不運からの最強男

 ヘルプ機能とのやり取りを終えた直後、胸の奥をざらりとなでるような違和感が走った。
 魔物の気配がさっきよりも濃い。
 ただ強いだけじゃない。肌にまとわりつくような、重く湿った圧がある。
 それに拠点までの距離が、妙に遠く感じた。
 さっきまで見えていたはずの地形が、ぼんやりと霞んでいる。

「ねえ、ドミニク。今って、どのあたり?」
「たしか、南東の尾根を越えたはずだけど……」
《ご主人様。現在位置は、拠点から約一・八キロ南に逸れています》

 地図を見ながら進んでいたのに、そんなにズレるはずがない。

《ご主人様。魔力密度が局所的に上昇しています》

 次の瞬間、地面が低く唸った。
 乾いた振動音とともに、森の奥から黒い影が這い出してくる。
 コールスパイダー。しかも三体。
 まずい。訓練区域に出るような相手じゃない。

「やれやれ、見せ場は残ってたみたいだね」

 レオポルトが一歩前に出る。
 軽口とは裏腹に、空気が張り詰めた。

「ベルク、Bランクの魔物だ」

 ドミニクが焦った声を上げるが、レオポルトは軽く笑い、剣の柄に手をかけた。

「わかっているさ、レディたちは下がって」
「レオ様!」

 親衛隊のひとりが声をあげる。
 だが、レオポルトは振り返らない。
 その背中にはいつもの軽薄さはなく、剣に添えた手から緊張感が伝わってくる。
 レオポルトは本気だ。
 あの魔物と、真正面からやり合うつもりなのだ。

「ディアーナ」

 名を呼ぶと、彼女は深くうなずいた。
 初めて会ったあの日と、あまりにも似ている。偶然とは思えなかった。

「シャーッ!」

 コールスパイダーの一体が跳ねた。
 巨体とは思えない速さで、レオポルトへ突っ込む。
 レオポルトは踏み込み、剣を横に払う。
 だが、蜘蛛の脚が地を蹴り、軌道をずらす。白い糸が空中を弧を描いた。

「っ……!」

 糸が腕に絡みつく、しかし、レオポルトは動じない。

『水膜』

 低く呟くと、薄い水膜が彼の周囲に立ち上がった。
 揺れる水面が波紋を描き、糸を濡らして粘着力を奪っていく。
 その隙に、レオポルトは剣を振り抜き、糸を断ち切った。

「ベルク様、加勢します」

 ディアーナの声が響く。
 胸元のペンダントに手を添え、迷いなく握りしめた。
 髪の間から白い獣耳が立ち上がり、背後には柔らかな尻尾が揺れる。
 金色の瞳が鋭く光り、ディアーナ本来の姿が現れる。
 その変化に、ドミニクも親衛隊も息をのんだ。

「風魔法で突破口を開きます。ベルク様は正面を」

 あそこはディアーナに任せておけばいい。
 俺は腰の魔道具に手を添え、魔力を流し込む。

「ゼレム」

 その名を呼ぶと、黒い剣が手の中に現れた。

「我を呼んだ、か」

 深紅の鍔から低い声が響く。
 その間にも、残りの二体が地を這うように動き出した。
 一体はハクとスラへ。もう一体は俺の正面に。
 ……来る。
 
「ハク、スラ。連携で一体、任せた」
「ガウッ!〈了解!〉」
「ピッ!〈まかせて!〉」

 ハクが地を蹴り、スラが跳ねるように前へ出る。
 白い糸が地を裂くように迫る。
 その瞬間、俺は地を蹴った。


 コールスパイダーは、俺とハクたちがそれぞれ仕留め、ほどなく地に伏した。
 一方、レオポルトたちは苦戦していたが、ディアーナの加勢に続き、セラとスニも参戦。
 魔法と剣が交差し、全員の動きが重なったことで、最後の一体も押し切られた。
 巨体が崩れ落ちるまで、そう時間はかからなかった。

「なんとかなった……。レディたち、怪我はないかい?」

 レオポルトが剣を収めながら笑う。

「レオ様、私たちは大丈夫です」
「汗をお拭きします」
「お怪我はありませんか」

 親衛隊が次々と声をかけ、布を差し出したり、剣の柄を確認したりする。
 俺はディアーナたちへ向き直った。

「加勢する間もなかったな。見事だったよ」
「いえ、ギリギリの戦いでした」
「ディアーナ様が本来の姿に戻られたから、勝算はありました」

 セラが冷静に言い、スニが黄色い体を揺らす。

「ポッ〈スニも、がんばった〉」
「スニちゃんが、毒針で足止めしてくれたおかげです」
「ポッ!〈主、ご褒美!〉」
「うん、あとでね」
「ピッ!〈スラも!〉」

 ハクの背中にいるスラが、スニに便乗するように声を上げる。

「うん。ハクもスラもスニも、よく頑張った」

 俺が褒めると、三人は嬉しそうに跳ねたり尻尾を振ったりした。
 だが、それも束の間だった。

「想定外の強さだ」
「誰だ!」

 森の奥、暗がりから、気配もなく何者かが現れた。
 浅黒い肌に無機質な仮面。
 息遣いすら感じさせず、音もなくこちらを取り囲む。

「帝国人か」

 レオポルトが目を細め、吐き捨てるように言った。

「こちらとしても無益な争いは避けたい。そこにいるブラックキャットの変異種を、引き渡してもらおうか」
「ハクを狙って、僕たちにコールスパイダーを差し向けたってわけか」

 挑発しても、仮面の一味は沈黙を保つ。

「なにが無益な争いは避けたいだ」

 レオポルトが怒気をにじませる。

「魔契約した魔獣を攫おうとするなんて、ありえないわ!」

 親衛隊のひとりが声を荒らげた。

「ガウッ〈やるのか〉」

 ハクが一歩前に出る。

「交渉は終了した。排除に移る」

 仮面の一人が、わずかに手を動かした。

《ご主人様、気をつけてください。魔力密度が、また局所的に上昇しています》

 ヘルプ機能の声が耳の奥に響いた。

「くる、か」

 ゼレムの低い声が森に響き、全員が戦闘態勢に入る。
 仮面の一味が一歩踏み出した瞬間、ハクが吠えた。
 戦いが、始まった。