不運からの最強男

 白いリーリアの花が、一面に咲き誇っていた。
 風もないのに花弁だけがかすかに揺れ、魔力の残り香が淡く漂っている。
 その花畑の真ん中で、俺とゲルト兄さんは肩を並べていた。
 言葉はない。けれど沈黙は重くも軽くもなく、ただそこに在るだけだった。
 胸を締めつけていた痛みはまだ残っている。
 それでも、リーリアに包まれていると、不思議とその痛みが少しずつ溶けていくのがわかった。
 俺は花弁をひとつ指先でなで、横にいる兄さんへ声をかけた。

「ところで、ゲルト兄さん」
「……なんだ?」
「この空間の出口はどこでしょうか」

 ゲルト兄さんが怪訝そうに俺を見てから、ゆっくりと視線を向ける。

「そこに非常口があるが?」
「えっ」

 反射的にそちらを見る。
 花畑の端に、ぽつんと扉だけがあった。
 壁も枠もない。ただ、空間から切り離されたように木製の扉がひとつだけ立っている。

「ほんとだ……あんなにわかりやすく、いったいいつから?」
《初めからございました》

 脳内に淡々と響くヘルプ機能の声に、俺は思わず瞬きをした。
 ヘルプ機能?

《はい、なんでしょうか》

 応答できるんだ?

《ええ、できますよ》

 ゲルト兄さんとの戦闘中は、まったく反応がなかったからさ。

《私だって空気は読みます。ご主人様自身が越えなければならない試練かと判断して、見守っておりました》

 ……そうなんだ。

《その間に、ハクとスラをなだめて説得しておりました。大変でした》

 その光景が浮かび、苦笑いがこぼれる。
 最近ヘルプ機能は、肝心な場面では妙に黙り込むことがある。

《ご主人様の成長を妨げないよう、判断しているだけです》

 どこか誇らしげな声音に、苦笑いが深まった。
 便利なのか、手がかかるのか、いまだによくわからない。

「おいっ、どうした?」

 ぶっきらぼうな声で、ゲルト兄さんが俺の反応に気づいて声をかけてきた。

「いえ、その……ここはどこなのかと思いまして」
「魔術学校の研究棟の真下だ」
「魔術学校なんですか?」
「そうだ。俺は常に監視下に置かれていたからな」

 ゲルト兄さんが、気まずそうに視線を落とした。

《おそらく、位置情報を常に監視されていたのだと思われます》

 なるほど。
 ということは、ここにいたらまずいのでは?

「ゲルト兄さん」

 俺がそう呼ぶたびに、ゲルト兄さんの肩がわずかに跳ねる。
 怒っているわけじゃない。きっと聞き慣れない呼び名に、反射的に力が入っているのだろう。

「なんだっ」
「いやその……あの扉はどこに繋がっているのですか?」
「俺の研究室の天井裏だ」
「……天井裏って、そんなに広いんですか?」

 ゲルト兄さんが、今度は眉をひそめて視線をそらした。
 その仕草に、胸の奥で嫌な予感が膨らむ。

「天井から落下する仕組みだ」

 脳裏に、天井から真っ逆さまに落ちていく自分がよぎる。
 いやいや、危険すぎるだろう。

「慣れれば問題ない」
「問題ありますよ!」

《ご主人様、お取り込み中に失礼します。ご主人様なら、ここから移動魔法で転移できますよ》

 えっ?
 でも移動魔法って、自分で一度その場所に行ってないと使えないんじゃ。

《正確には研究棟の真下ではなく、研究棟入り口付近のやや真下よりで、以前ハクが攫われて助け出した場所の辺りになります》

 そんな偶然が……いや、これは。

《ご主人様の『幸運者』が効いている証拠ですね》

 だよね。不運からの幸運か……極端だな。
 長居は無用だ。ゲルト兄さんを連れて、さっさと屋敷に戻ろう。

《よろしいのですか?》

 うん? なにが?

《ゲルトにご主人様が移動魔法を使えることが、ばれますが》

 ……ヘルプ機能、それわざと聞いてるよね。

《なんのことでしょう》

 誤魔化しても無駄だよ。ヘルプ機能が俺に移動魔法を提案した時点で、ゲルト兄さんには害がないと判断したってことでしょ。

《さすが、ご主人様!》

 それで誤魔化したつもり?

