不運からの最強男

 アーベル侯爵家に戻った足で、俺は休む間もなく野外学習の拠点へ駆け戻った。
 フリードは魔術学校の移動門を通ることを拒んだ。通過者の記録が残る仕組みらしく、それを嫌ったのだ。
 勝手に動いてまた迷子になっては困るので、スラを監視役に残してある。

「どうして拠点にいないんだ」
〈スラもいない〉

 ため息を吐き、俺は『地図』に事前登録しておいたフリードの位置を確認する。
 こんなこともあるだろうと思って備えておいて正解だった。

「えっ? なんで北の森にいるの」
《ここから北へ、およそ三十キロの位置です》
「そりゃ仲間とはぐれるわけだ」

 苛立ちを押し込みながら、地図に浮かぶ光点へ意識を集中させる。

「これ以上離れたら『地図』の検索範囲外になる。急ぐよ、ハク」
〈まかせろ〉

『倍速』を発動すると、視界が一気に流れ始めた。
 森の木々が後方へと飛び去り、風が頬を叩く。ハクも並走し、白い毛並みが疾風に揺れる。
 枝葉をかすめ、獣道を踏み抜きながら、俺たちは一直線に北の森へ駆け抜けた。

「……見つけた!」

 声をあげた途端、木陰から黒い影が飛び出した。

「誰だ!」

 鋭い声が森に響き、振り返った男の目が俺を射抜く。眉をひそめ、冷ややかに吐き捨てた。

「……末っ子か。遅いぞ」
「勝手に動いたのは、あなたでしょう」
「ガウッ〈そうだ、そうだ〉」
「ピッ!〈主!〉」

 スラが弾むように胸元へ飛び込み、しがみついた。小さな体がぴたりと張り付き、安心したように身を寄せてくる。

「ごめんね、スラ」

 胸元の温もりを確かめながら息を吐き、意識を切り替えてフリードへ視線を戻す。

「それで、仲間と離れた森は、どこなの?」
「『魔の森』だ」
《ご主人様、魔の森はここからおよそ四百キロあります》
「はあ!?」

 声が裏返り、息が詰まった。あまりの距離に思考が空転する。
 フリードの眉がわずかに動き、怪訝そうにこちらを見てきた。

「どうした」
「いや、どう間違えたら、そんな遠くまで離れられるんだよ」
「なにがだ」
「あのね、ここから魔の森まで四百キロあるんだぞ」
「そんなはずは……」

 困惑の色がフリードの顔に浮かぶ。

「それに、拠点からここまででも三十キロずれてるからね」
「ピッ〈スラ、ちゃんとはなれてるって言った〉」

 スラが珍しく批判めいた声をあげる。小さな体を震わせ、怒りを隠そうともしない。

「そうだね。スラはよくやったよ」

 苦笑しながらスラをなでて宥める。

「もう四日も離れていたら、仲間はとっくにアジトへ戻ってるんじゃない?」
「それはない」

 フリードは短く断言し、森の奥へ視線を投げた。

「どうして?」
「我々は、ある呪魔術の痕跡を追っている」
「呪魔術……?」

 胸の奥に冷たいものが広がる。

「二年前、とある遺跡から何者かが呪魔術を解放した」
「解放したら、どうなるの」
「我々には影響はない。ただし、解放者の皮膚に術紋が刻まれる。その刻印は体力を蝕み、精神を追い詰める」
「術紋」

 思わず言葉を繰り返す。

「そうだ。その術紋に用がある」
「悪用する気なのか」
「違う。呪魔術は古代から受け継がれてきた歴史だ。ザムカイトは闇の一族の末裔であり、遺跡の正統な所有者でもある」
《ザムカイトは世界的に知られる裏組織ですが、その起源は千数百年前に召喚された闇の勇者の血筋にあります。該当の遺跡は、その勇者が残した遺産である可能性が高いですね》
「なるほど……ザムカイトは、呪魔術を解放した者の皮膚に刻まれる術紋からその術式を確認したいんだね」
「そういうことだ」

