不運からの最強男

 五年生になって、最初の大きな行事が三日後に迫っていた。
 一泊二日の野外学習。
 訓練と実地演習を兼ねた行事で、班ごとに魔物討伐まで課される。
 遊びではない。だから準備も本気だ。
 慣れているとはいえ油断は禁物。
 装備、保存食、簡易魔道具……どれも抜かりなく揃えておきたい。
 その買い出しに出ようと、みんなで屋敷の玄関ホールに集まったときだった。

「ずるいのじゃ!」

 不満たっぷりの声とともに、シルビアが俺の袖をぐいっと引っ張る。
 頬をぷくっと膨らませ、じっと見上げてくるその顔には、明らかな不満が滲んでいた。

「どうして、妾は連れていってもらえぬのじゃ!」

 俺が返すより早く、横からディアーナがやんわりと微笑む。

「今日はヴィリバルト様の政務をお手伝いされていると伺っておりますが……よろしいのですか?」
「そんなもの、いいのじゃ! ニコライが行くのに妾が行けぬのはおかしいのじゃ!」

 玄関ホールに響く声に、セラたちと話していたニコライが振り向いた。
 眉をひとつ上げ、ため息まじりに肩をすくめる。

「あのな、俺はおチビたちの護衛で、ちゃんとした任務なんだぞ」
「むう。妾も、みんなとお出かけするのじゃ!」

 シルビアは俺の袖を握ったまま、小さく地団駄を踏む。
 白い裾のフリルが絨毯の上で跳ねて、その姿に、思わず苦笑いがこぼれた。
 野外学習には同行できないことは、シルビア自身わかっている。
 文句は言っても、無理を押し通すわけではない。
 だからこそ、こうして甘えられると、つい折れてしまう。

「仕方ないな、あとで怒られても知らないよ」

 俺がそう言うと、背後に控えていたアンナがすぐ前に出た。

「ヴィリバルト様には、私から申し伝えておきます。ご安心くださいませ」

 落ち着いた所作で、静かに頭を下げる。

「やったのじゃ!」

 シルビアが両手を上げて跳ねるように喜ぶ。
 そのそばで、ハクが尻尾をしょんぼりと下げていた。

「ガウッ……〈いいな、シルビア……〉」
「ハクは、野外学習まで我慢しようね」
「ガウッ〈わかってる。ハク、お留守番する〉」

 ハクには父上から、外出禁止命令が出ていた。
 魔術学校に同行できるのは週一日だけ。
 迷宮やダンジョンに行けるのも護衛つきの場合のみ。
 それ以外の外出はすべて禁止。
 ただし今回の野外学習だけは特例で許可されている。
 それを理解しているからこそ、ハクは我慢できていた。
 えらいな。
 俺はそっとハクの頭をなでた。
 すると肩の上にいたスラが、ぴょこんと揺れた。

「ピッ〈スラ、ハクとおるすばん〉」

 ふわりと飛び降り、そのままハクの背中に乗り移る。
 ハクは驚いたように目を瞬かせ、それから少しだけ尻尾を持ち上げた。

「ありがとうね、スラ」
「ピッ〈主、おみやげ、よろ〉」
「わかった、楽しみにしててね」

 その横で、シルビアはまだはしゃいでいた。

「みんなとお買い物なのじゃ!」

 声を弾ませ、両手をぶんぶん振り回す姿は、見ているだけで楽しくなる。
 あんなに嬉しそうにしているし、みんなで出かけられる機会なんて滅多にないし、いいよね。
 ……このときの俺は、まだ楽観していた。


 ***


「おおー、ここが市場か! いろんなものがあるのじゃ」

 シルビアが目を輝かせて、俺の隣でくるくると視線を巡らせる。
 色とりどりの屋台、香辛料の匂い、手作り雑貨や珍しい果実を並べた露店。通りは活気に満ちていた。

「では、ジークベルト様。私たちは、予約の品を確認してまいります」

 ディアーナが軽く礼を添えて言う。
 女子たち用の備品は事前に手配してあるので、彼女たちだけで動いたほうが早い。

「うん、気を付けて」

 そう返すと、ディアーナたちはニコライとともに通りの奥へ歩いていった。
 俺はその背を見送り、隣でそわそわしているシルビアに目を向ける。

「ひとりになったら、ダメだよ」
「わかっておるわ。……ん? あれはなんじゃ?」

 シルビアがぴたりと足を止めたのは、果実菓子の屋台だった。
 色鮮やかな果実を煮詰めて作った菓子がガラス瓶に詰められて並んでいる。

「これはなんじゃ? 甘い匂いがするのじゃ!」

 店主が笑って試食を差し出すと、シシルビアは迷わずひと口食べた。
 目を輝かせて、くるりと俺の方を振り返る。

「妾、これ全部欲しいのじゃ!」
「シルビア、お小遣いの範囲内だよ」
「むう。けち臭いのう。おぬし、侯爵家の倅じゃろ」
「侯爵家?」

 店主の眉がぴくりと動き、目つきが変わった。
 嫌な予感がして、俺は咄嗟に手を振る。

「いや、なんでもないです。ほら、行くよ」

 シルビアの袖を引いてその場を離れようとした、そのとき。

「ちょっと待つのじゃ! 妾、まだ買ってないのじゃ!」

 周囲の視線がちらちらとこちらに向く。
 俺はため息をつき、シルビアの手を引いたまま早足で屋台を離れた。
 まだ来たばかりだというのに、これだ。

「シルビア、侯爵家の名前を街中で出したらダメだよ」
「なんでじゃ? 妾、嘘は言っておらぬぞ」
「嘘じゃなくても、目立つのはよくない」

 シルビアは不満げに頬をふくらませたが、それ以上は言わなかった。
 そのとき――。
 通りの向こうから、なにかがこちらへ走ってくる気配がした。
 小さな影。ふわりと揺れる尾。琥珀色の瞳が焦りに揺れている。

「えっ? リス?」

《ご主人様、リスではありません。あれは、魔獣のシィルカです。家付き魔獣と呼ばれる特異な性質を持ち、通常は契約主の住居から離れることはありません。街中での出現は異常です》
「なにかあったのかな?」

 俺が動きを見守っていると、シィルカは俺たちの前でぴたりと止まった。

「キュル〈助けて〉」

 小さな体を震わせ、必死に訴えてくる。

「家付きの魔獣が、他家の者に助けを求めるなど、尋常ではないのう」
「キュル〈げんかい〉」

 声はかすれ、尾をぎゅっと抱きしめている。
 俺はしゃがみ込み、シィルカの瞳を覗き込んだ。

「契約者が……危ないのか?」

 シィルカは、わずかにうなずいたように見えた。

「怪我……?」
「キュル〈守れない〉」
「ふむ。魔力の供給が乱れておるのじゃな。契約主の状態が不安定なのじゃろう」
「どういうこと?」
《シィルカは契約主の魔力を糧に、家を守ります》
「家が……壊れそうなのか?」

 シィルカは震えたまま動かない。

「……案内してくれる?」

 俺がそう声をかけると、シィルカはゆっくりと顔を上げた。
 琥珀色の瞳が、まっすぐこちらを見つめる。

「キュル〈ついてきて〉」

 小さく鳴き、くるりと背を向けて駆け出した。

「行こう」

 俺たちはその小さな背を追い、石畳の路地を抜けていく。