「ごほっ……ん、ジー、ジークベルト」

 ゲルト兄さんがぎこちなく咳払いをする。

「なんですか? ゲルト兄さん」
「俺が言うのも……なんだが、その……」

 一度こちらを見て、すぐに視線をそらす。耳がほんのり赤い。

「ここに長くいると、魔術学校のやつらに居場所を特定される可能性がある」
「はい」
「だから、一度俺が研究室に戻り、移動石を持ってくる。だ、だから……お前はここで待っていろ」

 ちらりと俺の反応を窺うゲルト兄さん。

《要するに、ゲルトはご主人様を安全な場所に残したいということですね》
「ゲルト兄さん、その……」

 俺が呼びかけると、ゲルト兄さんの肩がびくりと跳ねた。

「な、なんだっ」

 声が上ずり、顔がさらに赤くなる。

「えっとですね、移動石はいらないです」
「なっ! お前、この状況が理解できているのか!」
「そうじゃなくてですね、僕の移動魔法で屋敷まで戻ります」
「なっ……」

 ゲルト兄さんが驚きで言葉を詰まらせる。
 その目が、一瞬だけ揺れた。信じられない、というより、理解が追いついていないようだ。

「見つかる前に移動しますね」

 固まったままのゲルト兄さんの肩に、そっと手を置く。
 触れた瞬間、彼の肩がわずかに強張ったのが伝わった。
 そのまま俺は移動魔法を展開した。


 ***


 転移した俺たちは、そのまま父上の執務室へ向かい、事情を説明していた。

「その場所は、魔術学校の研究棟の地下なんだね」
「はい。叔父上」

 ゲルト兄さんの落ち着いた返事に、叔父は満足そうにうなずく。

「すぐに調査をいれよう。いいよね、兄さん?」
「ああ、影を動かそう」

 父上は静かにうなずき、鋭い視線で状況を見極めていた。

「そうとなればジーク、君の協力が必要だ」
「はい」

 迷いなく返事をした俺に、叔父が一瞬だけまばたきをした。
 ゲルト兄さんの前でためらわなかったことが意外だったのだろう。
 家族全員が知る過去を思えば、それは確かに大きな変化だった。
 叔父はすぐに表情を整えたが、その目の奥にはわずかな安堵が揺れていた。

「このガラス石に移動魔法を込めて、その場所へ転移できる『移動石』を作ってほしい」
「はい」
「私も手伝うから、一度移動魔法でリーリアの花畑に転移してくれるかい」
「はい」

 俺と叔父が詳細を詰めているそばで、父上がゲルト兄さんに声をかけた。

「ゲルト。この件が落ち着いたら……話がある」
「……父上。それは僕が母上といえ、このアーベル侯爵家と血縁関係がないことでしょうか」
「それは……」

 父上の動きが止まり、気まずそうに俺へ視線を向けた。

「ジークベルトは、知っています」
「そう……なのか」

 父上は視線を落とし、短く息をついた。
 その仕草には、長く胸に抱えてきた思いが滲んでいた。

「先ほど、ゲルト兄さんに母上との血の繋がりがないことは聞きましたが……」
「俺はアーベル侯爵家の血筋ではない」

 ゲルト兄さんが、はっきりと告げた。
 その声音には覚悟と、長く押し込めてきた不安が静かに混じっていた。

「その件については、家族全員で話しをする場を持とう。ねえ、兄さん」
「ヴィリバルト」

 父上は叔父の名を呼んだあと、ほんの一瞬だけ言葉を失った。
 揺れた視線が宙をさまよい、飲み込んだ思いが喉元で震えているのがわかる。その迷いが、こちらにまで伝わってきた。

「兄さん、子供たちはもう大人だ。理解してくれるさ。それに……」

 叔父がゲルト兄さんをまっすぐ見つめる。

「ゲルトはアーベル家の家族だ」
「叔父上っ……」

 ゲルト兄さんの声が震えた瞬間、父上が椅子を押しのけるように立ち上がった。

「当たり前だろう! ゲルトは私とリアの息子だ!」

 迷いなど一片もない、揺るぎない言葉だった。

「父上……!」
「血の繋がりなどは関係ない。家族として過ごした時間がすべてだ」

 ゲルト兄さんは唇を噛みしめ、言葉にならないまま目元を濡らした。
 俺の胸にも父上の言葉が刺さり、胸の奥がじんと熱くなった。

「ゲルト、協力してくれるね」
「……はい」

 ゲルト兄さんがうなずくと、叔父が口元をゆるめた。

「では、準備に取りかかろう。相手に知られる前に動く。時間はあまり残されていないよ」