もし監獄と呼ばれる地獄があるのなら、きっとここだ。
そうでなければ、この痛みがどこから来るのかさえ、わからない──。
馬車の扉が閉じる音が、胸の奥に沈んだ。
息をする余裕すらなく、揺れる足もとが波打ち、世界の輪郭が遠ざかっていくようだった。
振り返った窓の向こうで、誰かが手を伸ばした気がした。光をかすめた指先は、すぐに揺れの中へ消えた。
だが、扉はもう開かない。
「いやだ、母上のところに帰る」
叫びは蹄の音に飲まれ、誰にも届かなかった。
あれから、いくつ夜を越えただろう。
魔術学校のこの部屋には、誰ひとり入ってこない。
時計の針が一巡するたびに涙が落ち、気づけば膝を抱えていた。
小さく丸めた体だけが、自分を守る最後の殻みたいだった。
床には散らばった鞄の中身、折れたペン、読みかけの教本。
止まった時間の中で、窓辺のリーリアの花だけが凛と咲き続けていた。
毎日泣いても叱られない。慰められない。知られもしない。
昼はまぶしすぎて、夜は静かすぎて、母上の声が聞こえる気がした。
「お母ちゃま」
絞り出した声は、自分の耳に返ってくるだけ。
幼い頃に呼んでいたその名が、胸の奥で小さく反響した。
涙の温度はもうわからない。
それでも、浮かぶのは母上のことばかりだった。
あの日の笑顔。絵本をめくる声。雲の形を比べた午後。
全部、幻だったのかもしれない。
三年が過ぎた。
泣かない日が増えたのは、涙が底をついただけだ。
授業にも研究にも心の置き場はなく、夜だけが母上の面影を残していた。
そんな日々の中、教授の何気ない言葉がすべてを変えた。
「お前に弟ができたそうだ」
胸の奥に、久しく感じなかった灯がともった。
弟……? 僕に?
言葉が形になるまで少し時間がかかった。
やがて胸の奥がじんと満ちていく。
血を分けた弟。僕とつながる、小さな光。
数日後、許可を得て久しぶりに屋敷へ帰ることができた。
扉の向こうから聞こえる笑い声。誰かが泣き、誰かが優しくあやしている音。
扉が開き、光の中心にいたのは――小さなジークベルトだった。
両親に、兄姉に、彼は抱きしめられていた。
誰もが、その小さな命を祝福していた。
……あれ? そこは、僕の場所じゃなかった?
胸の奥に小さな違和感が生まれ、足が止まった。
母上に名前を呼ばれ、気づけば弟のそばに立っていた。
呼びかけようとした声は、音になる前に消えた。
その子は、僕の好きな色を宿していた。
その子は、僕がいつか守りたいと思っていた顔をしていた。
なのに、胸の奥が静かに沈んでいった。
また母上に会える日が来て、少し躊躇いながら寝室を覗いた。
「私の愛しい子」
音が止まり、世界の色が変わった。
僕は……?
僕は愛しい子じゃないの?
