ヴィリバルトの強力な結界に守られ、ゲルトはアーベル侯爵家で療養の日々を送っていた。
屋敷の者たちは、ゲルトとジークベルトが顔を合わせぬよう細心の注意を払い、ジークベルト自身も兄の心を乱さぬよう、その部屋へは一度も近づかなかった。
ゲルトの部屋は、彼がいつ戻ってきても違和感のないよう整えられていた。
窓辺にはリーリアの花が一輪。変わらぬ白を湛え、淡い香りを漂わせている。
その前で、マリアンネが身を傾け、弟の様子を確かめながら甲斐甲斐しく世話をしていた。
「ゲルト、はい、あーん」
匙を差し出す姉に、ゲルトはわずかに眉を寄せる。
「姉様、食事は自分で取れます」
拒むような言葉とは裏腹に、声は細く、力がない。
それでも差し出された温もりの前では抗う気力も続かず、結局は口を開いた。
「おいしい?」
マリアンネの問いに、ゲルトは小さくうなずく。
「これはラピスっていってね。ジークベルトが、体が弱っているときに──」
その名が出た瞬間、ゲルトの肩がびくりと震えた。
反射的にマリアンネの手を払ってしまい、匙が軽い音を立てて床に転がる。
「マリアンネ様……!」
侍女が駆け寄ろうとするが、マリアンネが手を上げて制した。
「大丈夫よ」
彼女は怒りも驚きも見せず、ただ弟の表情を追う。
ゲルトはその視線に耐えられず、気まずそうに目を逸らした。その横顔に、マリアンネは言葉にならない痛みを覚えた。
落ちた匙を拾い上げ、乱れた空気を整えるように息をひとつ置いてから席へ戻る。
食事を終えると、マリアンネは決まって語り始めた。
ゲルトが屋敷を離れ、魔術学校へ連れていかれた後のこと。
家族がどれほど彼を案じ、帰りを待ち続けていたかを、声を落として静かに紡ぐ。
「一週間に一度は手紙を書いたのよ」
「……手紙」
ゲルトの声は微かに揺れていた。
信じたいのに、信じてしまえば、これまで孤独に耐えてきた自分が崩れてしまう。
その恐れが、伏せたまつ毛の影に沈んでいた。
マリアンネはその揺らぎを見逃さない。弟の心がまだ過去の影に囚われていることを、そっと受け止める。
「途中で、あなたに届いていないことには気づいていたわ。それでも、もしかしたら届くかもしれないと思って」
小さく息をつき、微笑む。
「だから、ずっと書き続けたの」
そう言って、一通の手紙をゲルトに差し出した。
白い封筒に込められた温もりが、ゲルトの指先へゆっくりと伝わっていく。
封筒を見つめる瞳に、微かな揺らぎが宿った。
凍りついていたものが、ほんの少しずつだが、溶け始めていた。
***
家族が訪れるたび、部屋には少しずつ温もりが戻っていった。
けれどその変化に、ゲルトはどこか居心地の悪さを覚えていた。胸の奥には、理由の掴めないざわつきが残ったままだ。
マリアンネが去ったあと、机の上の手紙をそっと手に取る。
「本当に、毎週書いていたのだろうか。十年以上も……。そんなはずはない」
指先に力がこもり、ゲルトは小さく頭を振った。
「だって、家族は誰ひとり会いに来なかった。手紙も、贈り物も、声も、何も届かなかった」
届かなかった年月分、彼の中には見放されたという前提が重く積もっていた。
だが、姉の声の温度も、差し出された手の震えも、嘘をつく人間のものではない。
その矛盾が、ゆっくりと形を取り始める。
──では、なぜ自分のもとには一通も届かなかったのか。
魔術学校が止めたのか。
教師たちが繰り返し聞かせてきた『家族はお前を忘れた』という言葉は、どこまで真実だったのか。
思い返しても、理由はどこにも見当たらない。
ただ届かなかったという結果だけが、ぽっかりと穴のように残っている。
もし手紙が本当に書かれていたのだとしたら──自分は、ずっとひとりではなかったのではないか。
その考えが、怖いほど静かに胸へ沈んでいった。
***
数日後、アルベルトがゲルトの部屋を訪れた。
扉が開くと同時に、ゲルトの視線は兄の両手へ吸い寄せられる。
あふれるほどの荷物を抱えていた。
「アル兄さん、それは……?」
見上げるゲルトに、アルベルトは少し照れたように笑った。
「これか。これはな、ゲルトに毎年用意していた誕生日の贈り物だ」
