不運からの最強男

 次の瞬間、空間がねじれ、視界が白に染まった。
 気づけば、異様なほど鮮やかなリーリアの花畑が広がっていた。
 母上が愛した花のはずなのに、この光景はどこかゆがんで見える。
 濃密な魔力が空気を満たし、胸の奥を押し込むような圧がかかった。
 浅く息を吸っただけで喉が軋み、体内にざらついた痛みが走る。
 白い花弁は風もないのに震えていた。
 一輪ごとに魔力の脈動が滲み、花畑全体が呼吸しているように見える。
 肌を押す圧力も、揺れる花弁の震えも──すべてがゲルトの魔力だった。
 花畑の隅々まで彼の痕跡が染み込み、この空間そのものが彼の意思で形づくられている。
 その異様な花の海の奥に、ゲルトが立っていた。
 肩が上下するほど息を荒らし、焦点を失った瞳は虚空をさまよっている。
 足もとがおぼつかないほどの危うい揺れだった。

「ゲルト……」

 名を呼んだ瞬間、彼の瞳が震えた。
 虚ろだった視線が、信じられないものを見るように俺を捉える。

「なぜ、お前がここにいる!」

 苛立ちが空間を震わせ、花畑がざわりと揺れた。

「俺だって、来たくて来たわけじゃない」

 思わず言い返すと、ゲルトの声はさらに荒れた。

「嘘を言うな! ここは俺の場所だ!」

 白い花弁がざわめき、風もないのに花畑全体が大きく波打つ。
 空気が軋み、苛立ちに呼応するように青白い雷の気配が漂い始めた。

「ここは俺だけの場所だ。お前を踏み込ませはしない!」

 叫びと同時に、花々の間を青白い光が走る。
 魔力の奔流が制御を失い、彼自身をも傷つけかねないほど荒れている。
 俺は肩を落とし、短く息を吐いた。

「……やっぱり、なにを言っても無駄なんだな」

 理不尽な怒りだけをぶつけられ、俺の話を聞こうとすらしない。
 結局、俺とゲルトはあいまみえる運命なのだ。

「なにをごちゃごちゃと言っている。消えろ、ジークベルト!」

 怒声とともに、ゲルトが両腕を突き出した。

『雷閃』

 ゲルトの手のひらに青白い光が収束し、雷光となって一直線に迫る。
 空気が震え、肌の表面を針のような電気が刺した。
 俺は反射的に身を翻す。
 遅れて耳を裂く轟音が追いかけ、背後の地面が黒く焼け焦げた。
 その閃光に重なるように、幼い日の記憶が鮮明によみがえる。

 ──頭上から落ちてきた雷。
 心と体に焼きついた痛みと恐怖。
 視界の端で揺れた、憎しみに満ちたゲルトの瞳。
 忘れられるはずがない。

「戦うしかないか」

 震える体を抑えつけ、視線を正面に戻す。
 逃げるわけにはいかない。これは俺自身が過去を乗り越えるための戦いだ。

『守り』

 光の盾が展開し、雷光の余波を受け止める。
 まばゆい残光が花々を包むが、リーリアは散ることなく咲き続けていた。
 ゲルトの魔力は荒れ狂っている。
 だが、その奔流は芯を欠き、力だけが虚しく空回りしているようだった。
 長くはもたない。それがわかる。

「……終わらせる」

 俺は手のひらを突き出した。

『氷槍』

 冷気が走り、鋭い氷の槍が雷光へと突き進む。
 雷光と氷槍がぶつかり合い、空気が震えた。
 互いの力が激しく押し合い、閃光が花畑を照らす。
 俺は歯を食いしばり、恐怖をかかえたまま魔力を注ぎ込む。
 冷気が濃くなり、槍の輪郭がさらに研ぎ澄まされていく。

「ぐっ……!」

 ゲルトの声が漏れた。
 雷光が揺らぎ、暴走した魔力の奔流が崩れ始める。
 もはや彼の意思を離れ、ただ暴れるだけの力になっていた。
 限界は近い。
 次の瞬間、氷槍が雷光を突き破った。
 閃光がはじけ、氷の破片と雷の残滓が空に散る。
 花々は揺れながらも散ることなく、その光を受け止めていた。
 荒い息を整え、俺はまっすぐゲルトを見据える。

「もうやめろ、ゲルト」

 血走った目で睨み返すゲルト。
 肩で荒く息をしながら、震える腕を突き出す。

「まだだ……まだ終わらない!」

 手のひらに雷光が集まる。
 だが、その輝きは弱々しく揺らめいていた。
 必死に力を絞り出そうとするが、暴走した魔力は形を保てない。
 雷光ははじけ、残滓を残すことなく消えた。

