不運からの最強男

 アーベル侯爵家の玄関ホールに、俺たちは転移した。
 光の余韻が消えると同時に、磨かれた石床の冷気が足もとをなでる。息を整える暇もないまま、階段の上から聞き慣れた声が降ってきた。

「もう、ジークったら、どこへ行っていたの」
「マリー姉様!」

 思わずすがるように呼んだ俺の声に、姉様の視線が揺れる。次の瞬間、その瞳は俺の腕の中のゲルトを捉えた。

「……っ、ゲルト!」

 階段を駆け下りる姉様の勢いに、侍女たちが息をのむ。

「なんてひどい……! 誰か、お父様にすぐ報告して!」

 ゲルトの全身に刻まれた術紋をひと目見ただけで、姉様は状況を理解したらしい。

「治療をするわ。ゲルトを部屋へ運んでちょうだい!」

 迷いのない声だった。ゲルトを想う気持ちが、まっすぐに伝わってくる。
 その指示に、侍女たちがいっせいに動き出した。
 ざわめきが広がる玄関ホールで、俺はゲルトの体をかかえなおした。


 ***


『浄化』

 マリー姉様の聖魔法が、やわらかな光となってゲルトを包み込む。
 だが光は触れたそばから術紋に吸い込まれ、浄化の兆しは見えない。淡い輝きが、呪いの闇に飲まれていく。

「……ダメだわ。呪いが強すぎる」

 声は震えていないのに、姉様の肩だけが力なく落ちた。
 俺を不安にさせまいと平静を保とうとする、その必死さが痛いほど伝わる。

「マリー姉様、僕もお手伝いします」
「ジーク、なにを……」

 驚きが一瞬、姉様の表情をかすめる。
 俺の顔を見つめ、息をひとつ吸うと、その瞳に静かな決意が宿った。

「……わかったわ。ふたりで共鳴して『浄化』を展開する。できるのね、ジーク」
「はい。マリー姉様」

 俺と姉様はゲルトを囲み、互いの手を取った。
 指先から流れ込む魔力が重なり、響き合い、ゲルトの内部にひとつの循環をつくる。

『浄化』

 声が重なった瞬間、共鳴の光が鋭い閃きを放ち、術紋を覆い尽くした。
 黒い闇が軋むように震え、細い亀裂が走る。音もなく砕け散るように、絡みついていた呪いが崩れ、光へ吸い込まれていった。
 やがて、ゲルトの体を覆っていた術紋は跡形もなく消えた。

「成功したのね」

 マリー姉様が胸に手を当て、安堵の息をこぼす。
 その表情を見た瞬間、胸の奥で張りつめていたものがゆっくりとほどけていった。
 ゲルトの顔をのぞき込むと、閉じられた瞼の上で眉が微かに動いた気がした。
 生きている。そう確信できた。
 その時、部屋の扉が勢いよく開かれた。

「ゲルトが倒れて帰ってきたと聞いたが──!」

 駆け込んできたのは父上と叔父だ。
 父上は普段の威厳ある姿からは想像できないほど顔色を失い、荒い息のままベッドへ駆け寄る。

「ゲルト!」

 叔父も肩越しに覗き込み、ふたりの視線がゲルトの浅い呼吸に吸い寄せられた。
 父上は伸ばした手を、触れる寸前で握りしめる。
 触れたいのに触れられない。その葛藤が、震える拳に滲んでいた。

「……生きているな」

 かすれた声だった。張りつめた糸が切れたような響きが、部屋に落ちる。
 その横で叔父がゲルトの顔色を見て眉を寄せた。

「どうしてこんなに衰弱しているんだい」

 答えを求めるように向けられた視線に、マリー姉様は落ち着いた声で返す。

「呪いの術紋を、ジークとふたりで浄化しました。もう心配はいりません」

 父上の肩が大きく落ち、叔父も静かに目を細めた。

「そうか……よくやってくれた」

 その声に合わせるように、部屋に満ちていた緊張がほどけていく。
 誰かがそっと息をつき、空気がゆっくりと温度を取り戻した。
 長く空白だったこの部屋に、ようやく温もりが戻ってきた。