不運からの最強男

 デボラの陣痛は、夜明け前の静けさの中で始まった。
 侯爵家の客室では侍女たちが慌ただしく動き、呼ばれた産婆が手際よく布や器具を整えていく。
 厚いカーテンの向こうはまだ闇が深く、空が白む気配もない。

「深く息を吸って……はい、ゆっくり吐いてくださいね、デボラ様」

 落ち着いた声が、揺れる痛みの波を少しだけ和らげた。
 額に汗がにじみ、指先がそこへ触れる。次の痛みが来て、息が詰まる。

『この瞬間が来ることは、わかっていた。逃げられない。もう前に進むしかない』

 痛みが押し寄せるたび、視界が白く弾ける。

「……はい、もう少し……! デボラ様、しっかり……!」

 遠くなる声。
 そして――か細い産声が客室に満ちた。

「おめでとうございます。元気な……」

 産婆の言葉がふっと途切れる。
 腕に抱いた赤子の小さな手が、なにかをぎゅっと握っていた。

「……まあ。珍しいことがあるのですね」

 立ち会っていたアンナが息をのむ。
 デボラはゆっくりと顔を上げた。
 赤子の手には、淡く光を宿した小さな魔力結晶。
 生まれつき魔力の高い子が稀に持つという祝福の証。
 産婆は穏やかに微笑んだ。

「ご安心ください。時折こうして石を持って生まれる子がいるのです。強い魔力をお持ちなのでしょう」

 侍女たちは安堵の息を漏らし、赤子の産声に胸をなで下ろした。
 デボラは返事をせず、ただ産婆の腕の中の赤子を見つめた。

「旦那様とリア様にご報告いたします」

 アンナが小さく頭を下げ、裾を揺らして部屋を出ていく。
 扉が閉まると、産婆が赤子をそっとデボラの胸に乗せた。

「よく頑張られました、デボラ様」

 デボラは目を閉じ、浅く息を吐く。

「これぐらい、たいしたことないわ」

 強がりの声はかすれていたが、その表情はどうしようもなく柔らかかった。
 赤子の泣き声が、静かな客室に優しく響くていた。


 赤子が胸の上で小さく身じろぎしたころ、扉の向こうから足音が近づいてきた。

「デボラ様、失礼いたします」

 アンナの声とともに扉が開く。
 ギルベルトとリアが並んで立っていた。

「……産まれたと聞いた」

 ギルベルトの声は低く、どこか慎重だった。
 リアはそっと微笑み、寝台へ歩み寄った。

「お疲れさま、デボラ様。無事でよかったわ」

 デボラは返事をせず、胸の上の赤子を見下ろす。
 その小さな手には、まだ魔力結晶が握られていた。
 ギルベルトが近づき、赤子を覗き込む。

「強い子だ」

 デボラはゆっくり顔を上げる。汗に濡れた髪が頬に張りついていた。

「ねえ、ギルベルト様」
「なんだ」
「せめて……名前だけでも、あなたにつけてほしいの」

 かすれた声だったが、まっすぐだった。
 ギルベルトは一瞬だけ目を伏せ、そして迷いなく口を開く。

「ゲルトだ」

 リアが静かに微笑む。
 デボラは瞬きをした。まさか名をつけてもらえるとは思っていなかったのだ。

「ゲルト……?」
「アーベル家では、嫡男にベルト、次男にバルトをつける。そのどちらにも連なる名だ。この子にふさわしいと思った」

 淡々とした声の奥に、確かな意志があった。
 デボラは胸の上の赤子を見つめた。

「ゲルト」

 その名をそっとつぶやく。

「……いい名ね」

 ギルベルトはわずかにうなずき、リアは赤子の頬へ静かに視線を落とした。
 客室には、赤子の小さな寝息だけが満ちていた。