑定眼」でも解析不能だ」
「呪いだと……?」
ギルベルトの表情がこわばる。
その時、ハンスが静かに告げた。
「ギルベルト様。デボラ様の姿が、どこにもございません」
ギルベルトは息をのむ。
「ゲルト様は、お眠りになられています」
静寂が落ちた。
ギルベルトはゆっくりとリアの方へ向き直り、その手をそっと握り直した。
その時だった。
「……ギル……?」
かすかな声が、寝台から漏れ、リアがゆっくりと目を開けた。
「リア……!」
「……どうしたの、ギル。そんな顔をして……」
リアは胸もとに手を当て、視線を彷徨わせる。
廊下の外で、フラウが叫ぶ。
「だめ……まだ近づいちゃだめよ! あれは、消えてない……」
ギルベルトはリアの手を握りしめたまま、顔を覗き込む。
「リア、なにがあった。覚えているか」
リアはゆっくりと首を振った。
「……夢を見ていた気がするの……暗闇の中で……誰かが……」
「リア……」
「大丈夫よ、ギル。あなたがいてくれるもの」
リアはギルベルトの顔を見つめ返して、安心させるようにふっと微笑んだ。
