不運からの最強男

 シィルカの小さな背を追い、俺たちは細い路地を抜けていった。

「このあたり、あまり人が住んでおらぬのう」

 シルビアが周囲を見回しながらつぶやく。
 確かに、通りは静かで、古びた家がぽつぽつと並んでいるだけだった。
 市場の喧騒が嘘みたいだ。
 やがてシィルカは、一軒の木造の家の前でぴたりと止まった。
 壁はところどころひび割れ、屋根の端は少し沈んでいる。

「ここ……?」

 俺が問いかけると、シィルカは小さく鳴き、ためらいなく敷居をまたいだ。

「お邪魔します」

 そっと声をかけ、扉に手をかける。
 ざらりとした木の感触。軋む音とともに、扉がゆっくり開いた。
 中は薄暗く、ひんやりとした空気が肌をなでる。

「空気が、淀んでおるな……」

 シルビアが眉をひそめる。

「家付き魔獣がいる家にしては、妙に重たい空気じゃ。……うまく呼吸ができておらん」

 シルビアは足元に視線を落とし、魔力の形跡を探るように、ゆっくりと頭を動かしていた。
 俺はその様子を見守りながら、奥へと歩を進める。
 奥の部屋の扉は半分だけ開いていて、隙間から冷えた気配が漏れていた。
 俺はそっと手をかけ、音を立てないように押し開ける。
 薄暗い寝台の上に、ひとりの青年が横たわっていた。
 額には冷や汗。呼吸は浅く、胸元がかすかに上下しているだけ。
 ひと目で、危ない状態だとわかった。

「契約者……か」

 シィルカは寝台に座り、尾をそっと青年の胸元に添えていた。

「ふむ。契約者に魔力を分けておるようじゃな」
「えっ?」
「本来なら、契約主が弱れば、別の者に乗り換えるのが筋じゃ。のう、ヘルプ機能」
《駄犬の発言には一理あります。家付き魔獣シィルカは、契約主を自由に変えることができます。自らの命の危険を顧みず、契約主に魔力を供給し続ける行動は、魔獣としての本能から逸脱しています》
「それだけ、大切な人なんだろうね」

 俺はシィルカを見つめた。
 小さな体が、必死に青年を守ろうとしている。
 その姿に、胸の奥がじんと熱くなる。

「助けるのかえ?」
「うん。これもなにかの縁だしね」

 シルビアは小さく肩をすくめた。

「おぬしが決めたことには逆らわんが……契約主の素性、調べておいたほうがよいのではないか」
「ヘルプ機能がなにも言わないってことは、大丈夫ってことだよ」
《さすが、ご主人様。駄犬とは異なり、思慮深く合理的です》
「なんじゃと!」
《事実を述べただけです。感情的な発言は、神獣としての品位を損ないます》
「誰が感情的じゃ!」

 ふたりの言い合いを背に、俺は青年の寝台へと歩み寄った。

「キュル?〈助かる?〉」
「うん、助けるよ。ただ、このことは内緒にしてね」
「キュル〈わかった〉」

 シィルカが小さくうなずく。
 俺は手をかざし、魔力循環を高める。

『癒し』

 指先から広がった光が、青年の胸元にふわりと降りていく。
 しばらくすると、青年の眉間のこわばりがわずかにゆるんだ。
 呼吸も、さっきより少しだけ深くなった気がする。

「キュル!〈ありがとう!〉」

 シィルカがぱっと顔を上げ、尾をふるふると揺らした。
 その瞳がうるんで見えたのは、気のせいじゃない。

「俺の魔力も分けようか?」

 シィルカは一瞬だけ尾を抱えたが、すぐに首を横に振った。

「キュル〈だいじょうぶ〉」
「そっか、了解」

 青年はまだ眠ったままだが、命の危機は脱したようだ。

「……行こうか」
「うむ。ここに長居しても仕方ないのじゃ」

 俺たちは家を出た。
 外の空気はひんやりとしていて、夕暮れの匂いが混じっていた。

《ご主人様。先ほどの魔力を分け与えるという発言には、少々驚きました》
「えっ、そう? でも、あの子の目を見たら、放っておけなかったし」
「なんじゃ、家付き魔獣を仲間にするのかと思ったかえ」
「えっ、ええ?」
《シィルカは契約主の魔力を糧にしています。魔力の供給を了承すれば、ご主人様の家付き魔獣となる可能性があります》
「あっ……」

 シルビアは口元をゆるめ、イシシと笑った。

「おぬしも、抜けておるのう」

 そのとき、シィルカが家の入口から顔を出した。
 尾を小さく揺らし、こちらを見つめている。

「キュル……〈ありがとう……〉」

 その声は、さっきよりずっと力強かった。

「うん。また困ったら呼んでね」

 シィルカは小さくうなずき、家の中へ戻っていった。

「これで一段落なのじゃ」
「そうだね……あっ!」

 思わず立ち止まり、空を見上げた。

「なんじゃえ、他になにかあったのかえ?」
「買い物、なにもしてない!」
「妾の果実菓子も買っておらぬ!」

 シルビアが目を見開き、俺の袖をぐいっと引っ張る。
 夕暮れの風が、どこか呆れたように頬をなでていった。