包みのひとつを開けば、色あせたリボンが覗いた。
布地は黄ばみ、箱の角は擦り切れている。
触れられぬまま積み重なった年月の痕が、その表面に残っていた。
「リボンなんて……」
ゲルトが眉をひそめると、アルベルトは頬をかきながら、古びた箱の角を指先でなぞった。
「あの頃のお前には、きっと似合うと思ったんだ」
並べられた贈り物は、時の流れに傷を負いながらも、兄の変わらぬ想いを物語っていた。
「僕だけじゃないんでしょ。あいつにも……」
言いかけて、ゲルトは口をつぐむ。
脳裏に浮かんだ顔を、思考の奥へ押しやった。
アルベルトはその一瞬の揺れを黙って見守る。
弟が言葉を探せるよう、浅く息を吐き、間を置いた。
視線を窓辺のリーリアへ移し、その白さに胸のざわつきを沈めるように瞼を伏せ、再びゲルトへ向き直る。
その眼差しには、嫡男としての厳しさと、兄としての温もりがあった。
「ゲルト、家はお前を見捨てない。どんな過ちがあろうと、戻る場所はここだ」
「アル兄さん……」
呼ぶ声はかすれ、ようやく言葉が形を成し始める。
「母上を、よみがえらせたくて……魔術学校の裏の仕事に関わっていた」
アルベルトは目を伏せ、低く息を吐いた。
「そうか、お前も苦しんでいたのだな」
「怒らないの……?」
震える問いに、ゲルトはすがるように兄を見上げた。
アルベルトはゆっくりと首を振る。
「怒りたい気持ちがないわけじゃない。だが、それ以上に、お前を守りたいと思うんだ」
その声には、叱責と赦しが同時に滲んでいた。
「過ちを犯したなら、それを背負う覚悟を持て。だが、背負ったまま孤独になる必要はない。家族はお前を拒まない」
ゲルトは唇を震わせ、言葉を探すように沈黙する。
「……母上を、よみがえらせたかっただけなんだ」
アルベルトはその声を遮らず、ただ受け止めるようにうなずいた。
「わかっている。だが、その願いがどれほど重い代償を伴うか、お前自身が一番知っているはずだ」
ゲルトの視線は窓辺のリーリアへと落ちた。
揺れる花弁が、幸せだった過去と、母のいない今を突きつけ、彼の胸を締めつけた。
屋敷の者たちは、ゲルトとジークベルトが顔を合わせぬよう細心の注意を払い、ジークベルト自身も兄の心を乱さぬよう、その部屋へは一度も近づかなかった。
ゲルトの部屋は、彼がいつ戻ってきても違和感のないよう整えられていた。
窓辺にはリーリアの花が一輪。変わらぬ白を湛え、淡い香りを漂わせている。
その前で、マリアンネが身を傾け、弟の様子を確かめながら甲斐甲斐しく世話をしていた。
「ゲルト、はい、あーん」
匙を差し出す姉に、ゲルトはわずかに眉を寄せる。
「姉様、食事は自分で取れます」
拒むような言葉とは裏腹に、声は細く、力がない。
それでも差し出された温もりの前では抗う気力も続かず、結局は口を開いた。
「おいしい?」
マリアンネの問いに、ゲルトは小さくうなずく。
「これはラピスっていってね。ジークベルトが、体が弱っているときに──」
その名が出た瞬間、ゲルトの肩がびくりと震えた。
反射的にマリアンネの手を払ってしまい、匙が軽い音を立てて床に転がる。
「マリアンネ様……!」
侍女が駆け寄ろうとするが、マリアンネが手を上げて制した。
「大丈夫よ」
彼女は怒りも驚きも見せず、ただ弟の表情を追う。
ゲルトはその視線に耐えられず、気まずそうに目を逸らした。その横顔に、マリアンネは言葉にならない痛みを覚えた。
落ちた匙を拾い上げ、乱れた空気を整えるように息をひとつ置いてから席へ戻る。
食事を終えると、マリアンネは決まって語り始めた。
ゲルトが屋敷を離れ、魔術学校へ連れていかれた後のこと。
家族がどれほど彼を案じ、帰りを待ち続けていたかを、声を落として静かに紡ぐ。
「一週間に一度は手紙を書いたのよ」
「……手紙」
ゲルトの声は微かに揺れていた。
信じたいのに、信じてしまえば、これまで孤独に耐えてきた自分が崩れてしまう。
その恐れが、伏せたまつ毛の影に沈んでいた。
マリアンネはその揺らぎを見逃さない。弟の心がまだ過去の影に囚われていることを、そっと受け止める。
