不運からの最強男

 アーベル伯爵家の執務室は、いつも通り静まり返っていた。
 主の不在を埋めるように、机の上には報告書が山のように積まれている。
 カミルは黙々と書類に目を通していた。
 一枚ずつ、迷いのない手つきで処理していく。
 ヴィリバルトからの報せはない。
 戻る気配もない。
 それは、いつものことだった。
 窓の隙間から微かな風が吹き込み、書類の端がふわりと揺れる。
 カミルの髪もわずかに乱れたが、彼は顔を上げない。
 だが、気配には気づいていた。
 空気が軋み、怒気を孕んだ光が室内に滲む。
 やがて光は輪郭を持ち、フラウが執務机の周囲をくるくると旋回しながら姿を現した。

「またゼレムだけ連れて、どこか行ってるし! もう、ほんっとうにひどい!」

 声は高く、動きはせわしない。
 怒りを撒き散らすように、部屋の空気をかき乱していく。
 カミルは顔を上げず、ペンを走らせたまま、時折面倒そうに視線だけを送った。

「聞いてる? カミル、ほんとに聞いてる?」
「……聞いている」

 返事は短く、抑揚もない。
 それでもフラウは止まらない。
 彼女の怒りは、誰かに届くことを望んでいるわけではない。
 ただ、そこにあるべきものがないことへの苛立ちが、言葉になっているだけだ。
 カミルはそれを知っていた。
 だから相槌も打たず、慰めもせず、ただ黙って書類を処理し続ける。
 書類の端が、またひとつ揺れた。
 カミルはようやく一度だけ、深く息を吐いた。


 ***


 帝国を一望できる山の上。
 ヴィリバルトは静かに立っていた。
 周囲は静謐で、時折鳥の声が遠く響くだけ。
 風は弱く、空は澄んでいた。

「行くの、か」

 ゼレムの問いに、ヴィリバルトはしばし沈黙した。
 言葉は必要ない。
 遠くを見つめ、ゆっくりと歩き出す。


 帝国に入ってから、すでに数日が過ぎていた。
 滞在先は帝都郊外の古い宿屋。
 人通りは少なく、目立たずに動くには悪くない。
 ヴィリバルトは窓辺に立ち、外の様子を警戒しながらうかがっていた。
 帝国の監視網は、以前よりもずっと厳しい。
 接触の機会は限られている。
 机の上には、差出人不明の手紙が一通。
 封はすでに切られていた。

「会えるの、か」

 低く落ちた声に応じて、鍔の深紅がわずかに震えた。
 空気が一瞬、軋んだ。

「ああ、伯爵家の領地に向かう途中で、お忍びで来るらしい」
「我は、話さぬほうが、よいか」
「そうだね。話す剣なんて普通の貴婦人は驚くけど……彼女は深く関わっているからね」

 ヴィリバルトは窓の外に目を向けたまま、短く息を吐いた。

「ちょっとやそっとの非常識で驚くような女ではないね」
「そう、か」

 鍔の深紅が静かに脈打つ。

「ただ、時間が限られている。口は挟まないで欲しい」
「承知した」

 鍔の光が消え、部屋に沈黙が落ちる。
 ヴィリバルトは窓辺に佇んだまま、低くつぶやいた。

「義姉さん……やっと掴めそうだ」


 それから数日後、雨の午後。
 低く垂れ込めた空の下、宿の屋根を叩く雨音が絶え間なく響いていた。
 家紋のない古びた馬車がぬかるんだ道を進み、車体を軋ませながら宿の前に止まる。
 宿の者たちがざわめいた。
 伯爵家の領地へ帰る途中、不具合に見舞われた馬車から、伯爵婦人が一時的に避難してきたのだ。
 帳場の奥から宿の主が飛び出し、女将が声を張り上げる。
 濡れた床に足音が散り、空気がざわついていく。

