不運からの最強男

 家族の温度に触れるたび、ゲルトの胸の奥にざわつきが残った。
 拒む理由はもう見つからないのに、素直に受け入れるにはどこか怖い。
 長い時間を埋めるには、まだ心が追いついていなかった。

 ──過ちを背負え。でも孤独になる必要はない。

 アルベルトの言葉が、痛みと温かさの両方を伴って沈んでいく。
 自分はなぜ家族から離れたのか。
 あれほど強く、ひとりでいるしかないと思い込んでいた理由はなんだったのか。
 結局のところ、戻れないと決めつけていたのは自分自身だった。
 窓辺のリーリアが揺れ、かつて母に抱きしめられた記憶が微かに疼く。
 その疼きが、今の自分をどこへ導こうとしているのか──まだわからなかった。


 さらに幾日かが過ぎ、テオバルトが部屋を訪れた。
 彼はアルベルトから、ゲルトが魔術学校の裏の仕事に関わっていたことを聞いていた。
 覚悟していたとはいえ、弟の口から告げられた事実は重く、複雑な思いを残す。
 だからこそ、テオバルトはふたりの共通の思い出に触れた。

「覚えているかい、ゲルト。母様にリーリアの花を渡した日のことを」

 やわらかな声が、ゲルトの心をそっと揺らす。
 記憶の底から、泥だらけで森を駆け抜け、ようやく見つけた白い花の姿が浮かび上がる。
 母の枕もとに差し出したとき、リアが涙を浮かべて抱きしめてくれた。
 窓辺の花がその記憶を呼び起こし、ゲルトの胸に鈍い痛みが走る。

「……あの日のことは、忘れていない」

 テオバルトが微笑む。

「あの後、ハンスにみんなで怒られたんだよ。なぜか父様も一緒にね」
「うん」

 ゲルトは小さく笑みを漏らした。

「みんな泥だらけで、母様のベッドが真っ黒になって……アンナがあんなに慌てるところ、初めて見たよ」
「そうだったの?」
「あっ……そうか。ゲルトは怒られた後、すぐに眠ってしまったんだ」
「アンナが慌てる姿、見たかったな……」

 テオバルトは弟の言葉に目を細める。

「これからは、見られるさ」

 ゲルトは窓辺の花を見つめ、言葉を探すように唇を震わせた。

「……テオ兄さん、魔術省と学校、そして帝国は、思っているより深く結びついているんだ」

 その告白に、テオバルトはわずかに眉を寄せた。
 ゲルトの声には確信めいた響きがありながらも、微かな不安が滲んでいる。

「僕はどうしても自分が洗脳されていたとは思えない。ただ、そうでもなければ自分からみんなと距離を置くなんて、考えられない」

 吐き出された言葉には痛みがあった。
 家族との絆を自ら壊したという現実だけは、どうしても受け入れられない。
 テオバルトは黙って弟を見つめ、その心に刻まれた傷の深さを感じ取った。


 ***


「ゲルトの様子はどうだ?」

 執務室の奥で、ギルベルトが低い声を響かせた。

「まだ落ち着いてはいません」

 アルベルトが答えると、対面のヴィリバルトが紅茶をひと口含み、ゆったりとカップを置いた。

「マリアンネがいまもそばに控えています」
「そうか」

 ギルベルトは短く応じる。

「父様、ゲルトは『洗脳されていた』と言われることに、強い拒否反応を示しています」

 テオバルトの報告に、ヴィリバルトが肩をすくめた。

「だろうね。長い時間をかけて、認識そのものを少しずつ書き換えられた。本人にとっては、それが当たり前になっていたんだ」

 ヴィリバルトの目が鋭さを帯びる。

「だから、ジークを襲った時『鑑定眼』には洗脳の痕跡が映らなかったんだよ」
「叔父上、それはどういうことでしょうか」

 アルベルトが身を乗り出す。

「簡単に言えば、常識を改変されたんだ。本人にとっては普通だから、外から見ても異常とは映らないのさ」
「ジークベルトへの異常なほどの敵意は、消えるか?」

 ギルベルトの問いに、ヴィリバルトは指を組み、背もたれに身を預けた。

「それはなんとも言えないね。私の見立てでは……彼自身の心の問題だと思う」
「ゲルトは秘密を知っているのでしょうか」

 テオバルトがギルベルトを見る。

「お前たちと同じで、ゲルトが成人を迎えた日、六年前に話す予定だったが……」

 ギルベルトは言葉を濁した。

「兄さん、あっちが会わせないようにしていたんだから、しかたないよ」

 ヴィリバルトが気遣うように言い、口もとをゆがめる。

「ただ、まさか本人が負傷して帰宅するとは、誰も想定していなかっただろうね」
「うむ。ゲルトは魔術省、魔術学校、帝国。それぞれが深く関わっていることを知っている。単なる推測ではなく、確かな情報としてだ」

 執務室の空気がわずかに張りつめた。

「まあ、心配ないよ」

 ヴィリバルトが軽く手を広げる。

「私が丹精込めて張った強力な結界を屋敷にかけているからね。ちょっとやそっとでは外側から攻撃はされないさ」
「叔父上、さすがです」

 アルベルトが素直に称賛する。

「その間に必要な情報を聞き出しておこう」
「少しずつですが、心を開いてくれています」

 テオバルトは微笑を含ませて報告した。

「このまま、何事もなく、穏やかに過ごしてくれればいいのだが」

 ギルベルトの声には、父としての願いが滲んでいた。


 ***


 そして、穏やかな療養が続いていたある日、それは起きた──。
 気分転換にと部屋を出たゲルトは、偶然ジークベルトと出会ってしまう。

「ジークベルト……」

 その名を呼ばれたジークベルトは振り返り、顔色を変えた。

「ゲルト」
「ガウッ〈倒れてたやつ、元気そうだ〉」
「ピッ!〈元気そう!〉」

 ハクとスラが無邪気にはしゃぎ、場の空気をわずかに和らげる。
 だが──ゲルトの心は、ジークベルトの姿を認めた瞬間、理由のない憎悪と、心の底から突き上がる強い拒絶が同時に跳ね上がっていた。
 伏せた意識の奥で、かつて刷り込まれた敵の影がざらりと動く。
 拒絶に呼応するように魔力がざわめき、血流に逆巻く熱が流れ込む。
 ゲルトの鼓動は速くなり、呼吸が乱れ、指先が震えた。
 体の奥で膨れ上がる魔力は制御を失い、屋敷の結界を震わせる。

「ゲルト!」

 異変に気づいたジークベルトが声をあげるが、届かない。
 激流のような魔力が空間をゆがませ、床板を軋ませ、窓ガラスを震わせた。
 ハクは身構え、スラは背中に張りついたまま、魔力の奔流にのみ込まれる。
 焦点を失ったゲルトの瞳は、ただジークベルトを見据えていた。
 懐の『移動石』が、限界を超えた魔力に反応する。
 まばゆい光がふたりを包み、次の瞬間、ゲルトとジークベルトの姿は屋敷から消えた。