「途中で、あなたに届いていないことには気づいていたわ。それでも、もしかしたら届くかもしれないと思って」
小さく息をつき、微笑む。
「だから、ずっと書き続けたの」
そう言って、一通の手紙をゲルトに差し出した。
白い封筒に込められた温もりが、ゲルトの指先へゆっくりと伝わっていく。
封筒を見つめる瞳に、微かな揺らぎが宿った。
凍りついていたものが、ほんの少しずつだが、溶け始めていた。
***
家族が訪れるたび、部屋には少しずつ温もりが戻っていった。
けれどその変化に、ゲルトはどこか居心地の悪さを覚えていた。胸の奥には、理由の掴めないざわつきが残ったままだ。
マリアンネが去ったあと、机の上の手紙をそっと手に取る。
「本当に、毎週書いていたのだろうか。十年以上も……。そんなはずはない」
指先に力がこもり、ゲルトは小さく頭を振った。
「だって、家族は誰ひとり会いに来なかった。手紙も、贈り物も、声も、何も届かなかった」
届かなかった年月分、彼の中には見放されたという前提が重く積もっていた。
だが、姉の声の温度も、差し出された手の震えも、嘘をつく人間のものではない。
その矛盾が、ゆっくりと形を取り始める。
──では、なぜ自分のもとには一通も届かなかったのか。
魔術学校が止めたのか。
教師たちが繰り返し聞かせてきた『家族はお前を忘れた』という言葉は、どこまで真実だったのか。
思い返しても、理由はどこにも見当たらない。
ただ届かなかったという結果だけが、ぽっかりと穴のように残っている。
もし手紙が本当に書かれていたのだとしたら──自分は、ずっとひとりではなかったのではないか。
その考えが、怖いほど静かに胸へ沈んでいった。
***
数日後、アルベルトがゲルトの部屋を訪れた。
扉が開くと同時に、ゲルトの視線は兄の両手へ吸い寄せられる。
あふれるほどの荷物を抱えていた。
「アル兄さん、それは……?」
見上げるゲルトに、アルベルトは少し照れたように笑った。
「これか。これはな、ゲルトに毎年用意していた誕生日の贈り物だ」
包みのひとつを開けば、色あせたリボンが覗いた。
布地は黄ばみ、箱の角は擦り切れている。
触れられぬまま積み重なった年月の痕が、その表面に残っていた。
「リボンなんて……」
ゲルトが眉をひそめると、アルベルトは頬をかきながら、古びた箱の角を指先でなぞった。
「あの頃のお前には、きっと似合うと思ったんだ」
並べられた贈り物は、時の流れに傷を負いながらも、兄の変わらぬ想いを物語っていた。
「僕だけじゃないんでしょ。あいつにも……」
言いかけて、ゲルトは口をつぐむ。
脳裏に浮かんだ顔を、思考の奥へ押しやった。
アルベルトはその一瞬の揺れを黙って見守る。
弟が言葉を探せるよう、浅く息を吐き、間を置いた。
視線を窓辺のリーリアへ移し、その白さに胸のざわつきを沈めるように瞼を伏せ、再びゲルトへ向き直る。
その眼差しには、嫡男としての厳しさと、兄としての温もりがあった。
「ゲルト、家はお前を見捨てない。どんな過ちがあろうと、戻る場所はここだ」
「アル兄さん……」
呼ぶ声はかすれ、ようやく言葉が形を成し始める。
「母上を、よみがえらせたくて……魔術学校の裏の仕事に関わっていた」
アルベルトは目を伏せ、低く息を吐いた。
「そうか、お前も苦しんでいたのだな」
「怒らないの……?」
震える問いに、ゲルトはすがるように兄を見上げた。
アルベルトはゆっくりと首を振る。
「怒りたい気持ちがないわけじゃない。だが、それ以上に、お前を守りたいと思うんだ」
その声には、叱責と赦しが同時に滲んでいた。
「過ちを犯したなら、それを背負う覚悟を持て。だが、背負ったまま孤独になる必要はない。家族はお前を拒まない」
ゲルトは唇を震わせ、言葉を探すように沈黙する。
「……母上を、よみがえらせたかっただけなんだ」
アルベルトはその声を遮らず、ただ受け止めるようにうなずいた。
「わかっている。だが、その願いがどれほど重い代償を伴うか、お前自身が一番知っているはずだ」
ゲルトの視線は窓辺のリーリアへと落ちた。
揺れる花弁が、幸せだった過去と、母のいない今を突きつけ、彼の胸を締めつけた。