「……ゲルト」

 一歩踏み出した俺の声に、ゲルトの肩がびくりと揺れた。
 張りつめていた糸がぷつりと切れ、膝をつく。
 魔力は完全に尽き、伏せた顔の陰で手が小刻みに震えていた。
 すぐそばには白いリーリアが咲いている。
 周囲に焦げ跡が広がっているのに、その花だけは傷ひとつない。
 母上が最も愛した花──その白に、母上の笑顔が重なった。
 俺がその白に目を奪われていると、ゲルトがかすれた声を漏らした。

「……お前は、いいよな」

 伏せたままの視線とは裏腹に、押し殺した感情だけが空気を震わせる。

「母上に……一番愛されていた『愛しい子』なんだから」

 怒りでも嫉妬でもない。
 もっと深く、長い時間をかけてひび割れた心の痛みが、その言葉にはあった。

「母上はそんなふうに優劣をつける人じゃない。なにを言ってるんだ」

 思わず否定した俺に、ゲルトは苦笑とも嗤いともつかない息を漏らす。

「俺は、お前に優しく微笑んで『愛しい子』と呼んだ母上を、たしかに見たんだよ」
「だからといって、一番とか関係ないだろう。母上は俺たち兄弟全員を愛してくれた」
「ふっ……お前はなにも知らないから」

 ゲルトが乾いた笑みを浮かべ、ぽつりと落とすように言った。

「俺は、母上を蘇生するためだけに……ずっと研究を続けてきた」
「ゲルト……?」

 胸の奥がざわつき、思わずもう一歩近づく。
 その気配を拒むように、彼はさらに小さくつぶやいた。

「……俺は……母上と……血がつながっていない」

 時間が止まったようだった。
 心臓を素手で掴まれたような痛みが走り、思考が空白になる。
 そんなはずはない。そう思うのに、声が出ない。
 考えたことすらなかった。
 ゲルトと母上に血のつながりがないなんて、想像の外側にあった。
 けれど、目の前の姿が、その言葉を否応なく裏づけていた。
 ゲルトは茶色の前髪を揺らしながら、ゆっくりと顔を上げる。
 リーリアへ向けた茶色の瞳には、言葉にならない揺らぎが宿っていた。
 ゲルトにとって、母上は生きる意味だった。
 誰にも語らず、ただ大切に守り続けてきたもの。
 なのに今、その白に触れようとはしない。
 触れれば、自分がその白を汚してしまう。そんな思いが、彼の指先を縛っていた。
 胸の奥に押し込めてきた呼び名が、喉の奥で軋む。
 呼ぶつもりなんて、なかった。
 呼べば、また傷つくかもしれない。
 そう思っていたのに、気づけば唇が動いていた。

「ゲルト兄さん……」

 自分の声なのに、ひどく遠くに聞こえた。
 長い間沈めていたその言葉が、古い傷を押し広げるように疼いた。
 たったひと言で、空気が変わった。
 沈黙が重みを帯び、場の温度がわずかに揺らぐ。
 ゲルトは固まったまま、信じられないものを見るような目をしていた。
 瞳は震え、焦点を結べず、俺を見ようとしては逸れる。
 それでも、視線は離れない。
 拒もうとする意思と、崩れかけた感情が、その奥でせめぎ合っていた。
 その狭間に生まれた脆さは、触れれば壊れてしまいそうだ。
 俺がそう呼んだことで、彼の中の均衡は崩れ始めていた。

「どうして……お前は……俺を……」

 その声は微かに揺れていた。
 問いの形をしていながら、もう答えに触れてしまったような響きだった。
 強く握りしめた拳が白くなり、指先に抑えきれない感情が滲んでいく。
 それが彼にとってどれほどの痛みか、俺には計り知れない。
 わからないまま、ただ、その姿を見つめるしかなかった。
 怒りでも、憎しみでも、優しさでもない。
 それらのどれとも違う。曖昧で、それでも確かななにかが胸にあった。

「……俺にもわからないよ、ゲルト兄さん」

 ただ、そう呼びたかった。
 そう呼ぶしかなかった。
 それが俺の答えだった。
 ゲルトの瞳から、堰を切ったように涙があふれた。
 両手で顔を覆い、背を丸めて泣き崩れる。
 押し殺した声が耐えきれず漏れ、嗚咽へと変わっていく。
 許したわけじゃない。
 忘れたわけでもない。
 それでも、兄さんと呼ぶことは、今の俺にとって必要だった。
 ああ、やっと。
 過去を引き裂いた音が、ようやく溶けていく。
 胸の奥にしがみついていた感情が、静かにほどけていくのを感じた。

 足もとに咲く白いリーリアが、ふたりを見守っていた。
 花弁が微笑むように揺れ、その白がふたりに寄り添っていた──。