心の中で叫ぶ声に、自分が答えた。
違う。母上は僕を愛している。僕を一番に。
そう思っても、母上の腕の中にいるジークベルトを見るたび、胸がきゅっと縮んだ。
その子が笑えば笑うほど、僕の記憶がひとつずつつぶされていく気がした。
母上に絵本を読んでもらった笑顔も。
リーリアの花を渡した時の涙も。
全部、ジークベルトのものになってしまう気がした。
その瞬間、心の奥で名のつかないものが崩れた。
憎んではいけない。
そう思えば思うほど、黒いものが広がっていく。
たとえ、彼がなにも知らずに笑っていたとしても。
僕の場所を奪ったのは、間違いなく彼だった。
その時、初めて弟に憎しみを覚えた。
母上の棺には、リーリアの花が添えられていた。
その花は、死を拒むように、異様なほど美しく咲いていた。
兄姉は静かに嗚咽を漏らし、父上は顔を覆って震えていた。
それなのに、僕の目から涙は一滴も流れなかった。
泣けないんじゃない。
泣けば、すべてが崩れてしまう。
その時、誰かが声をあげて泣いた。
振り返ると、ジークベルトがいた。
顔をぐしゃぐしゃにして、泣いていた。
その顔は、母上にあまりにも似ていた。
愛される顔そのものだった。
世界が一度、音を失った。
棺のそばに立っているはずなのに、自分の影が見えなかった。
雷の気配が指先に集まっていくのを感じた。
それからの一年は、生きているとは呼べない時間だった。
授業も、食事も、眠りも、すべて母上を取り戻すための通過点。
二年、三年と、空白だけが積み重なった。
墓から持ち出した欠片を禁書と照らし合わせる。
『蘇生』の二文字に息が詰まり、心臓が跳ねた。
研究室で、ひたすら術式を組み続けた。
成功しないまま、時だけが流れた。
そして、すべてが暴かれた。
「嘘だっ……」
世界が反転し、見えていたものが別の意味を帯びた。
それからは、さらにのめり込んだ。
逃げ道が欲しかったわけじゃない。
正しさを求めていたわけでもない。
術式を重ねれば、母上に近づける気がした。
成功しなくても、どこかで触れていられるような錯覚があった。
***
極秘任務から戻った時、右頬には消えない術紋が刻まれていた。
それが呪いだと悟ったのは、紋がじわりと広がり始めた時だ。
右頬から首へ、肩へ。
気づけば右半身を黒く侵していた。
だが侵食は止まらない。
術紋は皮膚の下を這い、全身を染め上げていく。
脈打つ紋様は血管のようにうごめき、肉体を蝕んだ。
痛覚は薄れ、指先の感覚も遠のく。
それでも任務は続いた。
魔の森での交戦中、視界がふっと揺れた。
揺れと同時に術紋が軋み、魔力の流れが乱れる。
指先が思うように動かず、魔法の発動が一瞬遅れた。
その刹那、身を縫いつける術紋が悲鳴をあげ、力が抜けた。
気づけば、地に伏していた。
視界の端で、銀色が揺れる。
……母上?
もう、瞼は動かなかった。
そうでなければ、この痛みがどこから来るのかさえ、わからない──。
馬車の扉が閉じる音が、胸の奥に沈んだ。
息をする余裕すらなく、揺れる足もとが波打ち、世界の輪郭が遠ざかっていくようだった。
振り返った窓の向こうで、誰かが手を伸ばした気がした。光をかすめた指先は、すぐに揺れの中へ消えた。
だが、扉はもう開かない。
「いやだ、母上のところに帰る」
叫びは蹄の音に飲まれ、誰にも届かなかった。
あれから、いくつ夜を越えただろう。
魔術学校のこの部屋には、誰ひとり入ってこない。
時計の針が一巡するたびに涙が落ち、気づけば膝を抱えていた。
小さく丸めた体だけが、自分を守る最後の殻みたいだった。
床には散らばった鞄の中身、折れたペン、読みかけの教本。
止まった時間の中で、窓辺のリーリアの花だけが凛と咲き続けていた。
毎日泣いても叱られない。慰められない。知られもしない。
昼はまぶしすぎて、夜は静かすぎて、母上の声が聞こえる気がした。
「お母ちゃま」
絞り出した声は、自分の耳に返ってくるだけ。
幼い頃に呼んでいたその名が、胸の奥で小さく反響した。
涙の温度はもうわからない。
それでも、浮かぶのは母上のことばかりだった。
あの日の笑顔。絵本をめくる声。雲の形を比べた午後。
全部、幻だったのかもしれない。
三年が過ぎた。
泣かない日が増えたのは、涙が底をついただけだ。
授業にも研究にも心の置き場はなく、夜だけが母上の面影を残していた。
そんな日々の中、教授の何気ない言葉がすべてを変えた。
「お前に弟ができたそうだ」
胸の奥に、久しく感じなかった灯がともった。
弟……? 僕に?
