デボラがアーベル侯爵家に滞在して、もう二カ月が過ぎた。
日を追うごとに悪阻は強まり、胸の奥に沈んでい感情が、ゆっくりと形を持ちはじめていた。
それは痛みともざわめきともつかない、名を持たない感情で、自分でも扱い方がわからないものだった。
ベッドの端に腰をかけたデボラは、胸もとを押さえながら浅く息を吐いた。
吐き気は波のように押し寄せては引き、また寄せてくる。そのたびに、腹の奥の小さな命が、自分とは別の鼓動を刻んでいることを思い知らされる。
そのとき、扉が静かにノックされた。
「デボラ様、入ってもいいかしら?」
リアの声だった。
「どうぞ」
扉が開き、リアが盆を抱えて入ってくる。
湯気の立つ薄いスープと、香りの弱いハーブティー。どちらも、デボラの体調を気遣って選ばれたものだと、見ただけでわかった。
「今日はこれなら飲めるかと思って」
「侯爵夫人が、わざわざ? 私へのあてつけのつもり?」
わざと棘を含ませて言う。
しかしリアは気にした様子もなく、ふわりと微笑んだ。
「あなたの体が楽になるなら、それでいいのよ」
その優しさが、どうしようもなく癪に障った。
こんなふうに穏やかに受け止められると、自分の棘がただの拗ねた言葉みたいで、余計に腹が立つ。胸の奥で、言いようのない感情が軋む。
「ギルベルト様は、私のことを気にしてくださっているのかしら?」
リアの表情が曇ることを期待して、わざとらしく言ってみる。
ほんの少しでも動揺してくれれば、自分の存在がただの客ではないと証明できる気がした。そんな期待を抱いてしまう自分が、また嫌になる。
だがリアは落ち着いた様子で首を振った。
「ギルは、あなたの体を心配しているわ。それ以上でも、それ以下でもないの」
「ふん。つまらないわね」
強がりを装いながら、ハーブティーを一口だけ飲む。
喉を通る温かさが、なぜか痛かった。
***
悪阻が少し落ち着き、デボラは部屋の窓辺に座る時間が増えた。
手もとには、彼女自身が持ち込んだ水晶細工。光を受けて淡く色を変えるそれを眺めるたび、ため息がひとつ漏れる。
水晶の奥に沈む光は、日によって色が違って見えた。
腹の奥で小さな命が動く。そのわずかな胎動に呼応するように、水晶の光がかすかに揺れた気がして、デボラは目を伏せる。
逃げられないのだと、自分に言い聞かせるように首を振った。
扉がそっと開き、リアがアンナを従えて入ってきた。
窓辺に佇むデボラの横顔を見た瞬間、リアの表情がやわらかくほどける。
「少し、落ち着いたみたいね、デボラ様」
リアはそっと近づき、肩にかかる髪へ視線を落とした。
「髪が少し乱れているわ。梳かしてもいいかしら?」
「侍女にやらせればいいでしょう」
「うふふ、でも私がやりたいの。それに……デボラ様の髪、とても綺麗だから」
デボラは思わず振り返った。
リアの瞳には打算も、哀れみも、優越感もない。ただ、まっすぐな光だけがあった。
この人は、本当に──そう思うと、胸の奥がわずかに軋んだ。
「好きにすれば?」
リアは微笑み、デボラの背後に回る。
櫛が髪を通るたび、静かな時間が流れた。
「痛くはないかしら?」
「別に……」
本当は少し気持ちよかった。
幼い頃、母に髪を梳かしてもらった記憶がふと蘇る。
自分より年下のリアに、こんな感覚を覚えるなんて、ありえないはずだった。
「デボラ様は、強いわね」
この女はなにを言っているの。
デボラは反射的に否定する。
「強くなんてないわ」
「ええ。だからこそ、強く見せているんでしょう?」
櫛の動きは止まらない。
リアの声は、責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ事実をそっと置くようだった。
デボラは返事をしなかった。
けれど、肩の力がほんの少しだけ抜けた。
ふと水晶細工へ視線を戻す。