 フリードはわずかに顎を引き、目を伏せた。

「ガウッ?〈ジークベルト、どうする?〉」
「約束だからね。魔の森のお仲間のもとへ、送り届けるよ」

 ハクの頭を軽くなでる。白い毛並みが指先に心地よく、相棒は満足げに尾を振った。

「じゃ、早速行きますか」

 軽く息を整え、足を一歩踏み出した、その時。

《ご主人様、実は──》

 転移の光が弾け、シルビアが地面に尻もちをついて現れた。

「なんじゃえ?」
「えっ? シルビア?」

 思わず声が裏返る。
 彼女の手には食べかけのマフィンが握られ、欠片がぽろりと落ちた。

「妾の、妾のご褒美タイムが……!」

 そうか、一〇〇キロ以上離れてしまったのか。

《あと一歩で、駄犬の強制転移の境界線だとお伝えしようと思いましたが……遅かったようです》
「それは先に言って」
「どういうことじゃ! 早う説明せい!」

 シルビアが叫ぶ。

「おい、末っ子。この喧しいやつはなんだ」
「なっ、失礼なやつじゃ! 妾は──」

 シルビアは口をハクハクさせてしきりに訴えているが、俺は無視を決め込み、心の中でため息をついた。
 久しぶりに『遠吠え禁止』を使用した気がする。

《約一年と十カ月振りですね》

 ハクとスラが、シルビアに寄り添うように慰めていた。

「とりあえず、魔の森に向かおう」


 ***


 別名〝死の森〟とも呼ばれる『沈黙の森』ほどではないが、魔の森もまた不気味で異質な気配を放っていた。
 木々はねじれ、幹の表面には黒ずんだ苔がびっしりと張り付き、湿った匂いが鼻を刺す。枝葉は重たげに垂れ下がり、風はほとんどなく、森全体が息を潜めているようだった。
 肌にまとわりつく湿気と、耳の奥に響く低いざわめき。絶えずなにかが囁いているような落ち着かない空気が漂っていた。

「ここが、魔の森か」

 思わず声を低くし、肩が強張る。
 その横で、シルビアが膨れっ面で大声を張り上げた。

「妾はこんな場所に来るつもりではなかったのじゃ!」
「仕方ないだろ。一〇〇キロ以上は離れられないんだから」
「うう……わかっておるが……妾のマフィン……!」

 シルビアは頬をふくらませたまま地面にぺたりと座り込んだ。小さな足をじたじたと動かし、視線を落としていじけている。
 フリードがちらりと横目で見て、冷ややかに吐き捨てた。

「喧しいやつだ」
「なんじゃと! もとはと言えば、そなたが迷子になったのが原因じゃ」
「迷子ではない。ただ、離れただけだ」
「それを迷子と言うのじゃ」

 道中、こんなやりとりがふたりの間で繰り返されていた。妙に噛み合っているようにも見えるのは、実は相性が良いからなのかもしれない。

《ご主人様、ザムカイトの一味の位置を把握しました。『地図』をご覧ください》

 その光点は、森の奥でじっと動かずにいた。

「仲間の位置を把握したよ」

 俺がそう告げると、フリードが短く応じた。

「行くぞ」

 そう言って、彼は迷いなく反対方向へ歩き出す。
 やっぱり方向音痴は治らないか。

「ねえ……本当に合流する気あるの?」

 呆れを隠しきれず漏れた声は、彼の背中に虚しくぶつかった。


 森の奥、黒衣を纏った者たちが、じっと立ち並んでいた。
 その中央には、ひとりの人影が地面に倒れている。動く気配はなく、荒い息だけが微かに聞こえる。

「見つけたのか」

 フリードが黒衣の集団へ声を投げる。

「フリード様、ご無事でしたか」

 ひとりが慌てて駆け寄り、他の者たちも一斉に頭を下げた。

「それよりも、対象者は」

 フリードの鋭い視線が倒れた人影へ注がれる。
 俺も同じように目を向けた瞬間、胸が凍りついた。
 黒衣の集団に囲われていたのは、ゲルトだった。
 脳裏に焼き付いた光景が、否応なく蘇る。
 幼い俺の頭上に落ちた雷。
 脳天を直撃した閃光は全身を痙攣させ、意識を闇に引きずり込んだ。
 その恐怖は、今も消えていない。

「ゲルト!」

 恐怖よりも先に、体が勝手に走り出していた。
 彼の全身は術紋に覆われ、黒い線が皮膚の下で脈打つように広がっていた。
 呪いが肉を侵すたび、蒸気のようなものが立ちのぼっている。
 黒衣のひとりが低く告げる。

「発見した時には、この状態で……我々も手を出せませんでした」
「末っ子」

 俺は無言で応じ、視線をゲルトに注ぐ。

「もってあと数時間だ。全身に術紋が刻まれたら死ぬぞ」

 まだ、左手だけは染まっていない。
 背後でシルビアが息を呑み、ハクとスラも言葉を失って成り行きを見守っていた。

「すぐに──」
「待て、末っ子」

 フリードが犬笛めいた小さな笛を投げた。

「今回の迷惑料だ。なにかあれば、一度だけ助けてやる」

 俺はそれを受け取り、ゲルトとともにその場から消えた。