「奥様、申し訳ございません」

 護衛の声が馬車の扉越しに届く。
 古びた宿しか用意できなかったことへの謝罪が滲んでいた。
 雨音に混じって、落ち着いた声が返る。

「仕方ないわ」

 その一言で、宿の主が慌てて動き出す。
 階下のざわめきに気づいたヴィリバルトは、階段の途中で立ち止まり、様子をうかがってから降りてきた。
 その足取りは、あくまで様子を見に来た客のそれだった。
 窓辺で外の馬車を眺めていたヴィリバルトに気づいた宿の主が、息をのんで駆け寄る。

「おっ、お客様、大変申し訳ございませんが、現在のお部屋を変更していただけませんか」
「どうしてだい?」
「実は……さる高貴なお方が、一時的に滞在されることになりまして」
「へえ、そうなんだね」

 意を介さないヴィリバルトの反応に、護衛が声を荒らげた。

「その態度はなんだ。すぐに部屋を空けろ!」
「どうして私が? 滞在費は充分に払っているはずだけど」
「それは……」

 宿の主が言葉に詰まると、護衛が一歩踏み出す。

「貴様!」
「やめなさい」

 馬車の扉が、音もなく押し開かれた。
 濡れた石畳に、ひとりの女が降り立つ。
 黒い外套の裾が雨を払うように揺れ、場のざわめきが途切れた。
 釣り目の涼しい目元が護衛を一瞥し、そのままヴィリバルトへと向けられる。
 ふたりの視線が交わり、熱を帯びたように、どちらも逸らさない。
 周囲は固唾を飲んで見守った。

「少し、お話をしましょう」
「奥様?」

 護衛が目を見開く。

「こんな片田舎に、いい男。退屈しのぎに旅の話でも聞きたいわ」
「おっ、奥様……」
「だめかしら」

 妖艶な気配を漂わせながら、デボラが涼しい目でヴィリバルトを見つめる。

「ご婦人を満足させるような話はできないかもしれませんが」

 ヴィリバルトはわずかに口元を緩め、手を差し出した。
 護衛もあとに続こうとしたが、デボラの声が遮る。

「あなたはここで、待っていて」
「しかし……」
「野暮なことはいわないの」

 雨音に紛れ、ふたりの姿は階上へと消えていった。


『遮断』

 扉が閉まるなり、ヴィリバルトはデボラの手をぞんざいに振り払った。
 続けざまに、無言で結界を張る。

「久しぶりね、ヴィリバルト様」

 振り払われた手を気にも留めず、デボラは涼しい声で応じた。
 消息を絶ったあの日と、なにひとつ変わっていない。
 ギルベルトと同じ年のはずなのに、目の前の女は二十代のまま、時を止めたような姿をしていた。

「挨拶はいい。本題に入ろう」
「ええ」

 いくつかの確認と応酬のあと、ヴィリバルトが核心に触れる。

「──体内に核を入れたのか?」
「そうよ。その代償で私は年を取らない。見た目が変わらないのが、その証拠よ」
「不老になったと?」
「違う、な」

 ゼレムが低く割って入る。

「老化は進んでいる。ただ、外側に出ていないだけだ」

 黒い剣から声が響いた瞬間、デボラは一瞬だけ目を見開いた。
 だが、鍔の深紅が脈打つのを見ると、すぐに表情を戻す。

「そうなのね。私はこのおかげで、帝国でも生かされているわ。サンプルとして、ね」

 デボラは小さく肩をすくめ、唇の端に笑みを浮かべた。
 自嘲とも達観ともつかない笑み。
 けれど、その目だけには強い意志が残っていた。

「ヴィリバルト様、帝国の密偵に気づかれました」

 背後に気配が落ち、アーベル家の影が抑えた声で報告する。

「早いな……」

 ヴィリバルトは短く息を吐いた。

「聞きたいことは他にもあるが、仕方ない。撤退する」

 その言葉に、デボラは身を乗り出しかけた。
 唇に焦りがにじむ。

「待って、ゲルトは……」
「生きてはいる。だが、あなたと同じで、いいように扱われているよ」

 デボラは息を呑み、言葉を失った。

「あと、死んだ義姉さんの影を追いかけているようだ」
「ヴィリバルト様」

 影の呼びかけと同時に、ヴィリバルトは移動魔法を使い、その場をあとにした。
 部屋に残されたデボラは、ただ一点を見据え続けていた。