光はもう揺れていなかった。ただ、底の見えない透明さだけが、妙に冷たく感じられた。
***
デボラは寝台の上で横になり、荒い呼吸を整えていた。
胎動が強く、眠れない。腹の奥で小さな命が暴れるたび、胸の奥に不安が広がる。
タイミングを見計らったように、扉がそっと開いた。
「デボラ様、起きている?」
リアだった。手には湯気の立つハーブティーがある。
「また来たの?」
「眠れないと思って」
リアは勝手に入ってくるでもなく、出ていくでもなく、ただデボラの返事を待っていた。
「入れば?」
リアはほっとしたように微笑み、椅子に腰を下ろした。
「赤ちゃん、元気ね」
「ええ。元気すぎて困るわ」
リアは静かに笑った。
「私も、三人ともそうだったの。夜中に起こされてばかりで……でも、不思議と嫌じゃなかった」
「それは愛している人の子供だからよ……」
言った瞬間、デボラは小さく息をのんだ。
自分の声が、自分の意思より先に飛び出したことに、遅れて驚きが追いついてくる。
気づけば、口が勝手に動いていた。
言うつもりなんてなかった。こんな弱さを、誰かに見せるつもりなんてなかった。
リアもわずかに目を瞬いた。
その反応が、なぜか痛い。なぜか怖い。そして、なぜか救われる。
ふたりの間に沈黙が落ちる。
逃げ場を失ったように、デボラは続けた。
「それなのに……どうして、こんなにも愛しいのかしら」
言葉にした瞬間、胸の奥がじんと熱くなる。
そんな感情、自分が持っているとは思っていなかった。
リアはなにも言わず、ただデボラを見つめていた。
責めもせず、慰めもせず、ただ受け止めるようにそこにいる。
その静けさが、逆に心を揺らす。
胸の奥に溜め込んでいたものを吐き出すように、デボラはもう一度口を開いた。
「もう……わかっているんでしょ。この子は──」
リアは遮るように、しかし優しく首を横に振った。
「いいのよ。あなたには、そうするしか道がなかったんでしょう?」
「どこまで知っているのよ」
問いかけは棘を含んでいたが、リアは微笑んだ。
「今は、お子を無事に産むことを最善に考えましょう」
その言葉は、慰めでも同情でもなかった。
デボラは視線をそらし、「ふん」とだけつぶやいた。
だがその態度は、以前よりずっとやわらかかった。
***
臨月が近づき、デボラのお腹は大きく膨らんでいた。
歩くたびに息が上がる。ほんの数歩でも、体が重くて思うように進めない。
リアがそっと手を差し出した。
「ゆっくりでいいわ」
「別に、手なんて借りなくても」
言葉とは裏腹に、デボラはその手を取った。
リアはなにも言わない。ただ、支えるだけ。
その沈黙が、思いのほか心地よかった。
ソファへ向かう途中、デボラがぽつりとつぶやいた。
「リア様って、変な人ね」
「そう?」
「ええ。私のこと、嫌いでしょ」
リアは少しだけ笑った。
「嫌いじゃないわ」
デボラは返事をしなかった。
けれど、リアの手を離さなかった。
ソファに腰を下ろすと、しばらく沈黙が続いた。
やがてデボラが、視線を落としたまま、かすかに息を吸った。
「リア様。お願いがあるの」
リアは驚いたように目を瞬いた。
「なにかしら?」
デボラはお腹に手を添えた。
その指先は、いつになく弱々しかった。
「この子を……守ってほしいの」
声は震えていなかった。ただ、押し殺したように小さかった。
「この先、私があなたに刃を向けたとしても、この子だけは……」
リアはデボラの手にそっと触れた。
「ええ。約束するわ」
リアの声は静かで、揺らぎがなかった。
「例えなにがあっても、あなたの子は守る。リア・フォン・アーベルの名にかけて」
デボラはゆっくりと目を閉じた。
涙は落ちない。けれど、肩の力がほんの少しだけ抜けた。
「ふん。頼んだわよ」
その言葉は、これまででいちばんやわらかかった。
デボラの胸の奥で、母としての感情が確かに芽生えていた。