言葉が形になるまで少し時間がかかった。
やがて胸の奥がじんと満ちていく。
血を分けた弟。僕とつながる、小さな光。
数日後、許可を得て久しぶりに屋敷へ帰ることができた。
扉の向こうから聞こえる笑い声。誰かが泣き、誰かが優しくあやしている音。
扉が開き、光の中心にいたのは――小さなジークベルトだった。
両親に、兄姉に、彼は抱きしめられていた。
誰もが、その小さな命を祝福していた。
……あれ? そこは、僕の場所じゃなかった?
胸の奥に小さな違和感が生まれ、足が止まった。
母上に名前を呼ばれ、気づけば弟のそばに立っていた。
呼びかけようとした声は、音になる前に消えた。
その子は、僕の好きな色を宿していた。
その子は、僕がいつか守りたいと思っていた顔をしていた。
なのに、胸の奥が静かに沈んでいった。
また母上に会える日が来て、少し躊躇いながら寝室を覗いた。
「私の愛しい子」
音が止まり、世界の色が変わった。
僕は……?
僕は愛しい子じゃないの?
心の中で叫ぶ声に、自分が答えた。
違う。母上は僕を愛している。僕を一番に。
そう思っても、母上の腕の中にいるジークベルトを見るたび、胸がきゅっと縮んだ。
その子が笑えば笑うほど、僕の記憶がひとつずつつぶされていく気がした。
母上に絵本を読んでもらった笑顔も。
リーリアの花を渡した時の涙も。
全部、ジークベルトのものになってしまう気がした。
その瞬間、心の奥で名のつかないものが崩れた。
憎んではいけない。
そう思えば思うほど、黒いものが広がっていく。
たとえ、彼がなにも知らずに笑っていたとしても。
僕の場所を奪ったのは、間違いなく彼だった。
その時、初めて弟に憎しみを覚えた。
母上の棺には、リーリアの花が添えられていた。
その花は、死を拒むように、異様なほど美しく咲いていた。
兄姉は静かに嗚咽を漏らし、父上は顔を覆って震えていた。
それなのに、僕の目から涙は一滴も流れなかった。
泣けないんじゃない。
泣けば、すべてが崩れてしまう。
その時、誰かが声をあげて泣いた。
振り返ると、ジークベルトがいた。
顔をぐしゃぐしゃにして、泣いていた。
その顔は、母上にあまりにも似ていた。
愛される顔そのものだった。
世界が一度、音を失った。
棺のそばに立っているはずなのに、自分の影が見えなかった。
雷の気配が指先に集まっていくのを感じた。
それからの一年は、生きているとは呼べない時間だった。
授業も、食事も、眠りも、すべて母上を取り戻すための通過点。
二年、三年と、空白だけが積み重なった。
墓から持ち出した欠片を禁書と照らし合わせる。
『蘇生』の二文字に息が詰まり、心臓が跳ねた。
研究室で、ひたすら術式を組み続けた。
成功しないまま、時だけが流れた。
そして、すべてが暴かれた。
「嘘だっ……」
世界が反転し、見えていたものが別の意味を帯びた。
それからは、さらにのめり込んだ。
逃げ道が欲しかったわけじゃない。
正しさを求めていたわけでもない。
術式を重ねれば、母上に近づける気がした。
成功しなくても、どこかで触れていられるような錯覚があった。
***
極秘任務から戻った時、右頬には消えない術紋が刻まれていた。
それが呪いだと悟ったのは、紋がじわりと広がり始めた時だ。
右頬から首へ、肩へ。
気づけば右半身を黒く侵していた。
だが侵食は止まらない。
術紋は皮膚の下を這い、全身を染め上げていく。
脈打つ紋様は血管のようにうごめき、肉体を蝕んだ。
痛覚は薄れ、指先の感覚も遠のく。
それでも任務は続いた。
魔の森での交戦中、視界がふっと揺れた。
揺れと同時に術紋が軋み、魔力の流れが乱れる。
指先が思うように動かず、魔法の発動が一瞬遅れた。
その刹那、身を縫いつける術紋が悲鳴をあげ、力が抜けた。
気づけば、地に伏していた。
視界の端で、銀色が揺れる。
……母上?
もう、瞼は動かなかった。
